スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
12日から宇都宮競輪場で開催された第65回高松宮記念杯競輪の決勝。並びは菊地に大塚,浅井-吉村の中部,脇本-稲川-東口の近畿,岩津-柏野の岡山。
極度に様子を見合う発走。バックに入ってようやく東口が誘導を追い始め,後ろに入ったのですが,外から浅井が被せるように前での近畿の連結を嫌うと,東口は下げ,浅井の前受けに。岩津が3番手,菊地が5番手,脇本が7番手の周回に落ち着きました。残り2周のホームを過ぎてから脇本が上昇すると,機先を制するように菊地も動き,バックでは引いた浅井を叩いて前に。外を上がっていた脇本は打鐘から踏み込み,菊地は番手戦。ホームに入るところで外の稲川が気迫で守り,菊地は3番手。以下,大塚,東口となり,バックに入るところでは5番手と6番手の岩津に決定的な差が開き,岡山勢と中部勢は優勝圏外。稲川は直線に入ろうかというところで早くも踏み込み,菊地は脇本と稲川の中割りを狙いましたが相互接触で落車。稲川が優勝。外に回った大塚が4分の3車輪差で2着。1車身半差の3着には岩津が届きました。
優勝した大阪の稲川翔選手はこれがグレードレースの初勝利。それをGⅠで達成するというのは珍しいケースといえるでしょう。ただ,昨年後半あたりからはめきめきと力をつけ,ビッグの決勝も常連のような存在となっていましたから,勝っておかしくない力があるということは分かっていました。今日は脇本の先行がほぼ約束されたようなメンバー構成。当然ながら狙われやすい位置で,実際にそうなりましたが,わりと簡単にその位置を守れた時点で,優位に立ちました。岩津がなぜあんなに前と離れてしまったかよく分かりませんが,捲ってくる選手も不在になったのは幸いでした。ビッグはもちろん,記念競輪でも優勝を重ねていく選手になる筈だと思います。
ここからは,僕がどのような論理構成で,因果性が「唯一」であると結論するかを,詳しく説明していきます。
最初に概略だけ述べておきます。福居流の結論も朝倉の結論も,因果性が「唯一」であるという点では僕と一致します。ただ無限の一義性の把握の仕方において,相違があるだけです。おそらく『個と無限』が参考になったものと思われますが,両者は神とその属性が無限であるということから無限性を把握します。いい換えればそれは,無限様態は無限ではないと理解することに繋がります。つまり無限様態を個物res singularisに類するものと規定することによって,因果性の唯一性を導出します。これに対して僕は,無限様態も神や属性と同じ意味において無限であると理解します。そこでres singularisの方を,無限に類するものと把握するのです。
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この概略から分かるように,実際の相違は無限様態の位置付けに存します。なので僕がここから説明することの中心は,なぜres singularisを無限に類するものと考えることが可能であるのかということになります。それが可能になるならば,朝倉がいうように垂直と水平に因果性を分類すること自体が意味を喪失します。つまり因果性は「唯一」でなければならないということが,そこから自然に帰結してしまうからです。出発の地点は異なっても,平行した道筋で同じ終着点に到達するので,その道筋の方については,それほど詳しい説明を付与することはありません。
次に,永遠の相と持続の相に関連するテクストのうちには,無限性に関する言及がすでに含まれているものがあります。第一部定理二一はその代表的なものですし,第二部定理四五などもそうです。そこで永遠性と持続性に関して述べた事柄は,無限性と有限性にも妥当しなければなりません。この点に関しては,ここからの考察でもまったく触れないということにはなりませんが,詳細には説明しません。同じことを繰り返す必要はないからです。ただし,持続性が永遠性の特殊な形態であるということは,これからの説明の中心と関係することになります。
馬場と木村はタッグを結成してすぐに仲間割れしました。ラッシャー・木村の立場からすればそれは自然で,国際血盟軍を結成して馬場と対峙する方が,自身のプライドも守ることができたものと思います。でもこの仲間割れは,馬場にとっても渡りに舟のような出来事だったと僕は思っています。ある意味では,双方の思惑が一致した上で,仲間割れが生じたと解釈するのが妥当だと思います。
この当時の馬場はPWF王者ではありました。超獣はこの直後に新日本に移籍してしまうこともあり,実質的にライバルであったのは不沈艦。ただ,全体の状況として,ジャパンプロレスとの対抗戦時代に突入することが目に見えていて,リング上の主力はそちらに移行することが分かっていました。つまり主役を務めるにはそこに参戦する必要がありましたが,たぶん馬場にはその気はなかったものと思われます。また,PWFの方も,ハンセンを相手にいつまでも防衛を続けるほどの力がすでに自分にはないということも,40代半ばを超えた馬場自身が心得ていたのではないかと思います。つまり全日本プロレス所属の選手としては,主役は鶴田や天龍に本格的に移行させる必要があり,しかし同時に馬場自身も何らかの形でリング上での仕事を続ける必要はあり,客観的にいえば非常に難しい状況に置かれていたといえると思います。そういう状況に立たされた馬場にとって,木村というのは,まことに適したライバルになり得る存在でした。戦いが全日本の中心軸を形成することはなくても,自分のリング上での役回りはきちんとこなせる相手,そういう相手が,このときの馬場にとって木村であったように思います。
想像ですが,馬場は自身のパートナーとして木村を用意したとき,すでに仲間割れしてライバルとして戦っていくことまで視野に入れていたのではないかと思います。そしてそれが実現することにより,馬場は自身の立場を失うことなく,スムーズに鶴田と天龍の時代へと全日本プロレスを移行させました。この移行に際して,木村の役回りは,小さなものではなかったと僕は思っています。
これら多くのテクストが示しているのは,永遠の相と持続の相は,数的に区別し得ない相であるということだと僕は結論します。確かに相としていうならば,持続の相というのは現実的に存在します。しかしそれは,語句としていうなら永遠の相と対義語的関係を構築するような相として実在するのではありません。むしろ永遠の相というのがなければあることも考えることもできないような相として実在します。解釈としては不適切であるかもしれませんが,持続の相というのは,永遠の相の特殊な形態であると理解する方が,まだ正確にスピノザがいわんとするところを捕えているように僕には思えます。ただこのことは,僕が有限であるということと無限であるということの関係をどのように考えるのかということと,同じ仕方で説明されます。これに関しては後で説明しますので,ここでは重複を避ける意味で,結論だけを示しておくことにします。
永遠の相と持続の相が数的に区別不可能であるなら,当然のことながら因果性をこれらの相において数的に区別するということはできません。したがって松田がいうような意味において,また,ゲルーがいうような意味において,二種類の因果性が存在するということを,僕は全面的に否定します。そして前述の結論で述べたように,持続の相とは永遠の相の特殊な形態であるのですから,各々の因果性は同一であるということになります。さらにこのような仕方においてのみ因果性を数的に区別する解釈が可能であると仮定する限り,因果性は数的に区別することがいかなる意味においても不可能であるということも帰結します。つまり因果性は「唯一」であると解すべきだと僕は考えます。
