スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

戸塚記念&6月5日

2010-09-08 20:33:36 | 地方競馬
 このレース自体が目標とはなりにくく,かといってステップレースとはならないというやや中途半端な位置づけの戸塚記念
                         
 ナイセストスターとジーエスライカー。どちらが逃げるのかにも個人的に注目していました。ナイセストスターがやや出負けしたこともあり,ジーエスライカーの逃げに。ウインクゴールドが2番手につけ,ハーミアが3番手。盛り返したナイセストスターが4番手のインに続くという隊列。1周目の正面に入ってからぐんとペースが落ちました。
 そのまま向正面に入ると,後方に控えていたビクトリースガが一気に進出。ハーミアも一緒に動き出し,ジーエスライカーとウインクゴールドは後退。2頭が並んで直線に入りましたが,直線の半ばではビクトリースガが力尽き,1馬身半の差をつけたハーミアの優勝。ビクトリースガが2着で3着にはインを追い上げたミヤビジンダイコ。
 優勝したハーミアは南関東重賞こそ初勝利ですが,重賞でも2着していたくらいで力量は上位。いずれは南関東重賞を制覇する筈の馬で,ようやく今日その日が来たといったところ。この馬は牝馬限定戦ならば重賞での活躍も見込める馬なのではないかと思います。母系はアストニシメント系アンジェラスの分枝で,桜花賞を勝ったブロケードの子孫になります。
 鞍上は大井の戸崎圭太騎手。先月は南関東重賞を勝てませんでしたが,7月にはジャパンダートダービーなどを勝っています。管理している大井の荒山勝徳調教師と共に戸塚記念初制覇。

 5月31日の月曜からははちょっとした外出もしなくなり,ほぼ1日中,自室で横になっているという日が続きました。一昨年の暮れに僕はほぼ寝たきりという状態に陥りましたが,そのもととなった原因は違えど,状態はほぼ同じ。何かを食べるとき,そしてトイレに行くときにだけ起きるというような状況でした。もっとも僕の場合は多尿がありましたから,起き出す回数自体は僕の方がまだ多かったかもしれません。そして6月5日の土曜日を迎えたのです。
 どんなに具合が悪くても中央競馬の馬券だけは買いに行っていたということは,結局のところ父はそれだけ競馬が好きだったということなのだと思います。この日もその前の週までと同様に,午後になると1階の方に下りてきました。しかしもう馬券も買いに行かれるような状態ではないから,病院に行きたいと言い出しました。前にもいったように,父は極度に病院には行きたがらない人でしたから,自分からそう言い出した以上,このときはもう本当に辛い状態であったのだろうと思います。
 しかし,ひとつ問題がありました。それはこれが土曜であったということです。つまり,診察をしてくれる病院がそう多くはないと思われたのです。もちろん父としては,やはり糖尿病と糖尿病性網膜症の診察を受けているみなと赤十字病院で診察を受けるということが希望でした。ただ,みなと赤十字病院は土曜は外来はすべての科が休診でしたから,父は救急車を呼ぶようにと言ったのです。しかし,救急車を呼んだからといって,必ずみなと赤十字病院に運んでくれるとは限りません。そこで,その場にいた母が一計を案じました。
 母はまず,別の病院の名前をあげました。これは僕がかつて頭部の裂傷を負ったときに救急車で運ばれた病院,また,父が腸ヘルニアを発症したときに,最初に行った病院です。この病院は365日,24時間の診療態勢が整っていました。母は電話でそれを確認し,父が診察を受けられると確かめて,自動車に父を乗せてその病院へ連れて行ったのです。腸ヘルニアのときもそうでしたが,この病院は患者が重篤である場合には,大概はもっと大きな病院を紹介してくれました。そしてその病院は,きまってみなと赤十字病院,以前の合併前なら港湾病院だったのです。
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右往左往&不思議なこと

