スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
桜花賞 はジュエラー が僅差の争いを制しました。種牡馬として現3歳が初年度産駒になるヴィクトワールピサ は初重賞制覇を大レースで果たしたことになります。
父はネオユニヴァース 。母はホワイトウォーターアフェア 。8つ上の半兄にアサクサデンエン 。6つ上の半兄に2006年の小倉記念を勝ったスウィフトカレント 。Victoireはフランス語で勝利。
デビューは2歳の10月。ここは完成度の差で2着に敗れたものの2戦目で勝ち上がるとオープン,ラジオNIKEEI杯2歳ステークス,弥生賞と4連勝。そして皐月賞 で父仔制覇を達成し5連勝で大レース制覇。ダービー は3着。本質的には中距離馬であったからだと思われます。
秋はフランスに遠征。しかしニエユ賞 が4着,凱旋門賞 は7着でした。日本でならこのくらいの距離でも戦えましたが,ヨーロッパでは長すぎたのだと思います。帰国してジャパンカップ に出走。これは新馬で負けた馬の3着。ただしこのレースは1着馬の降着による繰上り。日本の競馬規則が変更される一因となったレースといえます。さらに有馬記念 に出走すると先行して抜け出し,ジャパンカップで降着になった馬の追撃をぎりぎりで凌いで勝ちました。この勝利が評価されJRA賞 の最優秀3歳牡馬に。
翌春は復帰戦となった中山記念を楽勝してドバイへ。東日本大震災直後のドバイワールドカップ で見事に優勝。この当時は馬場の関係でアメリカの強豪があまり出走しなかったのは事実ですが,このレースを勝ったというのは快挙といっていいでしょう。僕はグリーンチャンネル には加入前でしたが,ドバイのレースはノンスクランブル放送で視聴できました。日本時間では真夜中ですが声が出てしまった思い出があります。
さすがにここを勝ったのは負担が大きかったのでしょう。秋のジャパンカップ まで出走できず,13着。有馬記念 も8着で競走馬生活を追えました。ドバイでの勝利が決め手となり,JRA賞 の最優秀4歳以上牡馬に選出されています。
今後も活躍馬は出してくるでしょう。
確かに第一部定理二五 を論証するときのスピノザの記述をみてみると,スピノザは事物の本性は認識されるものであると解していたように読めるのです。いい換えれば,スピノザは事物の十全な観念こそがその事物の本性であると解していたように読めるのです。ですが僕はそのようには理解しません。ここでスピノザがいっているのは,知性は事物の本性を事物の十全な観念として認識することによって,事物の本性がその十全な観念の外に,すなわち客観的有の事物としての外に形相的にも存在することを知るという意味なのではないかというのが僕の推測です。
第一部定理二五の論証だけを読むと,僕のような読解には無理があるといえるでしょう。僕があえてそのように無理があると承知の読解をするのは,この定理が直後の第一部定理二五備考 に続いているからです。神が自己原因であるというのは,神の本性を構成する各々の属性が自己原因であるということでなければなりません。そしてそれら各々の属性が自己原因であるというのと同じ意味において,各々の属性の属する様態の原因でなければならないのです。これが第一部定理二五の直後にいわれていることに注意すれば,各々の属性の様態の本性の原因はその様態が様態となっている属性であるということでなければなりません。したがってどんな属性の様態にもその本性が存在するといわなければならないでしょう。ゆえに,たとえば延長の属性の様態である物体Aには,物体Aに固有の本性が形相的な意味においてあるのであって,それは物体Aの客観的有すなわちAの十全な観念が存在するか存在しないかとは関係がないというように解するべきだと僕は考えるのです。
ただし,この最後の部分は実際にはあまり意味がないことをいっているということは僕も認めます。というのも第二部定理七系の意味 からして,もしも物体Aの本性が形相的にあるのであれば,必然的に物体Aの客観的有すなわちAの十全な観念もまた存在するからです。なのでその十全な観念の有無と無関係に本性が形相的にあるといういい方は,観念の有無という点に注目する限りでは,実は何も説明していないに等しいのです。
昨晩の第20回マリーンカップ 。発走の準備がほぼ整ったところでブチコが突進。このときに右目の上部に怪我を負ったため競走除外となって10頭。
