スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&調整

2014-08-16 19:25:07 | 将棋
 昨日の第27期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第一局。対戦成績は羽生善治名人が5勝、糸谷哲郎六段が2勝。
 振駒で糸谷六段の先手で角換り相腰掛銀。先手が飛車を4筋に回り、後手が待機する将棋が最近は多いのですが、羽生名人は6筋を先に突き捨てる形を選択。とりわけ終盤で激戦になり、僕には並べていてもどのように針が揺れ動いたのかは分かりませんでした。
                          
 先手が銀を打ち込んだ局面。ここはポイントのひとつで、△3ニ銀で敗勢だったという先手の感想が残されています。後手は△同金と取り▲同銀成。ここでも△3ニ銀と受ければ後手が勝てていたようですが△7八桂成と攻めて勝ちを目指しました。▲同玉△6六桂▲7七玉△5八桂成までは、こう指した以上は一本道に思えます。そこで▲6五飛と寄った手は詰めろ。ここでようやく△3ニ銀と受けました。以下▲4二歩△同角▲6一角。
                          
 この手はあまりいい手ではなく、▲4四成銀と取るほかなかったそうです。実戦は△4三銀▲同角成△3ニ銀▲6一飛成と進みました。
                          
 ここで△5一金と受けたのですが、△4一歩なら後手の方が有望であったようです。▲4四馬と取る一手になるのでこちらの方がよさそうに思えるので不思議。ただ、△3三角▲5一龍に△4一歩が利かず、△4一金と受けなければならないのでは、先手玉を攻めるための手駒が不足することになってしまいました。どうもこれ以降は先手の勝ちになっているようです。
 糸谷六段が先勝。第二局は来月2日です。

 第二部自然学②補助定理七備考の文章に意味上の切断はないものと解し,第一部定理一三備考の文章に照合すれば,延長の属性の間接無限様態は有限であるということが帰結します。どの属性で考えても同じ筈ですから,どの属性の間接無限様態も有限であることになります。間接無限様態を個物res singularisに類するものと把握するなら,それで何も問題はありません。しかし僕は,第一部定理二二で,間接無限様態の無限性の由来が,無限な様態的変状様態化した神の属性の無限性にあるといわれていることを根拠に,間接無限様態は属性が自己の類において無限であるといわれるのと同じ意味で無限であると解します。また,別の論証においても,定まった存在を有する有限な様態的変状が,間接無限様態でありres singularisでもあるということを根拠に,間接無限様態がres singularisであると解釈するのではなく,res singularisが間接無限様態であるという権利の行使をしています。ですからこの場合にも,前と同様の理由により,間接無限様態は,自己の類において無限でなくてはなりません。
 これらから分かるように,第二部自然学②補助定理七の文章に意味上の切断があると僕が解するのは,その他の部分との整合性を保たせるためです。いい換えれば,僕のように間接無限様態の無限性を理解するためには,このテクストに何らかの調整をする必要があるのです。
 いま一度,res singularisの複合の無限連鎖を,スピノザ的に記述します。任意に抽出されるどのres singularisも,ほかのres singularisと協同して別の個体を構成する。その個体もまたres singularisである。よってそのres singularisもほかのres singularisと協同して別の個体を構成する。その個体もまたres singularisである。このようにして無限に進む。
 ここからの問題の中心になるのは,この連鎖が無限に進むというとき,実際に無限に進んだ先に何があるのかということになります。
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JBC協会賞農林水産大臣賞典スポーツニッポン杯ブリーダーズゴールドカップ&第一部定理一三備考

2014-08-15 19:06:24 | 地方競馬
 今年から牝馬限定戦に生まれ変わった昨晩の第26回ブリーダーズゴールドカップ
 先手を握ったのはワイルドフラッパー。このメンバーだとこういうケースもあり得ると僕が思っていたくらいですから,陣営にもその心構えはあったものと思います。2番手につけたのがマーチャンテイマー。その後ろは内にリアライズキボンヌ,外にサンビスタで併走。ミドルペースであったものと思われます。
 中団にいたケイティバローズが向正面から外を進出。一旦は2番手まで上がったように見えましたが,マーチャンテイマーも巻き返して3コーナー過ぎから3頭の併走。リアライズキボンヌがついていかれなかったため,空いた内にサンビスタ。ワイルドフラッパーは内を開けて逃げていたのでサンビスタはそのまま内を進出。コーナーワークで馬体を離してワイルドフラッパーに並ぶとあっさりと抜き去り,そのまま3馬身の差をつけての快勝。マーチャンテイマーにかなり詰め寄られたもののワイルドフラッパーが何とか2着を確保。クビ差の3着にマーチャンテイマー。
 優勝したサンビスタは重賞初勝利。とはいえ大きく崩れたことはあまりなく,前走も牡馬相手のオープンを2着でしたから,力があったのは間違いありません。正直なところ,休み明けで57キロのワイルドフラッパーが相手でも,勝つまではどうかと思っていただけに,たとえ相手に不利な面があったのだとしても,この馬もまだ強くなっていると考えてよいのではないかと思います。少なくとも好敵手として戦っていけるでしょうし,こちらの方が上位になるということもあり得るでしょう。父はスズカマンボ。母は2002年のフェアリーステークスを勝ったホワイトカーニバル。Sambistaはポルトガル語でサンバダンサー。
                         
 騎乗した岩田康誠騎手は第21回以来5年ぶりのブリーダーズゴールドカップ2勝目。管理している角居勝彦調教師はブリーダーズゴールドカップ初勝利。

 僕の考えでは,第二部自然学②補助定理七備考のテクストには,ある飛躍があります。あるいは意味上の切断があるといった方が正確でしょうか。物体の複合の無限連鎖を無限に進めた先に,延長の属性の間接無限様態である,不変の形相を有する物体的自然の姿があるというわけではないと思うのです。
 意味上の切断はなく,これらの文章は正確に接続されていると仮定しましょう。そうなると,延長の属性の間接無限様態は,個々の物体という部分によって構成されているということになります。スピノザのテクストの中にも部分という語句が出ていますから,確かに文章は通常はこのように理解されるでしょう。しかしこれをいうことは,間接無限様態は部分に分割し得ると主張するのと同じです。部分から構成される全体は,その部分によって分割が可能だからです。
 一方,スピノザは物体的実体は,部分に分割することが不可能であることを認めます。いい換えれば物体的実体は無限です。そのゆえに物体的実体をスピノザの哲学に翻訳した延長の属性は,神の本性を構成することができるのです。そして延長の属性の不可分性の根拠こそ,それが無限であるということ,自己の類において無限であるという点にあるのです。要するに,無限であるものは部分に分割することができません。第一部定理一三備考が,このことを直接的に述べています。
 「実体の本性は無限としか考えられえない,ところが実体の部分とは,有限なる実体のこととしか解することができない」。
 これは,どんな実体も分割が不可能であるということの証明のために言及されています。ですからスピノザはこの直後に,第一部定理八の参照を促しています。それにより実体の部分というものは存在しないこと,したがって,実体を部分に分割できないことを明らかにすることができるからです。ただ,ここでは実体に着目する必要はありません。このテクストは明らかに,部分に分割することが可能であるならばそれは有限であるということを前提しています。そちらに注目しましょう。間接無限様態が可分的なら,それは有限であると解さなければならなくなるのです。
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日刊スポーツ賞黒潮盃&第二部自然学②補助定理七備考

