『悪霊』のスタヴローギンの告白の第一節の中で,スタヴローギンがチホンに,神を信じないで悪霊だけを信じることができるかを尋ねる部分があります。この部分を佐藤優は『生き抜くためのドストエフスキー入門』の中で取り上げていて,これを書いているときのドストエフスキーにはスピノザのことが念頭にあったのではないかと推測しています。
僕はドストエフスキーがスピノザを知っていたとすら思わないので,これは牽強付会でないかと思いますが,このことについては別に僕の考え方を説明します。なぜ佐藤がこのことをスピノザと絡めて考えているのかといえば,それはスピノザの哲学が汎神論であること,あるいは汎神論だといわれていることと関連しています。スピノザの哲学では自然のうちに存在するのはそれ自身のうちにある実体と,実体のうちにある実体の変状としての様態だけですが,存在する実体は神だけなので,自然のうちに存在するものは神であるか,神の変状としての様態だけであるということになっています。スタヴローギンはそれに対して,実際には自然のうちに存在する実体は悪霊だけであって,悪霊以外のものはすべて悪霊の様態である,つまり僕たち人間も,神の様態などではなくて悪霊の様態であるという意味のことをいいたいのだと佐藤は解しているわけです。つまりスピノザの汎神論に対していえば,スタヴローギンは汎悪霊論を主張していると佐藤はみているわけです。
スピノザの哲学を解釈する立場からみれば,この解釈はまるで成立しません。しかしそれは哲学的観点なのでまた別に考察します。哲学的には成立しませんが,文学評論としては成立するといえるでしょう。一般的には神と悪霊は相対立するものと考えられているのであって,汎神論というものが成立するのであれば,汎悪霊論というのも成立するとはいえるからです。そして人間が神の様態であるのかそれとも悪霊の様態であるのかという問いは,神と悪霊をそのような関係として解する限りでは文学的にも十分にあり得る問いだといえるからです。
徳virtusの規準は自分自身にあるわけですが,だからスピノザの哲学においては人間に共通の徳というものがないのかといえば,そういうわけではありません。これは再三にわたっていっていることですが,第四部定理三五にあるように,理性ratioに従っている限りではすべての人間の現実的本性actualis essentiaが一致するからです。したがって,たとえばAという人間が現実的に存在するとして,Aの徳の規準はA自身ではありますが,その徳の第一にして唯一の基礎であるAのコナトゥスconatusは,たとえばその他の人間であるBが理性に従っている限りでは,Bのコナトゥスに一致するでしょう。このことが現実的に存在するすべての人間に妥当するわけですから,現実的に存在する人間のコナトゥスは,人間が理性に従っている限りでは一致することになり,したがって徳の何たるかも一致することになるのです。第四部定理四系は,こうしたことが現実的に生じるということについては否定しているといわなければなりませんが,少なくとも論理的には,すべての人間にとって共通の徳があるということになります。
ただし,このことは,主体の排除と関連させていわれると僕は考えます。すなわち,理性に従って事物を認識すれば,だれがそれを認識しても同一の認識cognitioに至るので,だれが認識しているかを問うことは無用であるというのと同じ意味で,人間に共通の徳は,だれが認識しても同じ徳であるからだれが認識しているか問う必要はないという観点から,人間に共通の徳があると結論されるべきだというのが僕の見解opinioです。なぜなら,理性に従うということ自体が徳であるという前提が,スピノザの哲学にはあるからです。これは第四部定義八から明らかであって,この定義Definitioからして,たとえば現実的に存在する人間が受動的な欲望cupiditasに隷属しているならその人間は有徳的であるといえないということになるでしょう。これは第四部定理二三で次のようにいわれています。
「人間が非妥当な観念を有することによってある行動をするように決定される限りは,有徳的に働くとは本来言われえない。彼が認識〔妥当な認識〕することによって行動するように決定される限りにおいてのみそう言われる」。
僕はドストエフスキーがスピノザを知っていたとすら思わないので,これは牽強付会でないかと思いますが,このことについては別に僕の考え方を説明します。なぜ佐藤がこのことをスピノザと絡めて考えているのかといえば,それはスピノザの哲学が汎神論であること,あるいは汎神論だといわれていることと関連しています。スピノザの哲学では自然のうちに存在するのはそれ自身のうちにある実体と,実体のうちにある実体の変状としての様態だけですが,存在する実体は神だけなので,自然のうちに存在するものは神であるか,神の変状としての様態だけであるということになっています。スタヴローギンはそれに対して,実際には自然のうちに存在する実体は悪霊だけであって,悪霊以外のものはすべて悪霊の様態である,つまり僕たち人間も,神の様態などではなくて悪霊の様態であるという意味のことをいいたいのだと佐藤は解しているわけです。つまりスピノザの汎神論に対していえば,スタヴローギンは汎悪霊論を主張していると佐藤はみているわけです。
スピノザの哲学を解釈する立場からみれば,この解釈はまるで成立しません。しかしそれは哲学的観点なのでまた別に考察します。哲学的には成立しませんが,文学評論としては成立するといえるでしょう。一般的には神と悪霊は相対立するものと考えられているのであって,汎神論というものが成立するのであれば,汎悪霊論というのも成立するとはいえるからです。そして人間が神の様態であるのかそれとも悪霊の様態であるのかという問いは,神と悪霊をそのような関係として解する限りでは文学的にも十分にあり得る問いだといえるからです。
徳virtusの規準は自分自身にあるわけですが,だからスピノザの哲学においては人間に共通の徳というものがないのかといえば,そういうわけではありません。これは再三にわたっていっていることですが,第四部定理三五にあるように,理性ratioに従っている限りではすべての人間の現実的本性actualis essentiaが一致するからです。したがって,たとえばAという人間が現実的に存在するとして,Aの徳の規準はA自身ではありますが,その徳の第一にして唯一の基礎であるAのコナトゥスconatusは,たとえばその他の人間であるBが理性に従っている限りでは,Bのコナトゥスに一致するでしょう。このことが現実的に存在するすべての人間に妥当するわけですから,現実的に存在する人間のコナトゥスは,人間が理性に従っている限りでは一致することになり,したがって徳の何たるかも一致することになるのです。第四部定理四系は,こうしたことが現実的に生じるということについては否定しているといわなければなりませんが,少なくとも論理的には,すべての人間にとって共通の徳があるということになります。
ただし,このことは,主体の排除と関連させていわれると僕は考えます。すなわち,理性に従って事物を認識すれば,だれがそれを認識しても同一の認識cognitioに至るので,だれが認識しているかを問うことは無用であるというのと同じ意味で,人間に共通の徳は,だれが認識しても同じ徳であるからだれが認識しているか問う必要はないという観点から,人間に共通の徳があると結論されるべきだというのが僕の見解opinioです。なぜなら,理性に従うということ自体が徳であるという前提が,スピノザの哲学にはあるからです。これは第四部定義八から明らかであって,この定義Definitioからして,たとえば現実的に存在する人間が受動的な欲望cupiditasに隷属しているならその人間は有徳的であるといえないということになるでしょう。これは第四部定理二三で次のようにいわれています。
「人間が非妥当な観念を有することによってある行動をするように決定される限りは,有徳的に働くとは本来言われえない。彼が認識〔妥当な認識〕することによって行動するように決定される限りにおいてのみそう言われる」。
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