スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
第55期王位戦 挑戦者決定リーグ。白組は4勝1敗の木村一基八段が挑戦者決定戦に進出。紅組は広瀬章人八段 と千田翔太四段が4勝1敗で並び,プレーオフの一局が指されました。対戦成績は広瀬八段が1勝,千田四段が0勝。この一局はリーグ戦の1回戦のもの。
振駒 で広瀬八段の先手。千田四段は横歩取り に誘導しておいて飛車を下段まで引くという変則的な指し方。後手が歩損ながらも手得の相掛りのような戦いに。その手得の分で銀冠 を完成させましたが,有効に生かせたのかどうかは微妙なところだったと思います。途中からは先手が少しずつよかったように思いますが,終盤勝負に。
先手が4三の銀を歩で取って,後手は取り返した局面。▲2四飛と行きたいところと思うのですが▲4四歩と打ちました。対して△8六歩。控室の検討ではこれは詰めろではないので,▲4三歩成で先手が勝てるという結論。ですが▲5五桂と打って飛車筋を止めました。しかしすかさず△4四金と取られ,以下▲2二歩成△4二玉▲4三歩△5二玉▲4二銀に△4五桂と跳ね出されました。
この手が詰めろでは局面は後手の勝ち。途中の△8六歩が勝負手で,この手が勝因であったといえる一局ではないでしょうか。
千田四段が紅組優勝 。挑戦者決定戦は26日。
松田は作出原因 ということで,それ自身の本性がそれ自身の存在の原因であるという場合も含めます。この条件下で,因果性Aは規定されています。
これは重要なことなので何度でもいいます。それ自身がそれ自身の存在の起成原因causa efficiensということが,自己原因の本性であるとは僕は考えません。この把握の仕方は,スピノザの哲学の自己原因と原因 の関係と齟齬を来し得ると思うからです。それ自身の本性のうちにそれ自身の存在が含まれているということと,それ自身の本性がそれ自身のcausa efficiensであるということの間には,決定的な相違があるいうのが僕の見解です。自己原因の定義は前者でなければならず,後者であってはなりません。最も厳密にいうなら,後者は自己原因の特質すら示しておらず,偽の命題です。とはいえ,表現上はこのような語用に許容の余地がまったくないとも僕はいいません。
松田が作出原因から自己原因を認識しているのであると仮定したら,僕はそれには懐疑的であらざるを得ません。ただ一点,自己原因であれcausa efficiensであれ,それが因果性の由来になり得るということは認めます。したがって実体が自己原因であるということ,実在的にいえば神が自己原因であるということを規定する因果性Zが存在するということは問題ありません。
第一部定義三 と第一部定理一〇 には同一性 があるというのが僕の見解です。このことを規準に松田のいい方に倣うなら,実体が自身の作出原因であるということと,実体が属性の作出原因であるということにも同一性があります。つまりこのふたつの作出原因に関する命題は,理性的にだけ,あるいは表現上の方法として区別されているだけで,作出原因としての因果性に注目すれば,完全に同一です。したがって,因果性Aというのが規定し得るような因果性であるとするなら,それは因果性Zと同一です。神が自己原因であるということと,神がある属性の作出原因であるということは,同一の事柄を他面から表現したにすぎないからです。そしてこの限りで,因果性Aの存在を僕は認めます。
今年から2000mに距離が短縮された昨晩の第59回大井記念 。
逃げ馬というわけではありませんが主張するようにトーセンアドミラルがハナへ。その気になれば行けたであろうサミットストーンは2番手に控え,続いたのがキスミープリンス。前半の1000mは61秒9でミドルペース。
3コーナー過ぎから一時的にラップが上がり,キスミープリンスは押して押してついていく形に。それでも前に引き離されることはなく,4番手との差は開きました。直線に入るとサミットストーンが追われ,そのまま抜け出すと突き放す一方になり,5馬身差をつけて圧勝。必死に食い下がったキスミープリンスが寸前でトーセンアドミラルを差して2着。先行3頭直後のインからこれもしぶとく伸びてきたゴールドバシリスクに迫られたものの,この追撃はぎりぎりで凌いだトーセンアドミラルがクビ差で3着。
優勝したサミットストーン はJRAで4勝した後,昨年の6月から金沢に転入。当地の重賞4勝を含め,交流重賞の2戦以外は7戦全勝。今年から船橋に転入。僕が思っていたよりも苦戦して,4戦目となる前走のオープンでようやく初勝利。ただそれが9馬身差の圧勝で,こちらの水に慣れて力を十全に発揮できるようになったということなのでしょう。そうなればここの圧勝も必然。相手次第では重賞でも勝つだけの力がある馬で,南関東重賞はまだまだ勝てる筈です。JRA時代は東京で2勝していますが,右回りの方が走りやすいという可能性はあると思います。叔父に2008年の東京オータムジャンプを勝ったタイキレーザー 。
騎乗した船橋の石崎駿騎手 は2月のフジノウェーブ記念 以来の南関東重賞制覇。大井記念は初勝利。管理している船橋の矢野義幸調教師 も大井記念初勝利。
AとBが同一性 を有するならば,AがBの原因causaであるということ,またBがAの原因であるということは,本来的にはあり得ません。同一のものの間に因果性が生じるというのは,本来的な意味では不条理だからです。これは,平面上の三角形が内角の和が二直角の図形の原因ではあり得ないし,内角の和が二直角である図形が三角形の原因でもあり得ないということから明白です。したがって実体substantiaは属性attributumの原因ではあり得ないし,属性が実体の原因でもあり得ません。神Deusは延長の属性Extensionis attributumや思惟の属性Cogitationis attributumの原因ではないし,逆に思惟の属性や延長の属性が神の原因でもないのです。
こう理解した場合に,実体が属性の起成原因ないしは作出原因 causa efficiensであるという主張は,誤謬errorであるということになります。よって松田が規定した因果性Aというのは,存在し得ない因果性の規定であるということになるでしょう。ただし松田はこのような意味において因果性Aを規定しているのではありません。
実体が属性の起成原因あるいは作出原因ではないということは,原因と結果effectusが別であるという場合に妥当します。そしてこれが本来的な意味であると僕が解するのは,スピノザが第一部定理一七備考で述べている事柄に依拠しています。そこでは,「ある原因から生ぜられたものは,まさに原因から受けたものにおいてその原因と異なるのであり,〈このゆえにこそそれはそうした原因の結果と呼ばれるのである〉 」といわれています。これは第一部公理三 の弱い意味 と強い意味の中の弱い意味 を成立させる論拠と同一です。