2014-08-14 19:16:15 | 地方競馬
 笠松から1頭,兵庫から1頭,高知から2頭が遠征してきた昨晩の第48回黒潮盃
 ほぼ横並びの発馬。ですが逃げたくない馬ばかりだったようで,隊列はなかなか定まりませんでした。抑えながらも押し出されるようにハナに立ったのはノーキディング。ほぼ並んでの2番手にテイクユアチョイス。外に高知のクロスオーバー,内にキットピークが続き,最内のブリージーストーム,大外のワットロンクンまでほぼ一団。さらにヴァイスヴァーサ,ブラックヘブン,ドバイエキスプレス,スマイルピースの4頭がまた一群。最初の800mが50秒8のスローペースになりました。
 前の2頭は並んだままレースを進め,クロスオーバーが後退し,ワットロンクンがコーナーで外を追い上げ3番手に上がって直線。ワットロンクンの動きを注視していたスマイルピースが外から一気に脚を使って抜け出すと,そのまま後続に1馬身の差をつけて優勝。馬群の中ほどに位置していた関係から外のスマイルピースを後から追ってくるレースになったドバイエキスプレスが2着。馬群の内目を捌いて抜けてきたヴァイスヴァーサが半馬身差の3着。混戦と思っていましたが,人気通りの決着になりました。
 優勝したスマイルピースは南関東重賞初勝利。とはいえ東京ダービートライアルを制して本番でも2着と,ここでは実績上位。能力を出しきれればこの馬が勝つだろうと思っていましたので,順当な勝利といえるもの。4コーナー辺りでは勝てそうだと思えたくらいで,完勝といっていいでしょう。全姉に2011年のエーデルワイス賞を勝っている現役のシェア―スマイル
 騎乗したのは昨年3月の福山競馬の廃止に伴い大井に移籍してきた楢崎功祐騎手で南関東重賞初勝利。管理している大井の佐野謙二調教師も開業約8年で南関東重賞初勝利。

 どの属性attributumを対象objectumにして考えても構わないのは,思惟の属性Cogitationis attributumを通して考えれば,個物res singularisの複合の無限連鎖の原因causaと結果effectusの連結connexioと秩序ordoは,どの属性の中でも一致するからです。なので延長の属性Extensionis attributumを考察の対象に据え,岩波文庫版115ページから始まる,第二部自然学②補助定理七備考を,より詳しく分析していきましょう。
 第二部自然学②補助定理七は,複合した物体corpusは,その内部で何らかの運動motusが生じていても,ある条件のもとに,本性naturaを変ぜず,形相formaを維持し得るということを示しています。そこでこうして組織された物体を,ここでは第二の種類の物体と規定しておきます。第二の物体であるのは,第一であるべき単純な物体のいくつかによって組織されているからであり,同時に,この後の備考Scholiumで第二の種類の個体といわれているものに,文章上の表現を一致させるためです。
 「もしさらに我々がこうした第二の種類の個体から組織された第三の種類の個体を考えるなら,我々はそうした個体がその形相を少しも変えることなしに他の多くの仕方で動かされうることを見いだすであろう。そしてもし我々がこのようにして無限に先に進むなら,我々は,全自然が一つの個体であってその部分すなわちすべての物体が全体としての個体には何の変化もきたすことなしに無限に多くの仕方で変化することを容易に理解するであろう」。
 まず,第二の種類から第三の種類を推測し,これを無限に推進していくことが可能であるということを,スピノザはここで認めています。つまり物体の複合の無限連鎖を認めていることになります。そしてどの属性で考えても同じなのですから,個物の複合の無限連鎖は,スピノザの公理系のうちで成立していると解釈するのが妥当であると僕は考えます。
 それに続く文章は,これを無限にまで進めていったところに,不変の形相を有する全自然,ここでは物体的自然ですが,それがあるといっているように思えます。これは延長の属性の間接無限様態のことだと理解しなければなりません。
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農林水産大臣賞典クラスターカップ&謎の解明

2014-08-13 19:13:42 | 地方競馬
 まるでハンデ戦かのような斤量差が発生した第19回クラスターカップ
 サマリーズが逃げると思っていましたが,最内のタイセイレジェンドが押してハナに。サマリーズが2番手に控え,外にジャイアントスター。内にエスカーダで外にスイートジュエリーと続きました。前半の600mは34秒8でこれはスローといってもいいくらいのミドルペース。
 エスカーダは3コーナー手前から,ジャイアントスターも3コーナー過ぎに一杯。逃げるタイセイレジェンドをサマリーズががっちりとマーク,3番手にスイートジュエリーとなって直線に。タイセイレジェンドは60キロという斤量を意識しての逃げだったと思われますが,ずっとマークされていてはさすがに苦しくなり,サマリーズが先頭に。スイートジュエリーも詰め寄りましたが交わすには至らず,サマリーズの優勝。クビ差の2着にスイートジュエリーと,斤量の軽かった牝馬のワンツー。後方待機策から大外を追い込んだシルクフォーチュンが1馬身4分の3差の3着。
 優勝したサマリーズは一昨年の全日本2歳優駿の勝ち馬で重賞は2勝目。その後,重賞の2着が1度だけあったものの,勝ち星は重ねられず,6月から準オープンに降級。降級戦をすぐに勝って再びオープン入りしていました。そのレースも1200m戦で,この距離の適性が最も高いということでしょう。今日は軽量が生きた面もありますし,相手も飛び抜けて強い馬がいたわけではありません。さらに背負って相手が強化されたときに,この距離でどこまでやれるのかは,まだ何ともいえないところではないでしょうか。Someriesはイギリスの牧場の名前。
                         
 騎乗した藤岡佑介騎手は第15回以来4年ぶりのクラスターカップ2勝目。管理している藤岡健一調教師はクラスターカップ初勝利。

 まず,少なくとも物体が観念対象ideatumとなる場合には,その観念の複合の無限連鎖が成立します。そしてこのことは,ideatumが物体であるということによって説明されるのではありません。思惟の属性そのものないしは思惟の属性の内部において説明されます。このことは,一般的な意味において,思惟の属性の個物res singularisである,res singularisの観念の複合の無限連鎖が成立するといっているのと同じことです。それがideatumに依拠して説明されることが不可能であるなら,このことはideatumが何であろうと成立しなければならないと主張しているのと同じだからです。
 ideatumが何であろうとres singularisの観念の複合の無限連鎖が成立するのであれば,どんな属性のうちにおいてもres singularisの複合の無限連鎖が成立します。なぜなら,どんな属性のres singularisもideatumとなるのであり,観念とそのideatumとは同一個体ですから,原因と結果の連結と秩序は一致しなければならないからです。つまり任意にどの属性Xを抽出したとしても,X属性のres singularisの複合の無限連鎖は成立するとスピノザは考えていた,あるいは実際にそこまで考えていなかったとしても,論理的にはそうでなければならないと理解するべきでしょう。これにより,第二部定義七の謎は部分的に解明されたことになります。つまりこの定義で「私は解する」,正確には「私はみなす」という形式でスピノザが示した部分の前提が,論理的に確認されることになるからです。
 第二部定理七備考は,ものがX属性の様態としてみられる場合には,全自然の秩序がX属性によって説明されなければならないという意味を含みます。つまりX属性のres singularisの複合の無限連鎖は,X属性によって説明されなければなりません。もっともこれは,思惟の属性に関して,僕が適用した事柄と同じです。ただここから分かるのは,X属性はどの属性であっても,考察の対象として構わないということです。
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『ニーチェ』&無限連鎖の原因

