スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&第三部定理四九

2015-02-12 19:30:35 | 将棋
 宇都宮で指された昨日の第40期棋王戦五番勝負第一局。対戦成績は渡辺明棋王が31勝,羽生善治名人が30勝。
 振駒で渡辺棋王の先手に決まり,羽生名人の横歩取り。後手が1筋から攻めたものの逆襲されて受けることになり,これはさすがにまずいだろうと思ったのですが,その後で先手も自陣で飛車を動かしたりしていましたので,それほどの差ではなかったのかもしれません。
                         
 後手が2三の銀を逃げた局面。ここでは☖5四歩と打つ方がよかったという検討結果になっています。
 先手は☗7六桂と飛車取りに打ちました。後手は一旦は☖7四飛と逃げ,☗7五歩☖同飛☗6六金☖7四飛☗7五歩としてから☖9四飛。すぐに☖9四飛より後手に多く指させた勘定ですが,これはミスではなくて意図があったそうです。
 ☗8三角成はこの一手でしょう。☖2七桂と反撃に来たところですぐに飛車を取るのではなく☗3三歩と叩きました。
                         
 さすがに後手も放置するわけにはいきませんが,応じ方が難しく,どうやらここでは先手の勝勢に至っていると判断してよさそうです。
 渡辺棋王の先勝。第二局は21日です。

 無限に多くあるモナドから,ひとつのモナドだけを現実世界として選択するのは神Deusの意志voluntasです。いい換えれば現実世界は神の自由によって決定されています。ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizはそう規定する必要がありました。ところが,現実世界は,だれにとってもよき世界というわけではありません。もし神が別のモナドを現実世界として決定していたら,自分にとってもっとよい世界であった筈だと思う人が存在して不思議ではありません。するとそうした人は,この世界を現実世界として決定した神のことを憎むようになるでしょう。とりわけライプニッツは,その決定が神の自由libertasによる決定であると考えなければならなかったのですから,必然的な決定である場合と比較すれば,そうした人の神への憎しみodiumの度合いはより大きくなる筈です。必然的necessariusならば神はそれ以外に選択できなかったから仕方ないと諦めることができますが、自由な決定であるということは,それ以外にも選択することができたということを意味してしまうからです。神からの人格の排除を否定する限り,この事態は避けられません。
 現状の考察からすれば寄り道にはなりますが,『エチカ』にはこうした人間の心情のダイナミズムを示した定理Propositioがありますから紹介しておきましょう。第三部定理四九です。
 「自由であると我々の表象する物に対する愛および憎しみは,原因が等しい場合には,必然的な物に対する愛および憎しみより大でなければならぬ」。
 これは第一部定義七からの帰結です。もしAが自由なものであり,それが愛amorや憎しみの原因であるなら,人はAだけを愛したり憎んだりします。しかしAが必然の第三の意味で必然的なもの,すなわち強制されたものであり,それが愛や憎しみの原因なら,少なくとも人はAだけを愛したり憎んだりすることはありません。よって第三部定理四八が示しているように,この場合の愛や憎しみは,Aを自由なものと表象するimaginari場合よりも明らかに減ずることになるからです。したがって,自分にとって悪しきことの原因が自由な神であると表象する場合と,必然的な神であると表象する場合とでは,前者の方が人はより神を憎むということになるでしょう。

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