ここでスピノザが原因といっているのが起成原因であることはいうまでもありません。つまり起成原因は,その内にであれその外にであれ,それ自身とは異なる結果を産出するような原因というのを一義的に意味するというのが僕の理解なのです。実体と属性,神と属性との間には,こうした関係は存在しません。
松田がcausa efficiensを起成原因ではなく作出原因といったことに意図があったのだとすれば,この条件を逃れるためであったと思います。
十勝川温泉で指された第25期女流王位戦 五番勝負第二局。
清水市代女流六段の先手で,甲斐智美女流王位が横歩取りに誘導。しかし先手が取れる横歩を取らなかったので相掛り に。先手が浮飛車で早繰り銀という攻撃型,後手は引飛車の腰掛銀でそれを迎撃するという戦型に。開戦後に長い中盤戦になりましたから,局面の善し悪しとは別に,迎撃側に利のある展開であったといえそうです。
ちょうど100手目ですが,まだ終盤とはいえないと思います。ただ先手はこのまま長引かせるとと金を作られてじり貧になりそうです。というわけで▲3三歩と打っていきました。△同桂▲同角成△同金までは一本道。▲2五桂と打っても取られることになりそうなので▲3四歩。△同金は当然で▲3五歩。これは銀で取ると▲5五角,金で取ると▲同角△同銀▲3四金で面倒なことになりかねないので△2四金 。先手は▲5五角△同銀▲同歩と,駒損ながら守りの銀を入手。しかし△3七歩成とされました。
ここで一旦は▲2五歩と打ち,△同金となりましたが,それ以上の継続手があるわけでなく,▲5六銀直と受けることに。そこで△3五金と取られ,一歩を丸損したような進展に。これでは先手がいけないと思われます。
第1図からこのような手順しかなかったとすれば,実際にはすでに大差がついていたということなのでしょう。以降も将棋は続きましたが,先手の好機が盤上に出現することはありませんでした。
甲斐女流王位が勝って1勝1敗 。第三局は21日です。
実体と属性 の区別が理性的区別にすぎないという僕の見解は,一般に事物とその事物の本性の区別は理性的区別であるという見解から生じます。いい換えれば,一般的に妥当である事柄を,ある具体例に適用しているということです。そしてこのことは,事物が形相的に存在するという場合よりも,事物が客観的に知性によって十全に認識されるという場合について考える方が,容易に理解できると思われます。
平面上に描かれる三角形の本性には,その内角の和が二直角であるということが含まれます。スピノザはこの実例を用いることによって第二部定理四九 を証明し,個々の観念と個々の意志作用 が同一のものであると結論しています。いうまでもなくそれは,平面上の三角形と,内角の和が二直角である図形の同一性を示します。実際,平面上の三角形を十全に認識することと,内角の和が二直角である図形を認識することは,表現上の相違があるだけで,同じ観念対象 ideatumを認識しているといえます。これらは一方がなければ他方が,他方がなければ一方が,あることも考えられることもできないという関係にあるので,確かに第二部定義二 の具体例のひとつであるといえます。
よってこれを一般化したならば,ある事物とその事物の本性は,表現上は相違があったとしても,実際には同一性を有するということになります。この表現上の相違について,僕は理性的区別といっていることになります。つまり事物とその本性の区別は理性的区別です。よって実体とその属性の区別は理性的区別です。つまり神と延長の属性の区別は理性的区別ですし,神と思惟の属性の区別も理性的区別であることになります。観念対象ideatumとしての神と属性を,僕は同一視するということです。
ですから第一部定理一〇 は,第一部定義三 から直接的に帰結します。というよりも,そもそも第一部定義三と第一部定理一〇というのは,理性的にしか区別できないという方が正しいくらいだと思います。いい換えればそれら各々の部分でいわれている内容というのは,同一性を有しているというべきだと思います。
6日の兵庫チャンピオンシップ を勝ったエキマエ の曾祖母のアラホウトク 。僕の競馬キャリア の初期に走っていた馬で,とても懐かしく感じました。
デビューは遅く,3歳の1月になってから。2戦目を勝ち上がると3戦目の条件特別も連勝。桜花賞トライアルの4歳牝馬特別で2着になりました。このレースを勝ったのはスカーレットリボン 。スカーレットインク の一族の初めての重賞制覇。1988年3月のことです。
権利を得たので桜花賞に出走。同じ厩舎の馬を2着に斥けて優勝。デビュー3ヶ月で大レース制覇を成し遂げました。続いてオークストライアルの4歳牝馬特別に。ここも桜花賞と同じワンツーで勝利。オークスは1番人気に支持されましたが7着。おそらく距離が長かったためであろうと思います。このレースは民放の競馬中継でアナウンサーが勝ち馬を間違えて実況したということでも有名なレース。
秋は牡馬相手の神戸新聞杯から復帰して5着。エリザベス女王杯のトライアルだったローズステークスは桜花賞,オークストライアルで降していたステーブルメイトの6着。大目標だったエリザベス女王杯も4着で,1年足らずの競走生活を終えました。このエリザベス女王杯を制したのがミスチャネル を祖にもつミヤマポピー です。
繁殖入りした後,一族はかなり分肢を広げたのですが,重賞には手が届きませんでした。25年以上が経過して,子孫から重賞の勝ち馬が出る。こういうシーンを目撃できるのは,競馬ファンの醍醐味のひとつといえるのではないでしょうか。
第一部定理一〇 は,属性がそれ自身によって概念されなければならないことを示しています。つまり属性は実体によって概念されるというわけではありません。
第一部公理四 は,もしふたつの事物の間に因果性があるならば,結果である事物は原因である事物によって概念されなければならないということを示しています。
これらのことから,実体は属性の原因ではないということ,逆にいえば属性は実体の結果ではないということが分かります。ここでスピノザがいっている原因が,起成原因であるということは当然です。したがって,起成原因ないしは作出原因 causa efficiensの意味を,単にこのことだけから理解する場合には,実体は属性のcausa efficiensではないということになります。つまり実体と属性との間には何らの因果関係はありません。なので松田が規定した因果性Aというのは,実際には存在しない因果性であるということになってしまうでしょう。
松田が起成原因といわずに作出原因といったことに何らかの意図があったとしたら,それはこの部分と大きな関連性を有するのだろうと僕は思っています。しかしその前に,では『エチカ』の公理系では,実体と属性との関係をどのように把握すればよいのかということを確認しておきましょう。