2014-08-12 19:10:24 | 哲学
 『ニーチェと哲学Nietzsche et la philosophie』のほかに,ドゥルーズGille Deleuzeにはもうひとつ,ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzsche関連の著作があり,日本語で読むことができます。朝日出版社の『ニーチェNietzsche』です。
                         
 ドゥルーズによる初版が出たのは1965年。1974年の第四版が翻訳に使用されたようですが,訳者によれば初版と第四版の間に相違はないとのこと。日本語版は1985年に出版。僕が所有しているのは1988年4月の第4刷。1987年に第3刷新装版発行とありますので,おそらく中身は変わっていないものの,装丁に変化があったものと推測されます。
 まずニーチェの生涯のこと。続いてニーチェの哲学のこと。最後にニーチェの著作に登場する人物や動物についての解説に該当する,ニーチェ的世界の主要人物事典というのがあります。これは非常に便利。たとえばディオニュソスといっても,ニーチェの著作の中では,様ざまな役割が付与されています。たとえばある部分でディオニュソスに言及されるとき,ニーチェがそこにどのような意味を含ませようとしているのかといったことが,この部分によって理解しやすくなります。
 以上の三部分がこの本の主要といえる構成要素だと僕は思います。ただ,本全体の分量としていえば,これで半分くらいでしょうか。残りの部分はニーチェ選集となっていて,ニーチェ自身の文章です。選集ですから,もちろんドゥルーズが意図的に選択したもの。ただ,訳者によると,その中には,ドゥルーズが手を加えて改訳した箇所があるとのことです。日本語版は,そのドゥルーズのフランス語を,そのまま日本語に訳してあるので,ニーチェ自身のドイツ語の日本語訳とは違いがある筈です。
 『スピノザ 実践の哲学Spinoza : philosophie pratique』のニーチェ版です。「哲学者たち」叢書というのがあり,ドゥルーズは『スピノザ』と『ニーチェ』を担当。そのうちの『ニーチェ』がこの本。『スピノザ』は手を加えられ,『スピノザ 実践の哲学』になりました。

 観念ideaと観念対象ideatumが同一個体であるということ。それ以外に同一個体はないということ。思惟Cogitatio以外の様態modusには必ずひとつの同一個体があるということ。思惟の様態cogitandi modi,とくに観念には必ずふたつの同一個体があるということ。ここまでの探求で得るに至ったこれらの条件を下に,個物res singularisの複合の無限連鎖は,どこまで一般化できるのかを考えていきます。
 観念対象が物体corpusである場合,観念の複合の無限連鎖が成立しなければならないということを,僕はすでに示しました。しかしこの無限連鎖は,観念されたものが物体であるということによっては,正しく説明され得ないのだと僕は考えます。これは第二部定理五からもそうでなければならないといえますし,第二部定理七備考からもそうでなければならないと思うのです。つまりもしも個物の観念の複合の無限連鎖が生じるのであれば,それが生じる原因causaは思惟の属性Cogitationis attributumそのものか,そうでなければ思惟の属性のうちにあるのであって,観念の対象となっている個物の属性そのもの,あるいはそのうちにあるのではないと考えるのです。その具体的な原因をどこに求めるべきであるかは,現在の僕には推測することしかできません。ただ,これは答えを出す必要はありません。少なくとも観念の複合の無限連鎖は,思惟以外の属性によって説明することはできないということだけ明らかになれば十分なのであって,スピノザのテクストからはそのように考えるべきであるということが明白になっているからです。
 そこで,個物の観念の複合の無限連鎖が,何らかの仕方で,観念されたものに依拠することなく,思惟の属性によって説明され得たと仮定しましょう。このことは同時に,観念対象となっている個物の複合の無限連鎖も成立することを意味します。これは物体の複合の無限連鎖が成立すれば物体の観念の複合の無限連鎖も成立するということを,物体の観念の無限連鎖が成立するなら物体の複合の無限連鎖も成立すると置き換えた上で,それを一般化したものです。もちろんこのとき,観念対象となっている個物の複合の無限連鎖は,それが個物となっている属性によって正しく説明されるのであり,観念によって,あるいは思惟の属性によって正しく説明されるのではありません。
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印象的な将棋⑧-2&同一個体の数

2014-08-11 18:57:29 | ポカと妙手etc
 ⑧-1の第2図からは駒組が進み,第1図へと進展しました。
                         
 これに似た局面はにも現れ,その将棋は先手の角が7七から5九へ,左の銀は8八から7七に上がっています。後手は同じような展開を考えていたとのこと。仕掛けられたあたりはまずかったと思われますので,何らかの修正手順は用意されていたものと推測します。
 この将棋は▲6八銀と上がり,△8五歩に▲7七角。飛車先交換を自分だけがするというのは先手の主張のひとつ。なので受けるのは当然ですが,この受け方は,現状の角の利きを通したまま戦うという意図でしょう。以下△3三角▲3六歩△2二銀▲3七桂△3一王に▲5六銀と腰掛銀にして,△7四歩に▲4八飛と右四間飛車を選択しました。
                         
 第2図と進んで作戦負けと後手の自戦記にあります。銀冠にするには手数が掛かりすぎるけれども,現状は壁銀で強く受けることが不可能というのがその理由。銀冠に組もうとしたのが欲張りだったと述べていますが,第2図までにほかの変化がないと,2手目の△6二銀は指せないとされています。
 羽生名人の2手目△6二銀は僕が知る限りではこれが最後。たぶん思わしい変化を発見できなかったということなのでしょう。

