スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
先生の忠告が私にとって現実化したのか。これを考えるためには,『こころ』の構造を把握しておかなければなりません。
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『こころ』は作者である漱石が書いたということにはなっていません。登場人物のひとりで,忠告を受けた当の私が書いたという体裁になっています。小説の技法としては珍しいものではなく,『悪霊』はこれと同じ手法を採用しています。ただこのために,テクストで語られる出来事のすべては,語り手である登場人物によって事後に再構成されていることになります。
先生は乃木希典の自殺に触発され自殺を決意します。それを仄めかす手紙を,私は大学卒業後,父親の病気のために帰った故郷で受け取ります。当時の大学は秋入学。乃木の自殺は1912年9月。手紙を受け取ったのは同年の9月か10月でしょう。
『こころ』が朝日新聞に掲載されたのは1914年。普通に考えると,私はこのとき書いたと想定されます。ところが『こころ』のテクストには,そう考えるのには無理があるのではないかと思える箇所があります。上の八の終り近くです。
奥さんが,先生との間に子どもがあるといいという主旨のことを言ったとき,私は生返事をします。その理由を私は,当時の私は子どもをもったことがなく,ただうるさいものと思っていたからだという主旨で説明します。
この説明からすれば,書いているときの私には子どもがいると判断するべきでしょう。1912年の9月,私は独身。卒業はしたものの職は決まっていません。そう考えると,1年半後の時点ですでに子どもがいるとは考えにくいのです。職を決めて安定した収入を確保してから,相手を見つけて結婚し,さらに子どもを設けるという順序になるのが常識的でしょうから,それに1年半程度の月日では足りないと思われるからです。
つまり『こころ』のテクストが暗示しているのは,新聞に連載が始まった時点では,実はまだこのテクストは書かれていなかったということです。矛盾めいていますが,実際の執筆の時期は,もっと後だと想定する方が自然であると僕は考えます。
運動と静止から無限に多くの物体が生起するということを,スピノザが認めていたということは,第一部定理三二系二から明らかであるといえましょう。ただ,このテクストからは,運動および静止と物体との間に,第一部公理三に準じるような因果関係をスピノザが認めていたかどうかは不明だといえます。Aが存在するならBは生起するということと,AはBの原因でありBはAの結果であるということは,それ自体で同一のことであると考えることはできないからです。
運動と静止が存在するなら,なぜ物体が生起することになるのか,スピノザは『エチカ』では示していませんし,『エチカ』以外のテクストでも明解には説明していません。これはおそらくスピノザの関心の中心にはなかったためであると考えられ,仕方のないところです。ただ,このことは単に延長の属性においてのみ説明されていないというわけではなく,あらゆる属性を通じて同様なのです。
運動と静止が延長の属性の直接無限様態で,物体は延長の属性の有限様態すなわち個物res singularisです。第一部定理三二系二のテクストは,おそらくあらゆる属性に適用されると考えられます。第一部定義四により属性によって本性を構成される実体は,実在的には第一部定理一四系一により神が唯一です。平行論が成立するのは,各属性が単一の実体の本性を協同して構成するからだと考えられます。つまり延長の属性の直接無限様態とres singularisとの間に一定の関係が存在するのだとすれば,それと同じ関係がどんな属性のうちにも成立すると考えるのが妥当です。よって一般的に,ある属性の直接無限様態からは,無限に多くのその属性のres singularisが生起するということを,スピノザは認めていただろうと僕は思うのです。実際に,思惟の属性の直接無限様態は神の無限知性ですが,この無限知性から無限に多くのres singularisの観念が生起するということも,スピノザは認めていたというように,このテクストは解釈できると思います。
しかし一般にある属性の直接無限様態とその属性のres singularisの間に,因果関係といえるような関係があるかどうか,このことをもスピノザは明解には説明していないように僕は思います。
⑦-4の第3図から,先手は☗2六角と打ちました。
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ここから☖3九王☗1七角☖4八王☗2六角☖3九王☗1七角☖4八王と進んで第2図。
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将棋のルールは不変と思われがちですが,細部は変化しています。千日手はそのひとつ。僕の将棋キャリアが始まったとき,千日手は同一手順が3回繰り返されると成立でした。それが今は同一局面が4度出現すると成立に変わっています。同一手順によって同一局面が出現するとは限りませんから,現行ルールの方が合理的で,この改正を僕は高く評価しています。この将棋が指されたのは1993年で,当時はどちらのルールであったか僕には定かではありません。
ただ,王手の連続で千日手が成立すると,攻撃側の反則負けになるのは,旧ルールでも新ルールでも同じ。上述の手順はそれに該当するので,王手をしている先手から手を変える必要があります。このように進んだのは4の第2図以降,☗4六銀と打たずに☗3七同香と取ったためですが,その手順はこの千日手ルールによって後手が逃れていたということになります。
それを含みに逃れることはあると思うのですが,実際に手順が盤上に表現されたのは珍しいケースといえます。これもこの将棋が印象に残った理由のひとつになっています。
第一部定理三二系二という,系Corollariumとその証明Demonstratioあるいは説明が一体化したような長文が『エチカ』にはあります。
「第二に,意志および知性が神の本性に対する関係は,運動および静止,または一般的に言えば,一定の仕方で存在し作用するように神から決定されなければならぬすべての自然物(定理二九により)が神に対する関係と同様であるということになる」。
ここまでがこの系の主旨といえます。第一部定理二九は,自然のうちに存在するすべては必然の第二のタイプにおいて必然的necessariusであるということを示します。つまりここでは知性intellectusも意志voluntasもそうしたものとして解されなければならないと主張されていることになります。第一部定理三二は意志が自由liberaなものではなく,第二と第三のタイプで必然的であることを示し,第一部定理三二系一は意志が神の本性essentiaには属さないことを示していて,それを受けてこの系が示されているというのが,配置の意図からみた読解になります。
上述の主旨の後の長文の説明の中に,次のようなものがあります。
「与えられた意志あるいは知性から無限に多くのものが生起するとしても,神はそのために意志の自由によって働くと言われえないことは,運動および静止から生起するもののために(というのはこれからもまた無限に多くのものが生起する)神は運動および静止の自由によって働くと言われえないのと同様である」。
