⑲-8までの検討から明らかになったように,⑲-2の第2図で後手が☖4六歩と銀を取れば,細い道筋ではありますが後手に勝ちがあるということは分かりました。ただ実戦は後手はこの勝ち筋に進むことができず,☖5四同銀と取っています。
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この手を境に局面は先手の勝ちになりました。ただこれも難しい手順です。
まず第1図では,☗6四角と打つ手が目につきます。これは飛車取りなので☖7二飛と逃げる一手。そこで☗3一角成と金取りに成っておきます。
その局面で後手が窮しているようなのですが,☖4三玉と逃げる手があります。
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第2図になると後手玉がどうしても寄らないのです。先手は最初はこの手順を読んでいたようですが,第2図に進むと勝てないと判断し,修正手順に進めました。それが正しい修正だったので,局面は先手の勝ちが続くことになります。
國分が指摘しているふたつのポイントとは,社会契約の二重化と社会契約の具体化です。それぞれ何を意味しているのかをみていきます。
まず,社会契約の二重化というのは,宗教的な観点からなされています。たとえば現実的に存在する人間が神Deusの法lexに服従するというとき,神の法に服従しなければならないことをその人間は生まれついて知っていたわけではありません。そもそも自然状態status naturalisというのを想定するなら,そこには単に法がないというだけでなく,宗教religioもまたないといわなければならないからです。つまり,何らかの宗教状態というのを僕たちに想定するのであれば,自然状態はその宗教状態に先行することになります。したがって,もし宗教状態において人間が神に服従するというなら,それは神との契約pactumによって服従するといわれなければならないことになります。ホッブズThomas Hobbesの社会契約論はこうしたことまで想定しているとはいえないと僕は考えますが,もしも社会契約という概念notioを導入するのであれば,自然権jus naturaeを放棄することが契約であるというのと同じように,神に対する服従obedientiaも契約でなければならないとスピノザは主張するのです。よってこの契約によって,人びとは自らの自由libertasを譲渡する,あるいは同じことですが,自身の権利を神に譲渡することによって,宗教状態が成立することになります。これは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では第十六章の十九節で探求されています。
ただし,スピノザは自然権を放棄することはできないと考えているのですから,この場合もそれと同じように考えなければなりません。そうではなく単に神と契約を結んだ人間が,道義心pietasに従うようになったということを意味します。あるいは,自然権を発揮する力potentiaを自制するべき場面があることを理解したというほどの意味です。スピノザにとっての宗教というのは神への服従を意味し,具体的には神を愛するということと隣人を愛するということを意味するということは,すでに別の考察で何度もいってきたことです。したがって,現実的に存在する人間が宗教状態において神と契約するとは,神を愛するということと隣人を愛するということをその人間が内面化するという意味です。
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この手を境に局面は先手の勝ちになりました。ただこれも難しい手順です。
まず第1図では,☗6四角と打つ手が目につきます。これは飛車取りなので☖7二飛と逃げる一手。そこで☗3一角成と金取りに成っておきます。
その局面で後手が窮しているようなのですが,☖4三玉と逃げる手があります。
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第2図になると後手玉がどうしても寄らないのです。先手は最初はこの手順を読んでいたようですが,第2図に進むと勝てないと判断し,修正手順に進めました。それが正しい修正だったので,局面は先手の勝ちが続くことになります。
國分が指摘しているふたつのポイントとは,社会契約の二重化と社会契約の具体化です。それぞれ何を意味しているのかをみていきます。
まず,社会契約の二重化というのは,宗教的な観点からなされています。たとえば現実的に存在する人間が神Deusの法lexに服従するというとき,神の法に服従しなければならないことをその人間は生まれついて知っていたわけではありません。そもそも自然状態status naturalisというのを想定するなら,そこには単に法がないというだけでなく,宗教religioもまたないといわなければならないからです。つまり,何らかの宗教状態というのを僕たちに想定するのであれば,自然状態はその宗教状態に先行することになります。したがって,もし宗教状態において人間が神に服従するというなら,それは神との契約pactumによって服従するといわれなければならないことになります。ホッブズThomas Hobbesの社会契約論はこうしたことまで想定しているとはいえないと僕は考えますが,もしも社会契約という概念notioを導入するのであれば,自然権jus naturaeを放棄することが契約であるというのと同じように,神に対する服従obedientiaも契約でなければならないとスピノザは主張するのです。よってこの契約によって,人びとは自らの自由libertasを譲渡する,あるいは同じことですが,自身の権利を神に譲渡することによって,宗教状態が成立することになります。これは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』では第十六章の十九節で探求されています。
ただし,スピノザは自然権を放棄することはできないと考えているのですから,この場合もそれと同じように考えなければなりません。そうではなく単に神と契約を結んだ人間が,道義心pietasに従うようになったということを意味します。あるいは,自然権を発揮する力potentiaを自制するべき場面があることを理解したというほどの意味です。スピノザにとっての宗教というのは神への服従を意味し,具体的には神を愛するということと隣人を愛するということを意味するということは,すでに別の考察で何度もいってきたことです。したがって,現実的に存在する人間が宗教状態において神と契約するとは,神を愛するということと隣人を愛するということをその人間が内面化するという意味です。
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