 ここまでの考察からいえることは,同一個体とは,観念と観念対象ideatumのことであり,それ以外の何ものでもないということです。そしてここには軽視することが禁物である内容が含まれています。ひとつは,この関係のほかには,同一個体を構成するいかなる関係も存在しないということです。そしてもうひとつは,もしも観念が必然的にideatumを有するようなものであるということが証明できるなら,その観念には必ず同一個体が存在するということです。
 論証はさほど難しくありません。第一部公理六は,真の観念には必ずideatumがあることを前提します。公理とはそれ自体で知られ得ることです。もしもideatumを有さない真の観念があるなら,真の観念がideatumと一致するということは,それ自体で知られようがないからです。したがって少なくともすべての真の観念にはideatumがあります。
 第二部定理三二は,どんな観念も,何らかの仕方で神と関連付けられれば,真の観念であることを意味します。この場合,観念はideatumを有します。もしもideatumのない観念があり得るなら,それは神と関連付けることが不可能な観念です。しかしそうした観念は,第一部定理一五から存在し得ません。ゆえにすべての観念はideatumを有します。すべての観念には同一個体が存在するのです。
 第二部定理七系は,思惟属性以外のあらゆる様態がideatumになるということを意味します。観念とそのideatumが同一個体なのですから,ideatumになり得るものには必ず同一個体があります。したがって,思惟の属性以外のあらゆる様態は,思惟属性のうちにその同一個体を有することになります。
 一方,第二部定理二一備考により,思惟の様態はそれ自体がideatumになり得ます。よって観念は,そのideatumと同一個体であると同時に,自身がideatumとなった場合の同一個体も有します。つまり,思惟以外の様態には必ずひとつの同一個体があり,思惟の様態,とりわけ第二部公理三によりその第一のものである観念には,必ずふたつの同一個体があるということになります。その理由は,ふたつの平行論,すなわち思惟属性とそれ以外の属性の間の平行論と,思惟属性内の平行論とがあるからです。ここからも,これらの平行論を数的に区別する合理性が理解できます。
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サマーナイトフェスティバル&ふたつの平行論

2014-08-10 18:46:49 | 競輪
 一昨日,昨日と松戸競輪場で開催された第10回サマーナイトフェスティバルの決勝。並びは天田-平原-武田-神山の関東と深谷-浅井の中部で佐藤,川村,石丸は単騎。
 深谷がスタートを取って前受け。川村が3番手に入り,4番手に天田。以下,石丸,佐藤で周回。残り3周のホームの出口から天田が上昇開始。バックで深谷を叩くと深谷はすぐさま引き,石丸まで5人が前,深谷は6番手で,佐藤,川村に。残り2周のホームから早くも深谷が再上昇。バックで天田を叩ききって打鐘。浅井までが続き,天田は3番手でしたが一杯。車間を開けた平原がホームから発進。しかし浅井がこれを厳しく牽制。外に浮いた平原は苦しくなり,武田が浅井の後ろにスイッチして前3人の争い。ほとんど2周の先行でしたが二の脚も使って深谷が優勝。外を伸びた武田が4分の3車輪差で2着。浅井は8分の1車輪差の3着まで。
                         
 優勝した愛知の深谷知広選手は先月の寛仁親王牌に続いてビッグ5勝目。サマーナイトフェスティバルは初優勝。前回の記念で近畿の連携にやられているので,同じように関東が結束した今回は,その反省から早めに巻き返していくこともあり得るとは思っていました。天田がさほど抵抗できなかったので,激しい先行争いにはならなかったのは確かですが,あの位置から発進して粘ってしまうというのは驚異的。強かったとしかいいようがないですし,現状は対抗するためには,よほどうまく作戦を立てていく必要があるのではないでしょうか。

 第二部定理二一備考には,もうひとつ,同一個体の何たるかを知るために重要な点が含まれています。それはスピノザが,精神mensと精神の観念ideaの間にある関係を,身体corpusと精神との間にある関係と類比的に説明していることです。いい換えれば,身体の観念と身体の観念の観念の関係が,身体と身体の観念の関係と類比的に説明されているのです。
 単純にいうとこれは,精神と精神の観念の関係を,身体と身体の観念の関係と類比的に説明する必要がスピノザにはあったということを意味します。ここから容易に推測できるように,身体と身体の観念の観念は,直接的には説明できないような関係にあるのです。つまり身体と身体の観念の観念というのは同一個体ではないとスピノザは考えていたと解釈するのが妥当であることになります。なぜなら,もしもその両者が同一個体であるのならば,類比的に説明するような必要性は皆無なのであり,直接的に関連付けて説明すればよいだけのことだからです,
 同一個体は平行論的関係が成立することを前提します。したがって,身体と身体の観念の観念との間には,平行論的関係が成立していないということになります。ここから福居純が,ふたつの平行論というように,平行論を延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumの間に成立するものと,思惟属性内だけで成立するものとに,数的に区別したことの合理性が理解できます。第二部公理五からして,人間が認識するcognoscere平行論は,そのふたつに集約されることになるからです。
 なお,人間はあることを知っていれば,自分がそれを知っていることを知ることができます。そしてこれと同様に,そのことも知ることができます。このように無際限に続けていくことが可能です。ですから思惟属性内の平行論はひとつなのではなく,無際限にあると主張するなら,そのこと自体には僕は同意できます。ただ,観念対象ideatumが観念である場合と,観念の観念である場合,そして観念の観念の観念というように無際限に続いていく場合を,数的に区別する必要性を僕は認めません。観念であろうと観念の観念であろうと,それがいくら続いていようと,思惟の様態cogitandi modiであることは同じだからです。
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馬場伝説&第二部定理二一備考

2014-08-09 19:02:30 | NOAH
 馬場の自著は3冊ほど紹介しました。自著ではありませんが,これ以外に資料的価値が高いものとして,筑摩書房から出版されている『馬場伝説』があります。
                         
 全日本プロレス監修となっていて,インタビュアーの質問に馬場が答えていくというのが主要な内容。ただしインタビュアーがだれなのかは明かされていません。このほか,馬場による短いまえがき,戦ってきたレスラーたちの略歴,名勝負の簡潔な紹介,年表,そして馬場が出場したシリーズの紹介から構成されています。
 初版が発行されたのは1996年12月。ですから名勝負の中には,1994年の夢のカードが含まれています。ただしインタビューの方では,1990年代のことは多くは触れられていません。天龍源一郎が全日本プロレスを退社したのは1990年4月ですが,そのことに関して少しだけ触れられている程度です。自著などからも推測できるのですが,馬場はあまり現に自分がおかれている立場に影響を与えてしまうようなことは,語りたくなかったのだろうと思います。天龍は退社後にSWSで仕事をしたわけですが,SWSは1992年6月に事実上の消滅をしていますので,それについて語る分には,この時点ではおそらく問題がなかったのでしょう。
 この後,全日本プロレスは最良の時代に。この時代のことも触れられてはいますが,どちらかといえば経営者的な視線,あるいはプロレスの先生というべき視点から語られている部分がほとんどです。このあたりの部分を読みますと,馬場が本当に語りたかったこと,あるいは語って楽しかったことは,自分がトップレスラーとして,数多くの名レスラーと戦っていた時代のことだったのだろうなという思いが残りました。
 わりと馬場は屈託なく質問に答えている印象があります。もっともそれはそのように編集したからであって,実際に馬場がそのように喋ったわけではないかもしれません。ただ,全日本プロレス監修となっているわけですから,仮に編集者の意向でこのような内容になったのだとしても,馬場はそれでよいと判断していたのは間違いないと思います。