これでみれば少なくともスピノザが,延長の属性Extensionis attributumの直接無限様態である運動motusと静止quiesから,無限に多くのinfinitaものが生起すると考えていたことが窺えます。そしてこの無限に多くのものは,当然ながら延長の属性の有限様態すなわち個物res singularisである物体corpusと考えて間違いないでしょう。もちろんこのこと自体は,系の主旨から鑑みて,スピノザがここで主張したかったこととは無関係であるといわなければなりません。でも,運動と静止が与えられれば,そこからは無限に多くの物体が生起することをスピノザが認めていたということだけは,確かだと思われます。
『個と無限』は論文集でした。当該の問題となっているのは「「エチカ」第一部の二つの因果性がめざすもの」というもので,これは読了しましたので,概観を示しておきます。
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朝倉友海が『概念と個別性』で引用したのは一の終り近く。「間接無限様態は個物でなければならない」と記されています。そして佐藤一郎はその論証に移行すると宣言しています。
佐藤が間接無限様態は個物であるというとき,それは第一部定理二五系でいわれている個物res particularisを意味します。ただし佐藤は,ふたつの個物であるres particularisとres singularisを概念として分けていないので,このことが間接無限様態はres singularisであるということと,同一の意味だと解していると理解できます。概念内容がどうであるかは別に,これは畠中尚志や僕と一致する見解で,朝倉とは異なります。朝倉はこの点で佐藤が不十分だとみなし,反論していて,佐藤の論述に対しては有効だと僕は思いますが,それに関しては別の機会に僕の考え方を述べます。
佐藤は論証するといっていますが,それが成功しているとは僕には思えませんでした。二の終りには,「個物を本来的には無限なもの,換言すれば間接無限様態として捉える「エチカ」の個物了解」といわれているように,佐藤の論証は僕には専ら個物が間接無限様態であるということに費やされていて,間接無限様態が個物であるというためのものにはなっていないと思われるのです。
僕はその相違は大きいと考えます。無限であるものを有限であるとみなすことと,有限であるものを無限であるとみなすことの間には,限定と否定の関係から,大きな懸隔があると考えるからです。結果的にいえば佐藤は有限であるものは無限であるということを論証しようとしているのであり,その考え方自体はむしろ僕の考え方と一致しているといえます。
『個と無限』のすべてを読了するのにはまだ時間が必要です。全体の書評はいましばらくお待ちください。
ここで延長の属性の三様態を思い返すことは徒労ではありません。延長の属性の直接無限様態,いい換えれば無限な様態的変状に様態化した延長の属性は,運動と静止です。そしてこの運動と静止から,第一部定理二三は,延長属性の間接無限様態である,不変の形相を有する物体的な全宇宙の姿が生起するということになっています。しかしこれは,間接無限様態と個物res singularisを分けた場合の把握です。res singularisが間接無限様態であるのなら,このことのうちに,運動と静止からは延長の属性のres singularisである物体が生起するということが含まれていることになります。
そのように解釈することは,実はそう難しいことではありません。なぜなら,僕が示したように,物体の本性は,その運動と静止の割合によって決定され,またその相違によって様態的にあるいは同じことですが数的に区別されると解することができるからです。この運動と静止の割合というのは,その組合せということを焦点に据えるならば,無限に多く考えられ得るでしょう。人間の知性は有限ですから,実際に無限に多くの組合せを認識するということは不可能であるといわなければなりません。しかしそれが無限に多くあることができるということは,直感的に認識できます。その組合せが物体の本性であるとするなら,これは本性を異にする無限に多くの物体が存在するといっているのと同じことになります。つまり延長属性の直接無限様態である運動と静止に起因して,無限に多くの物体が存在するということになります。そしてこれら無限に多く物体のことを間接無限様態であるとするなら,第一部定理二三ではこのことが示されていると理解することができるのです。
ただし,これは論理的にはそうなっているだけです。物体が運動と静止なしには存在し得ないのは間違いありませんが,だから原因と結果としての関係をそのまま規定してよいのかということは,スピノザの哲学においては問題のひとつを構成するだろうと思われます。そしてそのように規定してよいものかどうか,僕には,テクストからははっきりとは理解できないのです。
心配された台風の影響はなく,日程通りに開催された福井記念の決勝。並びは吉沢-神山-上原-兵藤の関東,柴崎-金子-志智の中部,残った脇本に新田。
金子がスタートを取って柴崎の前受け。4番手に脇本,6番手から吉沢で周回。吉沢の上昇に脇本が続き,柴崎は引いたので,打鐘前のバックでは先頭が吉沢,5番手に脇本,7番手に柴崎の一列棒状に。打鐘から脇本が発進。吉沢も駆けましたが,ホームでは脇本がかまして前に。ただ,新田が神山に阻まれ,差の開いた2番手を吉沢が追う形に。柴崎は発進したものの勢いがなく,中部勢は圏外。結果的に独走のようなレースになった脇本が優勝。吉沢の後ろから神山が差して2車身差の2着。マークの上原が続いて4分の1車輪差で3着。
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優勝した福井の脇本雄太選手は2011年の小田原記念以来の記念競輪3勝目。地元の福井記念は初優勝。確かな力がある選手なので,およそ3年もの間,記念競輪を制覇できずにいたのは不思議。ここは自力3人のうちでは明らかに力が上でしたから,よほど失敗しない限りは大丈夫だろうとみていました。ラインは最も短く,マークも他地区の選手ということでやりにくかった面もあったとは思うのですが,わりと早い段階から主導権を握りにいった積極性が,この優勝を産み出したといえるのではないでしょうか。もっと上位で戦ってほしい選手ですし,それだけの力量ももっている筈だと思います。
スピノザにとって目的論的思考というのは,結果から原因を解明していくような思考法です。つまりスピノザが目的論を方法論として排除する理由というのは,単にそうした思考によって得られる結論が誤謬であるというだけではありません。方法の結果だけが問われているのではなく,方法そのものが問われているのです。ですからそこでは結論だけが特別に排除されているのではありません。こうした思考方法そのものが排除されているのです。
第一部定理二三の謎に対する疑問というのも,この法則に準じているといわなければなりません。この疑問というのは,この定理が示された後に,より正確にいうならば,この定理が証明された後に,初めて呈することが可能になっているからです。つまり因果論的な結論が明かされた上で,目的論的な問いが成立していることになるのです。
