スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
日曜日の桜花賞 を勝ったレッツゴードンキ の輸入基礎繁殖牝馬は5代母にあたるレディフランダーズ 。その祖母のLegendra から続く一族はほかの系統からも日本での活躍馬が輩出しています。2007年のJRA賞 で最優秀2歳牡馬に選出されたゴスホークケン と,最優秀4歳以上牝馬に選出されたコイウタ は共にこの一族。ファミリーナンバー は4-r で,クヰックランチ と同じです。
レディフランダーズは1969年アメリカ産。社台に輸入され,全繁殖生活を日本で送りました。多くの牝馬を残したので,枝葉は広がったものの,重賞タイトルにはなかなか手が届きませんでした。
レディフランダーズが1979年に産んだのがダイナフランダース 。JRAで現在の準オープンに当たるレース3勝を含めての6勝で繁殖入り。彼女も多くの牝馬を産み,そのうちの1頭が1992年産のセンボンザクラ 。JRAで現在の1000万2勝を含む4勝。繁殖牝馬となり,2009年のエリザベス女王杯 を逃げ切って大穴をあけたクィーンスプマンテ の母となりました。これがレディフランダーズ一族の日本での重賞初勝利にして大レース制覇でした。
ダイナフランダースの初仔はフリースピリット という牝馬で3戦未勝利。その1996年の産駒のエリットビーナス も3戦して2着3回でしたが,繁殖牝馬としては優秀。初仔がJRA3勝,2番仔がJRA5勝,3番仔もJRA3勝,4番仔もJRA3勝。2番仔以降はいずれも牝馬で,すべて繁殖入り。レッツゴードンキは2番仔であるマルトク の産駒。一族の重賞2勝目も,大レース制覇でした。
牝馬が多く産まれていて,大レースの勝ち馬2頭も牝馬。一族はむしろこれから繁栄していくという可能性すらありそうです。
スピノザ主義において,必然と不可能 がいかなる意味においても対義語を構成すること,いい換えれば,あらゆる事物は必然的に存在しまた作用するか,存在することも作用することも不可能であるということを,ライプニッツが部分的には認めているのは,それが真理と非真理 に関係する場合です。
命題文の主語が述語を正確に含むとき,ライプニッツはそれが真理であると規定します。そしてこのように規定された真理に関しては,無限に多くあるモナドすなわち可能世界のすべてで実現します。他面からいえば,この真理に反する非真理が表現されるような可能世界は実在することが不可能です。
これでみればスピノザ主義が何を主張しているかは明らかでしょう。あらゆる事物が必然であるかそれとも不可能であるかのどちらかであるということは,ライプニッツ主義的にいえば,どんな事物も真理であるか非真理であるかのどちらかであって,真理でも非真理でもないようなことは一切ないといっているのです。
これに対してライプニッツは真偽不明 な事柄もあると主張します。神の自由の領域 を是認するためにはそれが必要だからです。ですからこれをスピノザ主義で規定すると,スピノザ主義は偶然と可能は単に知性の認識に関連する限りで意味を有するのに対して、ライプニッツは偶然であったり可能であったりすることが実在するといっているのだということになります。スピノザが可能世界を否定し,ライプニッツが肯定するのは,この相違によって最もよく説明できるのかもしれません。
ライプニッツ主義では,どんなモナドの認識も神の認識に依存します。したがって,もしもあらゆるモナドのうちで実現されることがあるとしたなら,そのことの認識は神に依存しなければなりません。つまりライプニッツ主義でいう真理の認識はすべて神に依存します。おそらく非真理の認識は真理の認識に依存するでしょうから,非真理の認識も神に依存するといっていいでしょう。他面からいえば,神は主語が述語を正確に含む命題が真理であるということを認識しているということになります。では,真偽不明の命題に関してはどうでしょうか。
なぜか火曜日に行われた第19回マリーンカップ 。
好発はタッチデュールでしたが,行く気はなかったようです。大外からサマリーズが先頭に。この馬の逃げは大方の予想通りではないでしょうか。サンビスタが2番手でがっちりとマーク。向正面に入る辺りでトロワボヌールが単独の3番手に押し上げ,4番手にマーチャンテイマー。この後ろは内にカイカヨソウ,外にケンブリッジナイスの併走。少し離れてアクティビューティが追走という隊列に。前半の800mは49秒0のミドルペース。
3コーナーを回るとサマリーズの手が動き出したのに対し,サンビスタは余裕の追走。4コーナーでは2頭が並び,すぐに先頭に立ったサンビスタが抜け出して4馬身差の快勝。勝ち馬をマークしていたトロワボヌールが2着。大外から脚を伸ばしたアクティビューティが3馬身差の3着と,きわめて順当な結果に収まりました。
優勝したサンビスタ は前々走のTCK女王盃 以来の勝利で重賞4勝目。牝馬限定なら能力は断然。1600mの距離,58キロの斤量と,課題がなかったわけではありませんが,ものの見事に克服。というより唖然とするほどの強さを見せつけました。この路線では現状は対抗できそうな馬は不在で,牡馬相手の重賞制覇が次の目標といえそうです。父はスズカマンボ 。母は2002年のフェアリーステークスを勝ったホワイトカーニバル 。Sambistaはポルトガル語でサンバダンサー。
騎乗した岩田康誠騎手は第16回 以来3年ぶりのマリーンカップ2勝目。管理している角居勝彦調教師 はマリーンカップ初勝利。
神Deusが何事かを決定したとき,その決定の実現 が必然的necessariusであることは,スピノザ主義でも遵守されています。この場合にも,スピノザ主義と比較することによって,ライプニッツ主義の特徴が浮かび上がります。
スピノザ主義における神の決定 は,神の本性の必然性necessitasにのみ依拠します。前回のテーマで考察したように,『エチカ』には表現上は二種類の因果性 すなわち必然性があります。しかし第一部公理三 に示されている必然性は単一です。いい換えれば,それら二種類の因果性,すなわち垂直と水平 の因果性は同一の因果性です。したがって神の本性の必然性は唯一 です。
第一部定理二九 でスピノザがすべては神の必然性から決定されているというとき,因果性が唯一であることを踏まえたなら,個物res singularisが現実的に存在する場合にもこの定理Propositioが妥当するということが理解できます。同様のことは,第一部定理二六 でスピノザが神から決定されたものといっているときに,そのものを現実的に存在する個物に適用した場合にも妥当します。現実的に存在する個物も,すべてといわれるものに含まれ得るし,神から作用に決定されたものに含まれ得るからです。だからスピノザ主義では可能世界 は存在せず,ただ現実世界が唯一の世界として実在することになります。必然性が唯一で,その唯一の必然性によってあらゆることが決定されるのであれば,実在する世界も唯一であるからです。いい換えれば,神の本性の法則に適することのすべては必然的に実現し,適さないことのすべては実現が不可能であることになるからです。