 第二部定理二一のスピノザの証明Demonstratioは,ごく簡単なものです。人間の精神mens humanaとその人間の身体corpusは合一unioしています。だからそれと同じ理由で,人間の精神の観念ideaと,その人間の精神も合一していなければならないというのがそれです。
 AとBが合一しているということと,AとBが同一個体であるということは,同じことであると僕は解します。同一個体は,平行論的関係が成立する場合にのみ,適用されるものです。ですから第二部定理二一は,平行論を用いることによって,より容易に証明できる筈です。そしてスピノザもそう考えていたと思われます。直後の備考Scholiumでは,そうした証明について言及しているからです。
 「精神と身体とは同一個体であって,それがある時は思惟の属性のもとである時は延長の属性のもとで考えられるのであることを明らかにした。同様に,精神の観念と精神自身ともまた同一物であって,それが今度は同一の属性すなわち思惟の属性のもとで考えられるのである」。
 このテクストが,同一個体の何たるかを理解する際に,最も重要なものであると今の僕は考えています。
 まず第一に,ここでスピノザが,思惟属性Cogitationis attributumの中だけで平行論が成立するということを認めているということが分かります。ある人間の精神とその人間の精神の観念が同一個体であるということは,この両者の間に,平行論的関係が成立していることを示します。そしてその関係は,思惟の属性のもとだけで考えられるのですから,この平行論が思惟の属性の内部だけで成立しているということは明らかです。
 もっとも,この後でスピノザが述べているように,僕たちはこのことに関しては,経験的に理解できます。というのは,僕たちの精神のうちに,たとえばAの観念があるならば,直ちにAの観念の観念というものを形成し得るからです。いい換えれば,僕たちはAを知っているならば,自分がAを知っているということを知ることができるからです。なのでこのことは,実は無条件に成立するような,いわば公理的要素を有していると考えて,間違いないと僕は思います。第二部定理四三は,これを条件に証明されることになるでしょう。 
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リーザの死&第二部定理二一

2014-08-08 19:03:12 | 歌・小説
 ドストエフスキーの転向が心底のものであったか,表向きのものであったかは分かりません。ただ『悪霊』が,表面上の政治的立場を示すための小説という一面があったのは確かです。ですからそこに登場する人物のうち何人かは,ストーリーがどのように展開していくかとは無関係に,初めから死ななければならなかったといえるでしょう。
                         
 思想的転向によって内ゲバ殺人の被害者となるシャートフはもとより,シャートフ殺害に関わったレビャートキン,キリーロフ,ヴェルホヴェンスキーなどはそうした人物に該当します。
 スタヴローギンは思想的にはシャートフに近いと思われ,実際にシャートフに生命の危険が迫っていると理解できるような忠告もしています。ただ彼は革命派にカリスマとして奉られた人物ですから,これも死ななければならない運命が最初から与えられていたといえます。
 レビャートキンの妹でスタヴローギンの妻のマリヤは,思想とは無関係といえます。ただ彼女は登場人物のうち唯一,スタヴローギンを罵倒するようなこともしますので,スタヴローギンの憎しみを買い,殺されてしまうのは,物語の展開としては理解できるところです。
 シャートフの妻のマリーと,産まれたばかりの赤ん坊は,産褥で共に死んでしまいます。実際にはこの子どもはスタヴローギンの子どもであったのですから,マリーにも最初から死という運命が定められていたのだと考えることもできます。また,仮にそうではないとしても,物語の中でとても不自然な死に方をしているというわけではありません。
 マヴリーキーという婚約者がありながら,物語が進行する時間の中ではスタヴローギンの愛人とされているリーザも死にます。これもスタヴローギンの愛人という意味では死を宿命づけられていたといえるかもしれません。ただ,物語の展開の中でいえば,このリーザだけは妙に唐突に,しかも不自然に死んでしまうという印象を僕は長らく拭えないでいました。
 でも,最近になってあるひらめきがありました。考えとしてまとまったら,いずれ詳しく書いてみようと思っています。

 第二部定理二〇は,確かにある観念とその観念の観念が同一個体であるということを匂わせています。でもそれは匂わせているというだけで,明確に示しているわけではありません。それが明らかにされるのは,次の第二部定理二一においてです。
 「精神のこの観念は,精神自身が身体と合一しているのと同様の仕方で精神と合一している」。
 精神のこの観念というのは,第二部定理二〇でいわれている,ある人間の精神の観念のことです。
 この定理では合一ということをどう解するのかが,意味を正しく把握するためのすべてであるといえます。スピノザは,第二部定理一三で示した事柄,つまりある人間の精神の現実的有を構成する観念の対象ideatumがその人間の身体であるということを根拠として,人間は身体と精神が合一しているといいます。このことから一般的に次のことがいえます。それはもしもAとBが合一しているのであれば,AとBは同一個体であるということです。この定理はある人間の精神とその人間の精神の観念が合一しているといっています。ですからそれは,ある人間の精神と,その人間の精神の観念は同一個体であるという意味になります。よってここからは一般的に,ある観念とその観念の観念は同一個体であるということを帰結させられます。他面からいえば,思惟の属性と思惟の属性との間に,平行論が成立するということを,スピノザはここで認めていると考えて間違いでないことになります。
 なお,スピノザは合一という語句は,人間のみを対象objectumとして用います。ここでは人間の精神と,その人間の精神の観念について言及されていますので,合一という語句を用いることが可能でした。しかし僕はもっと一般に,ある観念とその観念対象ideatumは合一しているというように解します。スピノザの哲学において精神とは何かという点に注視するなら,とくに人間に限って合一という語句を使用しなければならない合理的な理由はないと考えるからです。つまり僕はここでスピノザがとくに人間に関して言及している事柄から,もっと広きにわたる一般的な帰結を導いていますが,この方法を否定するような合理的な理由はないものと考えます。
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スピノザとわたしたち&第二部定理二〇

2014-08-07 19:04:40 | 哲学
 『スピノザ 実践の哲学』の第六章のタイトルは「スピノザと私たち」です。これと同じ題名の本があります。アントニオ・ネグリの『スピノザとわたしたち』です。ネグリは何度かドゥルーズに言及し,評価しています。意図的につけられたタイトルという可能性もあると思います。
                           