ただ,それでもこうした問いを立てることによって,直接無限様態の位置付けあるいは役割というのを,どのように解するべきであるのかということが,『エチカ』においてはひとつの謎めいた部分を構成しているということだけは,明らかにできているといえます。そしてその謎というのは,個物res singularisを間接無限様態とみなすならば,解消されることになるということも否定できません。なぜなら,無限な様態的変状に様態化した神の属性から間接無限様態が生起するということのうちに,res singularisが生起するということも含まれることになるからです。それはつまり,第一部定理一六で示されていることが,直接無限様態を媒介することによって,具体的に示されているということになるからです。そうであるなら直接無限様態は,単に間接無限様態を生起させるというだけの役割を担わされていると解することはできません。いい換えれば,その位置付けはいささかも貶められてはいないということになるでしょう。
第一部定理一六で無限に多くのものといわれるとき,そこにはres singularisも含まれると僕は考えます。第一部定理二三は,そのときの直接無限様態の役割を示していることになります。
僕のプロレスキャリアにおいて,NWA王者といえるのがネイチャーボーイ。そしてその一時代前が美獣。両者について,タイガー・戸口の興味深い分析があります。
レイスの特徴は,攻めも受けも大きく見せること。とくにレイスのような受け身を取る選手は,レイス以前に存在していなかったそうです。レイスより前,ドリー・ファンク・ジュニアやジャック・ブリスコが王者であった時代,かれらはブリッジをする投げ技をレパートリーのひとつに備えていました。これはアマレスがベースになっているためで,レイスにそうした技がなかったのは,それがベースではなかったためというのが戸口の分析。戸口はそれには言及していませんが,ドリーやブリスコの技は,レイスを相手にしたときにはより映えたと推測できます。これがレイスがトップに上がっていくときの,大きな要因になったことは,十分に考えられるのではないでしょうか。
戸口によればそれでもレイスは田舎じみたところがあり,フレアーはレイスの一枚も二枚も上をいっているという見立てです。育った環境が常に表舞台で,スポットライトを浴びることに若いうちから慣れていたので,自分を光らせるのが巧みでした。つまりレイスには叩き上げの要素があるのに対し,フレアーはエリート。馬場は若かりし頃のフレアーを見たときに,将来はトップに立つ選手だと評価したようですが,戸口も,フレアーにはベルトを獲る前から王者の雰囲気があったと語っています。
レイスは悠然と間をとって試合をするので,馬場にはやりやすかったのではないかというのが戸口の推測。一方,フレアーに挑戦したのはジャンボ・鶴田で,馬場が挑むことはありませんでした。フレアーはバディ・ロジャースのコピーだといわれていて,馬場はロジャースを絶賛していたので,表立って闘いたくなかったのだろうというのが戸口の推測。ただ,フレアーはレイスと比べると,体格的には劣りましたので,そういう相手を王者として闘いたいとは思わなかったという側面もあったのではないかと僕は考えています。
僕はここでも,単に有限であるものは無限であるというテーゼを真なるものとして成立させたいという理由だけで,与えられた同等の権利のうちの一方を行使するというわけではありません。こちらの権利を行使することによって,『エチカ』の他の部分にある不分明さが,いくらかなりとも解消されるのではないかと思うのです。それがこの権利を行使する最大の理由であると理解してください。冒頭にいったように,僕はこの別の論証は,それまでの論証と齟齬を来すけれども,有力ではあると思っています。そしてそれが有力であると思う理由というのが,この権利を行使した結果として得ることができる,『エチカ』の全体との整合性なのです。
第一部定理二三には,少しだけ不思議なところがあります。それは直接無限様態の位置付けとでもいうべきことに関連します。ここでは直接無限様態は,属性の絶対的本性から生起する結果であると示されていると同時に,無限な様態的変状に様態化した属性として,間接無限様態を生起させる原因であるとも示されています。
これでみれば,第一部定理二三の目的は,いかにして間接無限様態が生起するのかを示すことなのであって,直接無限様態というのはただその目的を達成するための手段でしかないように感じられます。確かにこの定理の文脈だけをみれば,そうであるとしか考えられないのです。しかしそうであるなら,直接無限様態というものの地位が,間接無限様態のそれと比較した場合に,著しく貶められているように感じられてならないのです。これがこの定理に秘められた不思議さの正体であるといえます。
スピノザは,思考の方法論としては因果論を選択し,目的論は排除します。ですから,このような目的論的疑問を呈すること自体が,不毛なことであるという一面があるということは否めません。属性と直接無限様態と間接無限様態の三者の間にある因果論的関係は,この定理に示されている通りの真理なのであって,そこには目的は存在しないし,それが入り込んでくるような余地もないと答えられれば,ただそれまでであるといわなければならないからです。
ドストエフスキーがルーレットに興じた史実については,『ドストエフスキー 父殺しの文学』を参考にしました。この本を詳しく紹介しておきましょう。
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上下二巻で全12章。これは時間経過の順に構成されています。さらに各章は四部分から成立。まずその時代の歴史的事件,次がその時代のドストエフスキーの伝記,そしてその時代に書かれたドストエフスキーのテクスト,最後がそのテクストの解読です。この説明からお分かりいただけるかと思いますが,非常に丁寧な構成になっています。ドストエフスキーという教科があったとして,その教科書はこのように構成されるべきでしょう。つまりこの本は,ドストエフスキーを研究するにあたり,最良の教科書であるといってもいいのではないかと思います。
ただし,四部分のうち,最初の三部分までは,だれが筆を取ったとしてもそうも変わらない内容となる筈です。しかしテクストの解読となれば,それは人によって相違が生じます。ですからこの部分に関しては,亀山郁夫の個性が十分に反映されたものであるといえるでしょう。
亀山は,ドストエフスキーのテクストの解読に際して,強調する観点をいくつかもっています。これは亀山のドストエフスキー関連の著書をいくらか読んだことがあるなら理解できる筈です。父殺しというのはそのうちのひとつ。そして題名から分かるように,この本はその観点に特化したテクスト読解になっています。つまりこれは亀山のテクスト読解のすべてが表現されたものではありません。これ以外にも亀山が強調する観点はあるのであって,その別の観点に特化して書いたとしても,おそらくこれと同じだけの分量を有するものが完成したであろうと思われます。
亀山の読解以外の部分だけであったとしても,この本はかなり有益だと思います。ドストエフスキーのファンであれば,持っていて損はないでしょうし,むしろ持っておくべきだくらいに思います。
一般的標準が二者択一を迫るのであれば,どうやら間接無限様態は,定まった存在を有する有限な様態的変状であると解さなくてはならないようです。
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『概念と個別性』に示されているような,間接無限様態を個物res singularisとみなすような主張は,概ねこのような論理構成から帰結させられるといえるでしょう。この場合,有限であるものは無限であるというテーゼを,真の命題と解することは困難になります。とはいえ,二種類の因果性の問題についていえば,ここから引き出されるのは朝倉の結論になります。つまり因果性は唯一であるということです。これは僕が帰結させたい結論と同一ですから,この件に関しては僕はこれ以上は何も言及しません。