内の各馬が好発で一旦はダブルファンタジーが先頭に立ちましたが,外からハナを奪ったブルーチッパーの逃げに。向正面に入るあたりでヴィータアレグリアが単独の2番手に上がり,ダブルファンタジー,ボーラトウショウ,クラカルメンの3頭が一団で3番手を追走。さらにチェルカトローバ,ディアマイダーリン,フォーエバーモアの3頭。この後ろにブラックバカラで離れた殿にタッチデュール。前半の800mが50秒3のスローペースに。
3コーナーを回ってブルーチッパーのリードは2馬身ほど。ヴィータアレグリアが続いて向正面で外を追い上げたフォーエバーモアがさらに2馬身差の3番手まで上がりましたが,この馬は騎手の手が激しく動いていてすでに一杯。直線に入るとヴィータアレグリアが満を持してブルーチッパーに並び掛けていってあとはこの2頭のマッチレース。前半が楽だったブルーチッパーもよく粘りはしましたが,最後はヴィータアレグリアが交わして優勝。半馬身差の2着にブルーチッパー。コーナーではフォーエバーモアに前に出られたもののずっと内を回っていたダブルファンタジーが直線では抜き返し,無欲の追い込みでよく伸びたタッチデュールをハナ差だけ凌ぎ2秒2差の3着。
優勝したヴィータアレグリア は重賞初勝利。初めて重賞に出た前走で,着差以上の力差は感じさせられたもののアムールブリエの2着に食い込んでいましたので,ここは相手関係から優勝候補と考えていた1頭。距離も長いよりはこれくらいの方がよさそうです。ただ,いくら楽なペースであったとはいえ,ブルーチッパーに半馬身差ですと,トップクラスとの力量差はまだ埋まっていないと判断しておくのが妥当ではないかと思います。父はネオユニヴァース 。Vita Allegriaはイタリア語で生の喜び。
騎乗した戸崎圭太騎手はマリーンカップ初勝利。管理している高柳瑞樹調教師は開業から5年3ヶ月ほどで重賞初勝利。
僕が事物の本性と事物の観念は等置できない,他面からいえば事物の客観的有すなわち観念を離れて形相的な意味において事物の本性があると解するのにはふたつの理由があります。そのうちのひとつは第一部定理二五 をどのように解釈するべきであるかということです。
第一部定義六 から明らかなように,神の本性は無限に多くの属性によって構成されます。これを第一部定理二五に当て嵌めると,それら無限に多くの属性の各々が起成原因となってその属性に属する事物の本性が発生すると解するべきだと僕は考えます。このとき,たとえばXという属性の様態の本性の起成原因がXの属性でなければならないということは,第一部定理二五のほかに,第一部定理三 とか第二部定理六 から明白だといわなければなりません。
これを延長の属性の場合でいうと,延長の属性の様態,たとえばある物体Aの本性の原因は延長の属性であるということになります。第一部定理二五が無限に多くの属性のすべてに該当しなければならないなら,これによって物体Aには固有の本性がある,それも認識されるものとしてでなくあるといわなければなりません。つまり第一部定理二五をこのように解するので,僕は事物の本性というのは単に観念としてあるだけでなく,形相的な意味においても存在すると解するのです。
ただし,この定理については次のことを顧慮しておかなくてはいけません。スピノザはこの定理の論証のために第一部定理一五 を援用しています。そこではあらゆるものは神なしには存在せず,また概念するconcipereことができないという主旨のことがいわれていました(Quicquid est, in Deo est, et nihil sine Deo esse, neque concipi potest )。このために事物の本性もまた,神なしには存在することはできないし,概念することもできないのです。ところが第一部定理二五の論証では,事物の本性が神なしには概念することができないということについては言及されていますが,事物の本性が神なしに存在し得ないということについては何も言及されていないのです。したがって実はこの論証をみる限りでは,むしろスピノザは,事物の本性は概念されるものとしてのみあると考えていたように読解できることになるのです。
鶴巻温泉で指された昨日の第9期マイナビ女子オープン 五番勝負第一局。加藤桃子女王と室谷由紀女流二段は公式戦では初対局。
振駒 で室谷二段が先手になり角道オープン向飛車 。加藤女王は急戦を選択し,やや強引に仕掛けていきました。的確に応接した先手が優位に立ったと思われますが,後手も決め手だけは与えないように指し続け,長期戦になりました。
先手が詰めろを掛けた局面。後手は△2五桂と王手で跳ねて自玉を広くしてから▲4七玉に△4一歩と受けました。先手はすぐに▲4二成銀と取り△同歩▲4四桂△3三王▲1五角と攻めました。これは最善ではなかったかもしれません。