 ネグリの関心はほとんどが政治です。ですから僕のようにスピノザの哲学に関心の中心がある場合,得るところはあまり多くないと思います。ただスピノザ自身の政治論は,哲学的基礎の上に成立することは間違いありません。
 僕の理解するネグリの政治論の基本図は,現実的に人びとの紐帯となっているものは受動的感情で,政治的抑圧はそのために生じるから,能動的感情,とりわけ愛の感情によって人びとが連帯するようになれば,政治的抑圧およびその抑圧を産出し,再生産する政治的権力は消滅に至るというものです。
 僕はこのネグリの政治論は,論理的には正しいし,現実的に政治というものがどういった力によって行われるのかという把握に関しても正しいと思います。有能な政治家とは,人民を,不安metusとか憎しみといった,悲しみの一種であるがゆえに,受動でしかあり得ない感情affectusによって結び付ける術に長けた人間だといって差し支えないくらいです。ヨハン・デ・ウィットJan de Wittはそれで殺されたのだし,僕たちが現在進行形で経験していることでもあります。ただネグリの論理は,政治的な実践という点では,やや安易に思えます。
 『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』もそうですが,とりわけ『国家論Tractatus Politicus』から顕著に窺えるのは,スピノザは人間が能動的なものによって連帯するということ,わけても政治的紐帯を結ぶということに関しては,悲観的であったということです。たとえば『エチカ』でもスピノザは,人間は親切に報いるより復讐に傾いていると述べていますが,そうした人間の本性の理解の上に,スピノザの政治論は構成されなければなりません。
 スピノザの哲学を遵守するなら,政治的実践の方法は,ネグリが示すのとは異なったものになるのではないかと僕は思います。

 同一個体の何たるかを詳細に分析していきます。まず第二部定理二〇から始めることにしましょう。
 「人間精神についても神の中に観念あるいは認識がある。そしてこの観念あるいは認識は,人間身体の観念あるいは認識と同様の仕方で神の中に生じ,また同様の仕方で神に帰せられる」。
 最初の文章が示しているのは,神の無限な観念のうちに,ある人間の精神の観念があるということです。ある人間の精神とは,第二部定理一三により,その人間の身体の観念のことです。つまりこの定理が最初に示しているのは,神のうちには,人間の身体の観念の観念があるということです。そしてこの定理が示しているのはこれだけですが,これは一般化できると考えて間違いありません。つまりAという物体が存在するならば,Aの観念の観念が神のうちにあるという意味を,ここから引き出して問題は発生しません。
 次の文章は,人間の精神の観念が,いかなる仕方で神と関連付けられるのかということについての言及です。第二部定理一一は,人間の精神が,ある個物res singularisの観念であると述べています。この種の観念は,無限である限りにおいて神のうちにあるのではありません。第二部定理九により,ほかのres singularisの観念に変状した限りで神のうちにあるのです。つまりある人間の精神の観念,同じことですがある人間の身体の観念の観念の観念対象ideatumは,思惟の属性のres singularisであることになります。第二部定理七は,ある観念とその観念のideatumは,原因と結果の連結と秩序が同一であることを示します。当然ながらこのことは,ideatumがどんな属性の様態であろうとも妥当しなければなりません。したがって,res singularisの観念とそのres singularisの観念の観念は,原因と結果の連結と秩序が同一であることになります。なのでres singularisの観念の観念も,神がほかのres singularisの観念,あるいはres singularisの観念の観念に変状した限りで神のうちにあるという仕方で,神と関連付けられなければならないのです。
 ここですでに,観念とその観念の観念は,平行論における同一個体であるということが,匂わされているといえるでしょう。
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王位戦&同一個体

2014-08-06 19:54:23 | 将棋
 札幌で指された第55期王位戦七番勝負第三局。羽生善治王位の先手で角換り相腰掛銀の将棋。最終的に持将棋となりましたので,中盤の攻防を一部だけ紹介しておきます。
                         
 2六にいた馬が2七に進み,先手が3八の飛車を1八に逃げた後,後手が3六の歩を取った局面。ここで☗4六歩△同馬としてから☗3三歩と打ちました。部分的にはただで歩を捨てたようなものですからおそろしく損ですが,4五の桂馬が動いた後,6三に歩が成れなくなるのを防いだ手という解説で,おそらくそのような意図の指し手であったのでしょう。後手は☖4三金左と逃げました。
                         
 これは並べていたときに声が出てしまったくらい驚いた手で,僕には思いつきません。対して☗5三桂成と捨てたのもびっくりした一手ですが,こちらは☖同金寄に☗7一角という実戦の進行から,攻め筋としてはあり得るように思いました。後手は☖6四馬。
                         
 これは馬が4六にいたから成立した手。ですから第1図で単に☗3三歩と打っていたならば,実戦とはまったく異なった進行になっていたと推測されます。このあたりは中盤の指し手およびその組合せの難しさを感じさせられた一局でした。
 1勝1敗のまま20日と21日の第四局に。この第四局が第三局の指し直し局になるということなので,第四局と第五局は共に木村一基八段の先手番になるものと思われます。
 追記です。第三局は持将棋で完結するのだそうです。ですので第四局は木村八段,第五局は羽生王位の先手となるのでしょう(6日午後11時前)。

 ここで,同一個体というのがどういう意味であるかを改めて確認しておきましょう。というのも,観念の複合の無限連鎖を,ここではAという物体corpusとその観念ideaが同一個体であるということを根拠として導いているからです。
 同一個体の間にある関係を,最も明瞭に示しているのは,第二部定理一三であると思われます。この定理Propositioでは,ある人間の精神を構成する観念idea, humanam Mentem constitutensの観念対象が,その人間の身体であるということが示されています。このとき,人間の身体とその人間の精神は,同一個体であるといわれるのです。このことは一般化して記述できます。ある観念とその観念の対象ideatumが同一個体であるということです。
 これを条件に,思惟Cogitatio以外の属性attributumの個物res singularisを抽出し,これをAと措定します。このときにAとAの観念というのは同一個体であることになります。次に,ideatumというのは必ずしも思惟以外の様態であるとは限りません。思惟の様態cogitandi modiである場合もあるわけです。現在の例でいえば,Aと同一個体であるとされているAの観念もまた,ideatumとなり得る思惟の属性のres singularisであるといえます。もちろんAの観念をideatumとした観念ですから,これはAの観念の観念idea ideaeであるということになります。そしてこのとき,Aの観念とAの観念の観念は同一個体です。後で詳しく分析しますが,第二部定理二一備考に示されている事柄から,スピノザがこれを認めることは確実であると考えられます。
 このとき,AとAの観念の観念は同一個体なのでしょうか。現時点での僕の考えをいえば,第二部定理七はそのように解釈することを許容しません。同一個体は平行論が成立するときに構築されます。第二部定理七が示しているのは,思惟の属性とその思惟の属性がideatumとしている属性の間に平行関係があるということだけで,それ以上は何も述べていないからです。
 ただし,AとAの観念は同一個体なので秩序ordoと連結connexioが一致します。Aの観念とAの観念の観念の間でも同様です。AとAの観念の観念の秩序と連結の一致は,僕は否定しません。
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印象的な将棋⑧-1&観念の複合の無限連鎖

2014-08-05 19:18:39 | ポカと妙手etc
 せっかくですから羽生名人が2手目に△6二銀と指した将棋をもうひとつ紹介しましょう。将棋日本シリーズ'94の準決勝。1994年11月6日の対局です。
                         
 持ち時間は大きく異なりますが,相手はと同じで,その将棋の改良版。そのときも第1図まで進み,△4一王と寄ったのですが,それが作戦負けになった要因だったとこの将棋の自戦記に記されています。改良手は△5四歩。
 2手目に△6二銀とする将棋は,どこで△5四歩と突くのかが重要なのだそうです。研究の結果,このタイミングが最善であると結論したので,これを試したようです。
 先手はこの手を狙うことができます。それが実戦の▲2四歩。△同歩▲同飛は必然の進行。△2三歩と受ければ▲5四飛。ですが受けが用意されていました。それが△3四歩。
                         