ただ,僕が思うのは,間接無限様態が定まった存在を有する有限な様態的変状であるからといって,直ちに間接無限様態をres singularisとみなさなければならないというわけではないということです。第一部定理二八証明でスピノザがこの語句を用いるとき,それがres singularisとみなされなければならないということはすでに説明した通りです。つまり定まった存在を有する有限な様態的変状というのは,間接無限様態がそれでなければならないものであると同時に,『エチカ』の文脈においてres singularisと解さなければならないものです。だから間接無限様態はres singularisなのであると主張する権利があるということは,僕も認めます。しかし同時にこのことからは,res singularisとは間接無限様態であると主張することにも,同じだけの権利が与えられていると解するべきではないでしょうか。一般にXがAでもありBでもあるのでならない場合に,AはBであると主張することが許容されるのであれば,BはAであると主張することも同様に許容されるべきだといえるからです。そして僕はこちらの権利の方を行使することにします。そしてこの場合,res singularisが間接無限様態なのですから,第一部定理二二により,res singularisすなわち有限なものは無限であるというテーゼが,十分に成立することになるでしょう。
昨晩の第16回ジャパンダートダービー。
純然たる逃げ馬は1頭で,そのエスティドゥーラの逃げ。ノースショアビーチ,ハッピースプリント,マキャヴィティ,メイショウパワーズ,ランウェイワルツまでが先行集団。とはいえその直後の好位の先頭,フィールザスマートから後方集団までほとんど差がなく追走。カゼノコとオールラウンドの2頭だけが集団から離れてのレース。前半の1000mは62秒1ですから,これ自体はスローペース。とくに向正面ではラップが緩み,カゼノコはすんなりと馬群に追いつきました。
エスティドゥーラは3コーナーを回って苦しくなり,ノースショアビーチが先頭に。ハッピースプリントも離れずに追って,直線はこの2頭の叩き合いに。ハッピースプリントをマークしていた馬たちは苦しくなりました。叩き合いはハッピースプリントが制しましたが,コーナーで捲ってさらに順位を上げていたカゼノコが大外を急襲。ゴール寸前でハッピースプリントを捕まえて優勝。ハッピースプリントがハナ差で2着。好位から脚を伸ばしたフィールザスマートが粘るノースショアビーチを交わして半馬身差の3着。
優勝したカゼノコは2歳8月のデビュー。今年の3月にようやく勝ち上がると,5月に条件戦を脱し,前走のオープンも連勝。そこで2着に負かした馬が先週の中京の1000万を,準オープンから降級した古馬を相手に楽勝していましたので,例年レベルでは本命級。ハッピースプリントとの力量比較が問題でしたが,同等の力はあったようです。ただ,内容的に強いレースをしたのは相手の方であり,明確に力量上位であるとまではいえないかと思われます。父はアグネスデジタル。母は2001年にカブトヤマ記念を勝ったタフネススター。
騎乗した秋山真一郎騎手は2012年の阪神ジュベナイルフィリーズ以来の大レース3勝目。ジャパンダートダービーは初勝利。管理している野中賢二調教師は大レース初勝利。
第一部定理二二が,間接無限様態が実在することを主張しているのは間違いありません。ならばそれも様態的変状として存在するといわれなければなりません。一般的標準に従い,無限な様態的変状に様態化した属性と,定まった存在を有する有限な様態的変状に様態化した属性だけが存在するとしたら,間接無限様態はどちらであると解されるべきでしょうか。
一見すると,その答えは第一部定理二二のうちに含まれているように思えます。この定理は,間接無限様態が無限であり永遠であることを主張しているからです,無限な様態的変状と定まった存在を有する有限な様態的変状しか存在しないのであれば,間接無限様態が前者でなければならないことは,一目瞭然であるようにみえるからです。
ところが,当の第一部定理二二が,この解釈を許容しないように思われます。さらに次の第一部定理二三は,間接無限様態が無限な様態的変状に様態化した属性であると解釈することは誤謬であるということを,顕著に示しているように思われるのです。なぜならそこでは,間接無限様態は,無限な様態的変状に様態化した属性から生起するといわれているからです。もしも間接無限様態が,無限な様態的変状であるとしたなら,これは無限な様態的変状を原因として無限な様態的変状が生起すると主張していることになります。つまり原因と結果は同じものであると主張していることになるのです。
第一部定理一七備考にあるように,結果は原因とは異なったものであるがゆえに結果といわれます。これもまた一般的標準のひとつです。このゆえに,弱い意味や強い意味の中の弱い意味は,無条件に公理性を確保するのです。したがって,原因と結果を同一のものと解することは禁じられます。つまり間接無限様態が無限な様態的変状に様態化した神の属性を原因として生起する限り,間接無限様態は,無限な様態的変状ではないのです。
作出原因と起成原因を概念として峻別するなら,例外が生じることはあります。作出原因と結果が同一のものを,『エチカ』では自己原因というからです。しかし第一部定理一により,様態を自己原因ということはできません。
輪島市で指された第55期王位戦七番勝負第一局。対戦成績は羽生善治王位が24勝,木村一基八段が9勝。
振駒で羽生王位の先手。木村八段は受けますのでこれだと相矢倉は本命の戦型でしょう。先手は雀刺しを目指して銀も2六に上がりましたが,端からは仕掛けられず,銀を引き,飛車も4筋に転換しました。
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ここから▲4六歩△同歩▲同銀と攻めていくことに。それまでの手順からしたら本意の攻め方ではなかったかもしれません。△4五歩のとき,▲同銀もあるでしょうが,角が6四に上がった瞬間の仕掛けなので,▲5五銀の方が流れには則していると思います。△同銀▲同歩に△5八歩。先手は▲4九飛と引きましたが,この一手が入ったのは後手にとって大きかったように思います。△5五角に▲2四歩△同歩▲2五歩の継ぎ歩。後手は堂々と△同歩と応じ,▲4五飛のときに△4四金と力強く受けました。
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これで後手が局面をリードしたのではないかと思われます。▲5五飛△同金に▲2四歩と玉頭に目障りな歩を垂らされましたが,△4九飛と打ち込んだ手が絶好の攻防手でした。
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後手はと金もできそうですし,9二の飛車を転換する手もあります。第3図から▲8三角と打ってすんなり△4二飛と後手の指したそうな手を許したのは意外な進展。2枚の飛車の攻めで後手の勝ちになりました。
木村八段が先勝。第二局は23日と24日。
スピノザが様態的変状というとき,また,属性が様態的変状に様態化するというとき,それは直接無限様態を指すためか,そうでなければ個物res singularisを指すためかのどちらかです。つまりスピノザは間接無限様態を指すためには,様態的変状といっていませんし,属性が様態的変状に様態化するという言い回しを用いていません。これはなぜかと問うことが,別の論証の出発点になります。