第一部定義四 は,属性が実体の本性を構成するといっています。そして第二部定義二 は,ある事物とその事物の本性の不可分離性を示しています。この不可分離性を,僕は同一性と解します。つまり実体とその属性は同一のものです。僕が物体的実体 を延長の属性と翻訳 したのはこのためです。同様に,思惟的実体と思惟の属性は同一のものです。さらに実体を実在的に解するなら,物体的実体も思惟的実体も神です。つまり延長の属性と神とを,僕は同一のものと解します。もちろん思惟の属性も同様です。それらは表現上の必要性から区別されているだけです。いい換えれば理性的にのみ区別されているというのが僕の理解です。
昨日の松阪記念の決勝 。並びは金子に望月-土屋の静岡,阿竹-友定の四国中国に大薗,園田-黒木の西日本で鈴木は単騎。
様子を窺い合っていましたが園田がスタートを取って前受け。3番手に金子で土屋の後ろに鈴木,7番手から阿竹で周回。阿竹は残り3周のバックから上昇を開始。ホームでは金子の少し前に出て牽制。前の園田があまり誘導との車間を開けなかったので,この隊列のまま打鐘。金子がインから掬う構えを見せたところで阿竹が発進。ホームで園田を叩いて先行。鈴木は大薗の後ろにスイッチしたものの,ホームではついて行かれず黒木の後ろに。7番手となった金子がそこから発進。バックでスピードに乗るとあっという間に阿竹を捕え,後ろも引き離して優勝。離れてはいたものの何とか食い下がった望月が1車身半差で2着。阿竹の番手から直線で発進した友定が4分の3車身差で3着。
優勝した愛知の金子貴志選手は昨年末の競輪グランプリ 以来の優勝。記念競輪は10月の青森記念 以来で通算6勝目。松阪記念は初優勝。このメンバーでは力量からは負けられないところ。脚力だけで勝てるとは限らないのが競輪ですが,終ってみれば貫録を見せつけた形。現在,レースを走ることができるメンバーの中では明らかに上位の力がありますから,年内は常に優勝候補としての参戦になるでしょう。
第一部定義一の意味 に由来する因果性は,神が自己原因であるということです。「二重因果性の問題 」では,この因果性はZの因果性と表記されています。以下はそれに倣うことにします。次に松田は実体が属性を産出するという因果性を取り上げ,これを因果性Aと表記します。こちらも以下はこれに倣います。ただしここには多くの注釈が必要とされます。実体が属性を産出するというのは,額面通りに受け止めるなら,誤ったことをいっているといい得るからです。ただ,僕がいいたいのは,松田が誤ったことを主張しているということではありません。おそらく松田はすべてを承知した上で,誤解を招きかねないような記述をしていると僕は考えています。それは論文の全体を把握した上での僕の見解です。
まず,松田は起成原因とはいわずに作出原因といういい方をしています。松田がそのようないい方をしたのには,ある意図があったからかもしれません。僕は松田がいう作出原因を起成原因と解してこの考察を進めています。そのことで重大な問題が発生することはないと考えているからです。なぜなら,スピノザの哲学における原因というのは,一義的に起成原因であるからです。したがって,もしも起成原因以外の何らかの原因について論ずるなら,それはスピノザの哲学とは,直接的には何の関連も有し得ないような議論になるのです。ですからここでは単に,『エチカ』でcausa efficiensと記されている語句について,僕は起成原因と訳し,松田は作出原因と訳しているというだけの差があるだけだと解します。
次に,松田は形而上学的に考察するという意図をもっています。ですから議論の中心も,神が自己原因であるということより,実体が自己原因であるという点が中心に据えられています。因果性Zは正しくはそのように規定されているのです。因果性Aが,実体による属性の産出に関わり,神による属性の産出といわれていないのも,おそらく同様の理由によると思われます。ただ,第一部定理一四 は,実在する実体が神だけであることを示しています。ですから僕はこちらの点については,神を中心に据えて考察を進めていきます。
東京競馬場での5週連続での大レースの初戦,第19回NHKマイルカップ 。田辺騎手が負傷したためカラダレジェンドは江田照男騎手に変更。
枠順からダンツキャンサーの逃げもあり得るかなとは思っていましたが,初速が違ったようでミッキーアイルが難なくハナへ。ホウライアキコとダンツキャンサーの2頭が追走。ベルルミエールとカラダレジェンド。以降は集団でショウナンアチーヴ,ひどく行きたがっていたサトノルパン,マイネルディアベル,ピークトラムなど。前半の800mは46秒6のミドルペース。
4コーナーを回るとホウライアキコがミッキーアイルを捕まえにいき,ショウナンアチーヴもこれに追随。ただミッキーアイルはしぶとく粘り,坂を上がると追っていた方が苦しくなりました。中団から後方に控えていた馬たちが馬場の中から大外を伸びてきて,2着の態勢が入れ替わったところでゴール。最後はラップを落としたものの12秒0でまとめたミッキーアイルがクビ差で逃げ切って優勝。馬場の中央の2着争いはタガノブルグ。その内のキングズオブザサンがハナ差で3着。
優勝したミッキーアイル は2戦目の未勝利戦をレコードタイムで勝つと暮れの特別,今年に入ってシンザン記念,アーリントンカップと1600m戦ばかりを4連勝。大レースは初挑戦での優勝。東京のこの距離は単純なスピード能力だけでは凌げないものですが,これまでのレース振りから,この馬ならば大丈夫だろうと考えていました。距離が伸びて対応が可能かどうかは分かりませんが,スピード能力は卓越したものがありますから,これからもかなりの活躍を期待してよいだろうと思います。父はディープインパクト 。曾祖母がステラマドリッド で祖母の半妹に2002年のJRA賞最優秀4歳以上牝馬のダイヤモンドビコー 。
騎乗した浜中俊騎手は昨年のJBCレディスクラシック 以来の大レース制覇。NHKマイルカップは初勝利。管理している音無秀孝調教師は昨年のジャパンダートダービー 以来の大レース制覇。NHKマイルカップは初勝利。
第一部定義一の意味 に公理的性格が含まれるならば,そこがスピノザの哲学の因果性の由来になります。僕はこの点に関しては松田の主張に同意します。同時にここには,自己原因と原因 は同一の意味 であるという,スピノザ哲学に固有の考え方の由来もあると考えます。