だから,スピノザ主義においては,個物の存在 がどのように認識された場合でも,必然と不可能 が対義語であることになります。つまり個物は神のある属性attributumに包容されて存在する場合にも,また現実的に存在するという場合でも,必然的に存在しまた作用するか,そうでなければ存在することも作用することも不可能であるのです。
僕の考えでは,ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizも部分的にはこれを認めているのです。
昨日の西武園記念の決勝 。並びは佐藤友和に岩津,平原-武田-飯嶋の関東,佐藤龍二-渡辺の南関東,稲垣-村上の京都。
渡辺がスタートを取って佐藤龍二の前受けに。3番手に佐藤友和,5番手に平原,8番手に稲垣で周回。残り3周のバックから稲垣が上昇し,村上の後ろを平原が追いました。ホームで佐藤龍二は下げ,斬った稲垣を叩いて平原が先頭でバックに。引いて4番手の外まで追い上げていた佐藤龍二がバックで平原を叩くとこのラインを追ってきた佐藤友和が打鐘で佐藤龍二を叩いて先行。ホームでは渡辺の後ろが内に平原,外に稲垣でしたが稲垣が構わずそのまま発進。村上が離れてしまったので平原が稲垣を追うことに。稲垣はバックの入口で岩津の横まで上がったところで一杯。バックで外から平原が発進。岩津が応戦しようとしましたが,平原は前に出ました。岩津に絡まれるところがあったものの,しっかり平原を追走した武田がゴール前で平原を差して優勝。平原が4分の1車輪差の2着で関東のワンツー。半車身差の3着に岩津。
優勝した茨城の武田豊樹選手 は先月の玉野記念 に続いてGⅢ25勝目。西武園記念は2005年と2012年 に優勝していて3年ぶりの3勝目。絶好調という感じは受けないのですが,早くも今年の記念競輪3勝目は,底力のなせるところでしょう。ここは現状の力を考えれば,平原を差せるか差せないかの勝負。平原もそんなに脚を使ったという感じではないので,きっちり差し切ったのは立派だったと思います。自力も使えるし,番手も回れるので,今後も安定した結果を残していくものと思われます。
ここからは,モナドの中のモナド である神が,無限に多く実在するすべてのモナドと共通点 を有し得るのは,いかなる条件の下にであるのかを探求します。
これを問うことは,なぜ無限に多くのモナドすなわち可能世界が実在し得るのかを問うことと同じです。なぜなら,モナドすなわち可能世界はそれ自身のうちにあるけれども神すなわちモナドの中のモナドによって概念されるというのがライプニッツ主義の立場であり,すでにみたように,そのことの条件は,あらゆるモナドが他のモナドとは共通点を有さず,モナドの中のモナドとは共通点を有するということのうちにあるのだからです。
また,これを問うことは,なぜ神は無限に多くのモナドすなわち可能世界から,ひとつだけを抽出し,それを現実世界にすることができるのかと問うているのとも同じです。なぜなら,神は善意 によってそれを選択するのですが,第一部定理三三備考二 にあるように,この場合の善は神の本性のうちにあるのではなく,神の外部にある目的であるのですから,神が選択可能である条件というのは,モナドすなわち可能世界 が無限に多くあるということのうちにしかないといえるからです。
つまり,これは多角的な方面から探求が可能なのです。そこで僕は,おそらくそのうちで最も簡明であると思われる方法でこの問いに対する解答を出していくことにします。
このために,ひとつだけ前提をしておきます。これはライプニッツの哲学に関係するだけでなく,おおよそ哲学というものが覆してはならない条件であると僕は考えます。それは,もしもある哲学の中で神というものが定義されている場合に,その神が何がしかの事柄を決定するという場合には,その決定が必ず実現しなければならないというものです。たぶんこれが哲学一般に妥当する前提であるということに,異論は出ないものと思います。
スピノザとの対決の本質 がどのようなものであったとしても,ライプニッツは神学的観点 を死守しなければなりません。ですからライプニッツがこの前提を覆すということに関しては,とくに不可能であるし,哲学自体が無意味に帰するといえるでしょう。
牝馬クラシック第一弾の第75回桜花賞 。
ローデッドが躓くような発走。内からムーンエクスプレスが自然に先頭に。その外からレッツゴードンキが抑えきれないように交わしていき,レッツゴードンキが単騎で逃げる形。無理に競りかける馬がなく,前半の800mが50秒0という信じられないような超スローペースに。力がある馬にこんなに楽に逃げられては,この時点で勝負は決していたといえるでしょう。クールホタルビは注文をつけてやや離れた殿を追走しましたが,残りの16頭はごった返していました。
レッツゴードンキは4コーナーの辺りではすぐ後ろをついてきた馬たちに並ばれるようなシーンこそあったものの,直線ではほかの17頭を置き去りにし,4馬身差の圧勝。後方の内を追走,3コーナー過ぎから徐々に外に出し,直線は密集した馬群のすぐ外,馬場の中ほどから脚を伸ばしたクルミナルが2着。中団の内を追走し,直線もそのまま最内に進路を選択したコンテッサトゥーレが4分の3馬身差で3着。
優勝したレッツゴードンキ はこれが2勝目ですが,新馬を勝った後は王道路線の重賞ばかりを使って3着,2着,2着,3着ですから勝つ力は十分にありました。大きく差をつけることになったのは展開の恩恵でしょう。やや行きたがる部分が残っていますので,そのあたりは今後の課題といえそうです。父はキングカメハメハ 。母の父はマーベラスサンデー 。祖母の従妹に2009年のエリザベス女王杯 を勝ったクィーンスプマンテ 。
騎乗した岩田康誠騎手は昨年11月のマイルチャンピオンシップ 以来の大レース制覇。第72回 以来3年ぶりの桜花賞2勝目。管理している梅田智之調教師は昨年10月のコーフィールドカップ 以来の大レース2勝目。
ライプニッツ主義における神とモナドの区別 が,スピノザ主義における神と属性の理性的区別 に類する区別であると把握します。僕がライプニッツは神は実体であるけれども同時にモナドでもあるという道を選択するであろうというスチュアートの考えに賛同するのは,この意味においてです。スピノザ主義では,属性は神の本性を構成するという意味において,神とは属性であると規定することは不可能ではありません。これに類する意味において,神はモナドであると規定することが,ライプニッツ主義においては不可能ではないし,そればかりではなく不可欠であろうと僕は考えるのです。というのも,神はモナドではない純然たる実体であると主張するならば,ヘーゲルのライプニッツ批判 にある通り,ライプニッツは結局のところスピノザ主義者になってしまうからです。いい換えれば,スピノザ主義者と対決 するライプニッツ主義者であることができなくなってしまうからです。