この問いには,ある一般的標準が解答を与えてくれるように思われます。その標準とは,すべて存在するもの,あるいは概念conceptusされるものは,無限でないなら有限であるし,有限でないなら無限であるというものです。別の形にいい直せば,存在するもの,またconceptusされるものは,必ず無限であるか有限であるかのどちらかであって,無限でもあり有限でもあるということはないし,無限でも有限でもないということもないということです。
スピノザはこのことを直接的に言及してません。ただ,第一部定理一二を証明するとき,スピノザはこの標準に従っていると僕には思えます。ですからこの一般的標準を利用して,スピノザの哲学を理解しても,誤謬に至ることはないと推測されます。
様態的変状が存在するものであるということ,またconceptusされるものであるという点に,疑いの余地はないと思われます。したがって様態的変状は,無限であるか有限であるかのどちらかです。前者の場合は,無限な様態的変状です。いい換えれば属性は無限な様態的変状に様態化します。一方,後者であるならば,定まった存在を有する有限な様態的変状です。いい換えるなら,属性は定まった存在を有する有限な様態的変状に様態化することになります。
一般的標準が与える解は,これ以外には様態的変状は存在せず,また考えられないということです。つまり属性は,無限な様態的変状に様態化するか,定まった存在を有する有限な様態的変状に様態化するかのどちらかであるということです。前者が直接無限様態で,後者がres singularisなら,それ以外に様態的変状は存在しないし,考えられないことになります。
『偶像の黄昏』の「ある反時代的人間の逍遥」の最後,四八の終りから五一にかけて,ニーチェはゲーテに言及しています。そこでゲーテはニーチェによって,ドイツの事件ではなくヨーロッパの事件であると評され,ニーチェ自身が畏敬の念を抱いている最後のドイツ人であるといわれています。ニーチェにとってゲーテとは,ルネッサンスの自然性へ向うことによって18世紀を超克しようとした思想的な試みでした。
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ニーチェは処女作である『悲劇の誕生』でも,何度となくゲーテに言及しています。その文脈もすべてゲーテを肯定的に評価するものです。ニーチェのゲーテに対する態度は,終始一貫していたといっていいでしょう。
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ゲーテの作品のうち,僕がきちんと読んだといえるのは,『若きウェルテルの悩み』だけです。代表作はおそらく『ファウスト』。一般的にはゲーテはそうした作家として規定されているかもしれませんが,ニーチェは思想家としてゲーテを評価していることになります。そしてゲーテが思想家であったということは,少なくともゲーテの一面として,否定することができない事実であると思われます。
どのように規定するにせよ,ゲーテがスピノザを好んでいたということは,あまり知られていないかもしれません。ゲーテの書斎,執筆をする机の前の本棚には『エチカ』があり,ゲーテは事あるごとにそれを読み返していたと伝えられています。ゲーテを思想家とみなすとき,スピノザとの親和性を抜きに評価することはできないといえます。
ニーチェ自身もそのことはよく知っていました。ニーチェはゲーテが自身の思想を形成する際に援用した要素として,『偶像の黄昏』ではよっつを示しています。まず歴史,そして自然科学,さらに古代,最後にスピノザです。ほかのみっつと比べたとき,スピノザだけが異質な,あるいは特別なものであることが分かります。
基本的にニーチェにとって,ゲーテとスピノザはひとつの対になるような組合わせでした。『偶像の黄昏』の時点ではニーチェはスピノザには否定的であったといえますが,それでもスピノザの名前だけは出さざるを得なかったということでしょう。
スピノザの哲学の無限と有限の関係の結論は,別の考え方からも導出可能です。ここまでの論証と齟齬を来すことになりますが,有限であるものは無限ではないというテーゼが偽の命題であるということ,いい換えれば有限であるものは無限であるというテーゼは真の命題であるということ,よって限定と否定の関係から,無限であるものと有限であるものの間に,本来あるべきであると思われる関係を結果的に導き出すことができるということ,つまり結論だけは同じですので,参考までにこの別の訴訟過程についても示しておくことにします。もちろんただ結論が一致するからという理由だけが,わざわざ齟齬を生じさせる別の論証を示す理由ではありません。これから示す論証過程も,それなりの有力性をもっていると僕は考えています。
第一部定理二二と第一部定理二三では,必然的にかつ無限に存在する様態的変状に様態化した神の属性と,スピノザはいっています。ふたつの定理の文言に,部分的な相違はありますが,基本的に同一であるという点には,反論の余地がないものと僕は考えます。ここで必然的といわれているのは,必然の第一のタイプであり,永遠なといい換えることができます。そしてこれが具体的に示しているのは,直接無限様態のことです。この様態的変状を直接無限様態と解することにも,反論の余地はない筈です。
第一部定理二八証明では,神の属性が定まった存在を有する有限な様態的変状に様態化するといわれています。ここでいわれている様態的変状が個物res singularisでなければならないことは明白です。ここでは様態的変状は有限なと形容されています。『エチカ』では有限様態がres singularisといわれるのだからです。
第二部定理一〇系で様態的変状という語句が用いられるとき,これが人間の本性を示しているということは,系全体の文章から間違いないところです。したがって,たとえば岩波文庫版117ページの第二部自然学②要請一と第二部定義七から,ここでもres singularisについて,様態的変状といわれていることになります。
佐藤昭雄が日本プロレスに正式に入門を許可されたのは1970年5月。すぐに馬場の付け人に。プロレスラーデビューは同年の10月。この直前から馬場は早い時間に会場に入り,佐藤を直々に指導。デビュー後も佐藤の試合を見て,アドバイスをしていたそうです。
この時期の馬場はプロレスラーは身体が大きくなければならないという考え方。佐藤は体格に恵まれていませんでした。だから馬場は佐藤はレスラーとしてはスターになれないと考えていて,佐藤にもはっきりとそう言っていたそうです。その代わり,どんな技でも受けられるレスラーを目指すというのが馬場の指導の中心。佐藤もそれをすんなりと受け入れたようです。
佐藤の入門の1ヶ月後,1970年6月に日本プロレスに入門したのが藤波辰巳(当時)。藤波は猪木の付け人に。ただ,巡業中の旅館では,佐藤と藤波はいつも同じ部屋を割り当てられていました。
馬場の付け人だった佐藤は,旅館でも給仕などのため,馬場の部屋にしょっちゅう行っていました。そこでも佐藤は付け人としての仕事をしていただけではありません。馬場のアドバイスもありましたし,もっと一般的にプロレスやレスラーたちの話も聞いていました。佐藤はそうしたことを口外してはいけないと考えていたようですが,ほぼ同期で同部屋の藤波には,馬場から聞いたことを話すこともありました。佐藤によれば,藤波はそうした話に驚いて,猪木は何も教えてくれないと言っていたそうです。
