スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

理由と内容&第五部定理三

2021-12-18 18:53:53 | 将棋トピック
 処分の場合は僕にとって看過することができない事象ではあったのですが,それが三浦九段の合理性を覆すようなことではないと判断しました。その理由はふたつありました。
 ひとつは処分の理由です。将棋連盟が発表した処分に関する理由は,三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受けているということを含んでいませんでした。むしろ,将棋連盟が三浦九段に休場届の提出を要請し,三浦九段がその要請を汲んだのだけれども,休場届を提出しなかったことに対する処分であると読めるものになっていました。したがって,それが処分の理由であるのなら,三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受けていたということについては,何の確証を有していなくとも下すことができる処分です。つまり処分の理由がこのようなものとして解せる以上,そうした確証は将棋連盟の中にはないのではないかと予測することができました。このためにそれは三浦九段の合理性を覆すほどの根拠にはなり得ていないと僕には思えたのです。
 もうひとつの理由は,処分そのものの内容でした。この処分は三浦九段に対してその年内の対局に出場することを禁止するものであったのですが,もしも三浦九段がコンピュータから指し手の援助を受けているのだとしたら,あまりに軽い内容だと僕には思えました。もしも本当にそのような行為をしていたのなら,たとえば除名のようなきわめて厳しい処分が下されたとしてもおかしくないだろうと思えました。もちろんこれは僕の独断であって,それが本当に適切な処分の内容であるとはいえませんが,僕はそのような認識をもっていたわけです。ですから,およそ3ヶ月ほどの対局への出場停止の処分であるということは,コンピュータの援助に関する証拠を将棋連盟が握っていないのではないかと僕に思わせるのに十分であったのです。
 三浦九段が指し手の援助を受けるということがきわめて非合理的なことであるという認識は,少なくとも僕の中で揺るぎないものです。それを処分の合理性と比較させた上で,僕は判断を下しました。

 現実的に存在する人間は,どのような決意decretumをしたところで,受動感情から逃れること,いい換えれば,受動感情を感じずに生きていくということはできません。ただし,感じたその感情affectusに対して一切の対抗ができないというわけではありません。それが受動感情の力potentiaに対する現実的に存在する人間の力ということになります。ここでは第五部定理三をみてみましょう。
                                   
 「受動という感情は,我々がそれについて明瞭判然たる観念を形成するや否や,受動であることを止めるAffectus,qui passio est,desinit esse passio, simulatque ejus claram,et distinctam a formali causa,quatenus Mens ipsa aeterna est.)」。
 僕たちは受動感情から免れることはできません。ですがある感情の働きを受けたときに,そのことについて明瞭判然とした観念を形成することができれば,それは受動ではなくなるのです。したがって,僕たちは,受動感情を免れることはできないのですが,だからといってその感情にいつもいつも引きずられてしまうとは限りません。それどころか,もしも僕たちが受動感情に刺激されるafficiそのたびごとに,その感情に関してそれを明瞭判然と認識しさえすれば,受動感情に引きずられるということは一切ないのです。僕は前に,不安metusなり希望spesないしは欲望cupiditasといった感情によってプレイヤーが捨てる牌を決定するdeterminareとき,それは虚偽falsitasではなく誤謬errorであるといいましたが,そのことはこの定理Propositioからも明らかだといえるでしょう。なぜなら受動感情によって捨てる牌を決定するということは,この定理からしてその感情について明瞭判然とした観念ideaがそのプレイヤーの知性intellectusのうちに存在しないがゆえの行為であることになりますから,それは虚偽が虚偽であるという認識cognitioが存在していないということを直ちに意味し,よってそれは誤謬であるということになるからです。
 ひとつ注意しておいてほしいのは,この定理では受動感情について形成される観念が,十全adaequatumとはいわれずに明瞭判然といわれている点です。スピノザの哲学で観念が明瞭判然と形容される場合は,十全ということを意味する場合もありますが,そうでない場合もあります。要するに明瞭判然というのは十全よりも広くわたります。これはスピノザが,一口に混乱した観念idea inadaequataといっても,混乱の度合いには差があるというように考えているからです。

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