もう一点,僕が松田の論述に不満なのは,仮に因果性が二種類に区別可能であるとして,そのことが第一部公理三とか第一部定理一四系一となぜ齟齬を来さないのかの説明がないことです。永遠の相の因果性も持続の相の因果性も,必然性を含むということはさすがに松田も前提しているだろうと思います。しかしそれらふたつの数的に区別される必然性が,同じ意味で必然であるといわれる根拠は,そのことのうちには不在だと僕は思います。これに関する説明がほしかったというのが,僕の感想です。
『スピノザと表現の問題』が,ドゥルーズの徒弟時代のスピノザの哲学の研究の集成であるとするなら,後にドゥルーズ自身がひとりの哲学者として認められるに至った後,自身の哲学的立場からスピノザの哲学を研究した集成が,『スピノザ 実践の哲学』です。『スピノザと表現の問題』が発表されたのが1968年。『スピノザ 実践の哲学』の方は1981年ですから,その間には13年の歳月が流れていたことになります。
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6章に分けられています。ただし第一章はスピノザの生涯に関する概説。『スピノザ入門』では,スピノザがラビになるべく教育されたというのは事実ではないと示されていますが,ドゥルーズがこれを書いた当時は,まだそれが正しいとされていたようで,そう説明されています。ただこうした誤りは大した問題ではありません。それから第四章は『エチカ』の主要概念集となっています。「観念は表象する」という,かつて僕が用いた語句は,この部分で使われています。
これらのふたつはドゥルーズの哲学思想の表明とはいい難く,実質的にこの本の主要部は残るよっつの章から成り立っているといえるでしょう。第二章はモラルとエチカの相違について,そして第三章は悪についてで,この第三章が僕にとっては最も示唆に富む内容でした。第五章は『知性改善論』が未完成となった理由についての論述で,ドゥルーズのいうところは分かりますし,全面的に間違っているとはいえないと思いますが,ただこの理由だけで,その未完成を十分に説明できるとは僕は考えないです。
第六章は「スピノザと私たち」という題名。この本が実践の哲学と名付けられたのには,この章が大いに関係しています。実践ということはスピノザ自身にとって,思想そのものよりも重要であったかもしれません。そのことが現代の人間にとってどのような意味を有するのかということが,主要なテーマです。
原著は旧版と新版があり,新版化される際に印刷上の誤植と遺漏があるとのこと。日本語版は修正されていますが,新版のフランス語版はもとより,英語版やドイツ語版はそれがなされていないとのことなので,手にする場合にはお気を付けください。
第五部定理二九備考の前提になっているのは,第五部定理二三備考だけではありません。現実的に存在する有限知性が事物を持続の相の下に認識するのは,その有限知性が持続の相に存在するからです。一方,事物を永遠の相の下に認識する場合には,その知性自体が永遠の相の下に存在するからだと僕は考えます。いい換えれば,現実的に存在する有限知性が事物を永遠の相の下に認識する思惟作用は,その有限知性が持続の相の下に説明される限りにおいて成立するのではなく,永遠の相の下に説明される限りにおいてであると僕は考えます。
知性とは観念の総体のことであり,観念は第二部公理三にあるように思惟の様態の第一のものです。なので現実的に存在する有限知性が,持続の相の下に存在するばかりでなく,永遠の相の下にも存在しているということは,第二部定理八系から明らかです。そしてこの限りにおいてその知性が事物を永遠の相の下に認識することが可能であるということは,第一部定義八説明の永遠性と持続性の峻別の仕方から,そうでなければならないように僕には思えるのです。
現実的に存在する人間の精神にだけ目を向ければ,それが永遠の相の下にも存在しているということは,第五部定理二二で表明されています。
「しかし神の中にはこのまたはかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する」。
これは,一般に事物の本性が永遠の真理でなければならないということに注意するなら,第一部定理二五から帰結させられます。人間の身体の本性の原因は神の本性なので,第一部公理四により,人間の身体の本性の観念のうちには,永遠性を表現する神の本性の観念が含まれているからです。また,僕のように無限性を把握するなら,現実的に存在する人間の精神の本性を構成する観念対象ideatumがその人間の身体であるという第二部定理一三に注意する限り,人間の精神が神の無限知性の一部であるということを示している第二部定理一一系からも証明できています。とりわけこの系は,現実的に存在するあらゆる知性に妥当するので,人間の精神に限らず,あらゆる精神についての証明にもなっています。
傑出した馬が不在と思えるメンバーでの対戦になった第18回北海道スプリントカップ。ズンダモチが出走取消になり14頭。
先手を奪ったのはグランヴァン。サイモンロードが2番手で3番手はアウヤンテプイ。好位は内からセイクリムズン,リバーキンタロー,アドマイヤサガスの3頭。セレスハント,アルゴリズムと続きました。前半の600mは33秒8で超ハイペースといえるでしょう。
グランヴァンは4コーナーで一杯。サイモンロード,アウヤンテプイが前に出て,セレスハントが外からこれを追う形。後方3番手から捲るように進出したスノードラゴンが大外からこれらを捕え,一旦は前に出たものの,そこで脚が鈍り,その内から伸びたアドマイヤサガスが差し返すような形で優勝。スノードラゴンが1馬身差で2着。セレスハントがクビ差で3着。
優勝したアドマイヤサガスは重賞初勝利。オープンでは2勝していましたが,今年に入ってからいまひとつの成績。ここは3月以来のレースで,休養中に立て直しに成功したということだと思います。それなら今後も好走は続けられると思いますが,連戦連勝できるだけの力があるようには思えず,今日くらいのメンバーで,勝ったり負けたりということになるのではないでしょうか。父はフジキセキ。Sagaceは1984年の凱旋門賞など,GⅠを3勝したフランスの名馬。
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騎乗した川田将雅騎手,管理している橋田満調教師は北海道スプリントカップ初勝利。
第五部定理二九備考のテクストの前提には第五部定理二三備考のテクストがあります。すると永遠の相と持続の相を数的に区別するということは,本質的に不適切であると僕は考えます。
「二重因果性の問題」で記号化されている因果性Zは,実在的にいえば,神が神自身を生起するcausa efficiens,作出原因と起成原因を区分化した場合の作出原因です。これが永遠の相の因果性であるということは松田自身が認めています。
第一部定理一五は,何ものも神なしに概念することができないことを示しています。つまり個物res singularisも,神なしには概念することができません。したがってres singularisの観念は,永遠の相の下に把握されなければならないことになります。なおかつ,res singularisを持続の相の下に認識するのは,持続の相の下にある思惟の様態だけです。つまり神がres singularisを認識するという点に目を向ければ,神が持続の相の下にあるということは不可能ですから,永遠の相の下に認識するということになります。