 ▲同飛は角交換して△4五角があります。なのでここから▲7八金△5三銀▲2八飛△2三歩と進展。たぶんこのあたりは後手の研究の範囲内であったろうと推測されます。

 X属性は,思惟と延長以外の属性であるという仮定です。しかしXに思惟の属性ないしは延長の属性を代入しても,それが思惟の属性との間に平行論的関係を築くということは,X属性と思惟の属性との間には平行論的関係があるということを結論したのと同じ論証過程で帰結させられます。つまり思惟の属性は,思惟の属性自身も含むすべての属性と,平行論的関係を構築することになります。第二部定理七にはそこまでのことが含意されていると僕は理解します。なお,思惟の属性と思惟の属性の間に平行論的関係があるというのは,たとえばAの観念とAの観念の観念は同一個体であるという意味です。ふたつの平行論が『エチカ』にはあるということを,以前に簡単に述べましたが,そのうちのひとつのことです。
 岩波文庫版115ページから116ページにかけての,第二部自然学②補助定理七備考のテクストのうちに,延長の属性の個物res singularisである物体には,res singularisの複合の無限連鎖が前提されているというように,ここでは理解しています。このとき,もしも延長の属性にres singularisの複合の無限連鎖があるなら,思惟の属性にも同じことが妥当しなければならないと僕は考えます。正確にいうなら,少なくとも思惟の属性が延長の属性を観念対象ideatumとするなら,思惟の属性にもres singularisの複合の無限連鎖が生じるということは,確実であると僕は考えます。
 任意にある物体を抽出します。これをAとしましょう。論理的には,このAがほかの物体たとえばBと協同して,より複雑な物体であるCを構成するわけです。この場合,AとAの観念は同一個体です。同様に,BとBの観念,そしてCとCの観念も同一個体です。したがってAがBと協同して複合物体であるCを構成するなら,Aの観念とBの観念は協同して複合物体であるCの観念を構成すると考えられるからです。第二部定理七は,物体の秩序が物体の観念の秩序と同一でなければならないということを明らかに含みます。つまりこの限りにおいて,思惟属性のres singularisの複合の無限連鎖は,いい換えれば物体をideatumとする観念の複合の無限連鎖は,第二部定義七のスピノザの前提のうちに含まれていると理解することができます。
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馬場と日本テレビ&X属性と思惟の属性

2014-08-04 19:13:21 | NOAH
 馬場が日本プロレスを退団したのは,日本テレビとの契約を無視する形で,自身の試合がNET,現在のテレビ朝日で放映されたことに端を発しています。これを機に,日本プロレス中継の大スポンサーであった三菱電機が提供を中止。三菱と関係が深かった日本テレビも,中継を休止しました。ただし,この頃のプロレス中継は非常に視聴率が高い番組。さらに日本テレビはプロレス中継のパイオニアで,このプロレス中継は正力松太郎の遺産という考え方があり,できれば馬場を中心とした番組を再開したいという意向を有していました。全日本プロレスの設立は,こうした経緯から実現したものです。
 この時期の事情に関しては,当時のプロデューサーだった原章が詳しく語っています。日本プロレスの中継が打ち切られたのは1972年5月。当時の日本テレビの社長から,日本テレビはプロレス中継を続けなければならず,それは馬場が中心でなければならないという指令が下り,馬場を独立させるための計画が開始されました。黎明期のプロレス中継の中心はいうまでもなく力道山で,正力の遺産というのはそのこと。つまり日本テレビには,力道山の後継者は馬場であるという考え方があったということでしょう。
 原は馬場を独立させたのは,日本プロレスに対する報復であったと語っています。中継休止となった5月の末には秘密裡に馬場を本社に呼び,社長と面会させたとのこと。原は,自分たちが馬場を独立させて全日本プロレスを設立するように仕向けたということについては否定していません。ただ,馬場自身にも,これまでの恩がある日本テレビや三菱電機との縁が切れるのは忍びないという気持ちがあったといっています。つまり日本テレビ側には馬場と直接交渉する余地があり,馬場にもそれを受諾する気持ちがあったというように解釈するべきなのでしょう。
                         
 馬場と日本テレビが相思相愛の関係にあったことがよく分かります。『マイクは死んでも離さない』を倉持隆夫が,日本テレビのアナウンサーとしての自身に固執して書いた理由も,こうした事情から説明されるべきなのでしょう。

 第一部定理二八は,思惟と延長以外の属性にも該当するという意味が第二部定理七備考には含まれていると僕は考えます。このことは,第一部定理一六からも推測することができます。そこでスピノザが無限に多くのものというとき,そこに個物res singularisが含まれるのかどうかは,実は見解が分かれます。ただ,少なくともこのテクストだけを読む限り,res singularisも含まれると解するのが妥当だというのが僕の考えです。一方,無限に多くの仕方といわれるとき,それが無限に多くの属性を意味することは,間違いがないと僕は考えます。つまりこの定理は,無限に多くの各々の属性から,その属性のres singularisが生じるということを意味している,正確にいうなら,そういうことも意味していると僕は考えます。したがって第一部定理二八というのは,無限に多くのどの属性にも妥当しなければならないということが帰結してきます。
 思惟でも延長でもない任意の属性Xには,無限に多くのres singularisが存在することになります。ここでいうXは,特定の属性を示すと同時に,思惟と延長以外のすべての属性を示すというように考えておいてください。
 それら無限に多くのX属性のres singularisを,任意にひとつだけ抽出したとします。その抽出されたres singularisの観念は,神の無限な観念のうちにあると考えられます。第二部定理七系は,こうしたことを含意すると理解されるからです。なお,これも任意に抽出したres singularisの観念ですから,ある特定の観念であると同時に,すべてのres singularisの観念でもあると考えてください。
 このとき,そうして抽出されたX属性のres singularisと,そのres singularisの観念は,平行論における同一個体であると僕は考えます。第二部定理七は,こうした解釈を許容する,あるいは強制すると考えるからです。というのは,第二部定理七を成立させる根拠を,スピノザは第一部公理四に求めているからです。第一部公理四は,観念対象ideatumとなっているものがどの属性に属するかを問わずに成立しなければならないと思われます。よってX属性と思惟の属性の間には,平行論は成立します。
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平安賞&第二部定理七備考