△2四銀と当てて受けたのは善悪どうこうではなく勝つためにはこれしかないと思います。そこで先手は▲1一角の王手。後手は3五に桂馬を捨てて3六から銀を打つという攻め筋があるので,香車を合駒するかと思いましたが△2二桂でした。
▲4八角と逃げたのは攻めの失敗を認めたような感もあります。後手は△6四香で挟撃体制を築き▲7一飛成に△3七香と打ち込みました。このように攻めたかったので,2二には桂馬を打って2枚の香車を温存しておいたのでしょう。ですがこれは敗着になりかねない順で▲7四飛成と香車を取っていれば先手が勝てていたようです。
ここで▲2九銀と逃げて先手玉が詰みました。▲4九銀なら詰みはなかったのですが,局面自体は後手の勝ちになっているようです。
加藤女王が先勝 。第二局は27日です。
一般に人間の本性 と人間の精神 を等置してよいか否かという点に関しては,僕は否定的な見解を有しています。ただしこれは人間の精神と人間の本性に限定してのことではありません。もしも人間の精神が人間の本性と等置することが可能であるなら,もっと一般的に,ある事物の十全な観念とその事物の本性は等置することができるといわなければならないと僕は考えます。僕が否定的な考えを有しているのは,この点に関してです。つまり一般に事物の本性と事物の観念は等置することができないので,人間の身体の本性と人間の精神を等置することもできないのではないかと考えるのです。
僕が思うにこれはスピノザの哲学を解釈する上での難題のひとつです。なのでこれについては等置できると考える人もいれば,僕のように等置できないと考える人もいるでしょう。後に述べるように,僕はもしかしたらスピノザはこのことについては確たる見解を有していなかった,あるいは確たる見解を有する必要はないと考えていたのではないかと今は思っています。なのでここから述べる説明は,あくまでも僕の一見解にすぎないのであり,それには反対の見解があるということ,もっといえば反対の見解からの反論にも妥当性があるということをあらかじめ前提しておいてください。
かつてこのブログにおいて,私というものは観念の集合体であるのか,それとも観念を離れて形相的に存在するのかという主旨の質問をされたことがあったように記憶しています。僕はそれに対して,僕の見解として,観念を離れて形相的に私というものはあるという意味の解答をしました。このやり取りはたぶん本性と観念が等置できるかどうかということと大いに関係します。僕がそこで観念を離れても私というものがあると答えたのは,本性と観念との関係でいえば,観念を離れて形相的なものとして本性は実在するという意味になります。したがってその質問に答えた時点と同じ見解を,僕は現時点でも有しているということになります。
本性が観念を離れてもあるというのは,本性は認識されるものとしてのみあるのではないという意味です。これが僕の見解の中心をなします。
川崎記念の決勝 。並びは郡司に松浦,浅井に大塚,脇本‐稲川‐藤木の近畿で新田と古屋は単騎。
浅井がスタートを取って前受け。3番手に新田,4番手に郡司,6番手に古屋,7番手に脇本で周回。残り3周の最終コーナーで脇本が上昇の構えをみせると前の郡司が先に出ていき,残り2周のホームを回って浅井を叩いて前に。その外を脇本が上がっていきホームで郡司を抑えて打鐘。浅井が引いたので後ろになるのを嫌った新田が上がって藤木の後ろに入ろうとしましたがこれを郡司が阻止。4番手に郡司,その後ろに新田が嵌って入られた松浦がその後ろ。浅井は7番手で古屋が最後尾の一列棒状でホームを通過。郡司は藤木との車間を開けてバックから発進。その直後から新田も出ていきました。しかしわりと楽な抑え先行になった脇本のスピードは衰えず,ゴール直前で脇本を捕えた稲川の優勝。脇本が8分の1車輪差で2着。藤木が半車身差の3着に続いて近畿の上位独占に。
優勝した大阪の稲川翔選手は一昨年6月の高松宮記念杯 以来のグレードレース制覇で記念競輪初優勝。このレースは有力とみられた選手が後ろで牽制し合うことにになったため,近畿勢には願ってもない展開になりました。脇本も一時ほどの先行力は影を潜めていたとはいえ,力がない選手ではなく,これくらいのペースで逃げられればそうそうは粘りを欠くこともありません。結果論ではありますが,しっかりとした3人のラインができたのがとても有利に働くこととなりました。稲川はもう少し活躍してもよい選手と思っていたのですが,現状では展開に恵まれないとこのクラスでは厳しいのかもしれません。