2010-09-07 11:08:19 | NOAH
 僕のプロレスキャリアが始まった頃,テレビ朝日で新日本プロレス中継の実況をしていた古舘伊知郎さんは,記憶に残る数々の名フレーズを残しました。現在はプロレスを観ていなくても,当時の中継をご覧になった方々なら,必ずやそれらのうちのいくつかは覚えておいでのことだろうと思います。
 『マイクは死んでも離さない』は,すでにご紹介したように,日本テレビとテレビ朝日の争いという観点から往時のプロレス状況をみていますから,当然ながら筆者の倉持隆夫さんは,古舘さんに対する対抗意識のようなものについても記述していますし,自身のお決まりのフレーズについても言及しています。
                         
 倉持さんのフレーズで最も印象に残っているものといえば,ジャンボ鶴田選手がジャンピングニーパットを出したときに必ず言う「顎の先端にヒット」ではないでしょうか。少なくとも僕は倉持さんといえばこれです。もちろん倉持さん自身も著書の中でこれについては述べていますが,触れられていないもののうちにも,僕の印象に残っているものがあります。
 当時の新日本プロレスは,観客席最前列の前に鉄製の青いフェンスがあり,選手がこの外に出ると,出した選手の方が負けという,今から考えれば訳の分からないルールがありました。よって観客席になだれ込んでの場外乱闘というのはありません。しかし全日本プロレスは,当時はフェンス自体がありませんでしたし,後にフェンスを立てた後も,こんなルールは導入されませんでしたから,この種の場外戦がありました。もしもフェンスアウトルールがあれば,例の抗争の形もだいぶ異なっていたことでしょう。
 選手が観客席になだれ込んでいけば,必然的に観客は散り散りに逃げていきます。こういうとき,倉持アナウンサーは必ずといっていいほどこれを観客が右往左往していると表現しました。この右往左往が,本には触れられていないけれども僕の印象には残っているフレーズなのです。
 右往左往ということばの意味は理解できますが,自分が用いるという意味ではこのことばは僕の語彙にはありません。それがたぶん僕に強く焼きつけられている最大の理由でしょう。僕はこのことばを文字で読んだり耳にしたりするたびに,きまって倉持さんのことを思い出すのです。

 もちろん僕の主治医でもあり,の主治医でもあったМ先生は,何らかの根拠をもって,父は消化器系の病気ではないと判断し,そのように父に伝えたのでしょう。そしてМ先生がそのように判断する材料としては,その日に出た糖尿病の検査結果しか僕には考えられません。
 僕の検査のオーダーの内容に関してはすでに説明しました。ただし,僕はⅠ型糖尿病であり,父はⅡ型糖尿病ですから,それがまったく同じ内容であったとは限りません。というよりも,これは今から考えればということになりますが,もしも同じ内容の検査であったとしたら,この時点では何らかの異変が生じていたと考える方が僕には自然に思えます。この時点で異変が発覚していたからどうなったというものではないのですが,この点に関しては僕は今でも不思議に思っています。なお,父が僕と同様の検査結果の詳細を記した紙をもらったのかどうかは僕には分かりませんが,僕はそれを目にはしていません。ただ,少なくとも糖尿病そのものに関してはこの日の検査では問題なかったものと思います。これは要するに,ヘモグロビンA1cの値が極度に悪化していたということはなかったという意味です。これに関しては父自身がそのように言っていましたから,間違いのないところです。
 このような診断がありましたが,腰痛の方はだいぶひどかったようで,この後で父は近隣の形成外科に通うようになりました。自分が疑っていた消化器系の疾患ではないということで,腰痛の原因はもっと別のものだと考えたのでしょう。そこでは主にマッサージ治療を受けていたようですが,実際にこれを受けると楽にはなったようです。そういうわけでこのためにまた何日かは外出したのですが,これは長続きしませんでした。確かに楽にはなるのですが,それはあくまでも一時的なものであって,持続的な効果はなかったようです。たぶん通ったのは1週間くらいではなかったでしょうか。したがってみなと赤十字病院の通院日は月曜ですから,その1週間だけだったように思います。22日と23日は馬券を買いに行きましたが,翌週は近所のコンビニエンスストアへ買い物に行くことも含めてほとんど外に出ることなく過ごし,それでも29日と30日はまた馬券を買いに行きました。この30日というのは今年のダービーの日ですが,結果的には父が自分で馬券を買いに行ったのは,この日が最後ということになりました。おそらく儲けたのでしょう,にぎり寿司を買ってきまして,それがこの日の夕食となりました。