第二部定理一一系は,人間の精神にのみ言及されていますが,あらゆる思惟のres singularisに妥当します。いい換えれば,思惟のres singularisはどれも神の無限知性の一部です。よってどんな思惟のres singularisが認識作用を行うとしても,それは神と関連付けられます。そしてそれが神と関連付けられたならば,永遠の相の下に認識されているといわれなければなりません。
第二部定理七系の意味は,神のうちにある観念はすべて真理であるということを意味します。永遠性は真理とのみ関係し,虚偽は持続性のうちにのみ発生します。同時に,真理はすべて永遠なるものです。これを否定するなら真理が虚偽になるということを肯定しなければなりませんが,それは不条理です。とりわけスピノザの哲学では,真理と虚偽の関係は,有と無の関係を構成します。つまり真理が虚偽になるとは,有が無になるという主張と同じ意味なので,さらに不条理性が強まることになるでしょう。
3歳ダート女王決定戦,第50回関東オークス。
先手を奪ったのはエスメラルディーナ。1周目の向正面で先頭に立つとペースを落とし,短い隊列でのレース。押したイエスアイキャン,内にトーコーニーケ,ローブデソワ,好発だったクロスオーバー,クライリング,アムールブリエと続きました。
2周目の向正面に入るところでローブデソワとディルガが動き,エスメラルディーナ,イエスアイキャンと4頭が雁行に。しかしエスメラルディーナは先頭を譲らず,むしろついていった馬たちが苦しくなり,直線の入口ではまたエスメラルディーナが単独で先頭へ。そこからはワンサイドで後ろを離していき,7馬身差をつけての逃げ切りで圧勝。終始インを離さなかったので,一旦は位置取りを下げた兵庫のトーコーニーケが2着。レースが動いたところではじっとしていたアムールブリエが,直線は大外から脚を伸ばして2馬身半差の3着。
優勝したエスメラルディーナは重賞初勝利。とはいえ芝でオープンを勝ち重賞3着,ダートでも重賞3着があり,ここでは実績上位。こんなに差をつけることができるとは思っていませんでしたが,勝利自体は順当といえるものでしょう。差がついたのはペースと能力,さらに馬場状態によるものであり,本質的にはもう少し短い距離に適性があるのではないかと推測します。この勝ち方ですから今後も楽しみです。Esmeraldinaは人名です。
騎乗したオーストラリアのクレイグ・ウィリアムズ騎手,管理している斎藤誠調教師は関東オークス初勝利。斎藤調教師はオークスと関東オークスの同年制覇となりました。
もしもある個物res singularisを,永遠の相と持続の相の両方の相で認識する知性があるとしたら,それは現実的に存在している知性である。いい換えれば持続の相の下に実在している知性だけである。このことが第五部定理二九備考の前提にはあると僕は考えています。こういう前提があるということは,『エチカ』の別の箇所のテクストによって論証できます。ここでは第五部定理二三備考のテクストを用いることにします。
「我々の精神は,身体の現実的存在を含む限りにおいてのみ持続すると言われうるし,またその限りにおいてのみ我々の精神の存在は一定の時間によって規定されうるのである。そしてその限りにおいてのみ我々の精神は物の存在を時間によって決定する能力,物を持続のもとに把握する能力を有するのである」。
第五部定理二九備考もそうなのですが,『エチカ』のこの近辺のテクストは,人間の精神の永遠性を証明するという観点から書かれています。ただ僕の現在の論考においては,これは主要な観点を構成しません。よって少し別の説明が必要でしょう。
このテクストの前半部分は,第二部定理一三から明白です。人間の精神とその人間の身体は同一個体です。よって身体が持続する限り,その精神も持続しますが,身体が持続していない場合は,精神も持続し得ないからです。念のためにいっておけば,ここには平行論における秩序の一致が示されているのであり,何らかの因果関係が含まれているのではありません。
重要なのは後半部分です。ここでは明らかに,人間の精神はその精神が持続するといわれ得る間だけ,res singularisを現実的に存在すると認識する力を有するということが示されています。逆にいうなら,もしも人間の精神が持続していないなら,この精神がres singularisを,あるいはres singularisに限らずすべてのものを,持続の相の下に観念対象ideatumとすることは不可能であるといわれているのです。
このことからして,第五部定理二九備考の我々というのが,現実的に存在する人間の精神であるということは,明白です。
ストーリー展開の上での時間の濃密さが最も際立ったドストエフスキーの作品は『悪霊』かもしれません。物語の本筋が始まるのは1869年の9月初め。そこから冬までの間に,登場人物の多くが死にます。死人の多さが,濃密さを形作っています。
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『悪霊』は,ロシアで実際にあった,皇帝暗殺まで企てるような革命派学生の内ゲバ事件が題材。死者が多くなるのは,これに起因しています。それは作家としてのドストエフスキーの立場に関係します。
ドストエフスキーは1849年に思想犯として逮捕され,死刑判決を受けました。ただ刑が執行される直前になって皇帝による特赦があり,懲役刑に減刑されました。そして服役後も当局の監視が続き,ドストエフスキーは,検閲を受ける可能性があるという前提で,小説や手紙を書いていたと類推されます。
ですからドストエフスキーは,表向きは思想的には転向した,つまり革命派から皇帝派になったと見せておく必要がありました。『悪霊』はこうした観点から書かれています。ですから単に内ゲバ事件の標的だけが死ぬのではなく,加害者側も死ななければならない必然性が,ストーリー上の必然性とは別のところにあったといえるでしょう。
元来,ドストエフスキーはその目的で『悪霊』を書こうとしていました。なので革命派の中でも過激派に対して批判的だったのは,装ったわけではなく本心であったと思われます。ただ実際に書いているうちに満足できなくなり,直接的にはこの内ゲバ事件と無関係な,スタヴローギンが登場することになりました。
ドストエフスキーがロシアの大地への土着愛を語るとき,確かに保守性が滲んでいるといえます。一方でそれは反ヨーロッパという意味が強調されているようにも感じられます。イワンの場合で示したような,神の不在に関する逡巡は,ドストエフスキー自身の逡巡であったと僕には思えます。こうした逡巡を抱く人間が,完全に皇帝派に転向できるものなのか,疑問の余地があります。デカルトが創世記との関連で踏みとどまろうとした一線が,ドストエフスキーにもあったと考える方が,妥当であるかもしれません。
第二部定理四五の無限性と有限性に関しては,無限の一義性をどう把握するのかということと関係します。これについては後で詳しく説明します。永遠性と持続性に絞った考察を継続します。
第一部定義八説明が,永遠性と持続性を明確に峻別しているということは否定できません。そしてこの峻別は,この部分だけでなく,『エチカ』のほかの個所でも何度も示されています。その最も象徴的なテクストとして,第五部定理二九備考をみてみましょう。
「物は我々によって二様の仕方で現実として考えられる。すなわち我々は物を一定の時間および場所に関係して存在するとして考えるか,それとも物を神の中に含まれ,神の本性の必然性から生ずるとして考えるかそのどちらかである」。