第二部定理二九系は次のように記述されています。
「この帰結として,人間精神は物を自然の共通の秩序 (communis naturae ordo )に従って知覚する場合は,常に自分自身についても自分の身体についても外部の物体についても妥当な認識を有せず単に混乱し・毀損した認識のみを有する,ということになる 」。
この系Corollariumは,現実的に存在する人間が身体corpusを刺激されるという様式よって認識するすべての観念ideaは混乱した観念idea inadaequataであるということと,したがってもし現実的に存在する人間にとってこの様式でしか認識することができない観念があるとすれば,人間はそれを十全に認識することが不可能であるということを確定させるものです。『エチカ』の文脈においてはそれが非常に重要なのですが,今はその点に関しては考慮しません。僕が注目するのは,この系では,人間の精神mens humanaのことが自分自身といわれていて,人間の身体に関しては自分の身体といわれている点です。ここから明瞭に分かるように,スピノザにとっての自分自身とは自分の精神のことなのであって,自分の身体は自分自身には含まれないのです。するとここから,一般に人間自身とはその人間の精神のことだけを意味し,その人間の身体というのはその人間自身には含まれないということが容易に推察できるでしょう。
スピノザがどういう意図から精神だけを自分自身というのかは僕には不明です。ただその理由として,スピノザが人間の精神を人間の本性natura humanaと考えているからだという可能性は否定できないでしょう。そうなると人間の本性と人間の精神は等置可能であることになります。したがって僕のように人間の本性に特権が与えられているのだという見解を有していても,それは事実上は人間の精神に特権が付与されていると主張するのと同じだということになります。僕がそう主張している可能性があることは僕も認めるのです。
ただしこれは特権ではあっても,優越性ではない筈です。なぜなら人間の本性が人間の精神と等置できるのは,人間の精神が人間の身体の観念であるからです。他面からいえばそれは人間の身体の本性と等置されているのであり,人間の精神の本性と等置されているのではないからです。
『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』がフラゼマケル Jan Hendrikzen Glazemakerによって早い段階で蘭訳されていたことを窺わせる,スピノザがイエレス Jarig Jellesに宛てた書簡四十四の内容をまとめておきます。
1671年2月17日付で出されたもの。イエレス宛なので原書簡はオランダ語で,遺稿集のオランダ語版De Nagelate Schriftenにはそれがそのまま掲載されたとのこと。イエレスは編集者のひとりですから,そうしたことは可能でした。ラテン語版Opera Posthumaは編集者がラテン語訳したもので,スピノザの生前の訳ではないようです。
冒頭部分が『神学・政治論』の蘭訳の出版を阻止するようにとの依頼です。この部分でスピノザがそれは善き知人たちの念願だというとき,僕はその知人をヨハン・デ・ウィット Jan de Wittやフッデ Johann Huddeのような,政治的役職にあった知人であったと解しています。
次に『政治的人間』と題された匿名の著書への書評が書かれています。スピノザはこの本は人間によって考えられ得る最も有害な本と酷評しています。スピノザによればこの匿名の著者にとっての人間の最高の善bonumは金と名誉gloriaで,それを追求する手段が示されているとのことです。僕はこの本の内容は知らないので,書評に関しては何もいえません。ただスピノザがその本をそう解釈したなら,それを酷評するのは哲学的にいって当然だということは分かります。
最後にこの酷評と関連して,ミレツスのターレスという紀元前のギリシャの哲学者の逸話が紹介されています。ターレスは自分のような賢者が富を所有しないのは,それが不可能だからではなくそうしたくないからだとし,それが正しいということを示すために,富を所有してみせました。不可能ではないことを実証したターレスは,その利益を人びとと分配したというのがこの逸話のおおよその内容です。これが『政治的人間』に対する批判になっているのは明白といえるでしょう。