ただ,松田の論調は,まずスピノザ哲学で一義的に原因を意味する起成原因causa efficiensの概念を利用して,神の起成原因とは何かを探求する傾きが強すぎるような印象が僕にはあります。原因が自己原因causa suiのようなものであり,自己原因とはそれ自身を原因とするもののことではないのですから,この論調での考察は,誤解に陥る可能性を高くするように僕は思います。付論では松田は,自己原因とはそれ自身の起成原因であるとスピノザが定義しなかったことを,この定義が単なる語義の意味を示すものではないということの根拠のひとつに挙げています。しかし僕の考えでは,スピノザが自己原因をそのように定義しなかったのは当然です。もっといえば,自己原因の定義に起成原因という語を用いるとすれば,それはむしろ定義として誤りであると考えます。起成原因の定義に自己原因という語を用いる方が,スピノザ哲学の姿勢としては正しいだろうと思うのです。
もっとも,松田の方法論は,『エチカ』の十全な認識のためには,定理の配置を無視して,後の定理から先の定理等を理解する必要があるというものです。方法論としては僕はこれは正しいと思っています。実際に僕もそのような方法を採用します。ですからこの方法論的態度が,この論調を産出しているという見方は可能です。それでも最終的には認識は演繹的にまとめ上げられなければならないというのも僕の考え方です。第一部定義一 が『エチカ』の冒頭にあるということに,スピノザの配置の意図 があるという点は,松田も認めています。松田はそれを,哲学的態度の表明と解しています。確かに神が自己原因であるということ,つまり神にも起成原因を問うことが可能であるという意図もそこにはあったでしょう。しかし同時に,起成原因を自己原因から解するという意図も,そこには含まれていると考えるべきだと僕は理解します。
8日の第7期マイナビ女子オープン 五番勝負第四局。
里見香奈女王の先手で三間飛車。加藤桃子奨励会1級は居飛車穴熊に。ただ少し欲張った構想だったようで,穴熊が十分に堅くなる前に先手に機敏に仕掛けられ,はっきりと苦戦に陥りました。
銀取りを受けて桂馬を打った局面。ここで☗6五桂と跳ねたのが絶妙の一着。ただですが取ると角を成られていけないので,☖4二金と辛抱しました。ただこれには☗7三桂成☖同角と銀を入手して☗3一銀の割り打ち。そこで☖3三桂と飛車取りに打ちました。先手は☗1四香☖2一玉に☗4二銀成と追撃。☖同飛に☗5三金と攻めを継続しました。☖3二玉はこの一手といえそうです。
ここで☗6五飛と回る手があり,それなら先手が勝っていたようです。しかし☗4二金と取り,☖同玉に☗4七飛と逃げました。
これでも先手が優位を保っていたようですが,手番を渡したために後手からの反撃を許すことになり,混戦に。最後は後手玉が逃げ切る形になり,後手の逆転勝利となっています。
加藤奨励会1級が3勝1敗で新女王に。第2期女流王座 以来通算3期目のタイトル獲得で女王は初獲得。
『スピノザの形而上学 』には,本論を補完するみっつの付論があります。その最後のものは,自己原因causa suiに関係しています。
スピノザが『デカルトの哲学原理 Renati des Cartes principiorum philosophiae pars Ⅰ,et Ⅱ, more geometrico demonstratae 』の第一部公理十一として示したものは,デカルトが示したものとは異なっています。確かにデカルトは,存在の原因 を問われ得ないものは何もないといっています。しかしそこで同時に,このことは神Deusにも問われ得るけれども,神が存在するために何らかの原因を必要とするという意味ではないという注釈をして,一線 を超えないように配慮しているのです。スピノザはその部分を削除しました。これは意図的であったといえるでしょう。
ただ,デカルトは神の本性essentiaの無限性,デカルトが実際に記したことばでいえば広大無辺性が,神が存在existentiaの原因を必要としない根拠であると述べています。でもこれは,その広大無辺性が神の存在の原因であるといっているに等しいと理解できます。つまり神はその本性によって存在するといっているに等しいと理解できるわけです。この広大無辺性というのを,『エチカ』でいう絶対に無限 absolute infinitumと等置することはそう難しいことではありません。ですからスピノザがデカルトの哲学のうちに,神の自己原因性を発見したことは,当然であるし妥当であったと僕は考えます。そして松田は,このことがスピノザがデカルトから受けた最重要な思想的影響のひとつであったといっています。
つまり第一部定義一 は,単に自己原因の語義説明を意図したものではないというのが松田の理解です。むしろこれはスピノザによる哲学的立場の宣言なのです。あるいはこの定義Definitio自体が公理的性格を有しているといってもよいでしょう。この定義は,存在するとしか概念できないようなものの存在はそれ自身の本性のうちにあるのでなければならない,と読み換えることが可能だからです。第一部公理七 というのが,これを逆にした場合です。そうであるなら,確かに第一部定義一というのは,定義であると同時に公理的性格を有しているのだといえます。これを『エチカ』の冒頭に配したことに,何の意図もなかったと考えるのは無理があると思います。
6日の平塚記念の決勝 。並びは天田-永沢の東日本91期,松坂-桐山-林-加藤-望月の南関東,深谷-田中の西日本。
スタートを永沢が取って天田の前受け。深谷が3番手で5番手から松坂で周回。残り2周前から松坂がじわじわと上昇。ホームでは深谷を抑え込み,バックで天田の前に出て先行。天田は引けなくなり,南関東分断を試みましたが,桐山にも林にも競り負けて失敗。引いて後方から発進した深谷はバックで捲る勢いも桐山が番手発進で対抗。コーナーで桐山自らが深谷をブロックし,一瞬はピンチかと思いましたが立て直して捲りきり優勝。離れそうになりながら懸命に続いた田中が4分の3車身差の2着で西日本のワンツー。桐山マークの林が半車輪差で3着。
優勝した愛知の深谷知広選手は昨年2月の高松記念 以来となる記念競輪7勝目。平塚記念は初優勝。ずいぶんと優勝から遠ざかっていたものですが,力量が上であることは安定した成績からはっきりとしていました。地元勢の抵抗をかいくぐれるかどうかが最大のポイントでしたが,振られても捲りきった内容はとても強かったと思います。多数の有力選手が競走に参加できない状況になっていますので,これまで以上に頑張ってもらわなければなりません。
デカルトは自分の哲学と創世記との関連 については自覚的でした。そして慎重でした。スピノザは原因ということで,一義的に起成原因を意味させます。その理由はすぐ明らかにしますが,松田が理解するデカルトの公式見解を起成原因に当て嵌めるなら,神は起成原因を有しないというものです。つまりデカルトはどんな事物にも存在の原因 を問うことは可能であるといいつつ,起成原因なしに存在するものがあるといっていたことになります。
スピノザが看破したように,これは詭弁です。もっともデカルトが置かれていた状況を察してやれば,詭弁というのはいい過ぎかもしれません。方便とでもいっておくのが適当でしょうか。松田がいう公式見解というのは,あくまでも表向きのものであったと僕は思います。つまりそれはデカルトの本心ではなかったでしょう。
