スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
船内での論争に関しては,漱石によるメモが残されているという研究成果を,高木文雄は『漱石の道程』に発表しています。
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メモは手帳に書かれたもの。メモといっていますが大変な長文。しかも英語で書かれているとのことで,全文の紹介はありません。高木はその要点をまとめていますが,それでも十分に長いので,さらに僕が概略化すると,次のような内容です。
宣教師たちは漱石らのことを偶像崇拝者とみなしている。しかしキリストは偶像そのものである。キリスト教は偉大な宗教であり,信者が信仰によって救済され得ることは認める。しかし教派に分裂しているのに唯一の宗教だというのはおかしい。宗教は信念であり,論証や道理ではない。だから個々の信仰の自由を認めなければならない。自分はすべての宗教を含むものを自分の宗教とする。
具体的にどのような論争があったのかということ,また宣教師の宣教がどのような内容であったのかということが不明なので,漱石がこのメモで具体的に訴えたかったことが何であるのかということは,残念ながら分からないというべきです。ただ,漱石がキリスト教を宗教として完全に否定していたというわけではないということは確かでしょうし,信仰の自由が認めなければならないということを,一般的な考え方として有していたということも,ここからは間違いないといえそうです。
キリスト教に対するメモではあるのですが,これは漱石と宗教について一般的に理解するためにも有益なものといえるのではないでしょうか。とくに最後の部分,漱石が自身の宗教について語っている部分に関しては,単にキリスト教に限らず,何らかの排他性を有するようなあらゆる宗教に対する批判的内容をもっていると考えられるからです。
ある観念が人間の精神のうちにあるとみられる限りでは,第二部定理七系の意味が適用されないということは,第二部定理二九備考から明らかです。すなわちこの観念は,単に人間の精神とだけ関連付けられるなら,混乱した観念である場合もあり得るからです。一方,第二部定理三八系が意味しているのは,人間の精神の一部は,必然的にある十全な観念によって組織されているということです。したがって,人間の精神のうちにXの観念があるという言明は,その観念は十全な観念でもあり得るし,混乱した観念でもあり得るというように理解しなければなりません。
十全な観念というのは精神の能動とのみ関連します。一方,混乱した観念というのは精神の受動とのみ関連します。そして僕の理解では,能動と受動の相違というのは,スピノザの哲学においてはきわめて重要な相違なのです。しかるに,もしも第二部定理九系を積極的な意味において解するという場合には,単に人間の精神の一部を構成する観念とだけ関連付けられます。つまりそこには十全な観念も混乱した観念も含まれてしまいます。いい換えればそこには精神の能動も含まれるし,精神の受動も含まれるということになってしまいます。僕はこれを避けたかったのです。だから第二部定理九系の理解について転向をした後,第二部定理九系の消極的意味というのを採用しました。
実際,第二部定理九系の消極的意味というのを採用すれば,精神の能動と精神の受動の両方が,同じ意味に含まれてしまうということを回避することができます。なぜなら,もしも人間の精神が何を認識するのかということをターゲットにすれば,十全な観念も混乱した観念もその中に含まれます。第二部定理九系を積極的に解釈する場合がこれに該当します。しかし,第二部定理九系の消極的意味の主眼は,人間の精神が何を認識するのかということをターゲットにはしていません。むしろその標的になっているのは,人間の精神は何を認識しないのかという点にあります。認識しないのなら,それが十全であるか混乱しているのかを問うこと自体が不毛だということになるのです。
これで今回の考察は終了。明日からまとめに入ります。
スピノザと日本を並列させたプロパガンダである『オランダ人の宗教』が発刊される契機となったフランスとオランダの戦争は,最終的にはオランダの勝利といってよい形で終結しました。ただ戦闘の開始直後はフランスが優位に立っていた時期があり,オランダが支配していた地域を占領するケースも発生しました。ユトレヒトというのはそうした地域のひとつ。そのフランス占領下にあった当時のユトレヒトを,スピノザは訪問しています。これは『スピノザの生涯と精神』の中で,リュカスもコレルスも書いていますので,間違いのない史実でしょう。
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これについてリュカスは,スピノザの名声は上流社会でも噂になるほどだったので,フランス軍の総指揮官的立場にあったコンデ公爵が招待状と旅券を送ったとしています。ただ,リュカスは親スピノザに立脚して記していますので,スピノザに対する賛辞を含む文章については,割り引いて理解するべきだと思います。コレルスの方は詳細な理由は示していませんが,コンデ公爵がスピノザとの会談を希望して旅券が送られたとは書いていますので,スピノザが招待されたというのはおそらく真実でしょう。
コレルスはこの旅券を送った人物が,コンデ公爵を主君とするストッパであるとしています。そしてこのことのうちには,驚くような事実がひとつあるのです。実はこのストッパこそが,『オランダ人の宗教』を著した当の人物であったからです。
コレルスによれば,ストッパは以前からスピノザと文通をしていたとのこと。これが『オランダ人の宗教』が発刊される以前からなのか以後からなのかは不明ですが,この事実から,やはりこの本は単なるプロパガンダなのであって,オランダを貶めるということだけを目的としたものだったのだろうと僕は推測しているのです。
定理と系の意味は,本当は積極的に理解するべきものです。しかし僕は第二部定理九系に関しては,転向の後は,第二部定理九系の消極的意味によってこれを解することになりました。当然ながら僕がこの解釈を採用したのには理由があります。それは第二部定理一一系の具体的意味との関係です。
第二部定理九系は,それ自体では神のうちにある観念に関する言及です。したがって第二部定理七系の意味により,それはすべて十全な観念であるといえます。この点においては,第二部定理九系を積極的に理解したとしても,何も問題は生じません。
ただ,ある観念対象ideatumの中に起こることの観念は,そのideatumの観念を有する限りで神のうちにあるというとき,このideatumをXと措定すると,Xの中に起こることの観念は,Xの観念を有する限りで神のうちにあるということになります。このとき,Xの観念を有する限りでの神というのは,Xの観念に変状した限りでの神というのと同じことです。スピノザの哲学において精神というのが何を意味するのかということに注意するなら,Xの観念に変状した限りでの神というのは,要するにXの精神のことです。したがって,Xの観念を有する限りでの神のうちにXの中に起こることの観念があるということは,Xの精神のうちにXの中に起こることの観念があるという意味です。つまりXの精神のideatum,これを僕はXの身体とみなすので,Xの身体の中に起こることをXの精神は認識するということが,第二部定理九系から帰結することになります。第二部定理一二は,この筋道を,人間の身体と人間の精神に適用したということになります。