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オールスター&5月中旬

2010-09-05 20:16:29 | 競輪
 空中バンクともいわれるいわき平競輪場を舞台に5日間にわたって争われてきたオールスター競輪の決勝。並びは山崎-佐藤-佐々木の福島,武田-神山の茨城栃木,海老根-石毛の千葉,吉田-大塚の西日本。
 佐藤がSを取って北日本の前受け。以下,西日本,茨城栃木,千葉で周回。残り3周の周回から海老根が上昇,これに武田が続いて残り2周で前を叩くと山崎は引きました。打鐘を迎えると武田が海老根を叩いて,その外から吉田が発進してかまし先行。武田が絶好の3番手に入り,山崎は7番手で一列棒状で残り1周。バックから武田が先捲り。しかし後方から動いた山崎のスピードが素晴らしく,あっさりと前を捲りきるとそのまま後ろを寄せ付けずに優勝。マークの佐藤が2着。3着は接戦でしたが外の海老根が神山を捕えました。
 優勝した福島の山崎芳仁選手は6月の弥彦記念以来の優勝で,ビッグは昨秋の共同通信社杯以来の11勝目,GⅠは昨年の全日本選抜以来で7勝目。オールスターは初優勝でグランドスラムにひとつ近づきました。ここは地元での開催ということで準備も万端であったのでしょうが,とにかく強かった。普通は一列棒状の7番手は絶望的位置ですが,今回はそんなことはまるで関係ないくらいの仕上がりにあったようです。

 5月も中旬になってくると,の状態は目に見えるほど日増しに悪化していきました。それまではしていた送迎もしなくなり,近所のコンビニエンスストアへ行く以外の外出は,週末の中央競馬の馬券を買いにWINS横浜へ出掛けるだけになりました。父の部屋も僕の部屋と同様に2階にありましたから,必要があれば1階まで下りてくるということはありましたが,要するに1日のほとんどを自室で横になって過ごすというようになったのです。食事の方も,最初のうちは時間が遅れるだけですんでいましたが,この頃になりますと量の方も明らかに減ってきていました。また,妙に甘いものを好むようになり,たとえば父は清涼飲料水などはそれまではほとんど口にすることはなかったのですが,コーラなどを好んで飲むようにもなりました。そういえば僕に低血糖ひどい症状が発生したとき,何とか下りていった1階のテーブルの上には菓子パンがあってそれを食べたわけですが,この菓子パンも父が朝食として摂るためにおいてあったもの。それ以前はきまって食パンでしたので,このことからも父が甘いものを好むようになったということが分かります。
 父はⅡ型糖尿病でしたので,そのための定期的な通院というのがありました。Ⅰ型糖尿病の僕の場合は,何か重大な異変がない限りは2ヶ月に1度でしたが,父の場合は同様の異常がないなら3ヶ月に1度。その通院が実は5月にあったのです。今となってははっきりとその日であったと記憶しているわけではないのですが,この近辺の状況から考えますと,たぶんそれは5月17日,つまり僕がМ先生に持続効果型のインスリンの注射量の微調整を指示された日の1週前だったと思います。
 もうほとんど外出はしていなかった父ですが,この日の通院には行っています。もっとも馬券を買いに行くことはまだできていたわけですから,これは当然といえば当然かもしれません。そしてこのとき父は,腹の張りのこと,そしてひどい腰痛のことに関してはМ先生に伝えたそうです。父自身はこのとき,自分が何らかの消化器系の疾患を抱えていると思っていたようなのですが,М先生はそうではないのではないかという返事をしたとのこと。もちろん細かいやり取りに関しては僕のあずかり知らぬところですが,とにかく父はそのように解釈したようです。
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王位戦&腰痛