藤波も体格に恵まれていませんでしたから,馬場に付いていたら,佐藤と同じようなアドバイスを受けていたかもしれません。そうしたら今の藤波はなかっただろうと思われます。このあたりには運命的なものを感じずにいられません。
藤波の日本プロレスでの最後の試合は1970年12月12日。対戦相手は佐藤でした。その後,藤波は日本プロレスを追放された猪木を追って新日本プロレスに。佐藤は藤波は猪木についていくことを嫌がっていたと語っていますが,結果的にはついていってすごくよかったと言っています。それは僕も同感です。
これら一連のテクストから,個物res singularisすなわち有限様態は,どのように知性に把握されるなら,その把握された観念の十全性が確保できるのかの解答が帰結します。
まず,様態と様態的変状は,理性的にのみ区別されます。要するにあるものが様態であるならそれは様態的変状でもありますし,逆にあるものが様態的変状であるなら,様態でもあることになります。res singularisにもこの条件が妥当します。つまりres singularisとはres singularisという様態でもあるし,同時に様態的変状でもあります。それは第一部定理二八証明のテクストに倣い,定まった存在を有する有限な様態的変状に様態化した神の属性であるといっておくのが最適でしょう。念のためにいっておけば,この語句は結果として生起するres singularisについていわれているのではなく,それの原因であるres singularisについて用いられています。しかしそのところは問題にはなりません。この原因であるres singularisもまたほかのres singularisによって生起するのだからです。したがってすべてのres singularisは,定まった存在を有する有限な様態的変状に様態化した神の属性であるということが,一般的に成立します。
このとき,res singularisは,様態として知性に把握される限り,有限です。そしてこの把握自体が虚偽であるということはありません。これは第二部定義七に合致した把握だからです。一方,res singularisが様態的変状に様態化した属性と把握される場合,それは有限であるとはいえません。属性は自己の類において無限なので,むしろ無限であるという方が適当です。そしてこちらの把握も誤謬ではありません。これは第一部公理四や第一部定義五に合致した把握だからです。
ですからres singularisは,有限でもあるし無限でもあるということになります。これは他面からいうなら,有限であるものは無限であるという命題が,スピノザの哲学では,真の命題として成立するということです。そしてこれが,スピノザの哲学における,無限と有限の関係の,僕の結論です。
小松島記念の決勝。並びは早坂-大槻-安部の宮城,中村-志智-有賀の近畿中部,原田-阿竹-松岡の西国。
スタートは志智が取って中村の前受け。4番手に原田,7番手から早坂の周回に。残り2周半のコーナーで早坂が上昇。原田は即座に引いて7番手。ホームでは早坂は前までは上がらず,4番手に収まって原田を牽制。バックに入って原田が発進すると早坂も併せ,打鐘で先行争いに。原田があっさりと退き,阿竹は早坂の番手を狙いにいくも失敗。引いていた中村にとっては絶好の展開で,バックから捲っていくとラインで出きって直線勝負。番手有利に差し込んだ志智が優勝。中を割った有賀が4分の3車身差の2着。捲った中村が1車輪差の3着で近畿中部の上位独占。
優勝した岐阜の志智俊夫選手は昨年1月の京王閣記念以来の記念競輪4勝目。小松島記念は初優勝。早坂が地元勢に対抗意識を燃やしたため,ラインにとって最高の展開に。他から何の影響も受けずに前に出られましたので,持っている力からすれば楽な形での優勝だったのではないでしょうか。このブログを始めた8年くらい前に期待していた選手のひとりですが,これだけの時間の経過の後に記念競輪の優勝を積み重ねていくようになるとは思いもよりませんでした。もっとも,それが人間が自分の力で走る競輪という競技の面白さであるとはいえます。
第二部定理一〇系では,系そのものの中に様態的変状という語句が用いられています。人間の本性が神の属性の様態的変状から構成されているということ。これはつまり,人間の本性が神なしにはあることも考えることもできないものであり,人間の本性の十全な認識のうちには,その原因としての神の観念が含まれていなければならないことを強調する意図からだろうと考えられます。
第二部定理一〇というのは,人間の本性に実体の有が属さないということ,いい換えるなら人間は実体ではないということを示しています。第一部公理一の意味からして,その定理から人間の本性が様態であるということは帰結します。そしてこのことだけを示すのであるなら,人間の本性は神の属性の様態的変状であるとはいわずに,単に人間の本性は実体の変状,すなわち第一部定義五により様態であるといえば十分であったでしょう。実際にこのことは,第二部定理一〇からの帰結事項です。それなのにわざわざ属性の様態的変状であるとスピノザがいったのですから,そこにはそれなりの理由があると考えるべきでしょう。
このことは,この系のスピノザによる証明によって裏打ちされていると僕には思えます。証明の方ではスピノザは,人間の本性が様態であるといっていて,様態的変状であるとはいっていません。そしてそのときスピノザが訴訟過程で訴えているのは,第一部定理二五系です。この系は,個物res particularisが,神の本性を一定の仕方で表現する様態であるということを示しています。つまりその観点は,表現される神あるいは神の属性の側にあるのではなく,表現する様態の側にあるのです。だからこの場合には,人間の本性は様態であるといわれるべきなのであり,属性の様態的変状であるといわれるべきではないのです。
このようにこの系のテクストとその証明のテクストを読解するなら,様態と様態的変状は,知性を離れて形相的にみられる限り,同一であること,よって区別されるならそれは理性的区別であること,そしてその理性的区別の内容がどのようなものであるのかということを,すべて正確に説明できると僕は思います。
沼津倶楽部で指された第85期棋聖戦五番勝負第三局。
森内俊之竜王の先手で羽生善治棋聖の横歩取り。8四飛・5ニ王型でしたが,ここのところ流行している△2四飛と飛車交換を挑む形には進まず,先手が新手を出したところで後手が咎めるべく角を打って,戦いに入りました。
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ここから▲8六飛△同飛▲同歩は僕には当然の進行に思えます。△6五桂▲6八銀に一旦△8八歩と打ち,▲同金で形を乱しておいてから△4五桂。そこで▲7九歩と打ちました。
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これは僕には思いもよらない一手。この局面では最善の受けなのかもしれませんが,喜んで指すような手とも思えず,すでに先手が苦しくしているのかもしれません。△5七桂右成▲同銀右△同桂成▲同銀に△2七銀とやや重く打ち,▲4八金に△3九飛。