ところが,この場合には単にその観念,ideatumの中に起こることの観念が,神のうちにあるといわれる場合とは事情が異なるのです。というのは,一般に神のうちにAの観念があるといわれる場合には,先述したようにAの観念は第二部定理七系の意味によって十全な観念であるといえます。しかし,たとえば人間の精神のうちにAの観念がある,つまりある人間の精神の一部がAの観念によって組織されるという場合には,これが該当しないからです。
⑥-5の第2図からは駒組。手順だけ示すと△5二金▲6六歩△4四歩▲5八金△9四歩▲9六歩△4三金右▲6九玉△3一角▲6七銀△7四歩▲7九玉△6四歩で第1図に。
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先手の自戦記では,この局面は後手の5筋の位が大きく,先手の角が働かないので,先手の得は失われているとあります。後手の方は⑥-3の段階では作戦負けを自覚していたわけですが,先手としてもそれをうまく咎めることができなかったということなのでしょう。この先手の感想からは,⑥-1で示した中央志向の一手としての2手目△6二銀が,この局面では成功したといえるのかもしれません。ただ後手の玉型はひどいように思えます。
第1図で有力な指し手のひとつが▲2九飛。詳しい手順は示しませんが,この場合は後手から△2五桂と取ってきて,攻め合いになるというのが一例として示されています。ただ実戦はここで先手の方から▲3三桂成と取っていく展開になりました。
このシリーズの主旨からはここで終りなのですが,この将棋は勝負の分かれ目の互いの感想も面白いので,それも紹介します。
そこで,僕がいう第二部定理九系の消極的意味に注目してください。ここで僕が主張していることの主眼は,ある観念対象ideatumの中に起こることの観念は,神がそのideatumの観念を有していないとみられる,あるいは説明される限りにおいては,神のうちにはあることにはならないという点にあるのです。これは単に命題文として理解した場合に,XはYではないという種類の命題に分類されるのですから,積極的であるとみなすことは不可能です。つまりこのことがideatumとして知性のうちにある場合,それは確かにあるideatumの中に起こることの観念について,十全に認識しているのだとはいえるでしょうが,その認識自体が否定的な認識であるといわなければなりません。単純にいえば,白は黒ではないという認識は,認識内容としては真理であるといえるけれども,白について積極的であるとはいえないというのと同じです。
次に,命題文として考えた場合,この命題からは論理的に次の命題が帰結します。それは,あるideatumの中に起こることの観念は,神がそのideatumの観念を有する限りでは神のうちにあるという命題です。この命題は,XはYであるという種類の命題ですから,積極的であり得ます。そしてこのことがideatumとなっている認識について考えた場合にも,確かにこれはあるideatumの中に起こることの観念に関して,その本性を含んでいると理解されるべきですから,同様に積極的であるとみなし得るでしょう。ただこれらふたつの命題は,一方から他方が流出する関係にあるのではなく,いい換えれば一方が他方の変種であるというわけではなく,論理的に帰結する別々の命題であることが明らかですから,一方が積極的であり,他方は積極的ではないという結論が導かれ得るのです。
論理的に帰結する異なった命題なのですから,僕は第二部定理九系の意味として,後者を,後者だけを採用するということも可能であったわけです。というか,定理とか系の意味というのは,本来的に積極的に解されるべきものであるということを僕は否定しません。そしてそうであるならば,むしろ後者を採用するのが本筋であるといっていいでしょう。
秋の交流重賞の開幕を告げる第24回オーバルスプリント。
セイントメモリーの逃げかと思っていましたが,外からエーブダッチマンがハナへ。少し後手を踏んだように見えましたが,セイントメモリーも上がり,譲るように2番手。3番手にはタイセイレジェンドで,その後ろはナイキマドリード,ガンジス,エーシンウェズンの3頭。前半の600mは36秒2で,ミドルペースといえると思います。
向正面に入るあたりではエーブダッチマンにある程度のリードがあったものの,差が詰まっていき,半ばではセイントメモリーが先頭に立ち,続いたタイセイレジェンドと2頭で後ろを離しました。併走は直線入口までは続きましたが,コーナーワークもありセイントメモリーがリードを取ると,直線では離していき,2馬身差で快勝。苦しくなったかに見えたタイセイレジェンドですが,ゴール前ではまた一踏ん張りして2着を確保。最後尾となり,向正面からずっと外を追い上げてきたジョーメテオが最後まで脚を伸ばして1馬身半差の3着。
優勝したセイントメモリーは前走のサンタアニタトロフィーまで4連勝。ここは一気の相手強化で,持ち前のスピードが通用するかが試されたレース。見事にクリアーして重賞制覇を達成しました。2番手からのレースができたのも大きな収穫で,地方競馬にとって大きな戦力となりそうです。叔父に1999年の北九州記念を勝ったエイシンビンセンス。
騎乗したのは船橋の本橋孝太騎手で管理しているのは大井の月岡健二調教師。このレースも重賞も揃って初勝利です。
この最後の判断に関しては,あくまでも僕はそのように考えるということだけを理解してもらえれば十分です。というのも,このことについては僕も十分に根拠をもって説明することができないからです。
もちろん僕も,何の理由もなくそのように判断するというわけではありません。まず第一に,Xの特質とみなされる事柄は,Xの本性から必然的に生起します。本当はXの十全な観念というのと,Xの本性の十全な観念というのは,異なった観念であると考えるべきだと僕は思っていますが,単に思惟の様態としてみる限り,この両者が同一個体であるとは思いますから,ここではその相違を無視して進めますが,前述のことから明らかなのは,ある知性のうちにXの本性の十全な観念があるのであれば,Xの特質の観念はその知性のうちに必然的に流出するということです。
このとき,Xの本性の十全な観念というのは,Xに関するある積極的なものです。これがXのXたる所以をその知性に教える観念だからです。というか,これをこの知性に教える観念は,この観念以外にはあり得ないというべきで,もしもそうした観念についてそれを積極的といえないのであれば,おおよそ積極的といえる観念は知性のうちに存在し得なくなってしまいます。