第二部定義二 と第一部公理六 から分かるのは,真の観念idea veraすなわち十全な観念idea adaequataは,その観念の対象ideatumとなっている事物の本性essentiaと一致するということです。したがって一般にXの本性とXの十全な観念というのは同じものであるといえます。観念はいうまでもなく思惟の様態cogitandi modiですから,僕たちはXの本性を認識するcognoscereことによってのみXの本性を知ることができます。ですから僕たちの精神mensのうちにXの十全な観念がある,いい換えればXを十全に認識しているということと,僕たちがXの本性を知っているということは同じことを別の角度から述べていることになります。そして僕たちはXの本性をこれ以外の仕方で知ることはできません。このゆえに少なくとも僕たちにとっては,Xの本性とXの十全な観念は同じものである,あるいは同じものとしてしか知られ得ないことになります。
第二部定理一三 がいっているのは,人間の精神mens humanaの現実的有actuale esseを構成する観念の対象はその人間の身体humanum corpusであるということでした。ですからこれでみれば明らかなように,人間の身体の本性というのと,その人間の身体の十全な観念とは実質的に同じものだということになります。第五部定理二二 でいわれている観念がこうした観念であるから,第五部定理二三証明 ではそれがその人間の精神の本性に属さなければならないとされているのです。つまり人間の身体の本性とはその人間の精神であり,それらの十全な観念というのはその人間の精神のうちにあることはできませんが,神Deusの中にはあることができます。その神の中にある人間の身体の十全な観念すなわちその人間の精神がその人間の身体の本性と同じといえるのですから,一般に人間の本性とその人間の精神とを同一視することができるのです。したがって人間の精神の中の「あるものaliquid」が永遠aeterunusであるとは,その人間の本性が永遠であるという意味なのであって,特権が与えられているのは精神ではなくて本性であるというように僕は解するのです。
ただ,人間の本性と人間の精神が等置できるのであれば,人間の本性に特権が付与されているというのは,人間の精神に特権が与えられているというのと同じだと解さなければならないでしょう。
第76回桜花賞 。
好発はソルヴェイグ。ですがこの馬が控えたために隊列が決まるのに少しの時間を要しました。逃げることになったのはカトルラポール。アッラサルーテとメイショウバーズが2番手を併走。さらにジープルメリア,メジャーエンブレム,ラベンダーヴァレイ,ウインファビラスの4頭が一団でここまでが先行集団。好位にビービーバーレルとシンハライトの2頭。中団は控えたソルヴェイグ,アットザシーサイド,ブランボヌール,キャンディバローズとメイショスイヅキが占め,レッドアヴァンセ,デンコウアンジュ,ジュエラーの順で続きました。前半の800mは47秒1のスローペース。
直線に入るあたりで前はカトルラポール,メイショウバーズ,ジープルメリア,ウインファビラスの4頭が雁行。さらにその外にラヴェンダーヴァレイも追い上げてきて,これらの後ろにいたメジャーエンブレムは行き場がなくなるような形に。それでもウインファビラスとラヴェンダーヴァレイの間を抜けたものの,この時点でさらに外からシンハライトが先頭に立っていて,瞬発力には劣るメジャーエンブレムには苦しい展開。シンハライトをマークするように追ってきたアットザシーサイドが2番手に上がり大外からジュエラーが強襲。シンハライトはアットザシーサイドの追い上げは振り切りむしろ突き放しましたが,ジュエラーはぐんぐんと迫って2頭が並んでゴールイン。写真判定の結果,優勝はジュエラー。ハナ差の2着にシンハライト。1馬身4分の3差の3着がアットザシーサイド。
優勝したジュエラー はこれが重賞初勝利。ただ新馬を勝った後,シンザン記念,チューリップ賞と連続2着でここが4戦目でしたので,優勝候補と考えていた1頭。メジャーエンブレムがもっと強気にレースをしてペースを上げていればまったく違ったと思いますが,ここは瞬発力が生きる展開になりました。それでも後方2番手から外を回って差し切ってしまったのですから,掛け値なしに強い内容。2着馬とは連続して僅差の勝負で,抜けた存在ではないと思いますが,高いレベルで戦い続けてくれるだろうと思います。父はJRA賞で2010年の 最優秀3歳牡馬,2011年 の最優秀4歳以上牡馬に選出されたヴィクトワールピサ 。7つ上の半姉に2009年のフィリーズレビュー,2010年の函館スプリントステークスとキーンランドカップ,2012年のオーシャンステークスを勝ったワンカラット 。Jewelerは宝石商。
