『カラマーゾフの兄弟』の中には,「大審問官」というタイトルでイワンが書いた物語があります。いわば小説内小説ですが,新潮文庫版の「大審問官」の訳には不備があるという主旨のことが『生き抜くためのドストエフスキー入門』で示されています。
新潮文庫版では,キリストという固有名詞が頻出しています。しかしドストエフスキーの原語版に,キリストに該当するロシア語は一度も出てこないそうです。キリストと訳されている部分は,直訳すれば彼なのであって,ここでいわれている彼を,イワンがキリストであると解しているのは間違いないでしょうし,この物語を聞かされるアリョーシャもまたキリストであると解したのは間違いないでしょう。ですから意訳としてキリストという語を充てることには問題はないかもしれませんが,ドストエフスキーの言語版にキリストに該当する原語が一度も出てこない以上,この彼をキリストと意訳してしまうのは不備ではないかと佐藤は指摘しているのです。
しかも,彼というとき,この彼に該当するロシア語の最初の文字が大文字であれば,これは事実上キリストを意味するので,キリストは意訳よりも直訳に近いのですが,「大審問官」で使用されている彼は,最初の文字が小文字なので,これは一般名詞の彼であって,キリストとという語が一度も出てこないのであれば,その彼が再帰代名詞としてキリストを意味することもできないから,これをキリストと訳すのは意訳以外の何物でもないのであって,単に彼と訳すべきであったと佐藤はいっています。
ロシア語のことは僕には分かりませんが,佐藤がいっていることに間違いがあるというようには僕は思わないです。一方,新潮文庫版の『カラマーゾフの兄弟』の訳者は原卓也であって,原については佐藤は原さんほどの学者といういい方をしていますから,学者として高い評価を与えているのは疑い得ません。いい換えれば佐藤にそう評価されるほどの学者が,単純に読めば彼としか訳しようのない語を,キリストと意訳していることになります。
たぶんこの部分は彼という訳で読んだ方がいいだろうと思います。佐藤は,なぜこのような意訳が生じたかも考察していますので,それについてもいずれ紹介することにします。
説得の部分が吉田の独自の見解であることは明白なので,全体ももしかしたら吉田の見解なのかもしれません。正確にいうと,吉田はカトリックの説教師にバチカン写本を見せてしまったとだけいっているので,ステノNicola StenoがチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausに近づいたというのはその部分からの僕の類推ですが,この一件がおとり捜査のような仕方で行われたとするなら,そのように解するのが自然なのは自明でしょう。
吉田はチルンハウスがオープンであり,警戒心が欠如していたといっているのですから,チルンハウスはステノがカトリックの説教師であると知っていて,その上でバチカン写本を見せたのだというように解しているように思われます。しかし一件がおとり捜査であるなら,ステノは自身の立場を秘匿してチルンハウスに近づいたという可能性も考慮に入れておかなければならないでしょう。かつてチルンハウスはホイヘンスChristiaan Huygensにはバチカン写本のことを秘匿し,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対してもすぐにはそれを見せず,スピノザの許可を得ようとしたのですから,その事実だけで警戒心が欠如した人物であったというのはどうかという思いが僕にはありますが,その部分を考慮に入れないとしても,ステノが自身の立場を秘匿し,うまい具合にチルンハウスがライプニッツに対して抱いたような思いをステノに対しても思わせることに成功したなら,その時点では死んでいたスピノザの許可を求めることができなかったチルンハウスが,バチカン写本をステノに見せてしまったとしても,警戒心が欠如していたというようにいえるのかは疑問が残ります。もっとも,これはステノが自身の立場を秘匿していた,いい換えればステノがカトリックの説教師であるということを知らなかったという場合のことであって,実際には知っていたという場合もあり得るのですから,その場合には確かにチルンハウスには警戒心が欠如していたといえることは僕は否定しません。
バチカン写本の末尾には,寄贈者の名前,これはつまり異端審問機関に寄贈した人の名前ということですが,それが付せられていました。だからバチカン写本をチルンハウスから巻き上げたのがステノだったことは間違いありません。