このテクストの前半部分が持続の相と関連し,後半部分が永遠の相と関連していることはいうまでもありません。したがってスピノザは,個物res singularisが永遠の相の下に認識される場合にも,それはres singularisが現実として考えられていると把握していたことになります。これは僕の考え方を補強します。しかしここではこのことを強調はしません。
スピノザはこれら各々の相を,二様の仕方という語句で説明しています。つまりいかにも永遠の相と持続の相が数的に区別可能なふたつの相であるかのように説明しています。これはむしろ松田の考え方に一致します。なぜ松田がこの峻別の数的区別可能性について,こうしたテクストを根拠に据えなかったのか,僕には謎です。
しかし,たとえこのようなテクストが現に残されていたとしても,永遠性と持続性を数的に区別することは不可能であると僕は考えます。その理由をこのテクストから探すとすれば,それはres singularisを二様の仕方で認識するものがどのようなものであるのかということと関係します。スピノザはここではそれを我々によって,といっています。そしてこの我々というのは,人間の知性,とりわけ現実的に存在している人間の知性のことであると僕は解します。あるいは人間に限らず,スピノザの哲学における,現実的に存在する有限である精神のすべてと解します。
川崎競輪場で行われた昨日の花月園メモリアルin川崎の決勝。並びは早坂-兵藤の東日本に原,松谷-松坂-大塚の神奈川,中村-三谷-有賀の近畿中部。
早坂が飛び出してそのまま前受け。4番手に中村,7番手に松谷で周回。松谷の上昇は残り2周ホーム入口付近から。中途で止まらずにバックで早坂を叩いて前に。そのままスピードを上げて打鐘。これを叩きにいったのが中村。ホームで叩くことには成功しましたが,有賀がつけきれず,3番手に松谷。後方から早坂が発進も大塚の横で一杯。バックから松谷が捲ると粘る中村を直線入口で捕えて先頭。これをマークの松坂が差し切って優勝。松谷が半車身差で2着。さらに半車身差の3着にも外を回った大塚が入り,地元勢で上位独占。なお,直線で三谷と接触した兵藤が落車しています。
優勝した神奈川の松坂英司選手はこれがGⅢ初優勝。自力3人では松谷の力量が最上位と思われ,絡まれることも考えにくいメンバー構成でしたので,ここはチャンス。それをうまくものにしたといったところ。有賀が離れたために松谷が3番手に入れたのも,展開面で大きく幸いしました。優勝をどんどん重ねていくというのは難しいように思いますが,恵まれれば勝てる力量があるということは確かであると思います。花月園メモリアルは当初の予定では5回で,その通りだと今回が最後。思い出に残る優勝になったものと思います。
第二部定理八系の意味から分かるように,個物res singularisはどんな場合であれ,永遠の相の下には必然的に存在します。したがって,あるres singularisが現実的に存在しているときに,何らかの知性がこのres singularisを観念対象ideatumとして認識した場合に,この認識のうちに永遠性を発見することが可能であるということになります。つまり持続するということをその本性のうちに含むものの認識のうちに,ある永遠性が含まれる論理的可能性が,ここでも保証されているということになるでしょう。
こうしたことは,論理的に可能であるというだけでなく,現実的にも可能です。いい換えれば,僕がずっと射程に入れてきた,現実的に存在する人間の知性にとっても,現実的に存在するres singularisの認識のうちに,永遠性を発見することが可能です。なぜそんなことが可能であるのかを示しているのが,第二部定理四五です。
「現実に存在するおのおのの物体ないし個物の観念はすべて神の永遠・無限なる本質を必然的に含んでいる」。
僕はここまで,現実的に存在するres singularisのうちに永遠性が含まれるということを,帰納的に示してきました。この定理の証明では,それが演繹的に示されることになります。
第二部定理六は,res singularisはそれが様態となっている属性において神を原因とすることを示しています。したがって第一部公理四により,res singularisの認識はその属性の認識を含んでいることになります。そして第一部定義六により,神の本性を構成する属性は,どれも無限で永遠の本性を表現します。つまりres singularisの認識のうちに,無限で永遠なる本性の認識が含まれているということになるのです。
僕はここでも,スピノザが単に永遠性だけでなく,無限性についても言及していることに注目します。持続するものの認識のうちに永遠性の認識が含まれるということをこの定理は意味しますが,同時に,有限であるものの認識のうちに無限性の認識が含まれるということも意味されています。
香港から1頭が遠征してきた第64回安田記念。
フィエロは出遅れ。ホエールキャプチャとショウナンマイティもあまりよい発馬ではありませんでした。逃げたのはミッキーアイルで,これは予想通り。2番手はリアルインパクトで,その後ろはダノンシャークとクラレントで併走。好位は4頭で,内からレッドスパーダ,カレンブラックヒル,グロリアスデイズ,トーセンラー。中団も4頭でこちらも内からグランデッツァ,ジャスタウェイ,グランプリボス,ワールドエース。前半の800mは47秒1で,これは最近のマイル戦とすれば超ハイペースでしょう。
逃げたミッキーアイルは直線に入っても,外には出しませんでした。反対に馬場の中央に進路を取ったダノンシャークがまず先頭に。この内からグロリアスデイズが追い上げ,この間を半ば強引に割ったのがグランプリボス。そのままグランプリボスが抜け出し単独で先頭に立ったところ,グロリアスデイズの内からジャスタウェイが脚を伸ばし,並んだところがゴール。写真判定になりましたが,ぎりぎりで差していて優勝はジャスタウェイ。グランプリボスがハナ差で2着。後方から馬群を割れず,最内から脚を伸ばしたショウナンマイティが3馬身差で3着。
優勝したジャスタウェイはここがドバイデューティフリー以来の実戦。4連勝で大レース3勝目。日本では昨秋の天皇賞以来の2勝目。能力的に抜けているのは間違いないところで,優勝自体は順当なもの。僅差になったのはおそらく距離適性によるものと思われ,もう少し距離があった方がレースはしやすい馬なのだろうと思います。中距離路線では日本のみならず,世界の競馬において中心的存在を続けていくでしょう。父はハーツクライで,これで産駒が3週連続で大レース制覇。祖母の半弟に1997年のシリウスステークスと1998年の中京記念を勝ったトーヨーレインボー。またその姪に今年のクイーンカップを勝っている現役のフォーエバーモア。
主戦の福永騎手が騎乗停止になったため代役を務めることになった柴田善臣騎手は2012年のエリザベス女王杯以来の大レース制覇。第43回以来21年ぶりの安田記念2勝目。管理している須貝尚介調教師はドバイデューティフリー以来の大レース制覇。国内では昨年の阪神ジュベナイルフィリーズ以来。安田記念は初勝利。
第二部定理八が平行論に関する言及であるなら,第二部定理八系も同様です。系で定理と異なっている点は,個物res singularisおよびそのres singularisを観念対象ideatumとする観念が,現実的に存在するといわれる場合が含まれているということです。このとき,現実的に存在するres singularisXと,現実的に存在するres singularisXの観念が同一個体であるということは,第二部定理七から明白であるからです。