ただし,スピノザ主義において,神と属性を同一視することは,ある条件の下に不可能ではないというだけであり,それを文字通りに理解してよいかといえば必ずしもそうではありません。事物とその事物の本性は理性的に区別されますが,実体と属性の理性的区別 の場合だけは,固有の難題を有しているからです。これと同様のことが,ライプニッツ主義で神とモナドの区別を理性的区別とみなす場合にも成立します。実際,あるモナドと別のモナドは実在的に区別されるのでなくてはなりません。ですから単に神はモナドであると主張するなら,神とあらゆるモナドは実在的に区別されなければならないことになってしまうからです。そこでここでは,神がモナドであるということのうちには,ある特有の意味があるのだということを示すために,スチュアートが使用している表現に倣い、神はモナドの中のモナドであるといっておくことにします。繰り返しますが,無限に多くあるどのモナドも,他のモナドとは一切の共通点を有しません。モナドの中のモナドである神だけが,すべてのモナドと何らかの共通点を有するのです。
これでライプニッツの選択する道は決定されました。
オーストラリアのロイヤルランドウィック競馬場で開催されたクイーンエリザベスステークスGⅠ 芝2400m。
トゥザワールドとトーセンスターダムは最初は6,7番手で並ぶように追走。外にいたトーセンスターダムは道中で徐々に上がっていき4番手に。逆に内にいたトゥザワールドは上がっていくことができず,少し位置を下げました。トーセンスターダムの直前にいた馬が離して勝ったのですが,それを追い掛けて4コーナー手前からトーセンスターダムが鞭も使いながら上昇。しかし逆に突き放されて力尽き,勝ち馬からおよそ5馬身半差の5着。馬群の中で追われたトゥザワールドはまったく伸びず,最後は外に出して流すような入線。およそ23馬身差で最下位でした。
トーセンスターダムは勝ち馬を追って勝ちにいったレースですから,内容的には及第点だと思います。力量差もあったと思われますが,レース振りからは距離が長いような印象を受けました。トゥザワールドはまったく力を発揮できませんでした。間隔が短かったことが影響したのかもしれません。何らかの故障を心配してしまうような結果でした。
モナドの区別 が,ライプニッツ主義として仮定される実在的区別であるとしましょう。すると神とモナドは,同じ意味において実在的に区別することはできません。なぜなら,モナドの区別の根拠は,あるモナドが別のモナドによって概念されることがないという点にあるからです。もし神とモナドの間にある区別が,あるモナドと別のモナドの間にある区別と同様であるなら,モナドは神によって概念され得ないということが帰結します。しかしこれはライプニッツが主張しようとしたことと正反対です。よって神とモナドの区別は,あるモナドと別のモナドとの区別とは異なった区別です。
あるモナドと別のモナドの区別は,スピノザ主義と折合いをつけることが可能です。ですからここでライプニッツがいっていること,あるいはいわなければならないことは,スピノザ主義の観点から考えた場合に,僕などにはよく理解できます。すなわちあるモナドと別のモナドの間には一切の共通点 がありません。ライプニッツは無限に多くのモナドが存在すると主張しますが,それら無限に多くのモナドのどれとどれとの間にもこの関係が成立します。一方,神はそれら無限に多くのすべてのモナドと何らかの共通点を有する存在でなければならないのです。だから,ライプニッツ主義における神とモナドの関係は,スピノザ主義と関連させていうならば,神と属性の間にある関係と譬えることができると思います。
スピノザ主義では,物体的実体 と延長の属性は同一視できます。同様の意味で思惟の属性と思惟的実体も同一視できます。第一部定義六 は無限に多くの属性の実在を前提します。そしてどんな属性とその属性によって本性を構成される実体の間に,この関係が成立します。そしてそれらすべての実体の区別の方法 を知性は有しません。実際にはそれらすべての実体は神という唯一 の実体です。このような意味において,属性と別の属性は実在的に区別されるけれども,神と属性の区別は理性的区別 であると考えることは不可能ではありません。ライプニッツ主義では,これに類する関係が,神と無限に多くのモナドの間に成立しなければならないと僕は考えるのです。
『個と無限 』を参考にして,第二部定理七証明の意味 がどういった内容でなければならないかを検証しました。今後の利便性を考慮に入れて,第二部定理七自体を改めて取り上げておきましょう。
「観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である (Ordo, et connexio idearum idem est, ac ordo, et connexio rerum. )」。
何といっても重要なのが,この定理Propositioでいわれている物rerumというのが,第二部定義一 で示されている物体corpusではないということです。岩波文庫版の訳者である畠中尚志は,第一部公理六 で対象 ideatumと訳した直後に,観念されたものという独自の訳語を補足しています。第二部定理七でいわれている物というのは,このような意味において観念されたもののことです。したがってこの定理が意味しているのは,観念ideaと観念対象は,秩序と連結が同一であるということです。
そうであるなら,スピノザがこの定理で観念対象という語を用いなかったのは不思議に思えます。ただ,観念対象という語句は,あくまでも知性intellectusのうちにある意味においてのものというように理解されかねません。第二部定理七でスピノザがいいたいのは,観念対象がそれ自体で知性を離れたものとして,すなわち形相的なformalis事物rerumとしてみられたとしても,その事物とその事物の観念の秩序ordoと連結connexioは同一であるということだったと考えられます。このゆえに,ここでは観念対象とはいわれていないのではないでしょうか。
第一部公理三 は,事物が形相的にformaliterあろうと客観的にobjectiveすなわち観念としてあろうと同様に成立します。したがって何らかの形相的事物Xが実在するなら,Xが実在する原因causaが存在します。一方,第一部公理四 は,結果effectusの認識cognitioが原因の認識に依存しなければならないことを示しています。したがって,たとえばYが原因となってXが形相的に存在するなら,Xの観念はYの観念に依存することになります。いい換えればYの観念が原因となってXの観念が存在することになります。つまりXとXを観念対象とする観念の秩序と連結は一致します。
カーリー Edwin Curleyは腹立たしくなると憤慨していますが,スピノザがこの定理を第一部公理四にのみ訴えるだけで証明Demonstratioをすませたのは,こうした理由によるものと考えます。
あるモナドと別のモナドは,明らかに実在的に区別 されなければなりません。ライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの哲学では,実体substantiaがそれ自身のうちにあるesse in seということ,いい換えれば,モナドがそれ自身のうちにあるということは,このことの根拠とはなり得ないと僕は考えます。なぜなら,もしもそれが区別distinguereの根拠であるなら,モナドが神Deusによって考えられなければならないということと矛盾を来してしまうからです。モナドがそれ自身のうちにあるという根拠によってのみ,あるモナドと別のモナドを区別することが可能であるとするなら,その限りにおいて,モナドはそれ自身で認識されている必要があるからです。したがって,むしろモナドが神によって考えられるということのうちに,実在的区別の根拠があるとライプニッツは主張しなければならない筈です。