2010-09-03 19:25:22 | 将棋
 第51期王位戦七番勝負第六局の千日手指し直し局。
 先手になった広瀬章人六段は当然といわんばかりに四間飛車穴熊。深浦康市王位は左美濃から銀冠で対抗。後手からの仕掛けに乗じた先手がはっきりとリードを奪って終盤に。しかしそこから後手も決め手を与えないように踏ん張りました。なかんずく第1図から☖4七歩成☗同金に金を取らず☖2五歩と突いて玉の逃げ道を広げるあたり,いかにも深浦王位らしい指し方だと感嘆しました。
                         
 先手はここから龍を使って7四の角を取りにいき,その間に後手も反撃。入玉こそ望めないものの中段に逃げ出す形で寄りにくくなり,逆転しました。
                         
 ここで後手は☖5八飛。先手は☗3八金と取り,☖同飛成☗2九銀☖同龍☗同飛と一直線で第3図。
                         
 こうなると後手は3八に金か銀を打って迫るよりなく,実戦は☖3八銀。しかしこれには☗3五桂と跳ね出す空き王手があり,☖3六玉に☗4五角。☖3五玉にも☗5三角が決め手で,王手を続けているうちに3八の銀を抜ける形となって先手の勝ち。第2図では☖3九同銀成と取る手があり,どうもそこが後手にとっては最後のチャンスだったようです。
 4勝2敗で広瀬章人新王位誕生。同時に七段昇段も決めました。シリーズを通していえば,居飛車を選択した第三局を勝ったのが大きかったのではないかというのが個人的印象。これを勝ったことによって,本人も大きな手応えをつかめたのではないかと想像します。前にも書きましたが,広瀬新王位は前々から期待していた棋士のひとりですので,個人的にも嬉しく思います。
 一方の深浦前王位も応援している棋士のひとり。最近ははっきり不調といっていいような結果が出ていますが,倒れたとしてもそのたびに砂を掴んで立ち上がってきた棋士。必ずやまた復活する日をみせてくれるであろうと思っています。

 この腸ヘルニアの例からも分かりますように,はちょっと体調が悪いというくらいでは医者には行かない人でした。もっとも僕自身も自分のというものをリアルに意識してもなお病院には行かなかったわけですので,この点についてはどうこういうことはできません。少なくとも傍目からみる限りでは,父というのは生命への執着というものはあまり感じられませんでしたので,やはり僕と同じように,死に対する不安ないしは恐怖感というものをあまり感じていなかったのかもしれません。
 話を元に戻しましょう。母と妹がアメリカから帰国したのが4月28日。母は渡米前と帰国後では父の状態は一変していたといっています。確かに渡米前は一緒に夕食を摂っていたのに,帰国後はそれがなくなりましたから,一応はずっと一緒にいて,だんだんと夕食の時間が遅れていくさまを目の当たりにしていた僕よりも,その期間はアメリカにいた母の方が,この父の変化を強烈に意識したかもしれません。
 そしてこの頃から,父は送迎と週末の中央競馬以外は,ほとんど外出しなくなりました。バドミントンの関係で応援を頼まれることはあったようですが,すべて断りました。また中央競馬についても,途中で帰ってきてしまうというようなことはありませんでしたが,きまって出掛けるのは午後からとなり,午前中から行くということはなくなりました。
 さらに,父は新たな身体の異変を訴えるようになりました。腹が張るということのほかに,腰痛を次第に訴えるようになっていったのです。
 もっとも,父が腰痛を訴えるというのは別に珍しいことではなく,僕がまだ子どもだった頃からよくあって,最近はさすがにありませんでしたが,僕も小さい頃にはよく父にマッサージをしていたものです。だからこれについても僕にはそれほどの驚きはありませんでした。ただ,そうした腰痛というのは,要するに一種の筋肉痛のようなものだったのでしょうが,今から考えますと,この頃の腰痛というのにはもっと別の要因があったのだろうと思います。それは端的にいえば,筋肉痛のようなものが外の痛みだとするなら,このときの痛みは中の痛みではなかったのかと思うのです。外の痛みか中の痛みか,僕は経験したことがありませんから想像することしかできませんが,その相違は痛みを感じる当人には分かるのではないかと思うのです。しかしこのときの父は,その差異というのを把握できていなかったのだろうと思います。
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王位戦&腸ヘルニア