2014-08-03 18:53:34 | 競輪
 ペナルティーで長期欠場に追い込まれていた選手の期間が軽減され,いよいよその一部の選手たちも参加して争われた向日町記念の決勝。並びは矢野-山下の栃木茨城,石井-成清の千葉,深谷-井上の西日本,松岡-稲垣-村上の近畿。
 迷わずに深谷がスタートを取って前受け。3番手に石井,5番手に松岡,8番手から矢野で周回。残り2周半のバックから矢野がじわじわと上昇。最終コーナー付近で深谷に並ぶと深谷はホームで引きました。矢野ラインに続いていた松岡が一旦は3番手に入り,6番手に石井,8番手に深谷の一列棒状でホームを通過。バックに入ってから松岡が矢野を叩いて打鐘。石井がうまく続いて4番手,矢野が6番手,深谷が8番手と,隊列は変化したものの一列棒状のまま。松岡はそれが自分の役回りとそのまま緩めずに踏み,深谷もほとんど上がれずにバック。ここから今度は稲垣が番手捲りを敢行。村上も車間を開いて牽制。深谷は前には追いつけず,直線は村上が僅かに差して優勝。稲垣が8分の1車輪差の2着で地元のワンツー。うまく立ち回った石井が流れ込んで1車輪差の3着。
                         
 優勝した京都の村上義弘選手は3月の日本選手権以来の優勝。記念競輪は昨年9月の岐阜記念以来で通算27勝目。地元記念は現行制度以前の2000年の前節と現行制度下での2005年と2010年に優勝していて4年ぶりの4勝目。また2003年には当地で行われたふるさとダービーでも優勝しています。ここは深谷のパワーに近畿勢の連携でどう立ち向かっていくのかというレース。結束力が上回っての優勝といえるでしょう。矢野の動きをうまく利した面があり,7番手ではなく5番手を取ったのがうまい作戦だったのではないでしょうか。地元での復帰戦を優勝で飾り,村上個人だけでなく,競輪界全体にとっても良い結果であったと思います。

 かねてからやらなければならないと考えていましたが,いよいよ第二部定理七備考を詳細に検討する機が熟したようです。
 「無限な知性によって実体の本質を構成していると知覚されうるすべてのものは単に唯一の実体に属している」。
 備考のほぼ冒頭部分で,スピノザはまずそういっています。僕が考えるその理由は,このことが平行論が成立する最大の根拠であるとスピノザが考えていたというものです。つまり無限に多くの属性は,実在する唯一の実体の本性を構成します。このゆえに,ある属性と別の属性は実在的に区別されても,秩序と連結が一致し得るとスピノザは考えたのではないでしょうか。ただし第二部定理七は,思惟の属性と他の何らかの属性,ないしは思惟の属性と思惟の属性の間の平行論は成立させられますが,思惟以外の属性と別の思惟以外の属性の間で平行論が成立するということは帰結させられません。この点は見解が分かれると思われますが,これは現時点での僕の基本的認識です。
 「物が思惟の様態として見られる間は全自然の秩序あるいは原因の連結は思惟の属性によってのみ説明されなければならぬし,物が延長の様態として見られる限りは全自然の秩序もまた延長の属性のみによって説明されなければならぬ(中略)。同じことが他のすべての属性についてもあてはまると私は考えるのである」。
 こちらは備考のほぼ終焉にあたる部分です。ここでは延長と思惟以外の属性について言及されています。しかし,そうした属性と延長の属性の間に平行論的関係があるということが言及されているのではないと僕は理解します。延長と思惟以外の属性について,何が当て嵌まるとスピノザがいっているのかといえば,たとえばそれをX属性と規定するなら,ものがX様態としてみられる限りでは,全自然の秩序がX属性によって説明されなければならないということです。これは第二部定理六と同じともいえます。しかし他面からいうなら,たとえば第一部定理二一と第一部定理二二,またとりわけ第一部定理二八が,延長の属性にも思惟の属性にも妥当する定理であるならば,それはX属性にも妥当する定理であるということが含まれると僕は考えます。
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吹雪&推論の確認

2014-08-02 19:09:32 | 歌・小説
 「MEGAMI」は「グッバイガール」というアルバムに所収されています。このアルバムのラストが「吹雪」という歌。僕にはよく分からないところがあります。
                         

  恐ろしいものの形を ノートに描いてみなさい
  そこに描けないものが 君たちを殺すだろう


 たとえばこのフレーズなら理解できます。第二部公理五は,僕たちが認識するのは延長の様態か思惟の様態だといっています。描けるものは形のあるもの。つまり延長の様態です。僕たちを殺すのは,僕たちが本当に恐れるべきは,物体ではなく思惟の様態なのです。物質的な武器ではなくて人間の精神なのです。

  降り積もる白いものは 羽の形をしている
  数えきれない数の 羽の形をしている
  あまりにも多過ぎて やがて気にならなくなる


 こうなると分からなくなります。いや,何を暗示しようとしているのかは分かります。数えきれなくて気にならなくなるほどの羽の形をした白いものとは,直接的には何でしょう。タイトルから類推すれば雪の筈です。でもこの雪はどうして羽の形をしていなければならないのでしょうか。

  疑うブームが過ぎて 楯突くブームが過ぎて
  静かになる日が来たら 予定どおりに雪が降る


 ここは僕が気に入っているフレーズ。予定通り,といわれれば僕は決まって雪が降ると結語したくなります。また,雪が降るといわれれば,予定通りにという枕詞をつけたくなります。それくらいこのふたつのことばの表象像は,僕の精神のうちで直結しています。
 いつの日か,予定通りに雪は降るでしょう。ことによると,気にはなっていないだけで,もう降っているのかもしれません。

 前提の条件は,僕が論理的に帰結させた結論です。いかに論理的な帰結とはいえ,推論の域を出ていないのは事実です。このまま複合の無限連鎖について考えていくことには危険が伴います。そこでまず,任意に抽出されたどんな個物res singularisも,他の個物と協同してより複雑な個物を構成すると,本当にスピノザが考えていたのかどうかを確認しておくことにします。
 スピノザはこのことを直接的に明言していません。これは僕の推論が正しいということが確実であるとはいえないという意味です。しかし同時にこれは,僕の推論に誤りがあるということも確実であるとはいえないという意味でもあります。ですから何らかのテクストを根拠に据えて,まずこの点を確定させる必要があります。
 僕が注目するのは,岩波文庫版115ページから116ページの,第二部自然学②補助定理七備考です。この部分は,任意に抽出されるどんな物体corpusも,他の物体と協同して,より複雑な物体を構成するということを前提におかない限り,成立しないように僕には思えます。いい換えればこの前提なしには成立しないことをスピノザは主張しているように思われます。
 物体は第二部定義一により,延長の属性Extensionis attributumの個物res particularisです。しかしある単一の物体を任意に抽出する限り,それがres singularisであることに異論はないものと思います。個物の定義である第二部定義七に示される条件に,物体は合致するからです。
 つまり,少なくとも延長の属性に限定するなら,どんな個物も他の個物と協同して複合個体を構成するということを,スピノザは認めていたと考えられます。あるいはこのことをスピノザは否定することができないと考えられます。ですから残るのは,これと同じことが,延長以外の属性においても成立するといえるのかどうかという点です。
 第二部定理七は,多く見積もっても,観念ideaと観念対象ideatumの間でのみ成立します。ですからこの平行論に訴求することは,ここで導き出したい事柄の根拠にはなり得ません。平行論はどこまで推進することができるのでしょうか。
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