一昨年と同じ顔合わせとなった第3期マイナビ女子オープン五番勝負の第一局。対戦成績は矢内理絵子女王が6勝,甲斐智美女流二段が4勝。
振駒で甲斐二段の先手。中飛車は予想されたところですが予想外の相穴熊になりました。矢内女王の穴熊はかなり珍しいです。早い段階での決戦もあり得ましたが見送られじっくりとした戦いに。先手の盤面左側の駒の動かし方に明らかな失敗があって第1図。
ここでは△3五角と金を取って▲同金に△4九飛成とするのが普通に思えますが,△7八飛と打ちました。これでもよいのでしょうが▲4四金と飛車を取られ,△3八飛成に▲3三歩。さらにこれを△同桂で取ったので▲6一飛と王手で飛車を打たれ,△4一歩に▲3九金。この後,後手の龍が3段目にいくこととなって第2図。
ここで△4六角とさらに攻め合いにいきましたが,▲3七歩と打たれると早い継続がなく,受けに回ることに。それなら先に受けておく方がよく,以降は先手が一方的に攻めきって勝つことになりました。
甲斐女流二段が先勝。第二局は来月11日です。
結論から先にいますと,僕はここで規定した尿意に関しては,これを表象像とみなします。
この尿意に関して,なぜ第二部定理一二に依拠して解釈することが誤りであるのかということを説明しだしますと,この定理がどの範囲にまで及ぶのかということを検討せざるを得ず,これはあまりに長くなります。この定理はブログを開始して最初に考察した定理ですが,現在は僕はそのときとこの定理自体に関して異なった考えをもっていますので,これについては別にテーマを立てて改めて考察することにします。そこでここでは,なぜ僕が尿意を表象像とみなすのかということの根拠だけを示しておきます。
ひとつは端的にいって,この尿意という観念のうちには,尿そのものの十全な観念は明らかに含まれていないからです。これはとくに説明せずとも,単に経験的な観点から,僕たちの精神のうちに生じるこの観念が,尿の本性を含んでいるわけではないということから明らかだと思います。もちろんこれは排尿に関連する観念ですから,尿の本性に関してはそれを含んでいなくても構わないと考えることができないではありませんが,少なくとも尿意を表象像とみなすひとつの根拠にはなり得るだろうと思います。といいますのは,たとえば身体の中に尿が溜まって,これが身体の外部に排出されるという運動に関しては,第三部定理七によって,人間の身体の本性ないしは実在性という観点から説明することができます。しかし尿という物体をそれ単独でみた場合には,これを人間の身体の本性のみから説明することはできません。いい換えれば人間の身体と尿との間に,第一部公理三だけで十分に説明されるような因果関係があるということはできません。仮に人間の身体が尿の原因であるとしても,それは第三部定義一における部分的原因と考えるのが妥当だと思います。よって第三部定理三により尿意,少なくとも尿の観念は精神の受動であり,必然的に混乱した観念であるということになるでしょう。
振駒で甲斐二段の先手。中飛車は予想されたところですが予想外の相穴熊になりました。矢内女王の穴熊はかなり珍しいです。早い段階での決戦もあり得ましたが見送られじっくりとした戦いに。先手の盤面左側の駒の動かし方に明らかな失敗があって第1図。
ここでは△3五角と金を取って▲同金に△4九飛成とするのが普通に思えますが,△7八飛と打ちました。これでもよいのでしょうが▲4四金と飛車を取られ,△3八飛成に▲3三歩。さらにこれを△同桂で取ったので▲6一飛と王手で飛車を打たれ,△4一歩に▲3九金。この後,後手の龍が3段目にいくこととなって第2図。
ここで△4六角とさらに攻め合いにいきましたが,▲3七歩と打たれると早い継続がなく,受けに回ることに。それなら先に受けておく方がよく,以降は先手が一方的に攻めきって勝つことになりました。
甲斐女流二段が先勝。第二局は来月11日です。
結論から先にいますと,僕はここで規定した尿意に関しては,これを表象像とみなします。
この尿意に関して,なぜ第二部定理一二に依拠して解釈することが誤りであるのかということを説明しだしますと,この定理がどの範囲にまで及ぶのかということを検討せざるを得ず,これはあまりに長くなります。この定理はブログを開始して最初に考察した定理ですが,現在は僕はそのときとこの定理自体に関して異なった考えをもっていますので,これについては別にテーマを立てて改めて考察することにします。そこでここでは,なぜ僕が尿意を表象像とみなすのかということの根拠だけを示しておきます。
ひとつは端的にいって,この尿意という観念のうちには,尿そのものの十全な観念は明らかに含まれていないからです。これはとくに説明せずとも,単に経験的な観点から,僕たちの精神のうちに生じるこの観念が,尿の本性を含んでいるわけではないということから明らかだと思います。もちろんこれは排尿に関連する観念ですから,尿の本性に関してはそれを含んでいなくても構わないと考えることができないではありませんが,少なくとも尿意を表象像とみなすひとつの根拠にはなり得るだろうと思います。といいますのは,たとえば身体の中に尿が溜まって,これが身体の外部に排出されるという運動に関しては,第三部定理七によって,人間の身体の本性ないしは実在性という観点から説明することができます。しかし尿という物体をそれ単独でみた場合には,これを人間の身体の本性のみから説明することはできません。いい換えれば人間の身体と尿との間に,第一部公理三だけで十分に説明されるような因果関係があるということはできません。仮に人間の身体が尿の原因であるとしても,それは第三部定義一における部分的原因と考えるのが妥当だと思います。よって第三部定理三により尿意,少なくとも尿の観念は精神の受動であり,必然的に混乱した観念であるということになるでしょう。
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