僕の理解では,この積極的な観念から流出するどんな観念も,積極的な観念とみなされるべきなのです。流出してくる観念は流出元の観念を前提するからです。あるいは,第二部定理四〇で,十全な観念から流出するどんな観念も十全な観念であるといわれるのと同じ意味で,積極的な観念から流出するどんな観念も,積極的であるといわれるべきだと考えるからです。
ただ,冒頭でいったように,このことについては,僕がそのように考えているということだけを理解してもらえるならば,それで十分です。Xの本性の十全な観念というのが,思惟の様態としてXに関する積極的なものであるということについては僕は譲るつもりはありませんが,そこからさらに広げて,どこまでを積極的であるというべきなのかということの判断は,個人によって異なる場合もあるだろうと思うからです。僕はそこまでは広げるということなのです。
プロモーターとしての馬場の優秀性あるいは有能性を最もよく示すのは,超獣の扱い方であったと思います。馬場自身,『ジャイアント馬場 オレの人生・プロレス・旅』の中で,ブロディは暴れ馬のようなレスラーであったけれども,プロモーターとしては使いこなしたと自負しているといっているくらいで,これは馬場にとって誇れることであったのでしょう。ブロディというのはそれくらい扱いにくい選手であったということの裏返しともいえます。
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長州とブロディの対戦からも理解できるように,ブロディが極度のエゴイズムをもったレスラーであるということは,僕にも分かっていました。ただ,これはリング上のことだけなのであり,リングを降りてもそうしたエゴイズムを発揮するということは,まったく知られていなかったといっていいでしょう。実際ブロディは,この時代まで,契約に関して問題を起こすということは,少なくとも日本ではまったくなかったからです。
ところが,その試合の直後に新日本に移籍したブロディは,途端に問題児となりました。新日本とブロディの間で,どんな問題が発生していたのかは僕には分かりません。ただブロディにとっては我慢ならないほど不満なことがあったのでしょう,しばしば試合をボイコットするようになり,最後もタッグリーグの優勝戦をボイコットして,新日本を去ることになりました。
ブロディはその後,また全日本に復帰することになります。するとブロディはまた以前のように何も問題を起こさなくなりました。結局のところ,これは偏にプロモーターとして馬場の手腕が優れていたからだといえます。試合のボイコットなど,プロとしてはあり得ないような行為を平気でするようなレスラーですから,馬場もブロディは扱いにくいレスラーであったと思っていたに違いないと思うのです。もしもブロディが移籍せず,ずっと全日本で仕事をしていたら,この面での馬場の優秀さは表面化しなかったでしょうし,ブロディがこれほど難しいレスラーであるということも,知られることはなかったのではないでしょうか。
この部分に,スピノザの哲学が唯名論へと傾斜していくもうひとつの理由があると僕は考えています。ことばに頼るのではなく,観念対象ideatumに依拠して事物を認識するということが重要であるとしたなら,そのideatumがどのようなことばで指示されるのかということは,さほど重要ではない,もっといえばそんなことは問題とするにも値しないといえるからです。前に僕は,観念はその内的特徴からみられるならば,十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかだという命題に関して,これがideatumとなって知性のうちにあるというケースを視野に入れたなら,それが十全であるといわれるか混乱しているといわれるのかということは,観念の内的特徴の認識,あるいは内的特徴からみられる場合の観念の認識にとっては重視されないという主旨のことをいいましたが,それは具体的にはこのような意味であったのです。
さて,ではこの命題がideatumとなっているという前提で,この命題が積極的であるとみなせるのかどうかということに移ります。これについても結論からいえば,少なくともこの命題は,このことを前提とする限りでは,積極的であるとみなし得るというように僕は考えます。いい換えればこの前提において,この命題を積極的な命題であると記述することは,許容されるというように僕は判断するということです。
この判断についての根拠に関しては,もうそう多くのことを語る必要はないと思います。少なくともこの命題がideatumとなって十全に認識される場合には,観念の内的特徴ないしは内的特徴からみられる観念の本性,あるいは少なくともその本性に属する事柄も十全に把握されているということが前提となっているということがすでに明らかになっています。要するにそれは観念の内的特徴の内的特徴たる所以が知性によって十全に認識されているということです。そしてそのことが,ある命題に関してそれを積極的というときの,ひとつの要件を満たすのだからです。そして,積極的であるとみなし得る命題から必然的に流出する命題にも,それは妥当すると僕は判断します。
昨日の第26期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第三局。
振駒で森内俊之名人の先手。郷田真隆九段が相矢倉を受けて立ち,▲3七銀△6四角の戦型に。先手が早めに9筋を受けたので,後手がそこで一歩を手にする展開になりました。
感想戦から窺う限り,先手が仕掛けてからはすぐに優位に立っていたようです。最後は大きな差となりました。僕がどうやらこれは先手がよさそうだと思えたのは,以下の辺りでした。
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4筋で銀を交換した後,6筋で一時停止して△6四歩と突かせた先手の飛車が8筋に回ってきた局面。成られてはいけませんから後手は△8四銀と受けました。▲8六飛はこの一手。後手は△8二飛と,先手の飛車を圧迫しにいきました。先手は駒得を目指して▲9六歩。そこから△6五歩▲9五歩△6六歩▲同金△8五歩▲9六飛と進展。
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後手も8四に銀を打って8二に飛車を回ったのですから,どこかで△8五銀と出て飛車を捕獲できなければおかしいと思えます。ところがそれができず,先手の飛車が助かる展開となっては,後手はかなり厳しかったのではないでしょうか。
2勝1敗で森内名人が挑戦者に。展望に書いたように,やはりビッグ3は手厚かったようです。森内名人の竜王戦登場は第22期以来。七番勝負の第一局は来月17日と18日です。
アインシュタインは神を信じるかと問われたとき,スピノザの神を信じると答えました。事実上これは,無信仰であると答えたと等しいのだと僕は理解します。第一部定義六は,ただ神といわれるものを定義しただけであって,普通に信仰の対象として認識されている神とは異なります。とりわけスピノザの同時代のほとんどの人びとにとってはそうであったでしょう。だからスピノザの哲学は,無神論とみなされたのです。そしてこのとらえ方は,アインシュタインにとっても同じであったろうと僕は考えます。