スピノザは哲学する自由 を死守するためであれば,ユダヤ教会から破門されること,つまりはユダヤ人共同体から追放されることも辞しませんでした。というよりも積極的に甘受しました。僕は仮説として,スピノザにとって自由の概念は,哲学する自由としてよりも,まず経済的自由 という概念として生じたのではないかといいました。それはスピノザと貿易 との関係,スピノザの実体験からです。スピノザが貿易に携わったのは,マラーノの商人の家庭に産まれ,育ったからです。僕の仮説が正しいのなら,スピノザはマラーノとして産まれたからこそ,そのマラーノの共同体から追放されることになったという一面があり,これは何とも皮肉なことだといえます。
こういった事情ですから,スピノザはデカルトが慎重になった地点で,同じような態度をとる必要性がありませんでした。あるいはそういう態度はスピノザにはとれなかったという方が正確でしょう。ですからデカルトが,おそらくは踏み越えたかったであろうけれども留まった一線を,スピノザはあっさりと踏み越えてしまいます。『エチカ』が自己原因を定義した第一部定義一 から開始されているのは,スピノザによるその宣言であるといえなくもありません。そしてこれは松田の見方でもあります。
1着馬と2着馬に東京ダービーの優先出走権が与えられる第28回東京湾カップ 。5日に藤江騎手 が骨盤の腸骨骨折という重傷を負ったため,リュウチャンは酒井忍騎手に変更。
積極的に先手を奪いにいく馬がなく,流れの中でサーモピレーの逃げに。2番手にノーキディング,3番手にパンパカパーティ。1コーナーではこの位置取りが形成されていましたが,それほどペースを落とさなかったこともあり,長めの隊列でのレースになりました。
サーモピレーは直線に入るところで後ろに大きな差をつけ,これはセーフティリード。さすがに最後は一杯になったために,追走していたノーキディングとの差は詰まりはしたものの,4馬身という差をつけて快勝。パンパカパーティは逆に直線では2着のノーキディングとの差が開いてしまいましたが,後続の追撃は凌いで4馬身差の3着。道中の位置取りそのままの上位の決着でした。
優勝したサーモピレー は北海道で4戦した後,昨年12月から南関東で走り始め,5戦目での転入後の初勝利となり南関東重賞初制覇。戦っていた相手はこのメンバーでは上位で,しかも崩れていませんでしたから,今日の勝利は順当なもの。レース振りからはスピードタイプという印象で,距離が長くなるのはあまりプラスにはならないように思えます。父はクロフネ 。曾祖母がアンティックヴァリュー で,祖母の半姉にベガ 。Thermopylaeはペルシア戦争でスパルタ軍が全滅したといわれるギリシア東部の山道。
騎乗した金沢の吉原寛人騎手 は先月の羽田盃 に続く南関東重賞制覇。第27回 に続き東京湾カップ連覇で2勝目。管理している船橋の川島正行調教師 は第14回,18回,20回,24回 と制しており,4年ぶりの東京湾カップ5勝目。
神の存在の原因 が何であるのかということを問う以前の問題として,神の存在の原因を問うこと自体が可能なのか否かということが,当時は広い意味での哲学的課題のひとつでした。広い意味でというのは,ここには純粋に哲学的意味があるというのではなく,神学的要素が介入していたからです。
旧約聖書の創世記は,神が天地の創造主であることを示しています。この創造にはふたつの意味があります。ひとつは無から天地という有を創造したという意味です。もうひとつは混沌とした天地を秩序だった天地に創造したという意味です。創世記というのは多角的に語られていて,どちらの意味もその中に発見することができると僕は判断しています。ただ,無から有を産出するにせよ,カオスをコスモスに均すにせよ,それを為す神が存在するということは無条件に前提されています。つまり神がどのように存在するようになったのかは,創世記には書かれていません。そしてそれは創世記に限ったことではなく,旧約聖書全体でも同様ですし,新約聖書を加えたとしても同様なのです。
こうした事情から,神の存在の原因に関する問いは,神学的見地からはタブーとされるべき問いでした。スピノザは,デカルト はそのタブーを踏み越えたと理解していたわけです。そして一部の保守的な神学者たちがデカルトの哲学を論難しようと躍起になった理由のひとつはこの点にあったというべきでしょうから,この点では,スピノザと保守派神学者の見解は一致していたということになります。
保守的神学者は,聖書に書かれていないような事柄を問われた場合には答えることが不可能でしたから,そうした問いを発する者を排斥するほか手立てがなかったわけで,デカルトに対してこうした態度をとったのは,保守派の面目躍如であったといえます。また,スピノザがハイデルベルク大学教授 の就任の要請を断った背景には,公的教育に関わる場合には,こうした宗教的タブーを侵さないようにする必要が生じるという点にあったといえます。スピノザにとっては,とりわけ保守的な宗教的タブーによって哲学する自由 が侵犯されるなどはもってのほかであったのです。
4日に香港のシャティン競馬場で行われたチャンピオンズマイルGⅠ 芝1600mに,一昨年の京都金杯と昨年の七夕賞を勝っているマイネルラクリマが出走しました。
発馬はまずまず。スピードの違いで先頭に出た勝ち馬のVaraiety Clubに内から1頭が競りかけ,この2頭で後ろをやや引き離すという展開。直後も2頭の並走で,その外側に位置したのがマイネルラクリマ。並んでの逃げということもあったでしょうが,あまりペースに緩みが生じませんでした。それでも3番手以降は直線の入口にかけて前との差を詰めていきました。マイネルラクリマはそこまでは対応できたのですが,そこからは後続の馬群に飲み込まれる形。直線の半ばまでは前とは離れていたもののそこそこの抵抗をしていましたが,それが精一杯。14頭中10着でした。
この馬は日本で大レースに出走しても上位人気にはならないであろうというクラスの馬。ここで対抗するのはいささか荷が重かったようです。勝ったVaraiety Clubは南アフリカ馬で,3月のゴドルフィンマイル の優勝馬。そのときはそれほど感じ入るものはなかったのですが,先行して抜け出し,4馬身もの差をつけるというこのレースの勝ち方は,かなりの強さを感じました。
ここまで,無限の一義性 の理解においては僕と相違があっても,数的に区別が可能な二種類の因果性 が存在することはなく,因果性は唯一 であると解されなければならないとする識者たちの見解を呈示してきました。今度は逆に,無限の一義性においてはその把握の仕方で同様の相違はなくても,因果性が唯一であるという結論は一致せず,スピノザの哲学には数的に区別されるべき二種類の因果性があると結論する識者の論考を検討することにします。すでに述べたように,「二重因果性の問題 」の結論として,松田克進は,因果性は唯一であるとするクレーファーの主張に対して,数的に区別可能な二種類の因果性があるというゲルーの解釈に軍配をあげています。なぜ松田がそのように判断するのかを詳しく検討します。