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こう飛車を先着して,後手がリードを奪っています。この後,後手の攻めに誤算があったようですが,冷静に受けに回ってみると大事には至っておらず,態勢を盤石に立て直してから再び攻めに転じた後手の勝ちになりました。ただ,一局を通していうと,負けはしたものの先手のしぶとさが僕には印象的な一局でした。
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3連勝で羽生棋聖が防衛。62期,63期,64期,65期,66期,71期,79期,80期,81期,82期,83期,84期と獲得していますので,7期連続13期目の棋聖位です。
第一部定理二八と関連性が深い定理に,第二部定理九があります。ここではスピノザは様態的変状に様態化するといういい方をしていません。これはどのように考えればよいのでしょうか。
現実的に存在する個物res singularisの観念の原因が神と認識されなければならないことは,この定理の証明で確保されています。そこにはほかの観念に変状した神といわれているからです。そしてこの神は,第二部定理五により思惟の属性です。
ここから推測できるのは,様態的変状に様態化するのは属性であって,神についてそのようないい方をするのは適当ではないとスピノザが考えていたのではないかということです。だからここではほかのres singularisの観念に変状した限りでの神といういい方がされていると読解することは可能です。他面からいえば,この場合には,思惟の属性といわれるならば,ほかのres singularisの観念という様態的変状に様態化した思惟の属性といわれたであろうという結論になります。
また,この結論は別の可能性を浮上させます。この定理は,現実的に存在するres singularisの観念に特化した定理です。つまりスピノザはどんな属性であれ,それが現実的に存在するres singularisという様態的変状に様態化するといういい方は不適切であると考えていたとも理解可能です。属性は自己の類において無限で永遠の本性を有します。ですからそれがres singularisという様態的変状に様態化するとしても,それはres singularisの存在のうち,属性の中に含まれた存在でなければならないと解する余地があるからです。
僕はどちらかであると考えていますが,どちらであるかは分かりませんし,それを結論する必要はないと思います。なぜなら,どちらの場合であったとしても,僕が様態と様態的変状の間,ならびに様態に変状すると様態的変状に様態化するということの間にあると理解している,具体的な理性的区別の内容は,それによって覆されることはないといえるからです。
『白痴』は,ムイシュキン公爵がスイスからロシアへ帰るところから始まり,またスイスに戻されるところで終ります。ですからロシアに戻る前のことを,ムイシュキンは他人のことばによって知ることになります。そしてこの間の物語という小説の特性のゆえ,読者もムイシュキンと同じ立場にあります。たとえばナスターシャは自分でトーツキイの妾であったと言っていますが,その妾時代の生活というのがどのようなものであったのかを,ムイシュキンは知っているわけではありません。そしてその時代のことはテクストにありませんから,読者にとっても同様なのです。
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それでもロゴージンの殺人のテクストで仄めかされているナスターシャの処女性が,仄めかし以上のものであるとは僕には思えません。しかし彼女に処女性を求めるのであれば,そうした小説の構造といったものに注目しなければならないだろうと思われます。そしてそれを暗示するような場面が,『白痴』にまったくないというわけではないというのも事実です。
第一編の11で,ムイシュキンとガーネチカが対話する場面があります。ここでガーネチカは,ムイシュキンがナスターシャを愛したということを見破っていることを明らかにします。その最後,ガーネチカがこの部屋を出ていく直前に,ナスターシャは身持ちのいい女であると言います。そしてトーツキイとはもうずいぶん前から一緒に暮らしているわけではないと証言するのです。おそらくこのシーンが,仄めかしではなくナスターシャの処女性を示す,最有力の根拠になる部分です。
ナスターシャがトーツキイの妾であったということは,一般的な意味で事実とされていました。しかし妾である女について,身持ちがいいという表現は,そぐわないものといえます。むしろそのことが一般的な事実であったから,ガーネチカはあえてこのように語ったと解するのが妥当であると考えられます。
だからナスターシャは処女であったということにはなりません。ただ,ムイシュキンの帰国以前の出来事は,すべてこのような仕方で明らかにされるという小説の構造が,仄めかしを可能にしているといえます。
スピノザは第一部定理二八を証明する際にも,属性が様態的変状に様態化するという言い回しを用いています。そこでは個物res singularisの存在と作用の原因は,属性が定まった存在を有する様態的変状に様態化したものであるといわれています。
この定理もまた,それ自体でみるならば,res singularisを存在および作用に決定する原因は,そのres singularisとは別のres singularisであって,この関係が無限に連鎖していくということです。しかしこれだけではこの定理を十分に理解したということにはなりません。原因であるres singularisと措定されているものは,res singularisであると同時に,res singularisという様態的変状に様態化した属性であるということが,むしろスピノザが示したかったことであると解し得るからです。だからスピノザはここでも,res singularisに変状した神の属性とはいわずに,res singularisという様態的変状に様態化した神の属性といういい方を用いたと僕は理解します。そのようにいうことで,res singularisは様態としてではなく,属性として知性に把握されるからです。
したがって,この直後の第一部定理二八備考の前半部分も,同じ第一部定理二八備考の後半部分も,僕はスピノザが書いている通りに理解するべきであると考えます。確かにこの後半部分というのは,ゲルーがいっている通り,場合によっては神をres singularisの遠隔原因であるということを,スピノザは認めていると読解できるような文章となっています。しかしそれはあくまでもそのように読解することが可能であるというだけであり,実際にそのように読解することは,誤謬であると僕は思います。スピノザは第一部定理二八を証明するときに,様態的変状に様態化するという言い回しを使うことによって,神あるいは属性が,res singularisの最近原因であって遠隔原因ではないということを示したのだと僕は理解するからです。備考の前半部分でスピノザがいっている通り,res singularisは,神自身によって直接的に産出されたものであるというのが,この定理,証明,そして備考の主旨であると思います。
『偶像の黄昏』は,「箴言と矢」という断章から始まっています。その9番目の断章が次のもの。「汝自身を助けよ。そうすれば誰でも汝を助けてくれる。これこそ隣人愛の原理」。
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この断章がキリスト教の隣人愛の教えを念頭においたものだということは明らかでしょう。新約聖書のマルコ福音書の12章31で,イエスは律法学者の,あらゆる掟のうち第一のものは何かという質問に,第二の掟として次のように答えています。「隣人を自分のように愛しなさい」。