しかし,スピノザは逆にこんなふうに考えていたでしょう。多くの人びとが信仰の対象として神を認識するとき,それはあたかも神を人間であるかのように表象しているにすぎないのだと。つまりそれは第二部定理二九備考により,神の混乱した観念です。もしも神を十全に認識するならば,神は第一部定義六のように定義されなければならない,あるいはそう定義せざるを得ないというのがスピノザの見解であったと思うのです。要するにこれは,神は唯名論の立場によって初めて定義することが可能であるという主張といえるかもしれません。スピノザは神が実在するか否かではなく,とくに人間の知性が神を十全に認識できるか否かを重視していました。だからこのことの意味は,スピノザの哲学において,軽いものではありません。
ただ,このように概観してみると,ここでは不毛な論争が繰り広げられていると僕には思えます。なぜならスピノザは神といい,一方はそれは神ではない,無神論だといい募っているのですが,その実,観念対象ideatumとしてみるなら,同じ神といわれていても,異なっているといえるからです。スピノザ自身,論争の理由の多くが,こうした要因にあるということを知っていました。スピノザにとって重要であったのは,もちろん自分の考え方を他者が理解してくれるならばそれがベストでしょうが,哲学する自由はこういう場合にも保証されなければならないということの方であったように僕は思います。つまりたとえ無神論と思われるような思想でも,宗教的な規制によってそれは制限されるべきではないということです。
作家論と作品論のうち,僕が作品論に含めるものについてはいくつか紹介しました。そこで僕が典型的な作家論とみなす評論の方も例示しておきましょう。ここでは宮井一郎の『漱石の世界』を取り上げます。
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宮井がこの一冊を通して主張していることは,ひとつは漱石の思想の中には利益社会と人格社会の対立という概念があるということで,もうひとつはこの対立において漱石は人格社会を重視するというものです。著書では漱石のほとんどの小説が評論の対象になっていますが,どの小説についても,宮井はこの立場から評論を行うということになります。
平野謙による序文めいたものが付されていて,そこではこの結論がお粗末であるといわれています。しかし僕は宮井の主張の妥当性に関しては何かいうつもりはありません。ただ,このような方法を僕は好まないので,その理由だけ説明しておきます。
小説を読むことを自分の人生に役立てるという観点からは,たぶん宮井のような方法を採用するのが有益なのです。でも僕はそういう構えで本を読むことはしません。宮井が理解する漱石の思想がどこから出てきたかは別として,このような観点から漱石に向き合えば,当然ながらすべてのテクストについて,その思想がどのように表出しているかに着目することになります。これが僕には読書の幅を狭めてしまっているように感じられるのです。
作家の思想には無頓着に,ただテクストだけを丹念に追っていくと,あれもこれもといった具合に,小説の世界が広がっていくように僕は感じます。そしてこのことが,僕にとっては読書の最大の楽しみなのだといえます。これは漱石に限ったことではなく,ドストエフスキーでも,あるいはスピノザでも同じことなのです。
僕のような読書をする方にはおそらくこの本は退屈でしょう。しかし漱石のうちに,宮井が理解するのと似たような思想を見出している方にとっては,非常に内容が濃い評論だと感じられるのではないでしょうか。
もうひとつ補足しておきたいのは,この種の考察は,唯名論と不可分の関係にあるということです。
観念ideaの内的特徴denominatio intrinseca,あるいは内的特徴からみられた観念を,知性intellectusが十全に認識したならば,そこから十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataの十全な認識cognitioも必然的にnecessario生じます。正確にいうなら,これらは前者が原因で後者が結果であるというよりは,同一の十全な認識を他面から説明しているにすぎないといえるでしょう。いうまでもなく十全な観念とは,観念をその内的特徴からみた限りで,第二部定義四で示されている事柄を満たすような観念であり,同じ観点から観念をみた場合に,もしもそれを満たしていないなら,それは混乱した観念であるということになります。しかしこれが意味しているのは,そのように名指されている観念を知性が観念対象ideatumとして十全に認識しているということです。そしてこの知性の立場からみれば,それら各々の観念が,十全な観念とか混乱した観念といわれなければならないような理由は何もありません。別にことばの上だけであれば,それが何ということばないしは記号によって示されても構わないのです。
スピノザが唯名論の立場を選択するのにはおそらくふたつの理由があります。ひとつはイデア論に対抗するためです。スピノザの一般性と特殊性の考え方から明らかなように,事物は一般的に認識されるならそれだけ混乱していて,個別に認識されるならその分だけ明瞭判然としています。イデア論で重視されるイデアというのは,より一般的なものです。したがってそれはむしろ混乱の度合いが高い観念であるといわなければなりません。このためにスピノザは一般名詞がどのように表現あるいは記述されるべきであるのかということに,重きをおきませんでした。
この典型例が第一部定義六であり,また第一部定理一一だと僕は考えています。スピノザは確かに神Deusを定義し,またその実在を主張しました。それでもスピノザの哲学は無神論のレッテルを貼られたのです。しかしこれはある意味では当然なのです。なぜなら第一部定義六は,明らかに唯名論の立場から神を定義していて,その実在が主張されているのも,そのような神でしかないからです。
ニーチェが自身をディオニュソスになぞらえるとき,同時に反キリストとしての自分を意識していたということは,間違いないと思います。ニーチェには『アンチクリスト』なる著書もあるくらいですから,ニーチェがそういう立場にいたということは,事実として疑い得ません。ただ,僕自身の受け止め方でいえば,ニーチェが反キリストを主張するとき,ひとつの特徴があるように思えるのです。
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当の『アンチクリスト』を読んでもそうした印象が否めないのですが,ニーチェは新約聖書の福音書,とりわけ共観福音書でイエスの言動が語られているとき,それを肯定的にとらえているように僕には感じられます。ニーチェの立場からすると,共観福音書で示されているイエスの教えのうちには,反対しなければならないような内容が明らかに含まれているように思いますし,実際にそうした主張がされていないとはいえないのですが,それを差し引いても,イエスに対してはニーチェはむしろ肯定的な評価を下しているように思えるのです。
