宮古市で指された昨日の第8期叡王戦五番勝負第四局。
菅井竜也八段の先手でノーマル三間飛車。この将棋は序盤で千日手となりました。序盤での千日手は普通は先手の作戦失敗です。推測するに先手に何らかの研究があったのですが,後手の藤井聡太叡王の対応が想定していないものだったということだったのだと思います。
指し直し局は藤井叡王の先手で菅井八段のノーマル三間飛車から相穴熊に。この将棋は終盤で先手が穴熊に食いつく銀を打ち,後手が銀を打って受けるという手順で千日手となりました。後手が打開して正しく受ければ有望という局面だったので,先手としては命拾いした形。ただ終盤で時間が切迫している中でのこの種の千日手は,僕は後手にとっても仕方がないものだっと思います。
再指し直し局は先手の菅井八段のノーマル三間飛車から相穴熊に。
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ここで☗5二歩と打っての攻め合いを目指しましたが,敗着となりました。
☖5七歩成☗5一歩成とと金を作り合い,☖7九飛☗4一と☖8九飛成☗8一飛成で駒の取り合い。☖4七桂に☗4八金上はこのような形での手筋ともいえる力強い受けですが,そこで金を取るのではなく☖5六歩と打つのが好手でした。
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この局面は歩を持っていれば☗5八歩で受かります。ですから第1図で歩を使ってしまったのが敗着となりました。仮に☗5八歩と受けておいても,そう簡単に先手が負けるような将棋ではありませんでした。
3勝1敗2千日手で藤井叡王が防衛。第6期,7期に続き三連覇で3期目の叡王です。
厳密にいうと,ある人間たとえばAが現実的に存在し,そのAが自分の子どもBに対して愛情を注ぐとき,Aが受動的な愛情によってBに注ぐ愛amorという感情affectusと,Aが理性ratioに従ってBに愛情を注ぐときの愛という感情は,一般的には愛という感情,すなわち第三部諸感情の定義六により,Bという原因causaの観念ideaを伴った喜びlaetitiaであるという点で一致しますが,個別の感情としてみた場合には別の感情とみなされなければなりません。僕は,理性から生じる愛によって受動的な愛が抑制されるというように説明していますが,もしスピノザの哲学を本来的な意味で正しく解そうとするのであれば,理性から生じる愛が受動的な愛を除去しているというのが適切です。
このことは第三部定理五六を援用することによって証明できます。ただしこのことは,むしろ第一の課題と大きな関係を有しますし,もしも愛という感情を一般的な感情として解するのであれば,理性から生じる愛が受動的な愛を抑制すると解しても,大きな問題となりませんから,ここでは詳しく説明しません。第一の課題を解決するときに,愛に限らず各々の感情が個別的なものとしてみられなければならないということがなぜ重要であるのかということが説明されます。後にされるその説明から,本来的には理性から生じる愛が受動的な愛を抑制するのではなく除去するとみられなければならないのかということも理解できる筈です。
なお,この種の愛の抑制ないしは除去は,理性から生じる感情のみによってなされるというわけではありません。別の受動感情によってそれが生じるという場合もあります。たとえば,自分の子どもに過剰な愛を注ぎ,いい換えれば甘やかし,子どもがとてもわがままに育ったとしましょう。もしも親が子のふたつの観念を因果関係によって結び付け,わがままになった子どもの将来を案じて,甘やかすことをやめたと仮定しましょう。このときこの親は,将来の子どもの表象像imagoから生じる不安metusという感情によって,甘やかしている愛という感情を抑制しているのです。ですからこのような場合にも,第四部定理五四備考でいわれているように,不安は有用な受動感情であることになります。
菅井竜也八段の先手でノーマル三間飛車。この将棋は序盤で千日手となりました。序盤での千日手は普通は先手の作戦失敗です。推測するに先手に何らかの研究があったのですが,後手の藤井聡太叡王の対応が想定していないものだったということだったのだと思います。
指し直し局は藤井叡王の先手で菅井八段のノーマル三間飛車から相穴熊に。この将棋は終盤で先手が穴熊に食いつく銀を打ち,後手が銀を打って受けるという手順で千日手となりました。後手が打開して正しく受ければ有望という局面だったので,先手としては命拾いした形。ただ終盤で時間が切迫している中でのこの種の千日手は,僕は後手にとっても仕方がないものだっと思います。
再指し直し局は先手の菅井八段のノーマル三間飛車から相穴熊に。
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ここで☗5二歩と打っての攻め合いを目指しましたが,敗着となりました。
☖5七歩成☗5一歩成とと金を作り合い,☖7九飛☗4一と☖8九飛成☗8一飛成で駒の取り合い。☖4七桂に☗4八金上はこのような形での手筋ともいえる力強い受けですが,そこで金を取るのではなく☖5六歩と打つのが好手でした。
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この局面は歩を持っていれば☗5八歩で受かります。ですから第1図で歩を使ってしまったのが敗着となりました。仮に☗5八歩と受けておいても,そう簡単に先手が負けるような将棋ではありませんでした。
3勝1敗2千日手で藤井叡王が防衛。第6期,7期に続き三連覇で3期目の叡王です。
厳密にいうと,ある人間たとえばAが現実的に存在し,そのAが自分の子どもBに対して愛情を注ぐとき,Aが受動的な愛情によってBに注ぐ愛amorという感情affectusと,Aが理性ratioに従ってBに愛情を注ぐときの愛という感情は,一般的には愛という感情,すなわち第三部諸感情の定義六により,Bという原因causaの観念ideaを伴った喜びlaetitiaであるという点で一致しますが,個別の感情としてみた場合には別の感情とみなされなければなりません。僕は,理性から生じる愛によって受動的な愛が抑制されるというように説明していますが,もしスピノザの哲学を本来的な意味で正しく解そうとするのであれば,理性から生じる愛が受動的な愛を除去しているというのが適切です。
このことは第三部定理五六を援用することによって証明できます。ただしこのことは,むしろ第一の課題と大きな関係を有しますし,もしも愛という感情を一般的な感情として解するのであれば,理性から生じる愛が受動的な愛を抑制すると解しても,大きな問題となりませんから,ここでは詳しく説明しません。第一の課題を解決するときに,愛に限らず各々の感情が個別的なものとしてみられなければならないということがなぜ重要であるのかということが説明されます。後にされるその説明から,本来的には理性から生じる愛が受動的な愛を抑制するのではなく除去するとみられなければならないのかということも理解できる筈です。
なお,この種の愛の抑制ないしは除去は,理性から生じる感情のみによってなされるというわけではありません。別の受動感情によってそれが生じるという場合もあります。たとえば,自分の子どもに過剰な愛を注ぎ,いい換えれば甘やかし,子どもがとてもわがままに育ったとしましょう。もしも親が子のふたつの観念を因果関係によって結び付け,わがままになった子どもの将来を案じて,甘やかすことをやめたと仮定しましょう。このときこの親は,将来の子どもの表象像imagoから生じる不安metusという感情によって,甘やかしている愛という感情を抑制しているのです。ですからこのような場合にも,第四部定理五四備考でいわれているように,不安は有用な受動感情であることになります。
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