『デカルトの哲学原理 』の第一部でスピノザは,その存在の原因を追及できない事物は何もないという主旨の内容を公理十一として記述しています。これはスピノザによるデカルトの哲学の再構成ですから,スピノザはデカルトはそう考えていたと理解していたということです。存在の原因を追及できない事物は何もないというのは,どんな事物にも存在の原因を追及することが可能であるということです。こういい換えてもまだもってまわったようないい方が残っているといえなくもありません。原因を追求できるのは答えがあるからなので,どんな事物であっても,それが存在するには存在する原因というものがあるというのが真の意味です。この公理は存在というものだけがその対象にはなっているものの,第一部公理三 の強い意味 がもっている内容と,同じだけの重さをもった公理であると僕は理解します。したがって,存在するものに関しては,それがどんなものであったとしても,それが存在する原因というものがあり,原因がなければ存在することは不可能であるとデカルトは考えていたと,スピノザは理解していたと僕は解します。
この公理が重要なのは,どんなものといわれている以上,そこには実体も,そして当然ながら神も含まれなければならないからです。スピノザはデカルトにそこまでは見出していたということになるのです。
昨年はコパノリッキーが制した第15回兵庫チャンピオンシップ 。
先手を奪ったのはエスメラルディーナ。2番手がエキマエ。クロスオーバー,やや出負けしたものの巻き返してきたマキャヴィティ。それからランウェイワルツ。最初はやや離れていたものの,ペースが落ちたこともあり,1周目の正面では馬群がぎゅっと凝縮しました。
後方になったフジインザスカイが2周目向正面でスパート。ただランウェイワルツを交わして4番手まで上がったところで一杯。逃げるエスメラルディーナの外にエキマエ,これを追ってマキャヴィティ,さらに一旦は控える形から追い上げてきたランウェイワルツの4頭が重なるように直線。勢いでは明らかにランウェイワルツが優っていたように見えたのですが,並ばれたところからエキマエがしぶとさを発揮。差し返すような形で優勝。クビ差の2着にランウェイワルツ。逃げたエスメラルディーナが2馬身半差で3着。
優勝したエキマエ は前々走で条件戦を勝ち,前走のオープンも勝利。3連勝で重賞初制覇。前走は人気薄でしたが,2着馬も先週のオープンを勝っているように,レベルが低かったわけではありません。未対戦の馬もいて力の比較は難しいところもありましたが,勝利自体は順当といえるもの。ただ,着差から考えても断然の能力があるというわけではないでしょう。競って強いところがあるように思います。父はメイショウボーラー 。曾祖母が1988年の最優秀3歳牝馬のアラホウトク 。
騎乗した戸崎圭太騎手と管理している中川公成調教師は兵庫チャンピオンシップ初勝利。
垂直と水平 のそれぞれの因果性のうち,個物res singularisを垂直の因果性において把握するならば,それは間接無限様態であることになります。しかしres singularisを水平の因果性の方で把握する場合には,それは有限様態になるというのが『個と無限 』のうちに朝倉が見出す結論です。別のいい方をすれば,もしもある単独のres singularisを抽出し,それがほかのres singularisと相互に有する関係において認識されるとき,抽出されたres singularisは,有限様態として認識されます。これは第一部定理二八 から部分的抽出 を行うことによって認識されるres singularisです。しかしもしも,res singularisが相互に有する関係というのを捨象し,直接的に神とあるres singularisが有する関係においてそのres singularisを認識する場合には,それが無限様態として概念されるということになるのです。そしてこれは,第一部定理二八を,ひとつの全体を構成するres singularisとして認識する様式であるといえるでしょう。
したがって,垂直と水平というように,二種類に分類した因果性は,実際には同一の因果性にほかならないのです。佐藤は垂直の因果性と水平の因果性は,res singularisに関係することによって連続性を有しているのであり,そこに断絶はないという主旨のことを主張し,これを受けて朝倉は,この見解には反論するべきことは何もないといっています。朝倉の結論というのはさらに徹底していて,そもそも因果性を垂直と水平というように峻別してしまうこと自体が解釈上の困難を惹起しているのであって,両者はひとつのものとして,つまり唯一 のものとして考えられなければならないといっています。
これが朝倉の二重因果性の問題 に関する結論です。これが数的に区別可能な二種類の因果性 の否定であるということは歴然としています。つまりクレーファーのテーゼ のような主張を要せずとも,因果性は唯一でなければならないということになり,福居流の結論 とも一致するのです。
能力の差があまりに歴然としたメンバーでのレースとなった第26回かしわ記念 。内田博幸騎手が負傷したため,アドマイヤロイヤルは森泰斗騎手に変更。
コパノリッキーが逃げると予想していたのですが,ダッシュがあまりよくなかったようで,セイクリムズンが逃げることになりました。控えると思っていたゴールスキーが2番手で3番手にワンダーアキュート。レースの流れ上,コパノリッキーが4番手ではっきりと出負けしたアドマイヤロイヤルが5番手。前半の800mが50秒4という超スローペース。
4コーナーを回ったところで前の4頭が雁行に。伸びがよかったのは大外のコパノリッキーで,2馬身突き抜けて快勝。ゴールスキーが脱落しての2着争いは,逃げたセイクリムズンが一杯に粘り,ハナ差の3着にワンダーアキュート。
優勝したコパノリッキー はフェブラリーステークス から連勝で大レース2勝目。能力と距離適性から最有力と思っていただけに,2番人気だったのは意外。前走は最低人気でしたが,フロックでなかったことを改めて証明したといえるでしょう。スピード面に優れたタイプと思うので,帝王賞は距離延長が課題となり,秋の南部杯に出走するようなら最有力でしょう。父はゴールドアリュール 。祖母の従弟に2002年と2005年の大阪杯,2005年には毎日王冠も勝ったサンライズペガサス 。
騎乗した田辺裕信騎手は大レース2勝目。村山明調教師もかしわ記念は初勝利。