ニーチェが批判するのは,そのイエスをキリスト=救世主とする立場に対してです。なので新約聖書でいえば,多くの手紙が収録されているパウロに対しては,ニーチェは非常に否定的です。ニーチェのうちには,パウロはイエスをキリストに貶めてしまったのだというような感覚があったのではないでしょうか。
イエスとキリストとを分けるという考え方は,僕がキリスト教神学とみなす思想のうちにもあるにはあるのです。そしてニーチェの立場というのは,そうした神学者と意外に近いのではないかと思えます。ニーチェの反キリストは,文字通りに反キリストなのであって,反イエスであるとはいえないと僕は理解しています。
やや駆け足になってしまいました。もう少し詳しい説明が必要でしょう。
まず,ある事物の本性から,必然的にいくつかの特質が生じます。現在の考察と関係させるなら,このことは第一部定理一六と第一部定理二五系から論証するのが本筋です。ただここでは第一部定理三六をこのことの単独の論拠としてあげておきます。したがって,Xの本性の十全な観念,これはXの十全な観念というのと事実上は同一であると考えて構いませんが,そこからはそのXの特質の観念が流出してきます。すなわちある知性がXを十全に認識するならば,その知性は自動機械のようにXの特質も十全に認識するということになります。
ここでは,観念がその内的特徴から把握される場合について,それが混乱した観念でないのなら十全な観念であるということを,観念の内的特徴そのもの,あるいは内的特徴からみられる観念の特質であるというように理解しています。したがって混乱していなければ十全であるということが十全に認識されるということは,観念の内的特徴とか内的特徴からみられた観念について,十全に認識されているということが前提されているというように考えなければなりません。事物の本性から事物の特質が流出するのであって,事物の特質から事物の本性が流出するのではないからです。あくまでも僕の考え方ではありますが,このことは,ふたつの個物に同一の訳を与えても構わないと僕が判断するときに論拠のひとつとした,第二部自然学②補助定理七備考でスピノザが示していることを,間接無限様態の特質として理解したときにした主張と,並列的な関係にあります。
よって,観念がその内的特徴からみられた場合,それが混乱した観念でないのであれば十全な観念であるということは,命題としては内的特徴からみられた観念に対する否定を含んでいるとしか考えられないのですが,観念として知性によって十全に把握される場合には,少なくともそれと同じ意味においての否定を含んでいるとはいえないということは明らかです。むしろこのことは,内的特徴からみられた観念についてのある肯定を前提しているというように理解しなければならないのだと思います。
4日に仙台市で指された第61期王座戦五番勝負第一局。対戦成績は羽生善治王座が5勝,中村太地六段は0勝。
振駒で中村六段の先手。羽生王座の作戦は9筋を突き合っての一手損角換り1-Ⅱ。非常に難しい将棋でしたので,僕の印象に残ったふたつの局面を紹介します。
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ここで先手から▲3五歩と仕掛けました。後手は△同歩▲4五桂に△同銀▲同歩と対応。後で馬を作りつつ駒損を回復する手を視野に入れた指し回し。とはいえ,開戦の直後に駒損を感受する受け方をするのは理屈に合わないような印象を受けました。
少し進んで第2図に。
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ここで先手は▲7九玉と引きました。終局直後に並べたとき,この手が先手の勝因になったのではないかと感じました。後手の感想にこれで困っているとあり,確かに好手であったようです。まだ100手近くも続くのですから,勝着というには語弊があるでしょうが,この局面で早逃げしたのは,中村六段の才能を見せつけた手であったように思います。
この後,先手もさすがに最善を続けることはできなかったようで,瞬間的には後手にチャンス到来の局面もあったようです。それでも全般的には押していたといえる先手が勝ちきりました。羽生王座のコメントが相手を称えるようなものが多く,余裕なのかもしれませんが,いかにも将棋を楽しんでいるという印象です。
中村六段が先勝。第二局は18日です。
ある観念が内的特徴からみられるなら,それは十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかであるということが,観念対象ideatumとなってある知性の一部を構成すると仮定します。なお,この仮定は,こうした事柄が観念として十全に認識されているという仮定なのであり,ことばすなわち記号として混乱して表象されているという意味ではありません。
この仮定のうちには,その知性のうちに,観念の内的特徴といわれる場合の内的特徴の何たるか,また,内的特徴からみられた観念の何たるかが,同時に存在しているということが含意されていると僕は考えます。というか,より正確を期していうならば,そうしたことがその知性のうちに十全に把握されていることによって,内的特徴からみられる観念は十全であるか混乱しているかのどちらかであるということも,十全に把握され得るといえるのではないでしょうか。もしも単にことばの上だけであれば,何を十全な観念といい,また何を混乱した観念というのかということさえ把握できるなら,このことは表象され得ます。あるいは第二部定理一七により,必然的に表象されるのだとすらいえるかもしれません。しかしideatumとして十全に認識されるという仮定においては,それだけでは明らかに不十分であるといえるでしょう。
内的特徴からみられた観念の何たるかとか,観念の内的特徴の何たるかというのは,それら各々の本性を示す,あるいは少なくともその本性を含んでいると理解しなければなりません。これは第二部定理七から明らかだといえます。しかしもしもそうしたことをある知性が十全に把握するならば,自ずからそうしてみられるあらゆる観念が,十全であるか混乱しているかのどちらかであり,両方ではないということが出てきます。したがって少なく見積もっても,この観念は,内的特徴とかそこからみられる観念の,特質ではあるということになります。ある事柄が事物の本性から必然的に生じるなら,その事柄は特質であるといわれるからです。
つまり,十全であるといわれるのか,混乱しているといわれるのかということは,実は大した意味をもっていないことになります。
前期と同一の顔合わせとなった第3期女流王座戦挑戦者決定戦。対戦成績は里見香奈女王・女流名人が6勝,本田小百合女流三段が1勝。
振駒で本田三段の先手。里見女王・女流名人の5筋位取り中飛車から相穴熊に。かなり揺れ動いた将棋だったと思いますが,最終的に勝負が決したといえる局面を。