スピノザ主義の立場からは,ライプニッツは不可能な主張をしなければならないということになります。ヘーゲルのライプニッツ批判 が示しているのがまさにこのことだからです。しかし,スピノザ主義というものがあるなら,ライプニッツ主義があっても構わないわけで,ライプニッツ主義の立場からは,それが根拠となり得るというようにライプニッツの哲学は構築されていなければなりません。
モナドすなわち実体が神によって認識されるとライプニッツが主張するとき,おそらくあるモナドは別のモナドによって考えられることはないということも含まれているのだろうと推測します。というか,このように推測しておかないと,あるモナドと別のモナドが,様態的にではなく実在的に区別されるということは不可能だと僕は考えます。したがって,あるモナドと別のモナドが実在的に区別され得るのは,どんなモナドも,それ以外のモナドによっては認識され得ないという点にあると僕は考えます。
部分的には,これはスピノザ主義とも折合いがつきます。というのは,スピノザ主義における実在的区別というのは,共通点 を有さないものの間での区別だからです。第一部公理五 が示すように,共通点がないものは,一方を認識しても他方を認識することが不可能です。この規準だけは満たしているといえるでしょう。
試合後のマイク によるパフォーマンスの効果だったとはいえないのかもしれませんが,ラッシャー・木村 は馬場とのシングルマッチをまた実現させるに至りました。1988年8月29日の日本武道館大会。7月16日に殺されてしまった超獣 のメモリアル大会と銘打って開催された興行です。
馬場と木村 はそれまでにも何度かシングルで対戦していました。まだ木村が国際プロレスに在籍していた頃のものは僕のプロレスキャリア より以前ですから,後にビデオで視ただけ。それは対抗戦につきもののような殺伐としたムードが感じられるものでした。しかし木村が国際血盟軍 を結成して以後のものは,木村が実直に馬場に立ち向かうといった趣で,どちらかといえばのんびりとしたムードさえ感じられるような試合になっていました。この日もそんな内容で,馬場が勝利しました。馬場も木村も全盛期の力はなかった筈ですが,プロレスラーの力として,木村には馬場に勝つだけのものはなかったというのが妥当で,試合の結果はごく順当なものでしょう。
そして試合後のマイク。このときのパフォーマンスは日本プロレス史上に残すべきものと僕は思っています。
ふたりは毎日のようにタッグマッチで対戦していました。この大会の前のシリーズは23戦ありましたが,そのすべてで馬場&X対木村&鶴見五郎 の試合が組まれています。それだけ対戦していると,馬場を他人と思えなくなってきたから,兄貴と呼ばせてほしいというのがこのときのマイクパフォーマンスの主旨でした。プロレスとしてはおおよそあり得ないような内容ですが,木村が発すると,単に笑いがあるだけでなく,真実味も含まれているように感じられました。それは木村の人柄のなせる業だったといえるでしょう。
これを機に,ふたりの関係はまた新しい段階に入っていくのです。
スチュアートは,ヘーゲルのライプニッツ批判 が,スピノザ主義寄りの立場からなされていることに気付いていたようです。そこで,ヘーゲルが取りあげている批判を,別の問題として置き換えています。それは,神とモナドとの関係を,ライプニッツはどう主張するべきかという問題です。
スチュアートが示しているように,ライプニッツにはふたつの選択肢があるように僕には思えます。ひとつは神とは純然たる実体であって,モナドとは異なるという選択です。もうひとつは神は実体であるけれども,同時にモナドでもあるという選択です。スチュアートは,ライプニッツはきっと後者を選択するであろうと予想しています。僕もその予想に賛同します。ただし,その後でスチュアートが示している事柄は,またスピノザ主義寄りの立場から展開されていると僕は考えます。なので,スチュアートの予想がなぜ正しいかということに関しては,僕が独自の方法で説明していくことにします。
まず,ライプニッツにとって重要だったのは,神学的観点 からスピノザと対決 することでした。そしてヤコービとライプニッツ との違いを示したことから明らかなように,ヤコービ は論理的にスピノザと対決するのは不可能であると考えていたのに対し,ライプニッツは論理的にスピノザ主義を崩壊させることが可能であると判断していました。この点が大前提になります。
次に,第一部定理五 に対するライプニッツの疑問 は,第一部定義三 を射程に入れたものでした。いい換えればライプニッツは,実体はそれ自身のうちにあるけれども,それ自身によって考えられることはないと認識していたのです。モナドとは,その条件を満たすような実体でなければなりません。実体と実体との区別 が実在的区別であるなら,あるモナドと別のモナドは実在的に区別されなければなりません。スピノザ主義に依拠すると,ヘーゲルがいっている通り,モナドとモナドの区別は様態的区別であるということになります。しかしライプニッツは,区別のあり方について,スピノザとは違って考えていたと僕は理解します。いい換えればこの部分でスピノザ主義的にこれを解決することは僕はしません。
好メンバーが顔を揃えた第26回東京スプリント 。
アルゴリズムが出負け。好発はゴーディーでしたがシゲルカガがすっとハナに。これも楽にダノンレジェンドが2番手に上がり,押しながらグレープブランデーが3番手。そしてその外にサトノタイガー。最内のピエールタイガー,控えたゴーディーと続き,ノーザンリバーとドリームバレンチノはその後ろ。前半の600mは34秒1でハイペース。
3コーナーを回ってシゲルカガのリードは2馬身ほど。ダノンレジェンドとグレープブランデーの差も同じくらい。差は縮まりましたが直線入口でも前の隊列は変わらず。そこからダノンレジェンドがシゲルカガを交わして優勝。シゲルカガが逃げ粘って2馬身差の2着。ただ1頭だけ伸びたといえるノーザンリバーがグレープブランデーを交わして2馬身差で3着。
優勝したダノンレジェンド は先月の黒船賞 に続き重賞3連勝。強い内容でしたが,今日は前が止まらない馬場状態が大きく味方したように思います。2着馬は前走でオープンを勝っていますが,強力メンバーのレースではなく,その馬が2着に粘れたことを考えれば,3着馬に対して着差ほどの力差があるわけではないでしょう。ただ,スムーズに先行できれば力が発揮できることは明瞭になりましたから,今年のこの路線の中心的存在であることは間違いありません。
騎乗した丸田恭介騎手,管理している村山明調教師 は東京スプリント初勝利。
ヘーゲルは『哲学史講義』という著書で,ライプニッツの批判を行っています。『宮廷人と異端者 』では,その批判のうち,現状の課題と関係する部分が少しだけ紹介されています。それを取り掛かりにします。