第二部定理八系の重要性は,res singularisが現実的に存在するようになるからといって,そのres singularisが神の属性の中に包容されて存在するということを停止するというわけではないということです。同様にあるres singularisの観念が現実的に存在するようになったからといって,そのres singularisの観念が神の無限知性が存在する限りにおいて存在するという存在のあり方を停止するというわけではないということです。これは,福居が『スピノザ「共通概念」試論』において,この系に見出している意味と同様です。そこで福居が主張しているように,この系のうちの「ばかりではなく」という語句のうちには,明らかにそうした意味合いが含まれていると僕は解します。
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このことから,あるres singularisが現実的に存在している場合にも,そのres singularisは永遠性を含むような存在のあり方を停止しているわけではないということになります。同様に,そのres singularisの観念が現実的に存在しているからといって,その観念は永遠性を含む存在のあり方を停止しているわけではありません。このことは,永遠であるものがその存在を停止するということがあるならば,そのものは永遠であるとはいえないということからも明白だといえるでしょう。
松田のことばを用いれば,res singularisおよびres singularisの観念は,永遠の相と持続の相の両方の相の下に存在するか,永遠の相の下にだけ存在するのかのどちらかです。
スピノザと演劇の項で触れたように,スピノザはファン・デン・エンデンの学校でラテン語を習得しました。ナドラーは,スピノザをファン・デン・エンデンに導いたのは,かつての商人仲間であったという推測をしています。ファン・デン・エンデンというのは,当時としては過激なくらいの民主主義者であり,宗教的側面でも,信仰は個人的信条なので組織や権威によって統制されてはならないという考え方の自由主義者。この宗教的意見は,コレギアント派の見解と一致します。なのでナドラーは,仮にスピノザがコレギアント派の集会に参加していたとしても,それは驚くには値しないと述べています。
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スピノザがラテン語を習っていた当時のオランダは,ヨハン・デ・ウィットが実権を握る共和制の時代。ファン・デン・エンデンは,オランダを共和制から民主制へと移行させる手段を議論していたとのこと。スピノザは民主主義者でしたので,政治的信条としては,スピノザとデ・ウィットより,スピノザとエンデンの方が近かったといえるでしょう。
ただ,エンデンもまたこの思想のために,反動的なカルヴィニストから敵意に満ちた反発を受けることになりました。1671年にはパリに移住しています。デ・ウィットが虐殺される1年前のこと。ただこれはオランダを追い出されたというより,ルイ14世の相談役を務めるためであったようです。
ファン・デン・エンデンは,パリでも上流サロン向けのラテン語学校を開設。さらに未亡人と結婚し,自宅を知的サロンとして解放しました。そしてここにはライプニッツも通ったとナドラーは書いています。
スピノザとライプニッツを最も接近させたのは,チルンハウスでしょう。ただ,ライプニッツがチルンハウスと知り合ったのは1675年。ライプニッツは1671年にはスピノザに手紙を出していて,ファン・デン・エンデンのパリのサロンは,ナドラーの書き方からすると,1672年には開かれていたと思われます。ライプニッツとファン・デン・エンデンの間でスピノザの話が出なかったとは考えにくいように思われます。
第一部定理二一が示しているのは,もしもある属性Xが,神の本性を構成するのであれば,そのXの属性の直接無限様態も必然的に存在するということです。ですから単に各々の実在ということだけに着眼点を合わせれば,Xの属性が実在するということは直ちにX属性の直接無限様態が実在するということを意味します。逆に,X属性の直接無限様態が実在するということが,X属性が実在するということ,いい換えればX属性が神の本性を構成するということを意味することになるのはいうまでもありません。ただ,本性の上ではX属性がX属性の直接無限様態に「先立つ」という相違があるだけです。もちろんこの相違自体は非常に重要ですが,各々の実在にだけ注目するのであれば,属性だけが実在するということはあり得ませんし,また直接無限様態だけが実在するということもあり得ません。また,各々の認識のあり方に目を向ければ,属性は第一部定理一〇によりそれ自身によって概念され,直接無限様態は様態ですから第二部定理六によりそれが様態となっている属性によって概念されるという相違があり,これもまた非常に重要な相違ではありますが,属性が認識されればそこからはその属性の直接無限様態が必然的に実在するということが帰結するのですから,直接無限様態の実在の認識については,直接無限様態自体が観念対象ideatumとなっていようと,属性がideatumとなっていようと,どちらでも同じ結論になるといっていいと思います。
したがって,個物res singularisの形相的本性がそのres singularisが様態となっている属性に包容されて実在するということと,そのres singularisが様態となっている属性の直接無限様態のうちに実在するということの間に,何か重大な相違が発生するというようには僕には考えられません。同様に,あるres singularisの観念が,思惟の属性の直接無限様態である神の無限知性がある限りで存在するといわれる場合と,思惟の属性に包容されてあるといわれる場合との間にも,決定的とみなすべき差異があるとは僕は考えません。よってこのことは説明の様式の差異に還元できるのであり,第二部定理八でスピノザは,ある平行論について語っていると解釈することが可能であると判断します。
日曜の日本ダービーを制したワンアンドオンリー。曾祖母が1988年にアメリカで産まれたアンブロジン。Ambrosineというのは女優の名前のようです。ワンアンドオンリーの基礎輸入繁殖牝馬はこのアンブロジンになりますが,アンブロジンの母で1982年にアメリカで産まれているバラダという馬も,別ルートで繁殖牝馬として輸入されています。Baradaというのは川の名前のようです。ファミリーナンバーはA4で,Aはアメリカンファミリーと称される母系。4はその分枝。
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バラダのひとつ上の半姉の仔に,競走馬として輸入され,1994年の最優秀2歳牝馬に選出されたヤマニンパラダイスがいます。バラダとアンブロジンの輸入はその後ですので,おそらくヤマニンパラダイスの活躍が,この一族の日本への導入の呼び水となったのでしょう。ヤマニンパラダイスは繁殖入りした後,2002年に京成杯を勝ったヤマニンセラフィムを産んでいます。
バラダが日本で産んだ産駒およびその子孫からは,重賞ウイナーは出ていません。一方,アンブロジンは登録された2頭目の産駒がノーリーズン。一族の活力の確かさはここで証明されました。ノーリーズンのふたつ下の半弟はグレイトジャーニーで,こちらは2004年のシンザン記念と2006年のダービー卿チャレンジトロフィーを勝っています。ノーリーズンの半姉,グレイトジャーニーの全姉で,アンブロジンが日本で産んだ最初の産駒がサンタムール。ワンアンドオンリーはこのサンタムールの孫になります。