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6二にいた銀を引いたところ。ここは☗7二銀成とすれば先手が勝ちの局面。ただそれを逃して☗5四歩。後手は☖同金しかありません。手の流れから考えると☗4三飛成と指しそうなところですが,☗7五金打でした。これが敗着。☖6八龍と入られました。
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後手玉は詰みませんし,先手玉は詰めろ。こうなればさすがに逃さず,詰めろを継続して後手の勝ちになりました。
大逆転で里見女王・女流名人が挑戦者に。奨励会員同士のタイトル戦は来月26日に開幕とのことです。
よって,まずは観念ideaはその内的特徴denominatio intrinsecaから把握される場合には,十全な観念idea adaequataであるか混乱した観念idea inadaequataであるかのどちらかであるという命題が,積極的であるといえるのかどうかを検討することにします。
まず,単純にこれを命題として理解するならば,これはXはYであるという種類に分類されるということは明白です。そしてこの種の命題に関して一般的な結論を出すとすれば,これは積極的であり得るといえるでしょう。というよりも,すでにここまで考察してきたことからして,もしもそれを単純に命題のみによって解釈しようとするのであれば,積極的であるとみなせるような命題というのは,XはYであるという種類の命題以外にはあり得ないということが明らかなように思えます。なぜなら,このタイプの命題だけが,命題文の主語であるXに関して,XのXたる所以というのを示すことが可能であろうと思われるからです。
ただし,だからといってXはYであるという命題のすべてが,積極的であるとみなせるというわけではありません。というか,正確にいうならば,そうであるかもしれませんが,まだそうであると決まったわけではないのです。なのでこの点に関してはまだ詳しく探求していく必要が残っているといえます。
命題としてこれを把握する限り,この命題を積極的であるとみなすことは難しいように思えます。というのは,この命題は確かに内的特徴からみられた場合の観念に関して,ある真理veritasを記述しているのですが,この記述のうちには,内的特徴からみられた観念,あるいは観念の内的特徴そのもののどちらでもよいですが,それがそれである所以というものがまったく含まれてはいないといえるからです。したがってこうした観点から理解するのであれば,内的特徴からみられた観念が混乱した観念ではないなら,それは十全な観念であるという命題についても,積極的な命題であるとみなすことは不可能でしょう。
ただ,ことばと観念の相違というものに注目するなら,必ずしもこうした結論となるとはいえないようにも僕には思えるのです。この命題が観念対象ideatumの観念として知性intellectusのうちにある場合,別の結論が引き出せそうだからです。
2日の第26期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第二局。
先手は森内俊之名人。郷田真隆九段の誘いで横歩取りに。後手の早めの△7ニ銀を見て,先手は中住いに構えました。
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ここで△2四飛。▲同飛△同銀にさほど時間を使わずに▲8四飛。後手は大長考の末に△8三歩と飛車成りを受けました。となれば▲2四飛△同角▲1一角成までは一直線。後手はそこで△3三角と引いたので▲2一馬。
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瞬間的にですが三枚換えで手番を握っていますから,これはさすがに先手が優勢なのでしょう。第1図で飛車をぶつける手が無理だったという結論になりそうですが,最も直線的に進んだ変化しにくいと思われる手順で悪くなるのに,その手を選択したのは不可解な気がします。
森内名人が勝って1勝1敗。第三局は来週の月曜日。
内的特徴からみられた観念が混乱した観念でないならば十全な観念であるという命題を,真の命題として構成する別の命題というのは,観念はその内的特徴からみられるなら,十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかであるというものです。なお,ひとつ注意しておけば,この命題が含意していることは,Xという観念を内的特徴から把握するなら,それは十全な観念であるか混乱した観念であるかの必ずどちらかなのであって,どちらでもないということはあり得ないし,かといってどちらでもあるということもあり得ないということです。そしてこの命題が,変種の命題として,ここで考察の対象に据えている命題を導出し得るということは,あまり説明する必要がないことだといえるでしょう。
次に,僕がここで考察対象としている命題が変種であるというときには,単に同一の命題を別のパターンで記述したというのとは異なった意味がありますので,それも説明しておきます。僕は一般にAはBの変種であるという場合には,まずBがあって,そこからAが出てくるというように解しています。つまり僕がいっているのは,まず先に内的特徴からみられた観念は十全であるか混乱しているかのどちらかであるということがあって,そこから,混乱していないならば十全であるということが帰結するのだということです。逆に後者があって,そこから前者が帰結するということはありません。ここで扱っているふたつの命題だけに限っていうならば,後者の命題が前者の命題から帰結しなければならず,前者の命題というのは別に後者の命題とは関係なしに真の命題として定立するということは明らかだと思います。ここでは一般的に論じる必要性を感じませんので,このことだけを主張しておきます。
このことから,仮に前者の命題が積極的な命題とみなせないのであるとしたら,後者の命題の場合にも積極的であるとはみなせないであろうということが分かります。積極的であるとはみなせないような事柄から,積極的であるとみなせる事柄が帰結するというのは,どう考えても不条理だからです。このふたつの命題は,単に論理的に別のパターンの命題というのとは違うのです。
3歳限定で牡馬が出走可能な最後の南関東重賞となる第42回戸塚記念。
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好発はトーセンギネスオーでしたが,外のリアライズリンクスが押してハナに。1周目の正面から2周目の向正面にかけて,後ろを徐々に離していく大逃げに。控えたトーセンギネスオーが2番手で,カガヤキダンスオーとトラバージョ,イヴアルブ,ドリームキングダム,カイカヨソウと続きました。
向正面に入るとトラバージョが3番手に進出。マークするようにカイカヨソウがその外に。リアライズリンクスとの差もここからは詰まっていき,直線の入口では3頭が雁行状態。ここからトラバージョが残りの2頭を置いてきぼりにしていき,最後は5馬身差の圧勝。苦しくなったカイカヨソウを外から捕えたドリームキングダムが2着に浮上。カイカヨソウもリアライズリンクスは捕まえて1馬身差で3着。