ヘーゲルは,最終的にはスピノザに対して批判的でした。それはとりわけスピノザの認識論 において,主体というものが完全に排除されてしまっていることと大きく関連します。しかしヘーゲルは,哲学者であるためにはスピノザ主義者でなければならないという考えを有していました。なので,ライプニッツの主張とスピノザの主張が食い違う部分においては,基本的にスピノザ主義の立場からライプニッツの方を批判することになります。ヘーゲルのライプニッツ批判には,まずそういう原則があるということに注意してください。
ヘーゲルが問題にしているのは,ライプニッツのいう可能世界すなわちモナドが,実体として成立するのかという点です。これは,第一部定理五 に対するライプニッツの疑問 というものは,スピノザ主義の立場からみれば,レトリック にすぎないという僕の考えとパラレルな関係にあるといえます。というのは,現実世界だけでなく,すべての可能世界が神の意志によって創造されるというなら,モナドには実体としての性質がないというのがヘーゲルの批判の中心だからです。いい換えればヘーゲルもここではスピノザ主義の立場から区別というものを考え,あるモナドと別のモナドは様態的に区別されなければならないと考えているのです。要するにモナドは実体ではなくて様態であるというのがヘーゲルの認識だといえます。
僕の考えでは,おそらくライプニッツは区別ということの考え方がスピノザと違っているのです。なのでこの批判はそれ自体ではライプニッツの批判にはならないかもしれないと思います。ただ,モナドが様態ならば,神が実体でなければなりません。その実体の意志によらずしてモナドが存在し得ないとしたら,第一部定義三 は,スピノザがいっているのと同じ意味でライプニッツの哲学においても守られているということになります。つまりライプニッツもスピノザ主義者にほかなりません。
鶴巻温泉で指された第8期マイナビ女子オープン 五番勝負第一局。対戦成績は加藤桃子女王が1勝,上田初美女流三段 が0勝。
振駒 で加藤女王の先手。上田三段の横歩取り △3三角。途中,先手が飛車の動きで損をした感があるのですが,後手も決定的な差をつけるには至りませんでした。後手の方が先に角を手放して歩を取ったのですが,その後の働きに難があったためだと思います。
先手がぶつかっていた歩を取ったところ。すでに後手がやや困っているのかもしれません。
△8八歩は手筋ですが,この局面では悪化を招いたように思います。
▲7七桂と逃げて△8九歩成に▲6五桂の二段跳躍。△8五桂との跳ね違いは,跳ねた地点からして先手が得をしたように思います。▲8六歩とその桂馬を取りにいきました。
△7七歩と打つのは止むを得ないでしょう。▲8七金と逃げ,△7八歩成とまたと金を作られましたが,▲8五歩で桂馬を取りきりました。
と金は2枚できましたが,早い攻めがあるわけではなく△3四歩。
ここで受けに回らなければならないのであれば,はっきりと後手が苦しいと思います。▲4六桂が厳しい手で,ここからは先手が圧倒しています。
加藤女王が先勝 。第二局は18日です。
ライプニッツがスピノザを訪問するということが,どのような意味においてライプニッツを運命的 と結論付けるとしても,それは大した問題ではありません。いい換えればそれは,ライプニッツの哲学にとっての危機であるとはいえません。この哲学が危機に瀕するのは,こうしたことがライプニッツの訪問について妥当するだけでなく,ライプニッツが真偽不明 と判定するすべての命題について,といってもこの場合には,人間が主語を構成するような命題に限られるわけですが,そうした命題のすべてに妥当してしまうことです。かくして独裁者は人民に対して圧政を行います。テロリストは無差別に人を殺傷します。民族主義者は異民族を排斥します。たとえそれが最善の世界であるといわれても,これが神の善意 の裁量に依拠するなら,人はそういう神に信仰心を持つことができるでしょうか。要するにライプニッツの哲学から帰結する,人間を限りなく運命的な存在と規定することは,むしろキリスト教に対する疑念を湧き起こしてしまうのではないかと僕には思えるのです。
もっとも,こうしたことはライプニッツの哲学の枠内で解決されるべき事柄です。ですから本当のところをいえば,僕はこのこと自体には大して関心を払っているわけでもないのです。僕にとって興味深く感じられるのは,このようなことが何ゆえに結論されてしまうのかという一点にあるのです。そしてこのことが,神に対して善意というものの一切を否定した,第一部定理三三備考二 と大きく関連しているのだと僕は考えているのです。スピノザは神に善意を帰することと,神が神自身の外にある目的のために働くということを等置しました。そこには,神をそのようなものと規定するならば,ほかならぬ神自身にとってよからぬ事柄が必然的に帰結するということが,暗に含まれているのではないかと考えるのです。
そこでここからは,神が外にある目的のために働くということが,一体どういった条件の設定の下で可能になるのかということを探求します。これがこのテーマにおける最後の考察課題です。これにより,ライプニッツの哲学の真偽不明の意味が,はっきりとするでしょう。
4日に行われる予定でしたが,荒天のため今日に順延されたオーストラリアのロイヤルランドウィック競馬場でのドンカスターマイルGⅠ 芝1600m。
リアルインパクトは3,4番手の外,ワールドインパクトは一団となった馬群の後方付近を追走。ワールドエースは直線を前に押していき,外に持ち出す構え。リアルインパクトは絶好の手応えのまま,内の馬たちに押し出されるように先行勢の大外に。ここからリアルインパクトが内の馬たちを交わして先頭に。残り100mでは抜け出す態勢でしたが,馬群の真只中を追い込んできた馬が,最後はリアルインパクトのすぐ内から脚を伸ばすと,リアルインパクトは抵抗できず。しかし外を強襲してきた馬の追撃は凌ぎ,およそ1馬身4分の3差で2着。ワールドエースは最後は外から2頭目を追い込む形となり,それなりの脚は見せたもののおよそ5馬身差で8着。
リアルインパクトはいい競馬をしてくれたと思います。ただ,これだけの頭数で大外近くからの発走はやはり不利で,できればもう少し内目の枠がほしかったところでしょうか。ワールドエースも前回よりは内容は良化していたと思います。おそらく調子が上がっていたのでしょう。それでこの結果ですから,勝ち負けするまでには力に足りないところがあるということなのだと思います。
第二部定理四九 は,ある意志作用 が現実的に存在するためには何らかの観念が現実的に存在していなければならないということと,何らかの観念が現実的に存在するならば,ある意志作用が必ず現実的に存在するというふたつの意味を含みます。いい換えれば,個々の観念と各々の意志作用は理性的区別 によってのみ区分が可能であるということを含みます。したがって,ある人間の精神のうちに何らかの意志作用があるということは,その人間の精神の現実的本性を構成する観念なしには考えることができません。よって,人間の意志作用を正しく説明するためには,その人間の精神の現実的本性の,少なくとも一部についての説明が不可欠であるということになります。ですからライプニッツがもしも個々の意志作用が神の善意の裁量のうちにあると説明しても,その説明とスピノザのこの説明とを比較したなら,ライプニッツの人間観の方がよほど人間を運命的な存在と規定していることは明白だといえるでしょう。