第二部定義七 から,個物 res singularisを有限なものと解さなければならないのは当然です。しかしそのres singularisには無限性があります。一般的な感覚からすれば,これは不条理であると思われるでしょう。端的にいってこれは,有限finitumであるものは無限infinitumであると主張しているのにほかならないからです。
詳細は後に譲りますが,僕はスピノザの哲学では,一読した限りでは不条理であると感じられるこの命題は,真の命題であると考えます。なぜそれが一般的には不条理であると思われるのかといえば,無限であるということと有限であるということは,正反対の事柄であると理解されているからです。命題という部分に的を絞り,語の意味だけに注視するなら,無限と有限は対義語であると理解されているからです。しかしスピノザの哲学では,無限と有限は対義語ではないし,僕のいう対義語的関係 すら構築しないというのが僕の考えです。したがって,res singularisには無限性と有限性のふたつの側面があるという,朝倉が佐藤から読み取った見解については,そのまま成立するものと解釈します。
第一部定理一六 から,垂直の因果性を根拠として,無限に多くのres singularisが生じなければなりません。そしてその無限に多くのres singularisは,どれもそれ自体を原因として存在することはできないので,水平の因果性によって生じなければならないことになります。つまり水平の因果性というのは,垂直の因果性によって必然的にnecessario成立しなければならないような因果性なのです。そして垂直の因果性が永遠の相species aeternitatisの因果性であることによって無限と関連し,水平の因果性が持続の相の因果性であることによって有限と関連するとこのことを捕え直せば,要するに有限性は無限性によって必然的に成立しなければならないようなものであるということになります。朝倉が佐藤の論考はスピノザの哲学における無限と有限の関係をスムーズに説明するというとき,その主要な内容はこの部分にあるといっていいと思います。そして僕もこの考え方には,基本的に同意できます。
イギリスから1頭が遠征してきた第149回天皇賞(春) 。シュタルケ騎手が負傷したためウインバリアシオンは武幸四郎騎手に変更。
是が非でも逃げたいという馬はいませんでしたが,先行して粘る競馬が身上のサトノノブレスの先導は予想されていた通り。最初はサイレントメロディが続いていましたが,1周目の正面でラストインパクトが動いたのを機に隊列に変動が生じ,アスカクリチャンが2番手,ヒットザターゲットが3番手となり,少し開いてラストインパクト。さらに開いてサイレントメロディ,アドマイヤフライト,レッドカドー,フェノーメノとなりました。最初の1000mは61秒7のスローペースですが,わりと一貫したラップでした。
ウインバリアシオン,キズナ,出遅れたゴールドシップは後方待機。最初に動いたのはウインバリアシオンで,これが直線で先頭に立とうかというところ,インで控えていたフェノーメノが捌いてその内から伸び,こちらがウインバリアシオンを振り切って優勝。ウインバリアシオンはクビ差で2着。フェノーメノの後ろのインで控えていたホッコーブレーヴが,後を追うように末脚を発揮,ウインバリアシオンの外からきわどく迫ってハナ差の3着。
優勝したフェノーメノ は昨年の天皇賞(春) を勝っていて連覇で大レース2勝目。昨秋はレースを使えず,3月の日経賞で復帰。久々が影響して5着に敗れていたものの,体調が上向けば巻き返せる力がある馬で,人気は落としていましたが順当といってもよい勝利だと思います。高速馬場にも対応できますし,長距離の適性も高そうです。父はステイゴールド 。Fenomenoはポルトガル語で現象。
騎乗した蛯名正義騎手は先々週の皐月賞 に続いての大レース制覇。第125回,第147回を制していて天皇賞(春)は連覇で3勝目。第114回も勝っていて天皇賞は4勝目。管理している戸田博文調教師は昨年の天皇賞(春)以来の大レース制覇。天皇賞(春)連覇で天皇賞2勝目。
個物res singularisは,それが有限であるということを理由としては,無限様態と切断されません。このことが有する意味と,垂直と水平 という因果性の峻別は,大いに関係しています。つまり垂直の因果性というのは事物,res singularisも含めた事物の無限性の根拠になります。そして水平の因果性は,res singularisの有限性の根拠になるのです。いい換えれば,無限様態というのはres singularisの無限性の根拠であり,有限様態というのはres singularisの有限性の根拠なのです。このことから分かるように,無限様態をres singularisであると措定することにより,res singularis自体に無限性と有限性のふたつの側面があるということが帰結してくるのです。
これは朝倉が『個と無限 』から読み取った解釈で,実際に佐藤の考え方を正確に反映しているのかどうかは僕には分からないです。ただ,朝倉が解釈したこの事柄,すなわちres singularisには無限性の側面と有限性の側面のふたつがあるという主張については,僕も同意します。第二部定義七 からして,res singularisは有限であるのですが,同時にその有限性は無限性を含んでいる,というか僕の考え方からより正確にいうなら,その有限性は無限性に含まれているのです。ただ,朝倉が解釈した佐藤の考察が,無限様態をres singularisと規定することによって帰結するのに対して,僕は逆に,res singularisを無限に類するものと規定することによって,同一の結論を導出するという点で,相違があります。僕の導出方法およびその根拠については,今回の考察の最後の部分で説明します。
朝倉が佐藤のこの主張を評価する理由は,一般に無限であるものと有限であるものとの関係を,とてもスムーズに説明することができるという点にあります。そして説明がスムーズであるという点に関しては,やはり僕も同意します。というのも,スピノザの哲学における無限と有限は,一般論とは異なった意味合いがあると僕には思えるからです。
ユトレヒトへの招待の理由 についてエントリーしたおりに書いたように,スピノザには大学教授就任の要請がありました。『ある哲学者の人生 』によると,これは1673年2月のこと。当時のドイツ連邦のひとつであったプファルツの選帝侯からの要請であったそうです。『神学・政治論』はすでに出版された後で,実名は伏せられていたとはいえ著者がスピノザであったことは公然の事実でした。もっとも,ナドラーは選帝侯自身はその内容をよく知らなかったと推測しています。要請の手紙は代理人であるファブリティウスによって書かれたのですが,ファブリティウスは『神学・政治論』を読んでいて,その内容にはむしろ反感を抱いていました。選帝侯にスピノザを推薦したのはフランス人のシュブローという人物。当時のハイデルベルク大学は1660年以降,哲学正教授が不在。それ以前に務めていたフレインスハイムという教授がデカルト学派であり,選帝侯はそれに似た考え方の哲学者を探していて,スピノザを推薦されました。
