スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第二部定理七証明の意味&第三部定理四九備考

2015-02-13 19:26:00 | 哲学
 『スピノザ『エチカ』を読むBehind the Geometorical Method:A Reading of Spinoza's Ethics』の第二章で,カーリーEdwin Curleyはスピノザによる第二部定理七証明を,腹立たしくなるほど短いといい,証明Demonstratioは有効でないと考える注釈者に同調すると述べています。松田克進も証明が短いという点には同調していますが,『スピノザの形而上学』の第二章において,証明が何をいわんとしているかを解き明かしています。また,『個と無限』の第三章では佐藤一郎が,第二部定理七および証明が『エチカ』でどのように用いられるかを検証することにより,証明自体の意味を説明しています。スピノザの哲学の特徴のひとつである平行論に関連する定理Propositioですから,重要な議論といえるでしょう。
                         
 当初は僕も明らかに間違えていたのですが,第二部定理七で示されている物rerumは,物体corpusという意味ではありません。そう解すると,これは延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumの平行論を帰結させることになりますが,スピノザがこの定理で意味しようとしていることはそういうことではないからです。これは観念ideaと観念対象ideatumが平行論における同一個体であるということから明らかです。松田が示しているように,ここでいわれている物というのは,思惟の属性も含めた任意の属性の様態modiと解するべきでしょう。
                         
 佐藤は第二部定理九の論証で,スピノザが物というのを原因といい換えている点に着目します。物が任意の属性の様態として妥当するなら,物が観念の原因であるとはいえません。この解釈を否定すると,第二部定理六を否定しなければならないからです。したがって,第二部定理七でいわれている物というのを,第二部定理九の論証のように原因と置き換えることが可能であるとするならば,原因の観念と原因が同じ物だと解さなければなりません。この帰結としては,結果の観念と結果が同じ物だと解さなくてはならないことになります。
                         
 これをスピノザの哲学のうちで矛盾なく成立させるなら,観念とideatumは同じ物であるという解釈をする必要があります。佐藤は第二部定理二二の備考Scholiumのスピノザの主張から,この解釈が可能だとしています。よって第二部定理七でいわれている物は,同一個体という意味での物だと理解するべきだと僕も考えます。

 第三部定理四九は,『エチカ』の全体での主旨としては,愛amorや憎しみodiumの対象として神Deusを視野に入れているのではありません。
 第一部定理一七系二から理解できるのは,知性intellectusがあるものを自由なものと認識した場合に,その観念ideaが十全な観念idea adaequataであり得るのは,神の場合だけです。しかし第三部定理四九は,愛や憎しみの対象の観念については,十全な観念であることを否定しています。自由libertasであると表象するimaginariといわれているのがその証拠です。表象imaginatioは十全な認識ではなく,混乱した認識であるからです。つまりスピノザは,ある人が,他の人を自由であると表象する場合の心情のダイナミズムについて説明しようと意図していると理解しておくのが妥当でしょう。ただしそれはスピノザの意図であり,対象が人であれ神であれ,ほかの何であれ,定理Propositioの内容が成立することは間違いありません。したがってこの部分の考察で,僕がスピノザの意図とは別の仕方でこの定理を援用しているとしても,論証が無効になるわけではないのです。
 スピノザ自身の意図については,この直後の備考がよく説明してくれます。
 「この帰結として出てくるのは,人間は自らを自由であると思うがゆえに他の物に対してよりも相互に対してより大なる愛あるいは憎しみをいだき合う,ということである」。
 やや分かりにくい文章ですが,人間は人間以外のものに対してよりも,人間同士でより愛し合ったり憎み合ったりするという意味です。人と人とが愛し合う分には構わないといえますが,憎み合うのはよくありません。そしてその憎み合いの原因として,人間が自由な存在であるという思い込み,すなわち誤った認識があるのだということをここでスピノザはとくに示したかったのだろうと僕は考えます。各定理に配置の意図があるのだと考えれば,第三部定理四八の直後に第三部定理四九が置かれ,そしてこの備考Scholiumへと続いているということからも,やはりスピノザがいっておきたかったのはそういうことであったのだろうと僕は思います。人間が必然的な存在であると正しく認識すれば,人は憎しみを軽減できますし,憎しみから解放されることも可能なのです。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 棋王戦&第三部定理四九 | トップ | 朝日杯将棋オープン&善意 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

哲学」カテゴリの最新記事