第三部諸感情の定義一 は,現実的に存在する人間が受動的である限り,欲望がその人間の本性であることを示します。第四部定理四 は,現実的に存在する人間が受動 を免れ得ないということを意味しますから,人間の現実的本性が欲望として考えられなければならない場合が必然的に生じます。したがって少なくともこの場合には,ある人間とその人間の欲望は,理性的にのみ区別することが可能であることになります。つまり現実的に存在する人間の欲望について正しく説明する場合には,受動という状態にあるその人間について説明することが不可欠であることになります。ですからライプニッツが現実的に存在する人間が何を欲望するのか,いい換えるなら,現実的に存在する人間が何を希求し何を忌避するかが,神の善意の裁量のうちにあるのだと主張したとしても,やはりこのスピノザの説明と比較した場合には,ライプニッツはだいぶ人間を運命的な存在であると規定していることになる筈です。
ライプニッツがキリスト教を守るという目的から構築しようとした哲学にとって,この帰結は重大な問題になり得るのではないかと僕には思えます。
新年度に入って最初の記念競輪になる高知記念の決勝 。並びは房州-山崎の福島,牛山-神山の茨城栃木,浅井-伊藤の中部,村上-佐々木の西日本で和田は単騎。
村上がスタートを取って前受け。3番手に浅井,6番手に牛山,7番手に房州,最後尾に和田の周回に。残り2周のホームから房州が上昇し,和田も追随。和田の後ろに牛山。村上は後ろまで引かず,和田の後ろに入って打鐘。牛山が外から和田の外に上昇し,山崎の後ろを取り合うような形。かなり下げていた浅井が発進し,前にもつれがあったこともあり,結果的にかまし先行のようなレースに。バックで房州の後ろから山崎が発進。この後ろを牛山-神山で追うことに。伊藤の牽制はあったものの,外から豪快に捲って山崎が優勝。大外を佐々木が伸びて4分の3車身差で2着。最内に進路を選択した神山が1車輪差の3着。
優勝した福島の山崎芳仁選手は2月の全日本選抜 以来のグレードレース優勝。記念競輪は昨年9月の岐阜記念 以来で通算15勝目。高知記念は初優勝。房州を利せるので,若干は有利かなと考えられました。その房州がわりと楽に前に出られ,浅井には一旦は捲られたものの,相手の発進が早かったこともあり,落ち着いて捲り返すことに成功。展開の恩恵があったのも事実ですが,しっかりと自身の脚を使ってのもので,今年はやはり目が離せない存在になりそうです。
スピノザの説明 とライプニッツの説明 の最大の差異は,次のようなところに存すると考えられます。
スピノザの説明の場合,ライプニッツの精神の中にあるとみられる意志作用 が,後のライプニッツの知覚に対して,十全な原因の一部 としての部分的原因を構成し得ます。しかしライプニッツの説明では,こうしたことはあり得ません。また,スピノザの説明だと,ライプニッツの現実的本性 ,第三部諸感情の定義一 によりライプニッツの欲望が,ライプニッツの身体運動に対して十全な原因の一部を構成し得ます。しかしライプニッツの説明では,こうしたことも不可能になります。ライプニッツは一例なのであって,これは現実的に存在するすべての人間に妥当しますから,スピノザの説明では,人間の意志作用がある観念の原因を構成し得るし,人間の欲望がその人間の身体の運動の原因となり得るのに対し,ライプニッツはそれを否定することになるのです。
ただし,この解釈は,ライプニッツに対して意地悪である可能性もあります。というのは,ライプニッツが真偽不明 と判断するのは,単にある行為に関する命題だけではなく,人間が欲望し,また意志をすることにも及ぶと解することも可能だからです。つまり現実的に存在する個々の人間がどういった事柄を意志し,またどんなことを欲望するのかということまで含めて神の善意 の裁量の中にあるとライプニッツは主張することが可能です。この場合には人間は意志に見合った思惟作用をなすでしょうし,欲望に見合った運動をすることになるでしょう。ですからそこに因果関係を認めることは相変らず不可能であると僕は考えますが,人間が何を意志し,また何を欲望するのかということとは無関係に,人間は神が選択した可能世界に則して,つまり否応なしに作用するという結論だけは回避することができることになります。
けれども,もしもライプニッツがそのように主張したとしても,スピノザの哲学と比較したときに,ライプニッツの哲学で規定されている人間が,きわめて運命的 な存在であるという点は変わらないと僕は考えています。なので僕のその考えの根拠を示していきます。
スピノザが第四部定理三七備考二 でいっていることは,場合によっては刺激的に響くかもしれません。たとえばAという人間とBという人間のふたりが存在したとして,Aという人間の本性からBという人間を殺傷するということが必然的に生じるとすれば,AはBを殺傷する自然権を有しているということが帰結するからです。他面からいえば,Aの本性のうちにBを殺傷することがなし得ることとして含まれているなら,Aはその権利を産まれながらに有しているということになるからです。
確かにそれがAの本性のうちに含まれているなら,僕はこのことを是認しなければならないと考えます。ただし,人間と別の人間との間にこのような自然権が存在するということはありません。実際にこのような主張が有効なのは,以下のような観点に依拠すると僕は考えます。
スピノザは人間の自然権について語っていますが,どんな事物も最高の自然権によって存在するでしょうし,本性から流出することを最高の自然権によってなすでしょう。第一部定理三六 からして,そのような自然権が人間にだけ特権的に与えられるとは考えられないからです。このときに,たとえばライオンにはシマウマを殺傷する自然権が生まれながらにして与えられているというのが,本性によってなし得ることを自然権として規定することの原理的な意味合いになります。だからAの本性にこのような意味でBを殺傷することが含まれているなら,それはAの自然権であるということになるでしょう。
第四部定理三五 では,理性 に従う限りではすべての人間の本性が一致するといわれています。この限りでは,Aの本性のうちにBを殺傷することは含まれ得ません。Aの本性とBの本性は一致しますから,Bを殺傷することが含まれるなら,Aを殺傷することも含まれます。しかしこれは第三部定理五 に明確に反してしまうからです。
ただし,これは正義という概念の発生を意味し得ません。第四部定理三一 により,この観点からは善だけが出てくるのであり,悪は出てきません。善悪 は比較上の概念なので,実際にはこの観点からは,善も悪も,つまり正義も不正も認識され得ないからです。
スピノザの説明 との比較をしやすくするために,ここでもライプニッツがスピノザを訪問するという例を用いましょう。
スピノザの哲学では,第一部定理二八 および第二部定理九 からの帰結として,この事象を正しく説明するために,ライプニッツ自身について言及することが不可欠です。なぜなら訪問という作用に対して,ライプニッツが十全な原因の一部 としての部分的原因を構成するからです。しかし僕が理解するライプニッツの世界観からすると,ライプニッツはこのような説明をすることはできません。