1998年の高松宮記念を勝ったシンコウフォレストと,2001年に函館スプリントステークスとアイビスサマーダッシュを連勝したメジロダーリングは,共に1983年にアメリカで産まれたGreen Desertの産駒。このGreen Desertは,バラダの甥になります。Green Desertの全妹の産駒は競走馬として輸入。繁殖牝馬となり,2011年のエプソムカップと毎日王冠を勝っている現役のダークシャドウの母になりました。
統一する方法としては,ふたつの仕方が考えられます。これはなぜこれを統一する必要があるのかということ自体からの帰結であるといえるでしょう。
延長の属性Extensionis attributumと,無限知性intellectus infinitusを,平行論における同一個体と解するのは無理があります。もしも延長の属性に対して同一個体として無理なく呈示できるものがあるとするなら,それは思惟の属性Cogitationis attributumでしょう。一方,無限知性は思惟の属性の直接無限様態ですから,もしもこれと無理なく平行論的関係を構築できるものがあるとすれば,それは延長の属性の直接無限様態,すなわち運動motusと静止quiesであるということになります。
ただ,僕はどちらの解釈を選択するのかということは,大した問題とはならないと考えています。物体corpusXそのものと,その物体Xの観念ideaが同一個体であるということは,明白だからです。つまり実際にここで問題になっているのは,平行論的関係そのものではありません。むしろ平行論的関係にある思惟の様態cogitandi modiと思惟以外の様態が,どのように神Deusのうちにあると説明されるのかということだからです。たとえば延長の属性と思惟の属性は,平行論的関係における同一個体そのものではないと僕は解します。もっとも,これには異論があるかもしれません。ただ少なくとも,運動と静止と,無限知性が同一個体ではないということは確かな筈です。というのも,もしも運動と静止の同一個体である思惟の様態があるなら,それは運動と静止の観念でなければならない筈だからです。
したがって,無限知性のうちにあるということと,思惟の属性のうちにあるということが同じ意味であるか,そうでなければ延長の属性に包容されてあるということと,運動と静止のうちに包容されてあるということが同じ意味であるのかの,どちらかでさえあればよいわけです。なぜならそのどちらかが成立する限り,個物res singularisがあるという説明の様式が,思惟の属性でも延長の属性でも一致することになるからです。そして僕の考えでは,これは一方だけが成立するのではありません。どちらも成立するのです。
昨日の第60回東京ダービー。ファイヤープリンスが風邪で競走除外になり15頭。
陣営から逃げ宣言が出されていたエスティドゥーラがその通りにハナへ。少し離れてサーモピレーが単独の2番手を追走。また少し離れて3番手は内のスマートバベルと外のハッピースプリントで併走。前半の1000mは62秒1でこれはハイペースでしょうが,後続との差を考えれば,3番手以降にはミドルペースのレースであったといえそうです。
エスティドゥーラは3コーナーを回ってから力尽き,サーモピレーが先頭で直線へ。ここからハッピースプリントが並び掛けると,競り合うような場面もさほどなく抜け出し,4馬身差をつけての快勝。勝ち馬をマークするようなレースになったスマイルピースが,勝ち馬にはついていかれなかったものの一定の伸び脚を発揮して2着。先行策から粘ったサーモピレーが2馬身差で3着。
優勝したハッピースプリントは羽田盃に続いて南関東二冠馬に。ここは力は抜けているのが明らかで,距離延長も不安要素にはなりにくいと思われましたので,きわめて順当な勝利といえるでしょう。取り口は安定していますので,中央馬を相手にするジャパンダートダービーでも有力候補になり得る馬だと思います。はとこに2009年の関東オークスとスパーキングレディーカップ,2010年の名古屋大賞典とスパーキングレディーカップ,2011年のTCK女王盃,エンプレス杯,スパーキングレディーカップと重賞を7勝したラヴェリータ。
騎乗した金沢の吉原寛人騎手は先月の東京湾カップ以来の南関東重賞制覇。東京ダービーは初勝利。管理している大井の森下淳平調教師は第58回以来2年ぶりの東京ダービー2勝目。
別の論拠になりそうだと僕が考えているのは第二部定理八,および第二部定理八系です。
松田はこの定理を論拠に,永遠の相と持続の相を,数的に区別が可能なふたつの相に峻別します。また福居が直接無限様態が個物res singularisに類するものと主張するとき,この定理と系がひとつの根拠として呈示されます。そう考えてみると,『エチカ』の読解に関して,この定理と系は重要なポイントとなっているといえそうです。スピノザ自身がこの系の直後の備考の冒頭で,ここで語っているのは特殊な事柄なので,十分に説明するいかなる例を挙げることもできないと告白しているくらいですから,この部分に関して解釈上の相違が発生しても,それは無理からぬことといえるのかもしれません。
まず,定理の方でいわれている無限な観念というのを,神のうちにある神自身の観念と僕は解します。たぶんこの点に異論が出ることはないと思います。そしてこの神の無限な観念という語句は,第一部定理二一証明の中でスピノザが実例として提出している語句に一致します。そこで僕はそのときと同様に,これを思惟の属性の直接無限様態である無限知性と解します。つまり現実的に存在しない個物res singularisの観念は,無限知性のうちに包容されているということになります。
次にスピノザは,この事態に関して,それは現実的に存在しない個物res singularisの形相的本性が,神の属性の中に含まれているのと同様であるといっています。このとき僕は,スピノザが平行論について語っていると解します。ふたつの平行論のうち,思惟の属性とそれ以外の属性の間にある平行論です。すなわち,たとえば現実的に存在していない物体Xの形相的本性が,神の延長の属性の中に含まれていることと,この物体Xの観念が神の無限知性のうちに包容されているということは,平行論的関係にあると解します。いい換えればこのふたつの事態が同一個体に該当すると解します。
ただし,延長の属性と無限知性が平行論的関係を構築できる筈がありません。ですからこの部分を合理的に統一する必要があります。
塩田温泉で指された第25期女流王位戦五番勝負第四局。
清水市代女流六段の先手で甲斐智美女流王位が横歩取りに誘導。しかし先手は横歩を取ることなく浮き飛車。後手は高飛車にし,先手に☗7七桂と跳ねさせておいて引き飛車。流れから先手のひねり飛車に。手順からすると後手が誘ったとも解釈できます。先手は左の金を7六に構えて抑え込みの狙い。後手は銀冠に組んで待ち受けました。先手は抑え込みに手順を掛けたので玉を堅く囲うことができず,このように組まれてしまった時点で作戦がうまくいかなかったのではないかと思えます。一応は先手から攻める形になりましたが,わりと早い段階で切れ模様になってしまい,終盤に入る前に大きな差がつきました。