優勝したトラバージョは前走の黒潮盃から連勝で南関東重賞2勝目。今日のメンバー構成ですと能力的に伍して戦えそうなのは3着馬のみに思えました。その相手が休養明けだったこともあるでしょうが,負かしにきたのを突き離してのものなので,価値が高そう。どうやら3歳4強と遜色ない力があるとみてよさそうです。ゆくゆくは南関東のこの路線を牽引していく存在になれるかもしれません。母の従弟に2007年のスプリングステークスを勝ったフライングアップルと昨年のシリウスステークスを勝っている現役のナイスミーチューの兄弟。Trabajoはスペイン語で仕事。
騎乗した船橋の石崎駿騎手は黒潮盃以来の南関東重賞制覇。戸塚記念は初勝利。管理している船橋の佐藤賢二調教師は第29回以来13年ぶりの戸塚記念2勝目。
こうした考察から理解できることは,その主語に対して付帯条件が伴うような命題に関しては,その条件を構成するものが主語を限定することが可能であるかどうかということを,理性によって判断しなければならないということです。いい換えれば,単に命題だけを眼中において,その命題が積極的であるといえるかどうかを結論することはできないということです。そしてこのことは,付帯条件が命題の主語に対して肯定的であるか否定的であるかを問わないのです。つまりXはAでないならばYであるという種類の命題にも,XはAであるならばYであるという種類の命題にも,同じように該当するのだと考えなければなりません。
次に,これを理性的に判断したときに,確かに付帯条件が命題の主語を限定することが可能であると理解されるなら,それはその命題は真の意味で否定的な命題であると解されることになります。つまりその場合にはこの命題は純粋に否定命題であると把握されるべきなのであって,その使用条件から明らかなように,それを積極的な言明であると主張することは許されないと僕は考えます。しかしそうではなく,単にことばの上でだけ付帯条件が命題の主語を限定していると解されるような場合には,たとえそれが否定であったとしても,それだけの理由でその言明が積極的ではないと結論してはなりません。ただし,先に注意していおいたように,だからそれは積極的な命題であるということにもならないのです。つまりこちらの場合には,それが積極的であるとみなせるかどうかは,もっと別の根拠によって判断されなければならないといえるでしょう。
そこで再び,現実的に存在するある人間の精神のうちにある観念は,それが内的特徴から判断されるとき,混乱した観念でないならば十全な観念であるという命題に関して,これが積極的であるとみなせるのか否かということを検討していきます。
まず,この命題が真の命題であるということを前提します。この前提には反論は生じないものと思います。そしてこのとき,僕はこの命題が真の命題であるということの要素は,この命題が別の命題の変種であるということのうちにあると理解します。
オールスター前の最後の記念競輪となる岐阜記念の決勝。並びは山崎-高木の東日本,磯田ー宗景-金子の関東,村上ー有賀の近畿中部,園田-小倉の西国。
スタートを磯田が取ってそのまま前受け。4番手に村上,6番手に園田,8番手に山崎という周回。残り2周のホームの入口から山崎が上昇の構え。併せて村上も発進し,バックではまず村上が磯田を叩いて前に。その外を園田が上昇,村上を叩いたところで打鐘。ここから磯田が発進すると,一度は引いた山崎も発進。意外なことに磯田と山崎で先行争いに。これがバックまで続き,山崎が制しましたが,外を捲った村上が捕え,直線では抜け出して2車身差で優勝。高木の後ろにスイッチしていた宗景が外を伸びて2着。村上に離れた有賀は山崎と高木の中を割って半車輪差の3着。
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優勝した京都の村上義弘選手は3月の日本選手権以来のグレードレース優勝。記念競輪はその直前の玉野記念以来で通算26勝目。岐阜記念は初優勝。ここは力は最上位と思われましたが,メンバー構成からは難しいところもあるのではないかとみていました。バックで捲っていったとき,一旦は宗景のブロックに失速しながら立て直してまた踏んでいったもので,結果的にいえばここでは強すぎたというところでしょうか。ファン投票1位ですし,次のオールスターでも人気を集めることになります。
Bが存在するためにはAが必要であるということを,僕はAの存在がBの存在に「先立つ」と理解します。ただしここでは,人間の精神のうちに現実的に存在する観念だけを考慮に入れれば十分なので,必ずしもAがBに対して本性の上で先立つというように考えなくても構いません。単に時間という意味において,Aの存在がBの存在に先立っていなければならないと把握しても結構です。そしてこのことが,たとえばAとBをある人間Xが共に認識するという場合に,Aの認識がなければBの認識はあり得ず,逆にAの認識はBの認識がなくても存在し得るということ含んでいることは明らかです。
したがって,この人間XがAとBの各々を認識するということを視野に入れるなら,明らかにBの認識はAの認識に限定されているといえます。そして限定と否定との関係から理解する限り,この意味においてAの認識はBの認識を否定しているといえます。一方で,この場合のAの認識というのは,第四部公理からして,何かほかのものの認識に限定される,すなわち否定されることになりますが,少なくともそれがBの認識によって限定ないしは否定されるということはないということになるでしょう。
よって,単純に命題として考えるならば,XはAでなければYであるという種類の命題は,明らかに付帯条件としてXの否定を含んでいるといえます。なのでこれは積極的ではあり得ない命題であるということになります。しかし,認識という観点,すなわちことばとしてではなく観念として考えてみた場合には,必ずしも単純にはそう結論することができない場合があるということになります。
ただし,ここでひとつ注意しておいてください。ここで僕がいっているのは,XはAではないという付帯条件があるとき,必ずしもAがXを限定あるいは否定するというわけではないということです。いい換えればこの種の命題が,積極的ではないということの根拠として,このことだけを主張するならばそれは不十分であるということです。つまり,XはAではないならばYであるという命題が,積極的でないとはいえないと結論しているのではありません。その根拠の方を問題としているのです。
⑥-4の第2図で,先手は▲1七桂という手を考えました。しかし△4四銀▲2五桂に△4五桂と跳ねられるのが気になって断念。その局面は▲4五同銀と取ってしまい,△同銀に▲5三桂と打つ手があるのですが,それほど芳しくないと判断したようです。36分の考慮で△4五桂を防ぐために▲4六歩と突きました。
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後手はこれは▲4七銀と引き,▲3六歩と突いてくる構想と判断。6分で△5四銀。今度は先述の手順がないので▲1七桂と跳ねました。後手はびっくりしたといっています。△1五歩▲2五桂△1六歩と端を取り込めますが,桂馬を交換して▲5三桂と打たれます。この手順は明らかに△5四銀と上がった手がマイナス。そこで桂馬を打たれる手を消すため,22分で△4二銀と上がっています。今度は端を突く手がありますので,先手も▲2五桂。