ライプニッツがスピノザを訪問するという命題は,ライプニッツの判断によれば真偽不明 となる筈です。このゆえに,ライプニッツがスピノザを訪問するという可能世界 と,ライプニッツがスピノザを訪問しない可能世界の両方が実在します。ここでいう実在というのは,現実的に実在するという意味ではありません。ただこういうふたつのモナドがあるという意味です。そしてどちらかのモナドが神の善意 によって選択され,現実世界となります。史実はスピノザとライプニッツは会ったのですから,ライプニッツはスピノザを訪問するという可能世界が神によって選択され,スピノザを訪問しないという世界は可能世界としてとどまったことになります。
僕が理解するところでは,ライプニッツの世界観において,ライプニッツがスピノザを訪問するということは,これ以上の仕方では説明できません。いい換えればこれが十全な説明のすべてであることになります。すなわちなぜライプニッツはスピノザを訪問したのかという問いに対する答えは,神がその世界を現実世界として善意によって選択したからだということになります。
命題として真偽不明であるとされる事柄のすべては神の善意によって決定されるということを認める限り,この解答しか僕には考えられません。つまり神が訪問する方の世界を選択すれば,ライプニッツは否応なしにスピノザを訪問しますし,もし訪問しない方の世界を選択していたとしたら,ライプニッツはスピノザを訪問することはなかったでしょう。要するに現にあるのとは違った世界になった筈です。
1日に第42回将棋大賞 が発表されました。
最優秀棋士賞は羽生善治名人。名人奪取,棋聖防衛 ,王位防衛 ,王座防衛 ,棋王挑戦 。朝日杯将棋オープン優勝 。2014年度の実績は断然で,当然の選出でしょう。現行制度になった第33回以降では,33回 ,35回 ,36回 ,37回 ,38回 ,39回 に続き3年ぶり7度目,それ以前も含めると20度目の最優秀棋士賞獲得です。
優秀棋士賞には糸谷哲郎竜王。竜王挑戦 ,奪取 。棋界最高峰のタイトルを獲得したのですから,これも順当といえるでしょう。優秀棋士賞は初受賞。
敢闘賞は郷田真隆王将。王将挑戦,奪取 。新たにタイトルを獲得したのが羽生名人と糸谷竜王のほかには郷田王将だけということを考えれば,これも妥当でしょうか。現行制度下では第39回以来3年ぶり2度目,通算では5度目の敢闘賞。
新人賞は千田翔太五段。王位リーグ紅組優勝 ,順位戦昇級,昇段。棋戦優勝はなかったのですが,受賞しておかしくない戦績であるとはいえると思います。
記録部門は最多対局賞が豊島将之七段。最多勝利賞と勝率1位賞が菅井竜也六段,連勝賞が横山泰明六段でいずれも初受賞となっています。
最優秀女流棋士賞は甲斐智美女流二冠。女流王位防衛 ,倉敷藤花防衛 。一般棋戦でも2勝しています。女流棋士の中から選出されるということであれば,当然でしょう。初受賞。
女流棋士賞は香川愛生女流王将。女流王将防衛 。一般棋戦では3勝。こちらも女流棋士の枠内での選出なら当然。ただいずれ問題化するのではないかと懸念されます。初受賞。
女流最多対局賞は清水市代女流六段で第38回,39回に続く3年ぶり3度目の受賞。
升田幸三賞は数々の新機軸を編み出している菅井竜也六段。塚田スペシャルの塚田泰明九段が升田幸三賞特別賞を受賞。共に初受賞。
名局賞は王座戦第五局。羽生善治王座はこの賞ができた第34回 ,35回,36回,40回 ,41回 に続き3年連続6度目,豊島将之七段は初。名局賞特別賞に新人王戦の2回戦。343手という超長手数の将棋でした。
喜びの半減 という例は,ただ論理的に説明をするという目的だけのための仮定です。現実的にそうしたことが生じることはないでしょう。ただ,この論理的帰結として,現実的に存在する人間は,喜びをそして悲しみを感じるそのたびごとに,現実的本性 を変化させているということを明瞭に示していることは間違いありません。喜びや悲しみの量的変化 が起こるということは経験的事実であり,その量的変化が生じる原因は,喜びおよび悲しみを感じることによって,質的変化が生じているからだとしか説明できないからです。
ある喜びを感じることが,次に喜びを感じるときの量的変化の原因となっています。これはつまり喜びを感じた時点で,現実的本性に質的変化が生じていることの証明です。これはどんな小さな喜びでも,すなわち他人からは表象され得ない喜びの場合にも成立します。つまり程度問題です。いい換えれば,現実的本性の変化が大きいか小さいかの問題に還元できます。そしてこれと同じことが,喜びだけでなく,悲しみの場合にも成立します。ですから「人が変わる 」という慣用表現が実際に,つまり真理として意味している暗黙の前提 というのは,現実的に存在する人間が,喜びを感じ悲しみを感じるごとに,その人間の精神の現実的本性 が変化するということなのだといえるのです。いい換えれば,ある喜びを感じる以前の人間と,その喜びを感じた後の人間は,たとえ同一人物であると措定できるとしても,現実的存在としては様態的に区別することが可能な別の人間であるということなのです。これが喜びを感じまた悲しみを感じるたびごとに生じるのですから,最終的な結論として導き出せるのは,様態的区別が可能な無数の同一人物が存在するということになります。
これで,人間のある行為の原因に関わるスピノザの説明 を考察していく際に,放置しておいた事柄の探求は完了しました。そこでここからは,ライプニッツの世界観において,人間の行為がどのように説明され得るのかということを考えていくことにします。これを考えることによって,真偽不明というライプニッツの規定の具体的な意味も明らかにすることができます。
昨晩のクラウンカップ で大穴を出したウインバローラス の父はスターリングローズ 。全姉に1994年の桜花賞トライアルの4歳牝馬特別とオークストライアルの4歳牝馬特別を勝ったゴールデンジャック 。その産駒には2002年の京阪杯,2003年の京都金杯,2005年の関屋記念を勝ったサイドワインダー 。また,姪の産駒には2011年の武蔵野ステークスを勝った現役のナムラタイタン がいます。
デビューは3歳1月。2戦目にダートで初勝利。4戦目にやはりダートで2勝目をあげ,クラシックを目指しましたが出走ならず。4歳の9月と10月に準オープンを2勝してオープン馬に。5歳の3月にオープンで初勝利をあげました。
5月のかきつばた記念でサウスヴィグラス の2着に入り重賞で初の連対。次のオープンを勝つとプロキオンステークスで重賞制覇。3ヶ月の休養を挟んだシリウスステークスも勝って南部杯へ。重賞連勝を含めて3連勝でしたから1番人気に支持されましたがトーホウエンペラー の7着と大敗。距離が長かったということはない筈で,この大敗は戦歴の中では不可解です。
この年のJBCは南部杯と同じ盛岡。JBCスプリントに挑戦。サウスヴィグラスが不在だったこともあり,ここも1番人気に支持され,今度は人気に応えて大レース制覇を達成しました。