2010-09-02 19:12:38 | 将棋
 若き新王位の誕生なるかということで大きな注目を集めた第51期王位戦七番勝負第六局。
 先手は深浦康市王位。広瀬章人六段はいつものように四間飛車から穴熊。深浦王位も居飛車穴熊で相穴熊に。先手が2筋から仕掛けていき,角交換から桂得で馬を作り,後手は5筋にと金を作るという分かれになりました。
 封じ手の後,渡辺明竜王の表現だと濃密な中盤戦。先手は銀桂交換して銀得に。対する後手はと金をもう1枚作りました。手駒不足の感はあるものの,攻めの主導権は握れましたので,先手ペースではないかというのが僕の印象。
                         
 ここで後手は△6七銀と打って攻め合いにいきました。▲6四歩にも△7八銀成と取り,▲同金に△6七金。先手はそこで▲6三歩成と取り,△同金に▲7九金打(第2図)。
                         
 ここから後手が7八の金を取って6七に打ち,先手も7九に金を打って受ける繰り返しとなり,なんと第五局に続いての千日手に。本当に先手ペースであったかどうかは分かりませんが,駒損で攻められる将棋を千日手に持ち込んだのですから,後手がうまく立ち回ったということはいえるのではないかと思います。
 今日は午後3時半からの指し直しなので決着も今日中につきますが,指し直し局の方はまた明日ということにします。

 父の病歴として説明する最後のものは僕の印象にもかなり強烈に焼き付いているものです。
 これもまだ現役教師の時代のことでしたが,父は体調の不良を訴えて,早退して午後の早いうちに家に戻りますた。そして腹が痛いと言いだしたのです。だれでもそうでしょうが,腹痛を感じれば人はトイレに通うようになります。このときの父もそうでした。ところが,便が出ないようなのです。これは大便だけでなく,どうも小便も出ないようなのです。学校にいたときから腹痛はあったようなのですが,ずっと出ていなかったとのこと。これは状況としてはかなり異常ですから,病院に行けばよいと思ったのですが,父は行きません。結局はこの状態が半日ほど継続し,ようやく夜になってから母が病院に連れて行きました。僕が初めて救急車に乗ったときに連れて行かれた病院です。するとそこでは処置ができないということになり,当時の港湾病院に搬送されました。この港湾病院というのは現在のみなと赤十字病院の前身の病院のひとつです。
 緊急の開腹手術をするということになりましたので,僕も呼び出されました。午前の2時とか3時頃のことだったと思います。手術の直前になって,父は便が出そうだと言い出し,実際にベッドの上に用意された簡易トイレに出すことができたのですが,当然ながら開腹手術は行われました。執刀医の手術後の説明だと,腸の一部に炎症の跡はみられたものの,基本的には異常はなく,ヘルニアが発生していたと考えられるとのことでした。
 ヘルニアといえば腰とか脳が有名ではないかと思いますが,一般的に,人間の身体を構成するある部位が,本来はそこにあるべき筈の位置からずれてしまう場合,これはどこであってもヘルニアといいます。父の場合は腸ヘルニアで,すなわち,何らかの理由で腸の位置がずれてしまったのでしょう。それが原因で便が出せなくなったのですが,手術の直前になって,それが自然のうちに元の位置に収まったということなのだろうと思います。ヘルニアというのは発生しますと部位に関係なく強い痛みを感じるものだそうですから,このときの父が非常に痛がったというのも理解できる話。病院から病院への搬送にはストレッチャーを用いましたが,そのストレッチャーから転げ落ちてしまうほどだったそうです。
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アフター5スター賞&父の病歴