これがいわゆる隣人愛です。ただし,キリスト教的な隣人愛というのが,一般的な意味での人類愛と同義であるとは僕は必ずしも思っていません。この隣人を,キリスト教徒とのみ解釈する考え方も成立し得ると思うからです。でもこのことは今は考慮に入れないことにします。
イエスは自分を愛するように他人を愛せといったのです。これに対していえばニーチェは,他人を愛するように自分を愛せとか,他人を愛する前にまずは自分を愛せといったことになります。僕はニーチェのことばのうちには「よく効く薬」に擬えられるものがあるといいましたが,この断章はそのひとつでした。
ニーチェが何を根拠にこのようにいったのかは分かりません。断章には説明は与えられないからです。しかし少なくとも,単にキリスト教の教義に反するために,わざわざこのようにいったわけではないことは確かだと思います。他面からいえば,ニーチェはここで自身がいったことの内容に関しては,正しいと確信していたと思います。
他人を愛するということが,簡単に可能なことであるとは僕は考えません。しかしもしもそれが可能になったとき,つまり自分が愛する人を発見できたときに,その人を愛するのと同じように自分を愛するということも,やはり難しいことなのだと僕は思います。
イエスのいったことが間違いだとはいいません。しかしニーチェのいったことも,また一面の真理であることは間違いないと思うのです。
間接無限様態の無限性の由来が,直接無限様態ではなく属性であるということだけを示そうとするならば,単にそれは属性を原因として生起するとか,それは原因である属性によって無限であり永遠であるといえば十分だといえます。しかしスピノザはそのようにはいわずに,直接無限様態という様態的変状に様態化した属性によって無限であり永遠であるといういい方を選択しました。この選択にもちゃんとした理由があったと考えるべきでしょう。そしてそれはもちろん,間接無限様態が直接無限様態を原因として生起するということ,他面からいうなら,直接無限様態も間接無限様態も,必然の第一のタイプとして必然的に存在する様態ですが,直接無限様態が間接無限様態に対して,本性の上で「先立つ」様態であるという真理があったからだと考えられます。
つまり,ひとつは間接無限様態の無限性の由来が属性であるということ,もうひとつは間接無限様態に対して直接無限様態が本性の上で「先立つ」様態であるということ,この両義性を踏まえて,直接無限様態という様態的変状に様態化した属性といういわれ方がされているのだと理解するのが,正確にスピノザの意図を理解することだと僕は思います。様態的変状に様態化したものというのは,様態であるとも読み取れるし,様態ではないとも読み取れると僕はいいました。そしてこのいい回しのうちには,それら両義的な解釈がどちらも含まれているといえるかもしれません。つまり様態的変状に様態化した属性といわれるなら,それは様態でもあるし属性でもあるのです。しかしそれが単に様態であるということを示したいのであれば,様態的変状という必要はありません。様態というだけで十分であるからです。ですから様態的変状という語句そのもののうちに意図されている何かがあるとするなら,それはそれが様態であるということよりも,属性であるということだといっていいと思います。
直接無限様態を原因として間接無限様態が生起するということと,直接無限様態という様態的変状に様態化した属性から間接無限様態が生起するということは,純粋な形相的出来事としては同一です。その出来事を十全に認識するという観点からは,後者が重要だということです。
ホクトベガメモリアルの第18回スパーキングレディーカップ。
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スプリント戦で逃げたり先行したりしていましたから、この距離になってサウンドガガの逃げになるのは自然。2番手はエスメラルディーナとアクティビューティで併走。少し離れてカチューシャ。また離れてレッドクラウディア。さらにアスカリーブル,マイネエレーナと続きました。最初の800mは49秒1のミドルペース。
3コーナーを回ると2番手で追っていた2頭の方が先に苦しくなり,カチューシャが2番手に。さらに向正面で内から進出し位置取りを上げていたマイネエレーナも,そのまま内から進出して3番手。逃げるサウンドガガと追うカチューシャ。優勝争いはこの2頭に絞られ,ぎりぎり粘り切ったサウンドガガが優勝。カチューシャがクビ差の2着。騎手のコース取りが巧みだったマイネエレーナが7馬身差とはいえ3着に健闘。
優勝したサウンドガガは4走前に1600万を勝ち,前々走でオープンを勝利。牡馬相手のものですから,能力は通用。しかし1200mでの成績なので,距離延長が最大の課題。勝ったのですから克服したともいえますが,今日のメンバーでぎりぎりの勝利では,心もとないような印象も残ります。少なくともさらに距離が延びるのはマイナスと判断していいでしょう。従兄に2005年の兵庫ジュニアグランプリを勝ったモエレソーブラッズ。
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騎乗した武豊騎手は第7回,第11回,第15回に続いて3年ぶりのスパーキングレディーカップ4勝目。管理している佐藤正雄調教師はスパーキングレディーカップ初勝利。
具体的な理性的区別の内容に関する僕の結論を踏まえ,属性が様態的変状に様態化するということが,『エチカ』ではどのような文脈で用いられているのかを検証します。
この言い回しが最初に現れるのは,第一部定理二二です。僕が疑義を感じなければおかしいといった畠中の訳注は,ここに付されているものです。また,続く第一部定理二三でもこの言い回しは用いられています。これらふたつの使用法は,同一であると僕は考えます。
第一部定理二二の意味いうのは,それ自体でみるならば,間接無限様態の原因は直接無限様態であるということです。この解釈は間違いではありません。間違いではありませんが,不十分ではあります。なぜならこの定理は,間接無限様態は直接無限様態から生起するとはいわれずに,属性から生起するといわれているからです。これはつまり,直接無限様態という様態的変状に様態化した神の属性から生起するという意味です。スピノザによる文章は,明らかにそのことを強調するように書かれていると僕には思えます。
この部分で,スピノザが間接無限様態の原因として,直接無限様態ではなく属性を示したのには,はっきりとした理由があると考えられます。この定理は,間接無限様態がいかにして生起するのかということを示す意図から配されているのではなく,間接無限様態が無限でありかつ永遠であるということを示す意図から配置されているというのが僕が考えるその理由です。
もしも間接無限様態の起成原因が直接無限様態であったとしましょう。第一部公理四により,間接無限様態の認識は,直接無限様態に依存することになります。したがって間接無限様態の永遠性ならびに無限性は,直接無限様態によって考えられ,また存在することになります。しかしそれは誤りなのです。間接無限様態であれ直接無限様態であれ,無限性の由来,また永遠性の由来というのは,属性なのです。だからここでは,間接無限様態の起成原因が,属性だとされているのです。
つまり属性が直接無限様態という様態的変状に様態化したものは,直接無限様態ではなく属性です。この文脈がそれを明らかにしています。