ここから休養に入り6歳の5月に復帰。初戦のかきつばた記念は2着でしたが続くかしわ記念を優勝。ただしこの当時のかしわ記念はGⅡの位置付け。さらにプロキオンステークスで連覇を飾りこのシーズンのキャンペーンは終了。
秋の復帰戦はシリウスステークス。これは8着。連覇を目指した大井でのJBCスプリントはサウスヴィグラスの3着。全日本サラブレッドカップは2着でしたが暮れの兵庫ゴールドトロフィーで重賞6勝目をあげました。
翌年の根岸ステークスは大敗したもののフェブラリーステークスはアドマイヤドン の3着。これが引退レースになっています。
能力としては同時期に走ったサウスヴィグラスの方が上なので,種牡馬として同じように活躍するのは難しいでしょう。ただ,2012年の七夕賞と2013年のアルゼンチン共和国杯を勝ったアスカクリチャン はスターリングローズ産駒。芝の長距離にも対応できる産駒を出す資質はサウスヴィグラスにはないものと思えます。
第三部定義三 は,感情affectusという語句が,延長の属性Extensionis attributumを意味する場合にも思惟の属性Cogitationis attributumを意味する場合にも共通して用いられることを示します。ですから岩波文庫版113ページの第二部自然学②公理一 を用いて,身体corpusの喜びlaetitiaあるいは悲しみtristitiaの量の変化について示したことは,その人間の精神mens humanaのうちでも同様です。すなわち,出来事が一定なのに喜びないしは悲しみの量が変化するのは,人間の身体の現実的本性actualis essentiaが異なっているからではありますが,それは人間の精神の現実的本性が異なっているといっているのと同じ意味です。同様のことは,人間の身体と精神は同一個体 であるから,第二部定理七 により,その秩序ordoは一致しなければならないという,平行論 の観点からも説明できます。感情について考察する場合には,どうしても身体と関係させる方が説明も理解も容易になりますから,僕はそういう手法を採用しますが,それは精神にも妥当するということを前もって理解しておいてください。
同じ出来事を体験したときに,喜びを感じる量が一定しないのは,喜びを感じる以前の現実的本性が異なっているからです。しかし異なっているのには異なっている原因causaがあるのでなければなりません。そして僕たちが経験的に知っているのは,少なくともかつて感じた喜びが,その原因を構成し得るということです。ある出来事に喜びを感じても,それをしばしば体験するようになると,喜びの量が減ったり,喜びとして感じられなくなるようになるということは,そのような意味でなければならないからです。通常の語彙ではこれは慣れるといわれるのであり、慣れるということが,僕たちの感情の様式を左右し得るということも,僕たちは経験的に理解しているといえるでしょう。
そこで話を分かりやすくするために,ある出来事を最初に感じたときの喜びが,2度目には半減したと仮定します。これは最初の体験以前の現実的本性と,2度目の体験以前の現実的本性が同一ではないことを端的に示します。そしてこの変化は,最初に喜びを感じたことによって発生したのです。ですから,最初の喜び以前の現実的本性と,以後の現実的本性は異なっていると考えなければなりません。
年度をまたいだため,記録上は連続開催となった今週の川崎競馬の第18回クラウンカップ 。5レースの騎乗中か騎乗後に今野騎手が負傷したようでグランシェフは笹川騎手に変更。
まず内からラッキープリンスが先頭に出ましたが,外から追ってきた同厩舎のヴィグシュテラウスに譲り,ヴィグシュテラウスの逃げ。控えたラッキープリンスが2番手。ナイキアフォード,エンドオブジアース,ウインバローラスと続き,その後ろはミッドストラーダ,クールテゾーロ,ルコンポゼの3頭がほぼ一団で1周目の正面を通過。前半の800mは50秒8で,これでもハイペースでしょう。
向正面でエンドオブジアースが上昇の構え。直前にいたナイキアフォードがこれに対応して動くと反応がよく,前を捲って先頭で直線に。ただレースの綾ですが動くのが早すぎたようで直線では一杯。外から脚を伸ばしたウインバローラスが抜け出して優勝。ナイキアフォードのすぐ外を伸びたルコンポゼが2馬身差の2着。その外を追ったミッドストラーダがクビ差で3着。
優勝したウインバローラス はJRAでデビュー。2戦目を勝ち上がった後,コスモス賞で3着になり川崎に転入。勝てていませんでしたし,上位クラス相手では苦戦していたためここは人気薄。ちょっとびっくりするような快勝でした。一線級が存在していなかったのは事実ですが,これまでとは明らかに違った内容なので,これが本物かどうか,次のレース以降で試されることになります。父は2002年のJBCスプリントを勝ったスターリングローズ 。はとこに2010年の兵庫チャンピオンシップ とユニコーンステークスを勝ったバーディバーディ 。Valorousは勇敢。
騎乗したJRAの柴田大知騎手は南関東重賞は初勝利。管理している川崎の河津裕昭調教師は第13回 以来5年ぶりのクラウンカップ2勝目。南関東重賞も2勝目。
自転車との一体化 という実例は,同一人物 と措定できる人間にみられる事柄でなく,競技者とそうでない人間との間にみられる相違に焦点を当てています。しかしこの実例だけで,「人が変わる 」といわれる場合に暗黙の前提 とされている精神の現実的本性の変化というのが,程度問題でしかないということは明瞭に分かる筈です。なぜなら,競技者には,そうではない人間には表象することが不可能である喜びや悲しみがあるということが理解できるからです。つまりそれが顕著と表象されるか否かという以前に,そもそもすべての変化が表象されることはないということが分かるからです。顕著であると表象される場合にだけ精神の現実的本性は変化し,顕著と表象されないならば変化していないと主張するのは実に不条理です。真理という観点からみたなら,顕著と表象されようがされまいが,変化であることに違いはないからです。ですから僕たちが「人が変わる」という慣用表現を用いることのうちに,一般に何が喜びであり何が悲しみであるかが変じ,また何を欲し何を欲さないかが変化するなら,どんな場合にもその人間の精神には現実的本性の変化が生じるということが是認されているといえるのです。
一方,この実例は,何に喜びを感じまた何に悲しみを感じるのかということについても,同一人物のうちで変化するということは説明に含まれてなく,競技者にとって喜びや悲しみであり得る事柄が,競技者でない人間には喜びでも悲しみでもあり得ないということだけを説明しています。したがって真理という観点から残された問題は,同一人物と措定可能な人間が,喜びを感じ,また悲しみを感じるたびに,その現実的本性が変化しているということを確証することだけです。
これに関しては,同一人物の喜びや悲しみの量的変化 が,同一の事柄に対して一定するわけではないということを論証の前提にします。これは論理的には確証できる事柄ではないと思うのですが,経験的にはだれもが真理であると認め得る事柄だと思われますから,前提して問題ないと思います。いい換えればこの前提が誤った前提であるということはあり得ないだろうと思います。