2010-09-01 20:37:09 | 地方競馬
 JBCスプリントの指定競走となっているアフター5スター賞
 少し押していったスリーセブンスピンの逃げ。その後ろはかなりごった返しての追走となりましたが,ラインドライブやスーパーヴィグラスはこの集団の中。前半の600mは34秒0でハイペース。これをみるような位置にナイキマドリードがいて,ヤサカファインは中団の外目。
 直線に入るとスリーセブンスピンにスーパーヴィグラスが並び掛けにいき,インにいたケイアイジンジンもその間を突こうとして競り合いに。しかしいつの間にか内目に入ってきたヤサカファインがこれらを楽々と捕えるとそのまま抜け出して2馬身半差の快勝。外目を伸びたナイキマドリードが2着。大外からロイヤルボスが非常によい伸びをみせたもののこちらはわずかに届かず,3着はスーパーヴィグラス。
 優勝したヤサカファインは大井生え抜きの馬でこれが8勝目。南関東重賞2度目の挑戦で初制覇。このメンバーの中では上昇馬の部類に入りますが,ここのところかなり堅実な成績を収めていましたので,勝つ力はあると考えていた1頭。今日はコース取りという点で好騎乗でしたし,斤量面でも恵まれてはいました。ただ,短距離戦にしては大きな差をつけていることも事実で,今後にも期待は抱けるのではないでしょうか。父は1999年のセントライト記念を勝ったブラックタキシード,伯父に1993年のアーリントンカップを勝ったグランドシンゲキ
 鞍上は船橋の石崎駿騎手。5月の東京湾カップ以来の南関東重賞制覇で一昨々年以来のアフター5スター賞2勝目。管理している大井の鷹見浩調教師はこれが南関東重賞初制覇となりました。

 これも今から考えればということになってしまうのですが,が腹が張るということを口にしていたのは,もうすでにひどく辛いような状態に達していたからだったのかもしれません。というのも,父はあまり身体の不調に関してはほとんどそれを口に出すような人ではなかったからです。ここで,それ以前の父の主な病歴について説明しておきます。
 ひとつはⅡ型糖尿病です。これはすでに何度もいっている通り。父が発症した,というか発症しているということが分かったのはまだ現役の教師の頃。発覚したのは健康診断で,そのまま即入院となってしまいました。これはおそらくヘモグロビンA1cの値が非常に悪かったからであろうと思います。僕が3月の通院のとき,いきなり入院させられるということも覚悟していたのは,こうした経緯もあったからでした。
 健康診断というのは当然ながら毎年実施されています。しかし,父はなんだかんだと理由をつけてはこれを回避していました。もっとも僕としてはこれは後になってから知ったことです。この年は,そのときに勤務していた学校の校長から強い命令があったようで父としては仕方なしに受けたもの。もっと前から受診していれば,おそらくすぐに入院しなければならないほど悪化する前に発覚していたのではないかと思いますし,後に合併症として発症した眼底出血に関しても,あるいは発症を防ぐことができたのかもしれませんし,少なくともその発症を遅らせることはできたのではないかと思います。
 もっとも,糖尿病,とくに父が発症したⅡ型糖尿病の場合には,自覚症状というのはほとんど表れないようですから,父が糖尿病に関して体調の不良というのを何も訴えていなかったのは,実際に自身の身体に何の異変も感じていなかったからかもしれません。
 次が胆石。しかしこれに関しては僕はよく知りません。というのは,僕は就職後の少しの間は会社の寮で暮らしていましたが,父の胆石はこの間に発症したものだったからです。そもそも僕にはこの事実自体が知らされませんで,僕の知らない間に入院して手術して退院していました。だからこのときなぜ父が病院に行ったのかも知りませんし,どのような不調を訴えていたのか,あるいはそうしたこともなかったのかということも分からないのです。
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