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ここで☖7六桂と打っていますが,なるほどこういう将棋はこのように勝ちにいくものなのでしょう。☗9五歩に☖5七歩と垂らしました。先手は☗7九角ですが,これはかなり辛そうな手。☖6二飛に☗1五歩と紛れを求めました。以下☖同歩☗5三成桂☖6一飛で☗8七飛ですが,これもかなり辛い手。☖6八桂成で打った桂馬が働くことになり,☗6二歩☖5一飛☗6八角☖7六金☗9七飛☖6七歩成。
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と金を作るために桂馬を捨ててはいますが,それは5三の成桂を取ることで解消できます。つまりほとんど無条件に近い形でと金を作ったに等しく,また差が開いたといえるでしょう。この後も急ぐことなく着実に指した後手の快勝でした。
3勝1敗で甲斐女流王位の防衛。第21期,22期,24期に続き,2期連続4期目の女流王位です。
どんな事物であれ,それが存在するならば,その存在existentiaを定立する本性essentiaがあります。そしてその本性は観念対象ideatumになり得ます。このとき,一般に事物の本性が永遠の真理veritasであるということに目を向ければ,何のことはありません,どんな事物にもある永遠性aeternitasが含まれるということになるのです。僕はそもそも永遠の相と持続の相という具合に,因果性を分類すること自体に懐疑的であると述べましたが,そのことの最大の理由はこの部分にあります。確かにある種の事物は持続duratioのうちに存在します。いい換えれば現実的に存在します。しかしそれが現実的に存在しているからといって,そのものは持続によってのみ説明が可能であるわけではありません。むしろ持続のうちに,現実的に存在しているその事物のうちに,永遠性が含まれているのです。
ただし,ある有限知性,ここでも僕は人間の知性intellectusを念頭に置きますが,こうした知性が存在するとき,その知性は,事物を必然的にnecessario十全に認識するわけではありません。有限知性は,十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataの両方によって組織されていると考えなければなりません。このとき,混乱した観念というのをそれ単独で注視した場合には,そこに永遠性が含まれるとはいうことはできません。これを主張することは,ある虚偽falsitasに永遠性が含まれるといっているのと同じことで,こんな不条理はないからです。
どんな事物にも永遠性が含まれるといっても,それは真理として含まれているのであり,虚偽のうちに含まれるのではありません。逆にいえば虚偽は持続のうちにのみ成立します。人間の精神mens humanaにだけ注目するならこれは第二部定理一三から明らかです。虚偽を成立させるのは,つまりその一部が混乱した観念によって組織されるのは,現実的に存在する,つまり持続のうちに存在する人間の身体corpusをideatumとする観念,その身体を有する人間の精神であるからです。
真理とは何かといえば,それは真の観念idea veraの総体のことです。つまり真理が永遠であるとは,真の観念は永遠であるということにほかなりません。第二部定理七系の意味からすれば,ここからもあらゆる事物に永遠性が含まれることが帰結します。
淡路島で指された昨日の第85期棋聖戦五番勝負第一局。対戦成績は羽生善治棋聖が70勝,森内俊之竜王が57勝。千日手が7局あります。
振駒で森内竜王の先手。羽生棋聖の横歩取りに。中盤で先手が後手玉頭から駒損の猛攻をかける展開になりました。
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後手が7筋で味付けをしてから2二の銀を引いた局面。ここで▲3五金と打ちました。これは飛車を取る狙いですが,打った金が働く展開はやや考えにくく,思い切った手という印象。後手は△5五歩と突きました。▲1五歩△6四飛▲5五銀となって先手は飛車の捕獲に成功。△6五桂は攻めを見せつつ玉の逃げ道を作ることにもなっている一石二鳥の手。先手は▲5四歩△6二王▲6四銀の手順で飛車を取り,△同歩に▲5三歩成△7三王としてから▲8一飛と打ちました。
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やはり金は遊んでしまいましたが,だからといって先手が著しく形勢を損ねたかといえばそうでもないように思います。後手は△8八角と打ちました。
金は見捨てて早逃げする手もあったかと思いますが,金取りなので▲8六金と逃げるのは普通の手。というよりこれは後手玉の上部脱出阻止に役立ちそうなので,自然な手ともいえそうです。ここから△5七銀▲7八玉△5八銀不成▲同銀△7七歩▲6八玉と進みました。先手の指し手はすべて必然手であるように思われます。そして△8二歩。
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▲9一飛成が第一感ですが,後手が△5七角から馬を5七にもってきて▲9三龍を防ぐ手順が生じるので,そう指すと先手が負けとのこと。ということでここで▲5九玉と逃げることになりましたが,△7九角成▲4八玉に△4六馬も絶好で,後手の勝ち。つまり第2図で▲8六金と逃げてからは後手が勝ちの局面であったようです。
羽生棋聖が先勝。第二局は21日です。
有限である事物,とりわけその本性のうちに持続性を含むと考えられる個物res singularisの認識のうちに,永遠性が含まれ得ることの論理的可能性を示す根拠は,『エチカ』にはふたつほどあると思われます。
ひとつが第一部定義八説明。このテクストは,永遠性と無限定な持続の峻別がひとつの主眼にはなっていますが,同時に事物の本性の永遠性を示唆する内容になっています。この事物とは当然ながらあらゆる事物です。もし,ある種の事物の本性は永遠の真理ではないとしたならば,このテクストは成立し得ないからです。したがって,無限であろうと有限であろうと,その事物の本性に着目する限り,それは一定の持続や無限定な持続のうちの真理であるのではなく,永遠の真理であるということになります。
事物を真に認識するということのうちには,その事物の本性を真に認識するということが含まれます。いい換えるなら,観念対象ideatumとなっているものが無限なものであろうと有限なものであろうと,それを真に認識することのうちには,すでにある永遠の真理の認識が含まれているということになります。理性の認識が真の認識であることに注目すれば,これは第二部定理四四系二に合致しますから,このような解釈が誤りであるようには思えません。
res singularisの本性のうちに持続性が含まれているとして,そのこと自体が永遠の真理なのだと解することは,不可能ではありません。命題として置き直せば,res singularisは持続するものであるというのは真の命題,永遠から永遠にわたっての真の命題であると主張して,何らかの誤謬が含まれているとはいえないからです。
実際に問題となるのは,res singularis一般ではなく,具体的なres singularisの場合です。ただどんな具体的なres singularisであれ,それが存在するなら,第二部定義二の意味により,そのres singularisの存在を定立するような本性も存在します。そしてその本性の認識が永遠の真理の認識になると考えられるでしょう。
昨日の川崎記念の決勝。並びは郡司-五十嵐-勝瀬-川崎の神奈川,浅井-林の中部,岩津-荒井の西国で稲川は単騎。