3月になってスピノザは断りの手紙を書きました。決断に時間が掛かった理由についてスピノザは,自分が公的教育に関わることを想像したことがなかったからだと書いています。ただその間,自身がその職に就けるのかどうか,真剣に検討し,ファブリティウスの弟の著作などもわざわざ入手しています。
要請を断った最大の理由は,キリスト教を壊乱しているように見えることを回避するために,哲学する自由 の制限が必要になるとスピノザが判断したため。公的教育に携わらなければ,その自由,スピノザはこの手紙の中では平和ということばを用いていますが,それをある程度は保持できると確信していたからでした。
このスピノザの判断は賢明なものであったと僕は思っています。教授職という名誉とか,それに伴う収入もスピノザには魅力的であった筈です。しかしスピノザにとってそんなことよりも哲学する自由を確保することは,比較にならないくらい重要であったと思われるからです。ハイデルベルク大学は,哲学正教授を得るのに,まだ時間を必要とすることになりました。
朝倉と福居は互いが互いに対して何も言及していません。ですから双方がもう一方の考え方をどのように捕えているのか,あるいは肯定的であるのか否定的であるのかということは,僕にははっきりとは分かりません。一方,佐藤に関しては両者が言及していて,必ずしも全面的に肯定しているわけではないということは,僕にも分かります。ただ,僕からすれば,無限の一義性 の把握の仕方に関して,この三者は共通です。この三者は実体および属性の無限性によって無限を規定し,無限様態の無限性についてはそこから除去しています。そしてこの部分が僕の見解と異なる部分です。ですから朝倉が最終的に,ふたつの個物 res particularisとres singularisを異なった概念と把握し,もしもその把握の仕方に佐藤が異を唱えるのだとしても,それは僕と佐藤および朝倉との間で,ある亀裂が発生してから以後のことになります。よって朝倉の今回の僕の考察主題との関連 について分析するときに,間接無限様態がres singularisそのものであるということを前提していて,この条件が最終的な朝倉の結論とは異なっているのだとしても,何も問題とはなりません。なので出発点として,間接無限様態はres singularisそのもの,res singularisに類するものではなくてres singularisそのものであるということを措定します。
朝倉の主張では,この見解自体がまず,res singularisには有限であるという側面と,無限であるという側面の両方があるということへの注目から生じています。つまり佐藤の考え方の中心は,res singularisが有限であるという理由によって,無限様態と切断されるわけではない,あるいは切り離されるべきではないという点にあることになります。
僕は『個と無限 』を未入手なので,この朝倉の主張の正当性は不明です。ただ佐藤の論点の中心が,たとえば実体と様態との間にあるのではなく,様態にとっての二種類の因果性 ,具体的には垂直と水平 の因果性にあるのだとすれば,朝倉のように佐藤の議論を理解することは,おそらく正しいのではないかと思えます。
4月30日に指された第85期棋聖戦 挑戦者決定戦。対戦成績は森内俊之竜王・名人が0勝,村山慈明七段が1勝。
振駒 で村山七段の先手。森内竜王・名人のノーマル向飛車。先手は穴熊を目指しましたが,後手が早々に2筋の歩を交換し,先手が積極的に咎めにいったので,早くに中盤の戦いが開始されることになりました。
これはもう終盤戦。後手が銀取りに角を打った局面で,まだ難しそうには思えます。ここで先手は▲1八角。この手は実戦の△2七桂で働きが乏しくなるので,桂馬を使わせるという意図。
▲4六香 は銀取りを受ける手。第1図で▲6五金と打つと△6三桂で困るというのが先手の読み。読み筋はここで△4三桂ともう1枚使わせ,後手の持ち駒から桂馬をなくして▲6五金であったと思われます。しかし後手は△6一飛と指しました。この手が先手の読み抜けで,どうやらこれが勝敗の帰趨を決したよう。相変らず▲6五金とは打てないので▲6五桂と打ち,△8四銀に▲4二香成と修正しましたが,△5五角成と好位置に馬を作られ,先手の攻めが遅くなりました。
ここからもう少し受けに回った後手が反撃に転じ,勝利しています。
森内竜王・名人が挑戦者に 。棋聖戦は第75期以来10年ぶり2度目の挑戦で,初戴冠を目指します。第一局は来月2日。
朝倉の考え方は,ふたつの個物 res particularisとres singularisは異なった概念で,res singularisが第二部定義七 の有限な事物だけを意味するのに対して,res particularisにはres singularisと間接無限様態が含まれるということになっています。しかし今回の僕の考察主題との関連 について朝倉が探求するとき,このことは前提となってはいません。むしろ僕が理解するところでは,間接無限様態はres singularisに類するもの,もっといえばres singularisそのものであるということが前提になっています。朝倉がres singularisとres particularisの相違について結論するのは,むしろその後,二重因果性の問題 が解消されてからなのです。
それではなぜ朝倉は間接無限様態をres singularisそのものと前提することが可能になったのかということを疑問に思われる方がいらっしゃるかと思います。それは佐藤一郎の『個と無限』という著書のうちにあります。僕はこの本を入手できていないのではっきりとしたことはいえないのですが,朝倉によればこの本の中に,間接無限様態がres singularisでなければならないということ,そしてこの解釈が従来のどの解釈とも異なるということが書かれているようです。したがって,無限様態をres singularisに類するものと解釈するフロンティアは,この佐藤一郎であったと思われます。福居純が『スピノザ「共通概念」試論 』において直接無限様態をres singularisに類するものであるという際にも,この『個と無限』に関する言及があります。
朝倉も福居も,佐藤の考え方を全面的に受け入れているというわけではなく,どちらかといえば佐藤の考察は不徹底であるというニュアンスが込められているように僕には感じられます。ただ僕は現時点では佐藤の論考を詳細に分析できませんので,その点について何かをいうことはできません。ただ,朝倉の論じ方からして,佐藤の関心の中心は二種類の因果性 にあったようです。