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この桂馬は後手が取ると▲同銀で先手好調です。しかし先手から▲3三桂成とするのも△同銀で後手の形が整います。よってこの桂馬が睨みあったまま,駒組に戻ることになりました。
無というのは有の否定であるにすぎません。いい換えれば,知性は無をそのような仕方でしか概念することができないといえます。これに反して有は,無を否定するものではありますが,無の否定そのものではありません。別にある知性のうちに無の観念がないのだとしても,その知性は有を概念することが可能だと考えられるからです。たぶんそれが実在的有ではないにも関わらず,スピノザが理性の有ということばを用いる背景のひとつには,理性の有というのは,ほかの有の概念がなくても知性が認識し得る思惟の様態であるという考え方をスピノザが有しているからなのでしょう。ただ,この点にはここでは深く触れる必要はありません。
このことから帰結するのは,知性は有の何たるかを知るならば,同時に無の何たるかを知ることができるということです。しかし有の概念なしに無を認識することは不可能だということです。つまり,有と無の相違を明らかにするのは有である,有だけであるといえるでしょう。
お気付きの方もいらっしゃると思いますが,このことはちょうど真理と虚偽の関係と同じです。第二部定理四二から明らかなように,知性に真理の何たるかと虚偽の何たるかを知らしめるのは真理なのです。これに対して虚偽は,真理の何たるかを明らかにしないのはもちろん,虚偽の何たるかも明らかにはしないのです。十全な観念と混乱した観念の関係は,真理と虚偽の関係であると同時に,有と無の関係でもあるのですから,真理と虚偽に妥当するのと同じ事柄が,有と無の間に生じてくるのは,当然といえば当然かもしれません。
したがって,無であるものが有であるものを限定する,そして限定と否定の関係から,これは無であるものが有であるものを否定するという意味になりますが,こうしたことを主張するのは,たとえばAの否定でしかないようなBが,当のAを否定すると主張していることになります。しかしこれはとくに説明するまでもなく不条理でしょう。なぜなら,BがAの否定でしかないのであれば,BがあるためにはAが必要だからです。ひとつ注意しておきますが,ここでBがあるといっているのは,何らかの知性によって認識されるという意味です。
流血はプロレスにおけるギミックである場合があると僕は考えています。ただ,何をギミックとみなすのかということについて,共通の見解があるとはいえません。僕がどの範囲までをギミックと判断するかを説明しておきます。
大まかに分けると,僕はギミックには二種類あると思っています。ひとつは弱みを強調するもの。流血はこちらに分類されます。ある種のテーピングとかサポーターなどがギミックの役割を果たす場合もあると僕は思っています。
アンドレ・ザ・ジャイアントは,試合中に両手をロープに絡ませ,身動きが取れない状態になることがありました。これはアンドレのプロレス的才能から発したものだと思いますが,やはりこの種のギミックのひとつであると僕は考えます。もちろんアンドレだけに特有のギミックであるわけではありません。
自分から攻撃を仕掛けて,相手が避けたために,たとえば急所を打ちつけて悶絶するというようなケースもあります。これは純然たるギミックとは意味合いが明らかに異なるのですが,僕はギミックのひとつとみなします。
もうひとつはこれとは逆に強さとか力を誇示するもの。今はあまり見られなくなりましたが,以前はキーロックをかけられた選手がそのままの状態でかけた相手を肩に担いで立ち上がるというようなことがありました。カール・ゴッチはこれを得意にしていたようですし,僕の知っている範囲ではボブ・バックランドはこうした動きを見せました。これはプロレスの勝負という点では無意味というか,場合によっては逆効果になりかねない行為ですが,ファンに対する力のアピールにはなり得ます。こうした事柄については僕はそれをギミックとみなしています。ロードウォリアーズが見せていたような,対戦相手を頭上にリフトアップするような動作もこれに該当します。
いずれにせよ,ギミックというのは,それを行う選手が単独でなし得るような行為ではなく,相手の協力が不可欠だといえそうです。したがって,ギミックが試合中に出現するときには,選手間の信頼関係が構築されているとみてよいのではないかと思っています。
スピノザの哲学における十全な観念と混乱した観念の関係が,単に前者が真理veritasであって後者は虚偽falsitasであるということに留まるものではないということは,これまでにも何度か指摘してきたことです。むしろ第二部定理四三備考でスピノザが明らかにしているように,これは有と無の関係を示します。一方,単に観念ideaといわれる場合,それは有であると理解されなければなりません。このことは第二部定理七系の意味と,第一部定理一五から明らかだといえます。ただここでは第二部定理一一系の具体的な意味のうち,第一の意味だけを念頭においていますから,本来は無である混乱した観念idea inadaequataが,あたかも有であるかのように仮定されているだけです。
このように考えれば,一般的な意味において観念が混乱した観念によって限定されるというのは,有であるものが無であるものによって限定されると主張していることになります。また,命題文だけでいうなら,十全な観念idea adaequataが混乱した観念によって限定されるような命題を作ることもできます。端的に,十全な観念は混乱した観念ではないという単純命題は,文法に着目するだけならば,明らかに混乱した観念が十全な観念を限定していると解釈できるからです。
もちろんこの単純命題というのは,XはYではないという命題そのものですから,否定的であり,積極的であるということはできません。そしてその根拠は,混乱した観念が十全な観念を限定しているということのうちにあるのではなく,すでにみたように,この命題が十全な観念の十全な観念たる所以を示すことに成功していないという点にあります。なので現在の観点からは問題は起こらないのですが,少なくとも命題文として,混乱した観念すなわち無が,有である十全な観念を限定しているということは間違いないのだといえます。
しかし,僕の考えでは,こうしたことを主張するのは不条理なのです。なぜならば,無というのは有の否定negatioであると考えるべきだからです。このことは有というのが,実在性realitasを伴った存在existentiaと理解されるということから明瞭です。つまり有というのは力potentiaであり,無というのは無力impotentiaのことです。無力というのは単に力の否定であって,それ以外の何ものでもあり得ないからです。