スプリンターズステークスを制して現在の日本のスプリント路線のトップに立ったカレンチャン。彼女の輸入基礎繁殖牝馬は1948年アメリカ産のフォルカーです。ファミリーナンバーは日本で多数の系統から活躍馬が出ている13-c。
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1952年にアメリカで初仔を産んだ後,社台によって輸入。枝葉はものすごく広がりましたが,その大部分を占めているのがカレンチャンも属するブラックターキン,競走名ミスヤマトの分枝。その娘,シャダイターキンは1969年のオークスを勝っていますが,これは僕の競馬キャリアより前,というより生年月日からも分かるように産まれる前の話。このシャダイターキンの孫になるのが,レッツゴーによって僕にとっては特別の印象があるレッツゴーターキンで,1992年の秋の天皇賞を制しました。
カレンチャンはこの一族からは3頭目の大レースの優勝馬。4代母がシャダイターキンの妹ですから,レッツゴーターキンとはもはや近親とはいえないような間柄。大レースではなく重賞の勝ち馬ということに限ればかなり多く出ていて,僕の競馬キャリアの中だけでも,レッツゴーターキンとカレンチャンを含めて9頭。カレンチャンにとって最も近いのは当然ながら兄であるスプリングソングということになりますが,この兄妹の叔父には,一昨々年の皐月賞で2着,一昨年にはダービー卿チャレンジトロフィーを勝ったタケミカヅチがいます。
第二部定理三八ではなく,第二部定理三九の証明の方を検討したのは,たぶんこちらの場合の方が,人間の精神による共通概念の獲得が,その人間の精神による純粋な思惟作用とはいい難い一面があることを示すためには便利であろうと思うからです。ですから実際にはここから述べていくことは,第二部定理三八の仕方で人間の精神が共通概念を獲得するという場合にも妥当します。
この仮定では,Xというものが,AとBにのみ特有であるとしています。これは逆にいえば,XというのはAとBの本性のうちには特質として含まれているけれども,その他のもの,といってもこれは物体に限る必要があるでしょうが,ほかの物体の本性のうちには特質としては含まれていないということを意味しています。一方,第二部定理七系からして,Xの観念は神の無限知性のうちに含まれていますし,その意味からしてそれは十全な観念として含まれています。ただしそれは神が無限である限りにおいて神の無限知性のうちに含まれているというよりは,神がAの観念を有する限りにおいて,またはBの観念を有する限りにおいて含まれているのだといわれなければなりません。このことは,示されていることの意味合いは異なっているにしても,第二部定理九系からもそうでなくてはならないということになるだろうと思います。
一方,第二部定理一三によれば,ある人間の身体の観念とはその人間の精神にほかなりません。したがって,Aの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるということは,Aの精神のうちにXの観念がある,それも十全な観念があるということと同じです。ここではBについては単に物体と仮定し,人間の身体と仮定しているわけではありませんが,スピノザの哲学における精神というものがどういう意味を有するのかということに注意した上で,Bの精神のうちにもXの十全な観念があるということは,同じ論法で証明することができます。ただしここではその精神とは何かということの説明を繰り返す必要性は皆無ですから,納得がいかなければ,Bもまた人間であると考えて構いません。
このように,Xの十全な観念が共通概念としてAの精神のうちにあるということは確実です。問題となるのはその発生の仕方です。
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1952年にアメリカで初仔を産んだ後,社台によって輸入。枝葉はものすごく広がりましたが,その大部分を占めているのがカレンチャンも属するブラックターキン,競走名ミスヤマトの分枝。その娘,シャダイターキンは1969年のオークスを勝っていますが,これは僕の競馬キャリアより前,というより生年月日からも分かるように産まれる前の話。このシャダイターキンの孫になるのが,レッツゴーによって僕にとっては特別の印象があるレッツゴーターキンで,1992年の秋の天皇賞を制しました。
カレンチャンはこの一族からは3頭目の大レースの優勝馬。4代母がシャダイターキンの妹ですから,レッツゴーターキンとはもはや近親とはいえないような間柄。大レースではなく重賞の勝ち馬ということに限ればかなり多く出ていて,僕の競馬キャリアの中だけでも,レッツゴーターキンとカレンチャンを含めて9頭。カレンチャンにとって最も近いのは当然ながら兄であるスプリングソングということになりますが,この兄妹の叔父には,一昨々年の皐月賞で2着,一昨年にはダービー卿チャレンジトロフィーを勝ったタケミカヅチがいます。
第二部定理三八ではなく,第二部定理三九の証明の方を検討したのは,たぶんこちらの場合の方が,人間の精神による共通概念の獲得が,その人間の精神による純粋な思惟作用とはいい難い一面があることを示すためには便利であろうと思うからです。ですから実際にはここから述べていくことは,第二部定理三八の仕方で人間の精神が共通概念を獲得するという場合にも妥当します。
この仮定では,Xというものが,AとBにのみ特有であるとしています。これは逆にいえば,XというのはAとBの本性のうちには特質として含まれているけれども,その他のもの,といってもこれは物体に限る必要があるでしょうが,ほかの物体の本性のうちには特質としては含まれていないということを意味しています。一方,第二部定理七系からして,Xの観念は神の無限知性のうちに含まれていますし,その意味からしてそれは十全な観念として含まれています。ただしそれは神が無限である限りにおいて神の無限知性のうちに含まれているというよりは,神がAの観念を有する限りにおいて,またはBの観念を有する限りにおいて含まれているのだといわれなければなりません。このことは,示されていることの意味合いは異なっているにしても,第二部定理九系からもそうでなくてはならないということになるだろうと思います。
一方,第二部定理一三によれば,ある人間の身体の観念とはその人間の精神にほかなりません。したがって,Aの観念を有する限りで神のうちにXの観念があるということは,Aの精神のうちにXの観念がある,それも十全な観念があるということと同じです。ここではBについては単に物体と仮定し,人間の身体と仮定しているわけではありませんが,スピノザの哲学における精神というものがどういう意味を有するのかということに注意した上で,Bの精神のうちにもXの十全な観念があるということは,同じ論法で証明することができます。ただしここではその精神とは何かということの説明を繰り返す必要性は皆無ですから,納得がいかなければ,Bもまた人間であると考えて構いません。
このように,Xの十全な観念が共通概念としてAの精神のうちにあるということは確実です。問題となるのはその発生の仕方です。
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