新潮文庫版では,キリストという固有名詞が頻出しています。しかしドストエフスキーの原語版に,キリストに該当するロシア語は一度も出てこないそうです。キリストと訳されている部分は,直訳すれば彼なのであって,ここでいわれている彼を,イワンがキリストであると解しているのは間違いないでしょうし,この物語を聞かされるアリョーシャもまたキリストであると解したのは間違いないでしょう。ですから意訳としてキリストという語を充てることには問題はないかもしれませんが,ドストエフスキーの言語版にキリストに該当する原語が一度も出てこない以上,この彼をキリストと意訳してしまうのは不備ではないかと佐藤は指摘しているのです。
しかも,彼というとき,この彼に該当するロシア語の最初の文字が大文字であれば,これは事実上キリストを意味するので,キリストは意訳よりも直訳に近いのですが,「大審問官」で使用されている彼は,最初の文字が小文字なので,これは一般名詞の彼であって,キリストとという語が一度も出てこないのであれば,その彼が再帰代名詞としてキリストを意味することもできないから,これをキリストと訳すのは意訳以外の何物でもないのであって,単に彼と訳すべきであったと佐藤はいっています。
ロシア語のことは僕には分かりませんが,佐藤がいっていることに間違いがあるというようには僕は思わないです。一方,新潮文庫版の『カラマーゾフの兄弟』の訳者は原卓也であって,原については佐藤は原さんほどの学者といういい方をしていますから,学者として高い評価を与えているのは疑い得ません。いい換えれば佐藤にそう評価されるほどの学者が,単純に読めば彼としか訳しようのない語を,キリストと意訳していることになります。
たぶんこの部分は彼という訳で読んだ方がいいだろうと思います。佐藤は,なぜこのような意訳が生じたかも考察していますので,それについてもいずれ紹介することにします。
説得の部分が吉田の独自の見解であることは明白なので,全体ももしかしたら吉田の見解なのかもしれません。正確にいうと,吉田はカトリックの説教師にバチカン写本を見せてしまったとだけいっているので,ステノNicola StenoがチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausに近づいたというのはその部分からの僕の類推ですが,この一件がおとり捜査のような仕方で行われたとするなら,そのように解するのが自然なのは自明でしょう。
吉田はチルンハウスがオープンであり,警戒心が欠如していたといっているのですから,チルンハウスはステノがカトリックの説教師であると知っていて,その上でバチカン写本を見せたのだというように解しているように思われます。しかし一件がおとり捜査であるなら,ステノは自身の立場を秘匿してチルンハウスに近づいたという可能性も考慮に入れておかなければならないでしょう。かつてチルンハウスはホイヘンスChristiaan Huygensにはバチカン写本のことを秘匿し,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対してもすぐにはそれを見せず,スピノザの許可を得ようとしたのですから,その事実だけで警戒心が欠如した人物であったというのはどうかという思いが僕にはありますが,その部分を考慮に入れないとしても,ステノが自身の立場を秘匿し,うまい具合にチルンハウスがライプニッツに対して抱いたような思いをステノに対しても思わせることに成功したなら,その時点では死んでいたスピノザの許可を求めることができなかったチルンハウスが,バチカン写本をステノに見せてしまったとしても,警戒心が欠如していたというようにいえるのかは疑問が残ります。もっとも,これはステノが自身の立場を秘匿していた,いい換えればステノがカトリックの説教師であるということを知らなかったという場合のことであって,実際には知っていたという場合もあり得るのですから,その場合には確かにチルンハウスには警戒心が欠如していたといえることは僕は否定しません。
バチカン写本の末尾には,寄贈者の名前,これはつまり異端審問機関に寄贈した人の名前ということですが,それが付せられていました。だからバチカン写本をチルンハウスから巻き上げたのがステノだったことは間違いありません。
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