浅井と荒井がスタートを取りにいきました。インが有利で浅井が取りきり,そのまま前受け。岩津が3番手,郡司が5番手となり,稲川は最後尾での周回に。このまま残り2周まで動きがなく,岩津は林との車間を開け始めました。それから郡司が発進。岩津は純粋な自力タイプではありませんから,飛び付きは考えられましたが,狙ったのは3番手。ホームの入口付近で奪い,勝瀬は荒井は極めて岩津の後ろに。後方に置かれた浅井はこの後で発進。バックである程度のところまでいったのですが,郡司の後ろから五十嵐が出ていくと,マークの形になった岩津の後ろがもつれ,あおりで外に浮いて万事休す。五十嵐マークを奪った岩津が差して優勝。五十嵐が1車身半差で2着。浅井は4分の3車輪差の3着まで。
優勝した岡山の岩津裕介選手は3月の玉野記念以来の記念競輪5勝目。川崎記念は初優勝。地元分断策に出るのは想定できましたが,番手ではなく3番手を狙ったのがうまかったと思います。五十嵐はまず二段駆けすることになるので,その後ろの方が勝機は高いとみたものでしょう。あまり競り合わずに奪えたのも勝因のひとつ。中国は有力な先行選手が少ないため,展開に恵まれないケースが多いのですが,末脚のシャープさは確かであり,今日のような捌くレースが増えてくれば,もっと優勝回数を増やしていくことができると思います。
第二部定理四四系二の前提には,有限であろうと無限であろうと,すべての事物に永遠性が含まれているということがあると僕は考えます。もしもそうでないなら,理性によっては認識され得ない事物が存在することになります。しかしそれは第二部定理三二に反します。理性による認識とは第二種の認識であり,事物の真の認識であるからです。
僕は個物res singularisの本性には,それが持続するものであるということが含まれているという考えです。つまり僕がここで主張していることは,その本性のうちに持続性が含まれているものに,永遠性が含まれているということです。これは矛盾に満ちているといわれて仕方ありません。ただ,僕自身はこのような主張は必ずしも不条理には陥らないと考えています。
なぜ僕がそう考えるのかを説明しますが,その前に,ひとつだけ注意しておいてほしい点があります。たとえばあるres singularisを具体的に抽出して,それが客観的にすなわち観念として把握されるとき,その観念のうちに永遠性が含まれるということと,現実的に存在するある知性,僕が視野に入れているのは人間の知性のことですが,実際にそのような仕方,永遠性を含むような仕方でその観念を形成するということを,僕は別の事柄であると理解します。一般的にいえば,ある事柄ができるということと,実際にその事柄をするということは別のことなのであって,それとパラレルな関係にある差異が,この部分に発生しているというように考えてください。僕がこれから示そうとすることは,どのような仕方である知性がres singularisを認識すれば,そのres singularisに永遠性が含まれると認識するのかということではありません。あるres singularisを知性が認識した際に,その認識のうちに永遠性が含まれるということは論理的に可能であるということです。いわば僕は論理的可能性のみを示すのであって,ある種の方法論を示すのではありませんし,永遠性を含むres singularisの観念が,知性のうちに必然的に生起しなければならないということを示すのでもありません。
競馬の祭典,第81回東京優駿。ウインフルブルームが出走取消で17頭。
エキマエが先手を奪い,向正面では2番手以下を引き離していくレースに。その2番手にトーセンスターダム。3番手にイスラボニータで,その後ろはサウンズオブアース,ワンアンドオンリー,タガノグランパの3頭。最初の1000mは59秒6で,これでもミドルペース。1頭の大逃げということを考慮に入れれば実質的にはスローペースだったといえるでしょう。
逃げていたエキマエは3コーナーを回ってから故障。トーセンスターダムが先頭で直線に向うことに。イスラボニータは外に出て,すぐに先頭に。真後ろにいたワンアンドオンリーがこれを追い掛けるようにさらに外に出て,ラストはこの2頭が抜け出しての叩き合い。末脚勝負では分があるワンアンドオンリーが残り100m手前で前に出て,最後は4分の3馬身差をつけて優勝。王者らしいレース運びだったイスラボニータが2着。逃げていたトーセンスターダムは直線で内によれて埒に接触。その直後にいたマイネルフロストの前ががら空きになり,ここを突いて1馬身半差の3着。
優勝したワンアンドオンリーは暮れのラジオNIKKEI杯2歳ステークス以来の重賞2勝目で大レース初制覇。今年は雪の影響を受けたものの,弥生賞と皐月賞で差のない競馬。いずれも優れた瞬発力を発揮していて有力視された1頭。これまでとは一変して先行集団でのレースになりましたが,持ち味の末脚が殺がれることはありませんでした。今日のペースでこれまでと同様の競馬では届かなかった可能性もあり,内枠も利した鞍上の好騎乗であったと思います。父はハーツクライ。母の父はタイキシャトル。祖母の半弟にノーリーズン。
騎乗した横山典弘騎手は一昨年のヴィクトリアマイル以来の大レース制覇。第76回以来の日本ダービー2勝目。管理している橋口弘次郎調教師は2009年の朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース制覇。日本ダービーは20回目のチャレンジで初勝利。
無限であるものは永遠性を有する。このテーゼは成立します。それではこのテーゼの主語と述語を入れ替えた場合はどうなのでしょうか。ある事物が永遠性を有するならば,その事物は無限であるというテーゼは,スピノザの哲学の中で成立しているテーゼなのでしょうか。
もしもこのテーゼが成立するなら,一義性の相違は実際には存在しないといわなければなりません。スピノザがそれに反するようなテクストを残していたとしても,無限であるものが永遠であり,永遠なるものが無限であるならば,無限の一義性と永遠の一義性は同一の事物の間だけで成立するといわなければならないからです。いい換えれば無限性と永遠性がある一群を形成し,また有限性と持続性が別の一群を形成することによって,スピノザの哲学は成立しているということになるからです。そしてこの場合には,永遠の相と持続の相という分類は,無限の相と有限の相という分類に合致することになります。つまり松田がそれら各々の因果性を,数的に区別可能な二種類の因果性として把握することの根拠は,より強まることになるといえるでしょう。
結論からいうなら,僕はこのテーゼは成立しないと考えています。ただ,なぜそれが成立しないと考えるのかということの根拠は,おおよそ無限の一義性や永遠の一義性とはかけ離れた部分にあります。
第二部定理四四系二は,理性の本性は事物を永遠の相の下に認識することにあるといっています。ここでいわれている事物の中には,無限であるものだけが含まれるというわけではありません。個物res singularisも含まれるわけです。res singularisが有限であるということはいうまでもありません。つまり知性は,有限であるres singularisを理性的に認識する限り,それを永遠の相の下に概念するということがこの系には含まれています。というか,これが可能であるということを前提にしておかないと,この系は成立しません。
有限であるものが永遠の相の下に認識され得るのはそのものに永遠性が含まれるからだと僕は解します。なので永遠であるものは無限であるというテーゼは成立しないと理解します。