騎乗したミルコ・デムーロ騎手は2月のフェブラリーステークス 以来の大レース制覇。桜花賞は初勝利。管理している藤岡健一調教師は先月の高松宮記念 に続いて大レース2勝目。
認識をなし得るということが身体に対する精神の特権であるというならば,僕はそれを絶対的な意味で否定することはしません。ただしそれは人間において認識をなすのは精神であって身体ではないという以上の意味ではありません。一方,そのことによって精神には身体に対するある優越性が与えられているというなら,僕はこれを全面的に否定します。もしそのことによって精神は身体より優越的であるというなら,身体は運動をなし得るけれども精神は運動をなし得ないという意味において身体は精神よりも優越的であると主張しなければならないからです。第二部定理一と第二部定理二 から明らかなように,思惟も延長も同じように神の属性です。したがって思惟が延長に優越することはありませんし,延長が思惟に優越することもありません。よって思惟の様態である精神は身体に対して優越的ではないし,延長の様態である身体が精神に対して優越的であるということもないのです。
精神が永遠性を観想するのが自分の精神だけであり,自分の身体ではないという点についてはこれでいいでしょう。もうひとつは第五部定理二三 で,身体が現実的に存在することを停止しても,精神の中の「あるもの」は残存するといわれている点です。これは確かに精神が身体より優越的であるとか,精神には身体に付与されていない特権が与えられているという解釈の余地を与えるのではないかと思います。
僕の見解をいえば,ここで何か特権といい得るようなものが与えられているのだとすれば,それは精神に対してではなく,人間の本性に対してなのです。したがってもしも人間の本性と人間の精神が完全に同一視できるのであれば,この特権が精神に与えられているということを僕は肯定します。そしてスピノザの哲学ではそういう余地があると思います。なので僕はこちらの点に関しては,懐疑的ではあっても全面的に否定はしないのです。
第五部定理二二 では,神の中にある永遠の相の下に表現される観念が,現実的に存在する人間の身体の本性を表現する観念だとされています。僕が特権を付与されているのは人間の本性であると解するのは,この点に依拠します。
Kが自殺した後,しばらくして静の涙 を見るまで先生が親友の死に対して悲しむことができなかったというのは,どことなく異常さを感じさせます。先生は遺書にこの異常さの原因についてもほんの少しだけ記述しています。ただし,遺書は先生によるこの当時の再構成です。ですから確かにそのときの先生の心理状態がその記述の通りであったかもしれませんが,記述をしているときに自身の心情の異常さに気付いた先生が,記述の時点で理由づけをしたという可能性もあると考えなければなりません。
先生によれば,静や奥さんへの感情の模倣 affectum imitatioによって感じることができた悲しみは,自身にとって一滴の潤いでした。先生の精神は,この悲しみによってむしろ寛いだのです。しかしこれは第三部諸感情の定義三 に反するものではありません。
Kの自殺 以降,先生の精神の中心に去来していたのは,苦痛と恐怖でした。具体的に何に対する苦痛であり,また何に対する恐怖であったのかはここでは詮索しません。先生がKの死に対する悲しみを一滴の潤いだといったのは,その悲しみによって苦痛と不安から解放されたからです。これは第四部定理七 から合理的な説明になっているといえます。
苦痛も恐怖も基本感情 でいえば悲しみです。先生がいう苦痛は,『エチカ』でいえば憂鬱といわれている感情に近いと僕は判断します。また恐怖は第三部諸感情の定義一三 で僕が不安 metusといっている感情の一種で,その程度が強いものです。これらの悲しみが,別の悲しみを感じることで先生のうちから除去されたのです。そのとき先生が感じた悲しみは,確かに先生をより大なる完全性からより小なる完全性へと移行させました。ですがそれまでに感じていた苦痛や恐怖ほどには,大きく完全性を低下させることはなかったのです。だから先生はそれで寛ぐことができたのです。
悲しみは悲しみであって喜びではありません。しかしある悲しみが別の悲しみを緩和するということは,現実的に生じ得る出来事なのです。
スピノザの哲学とフェルメールの絵画との間に同じような永遠の公式が成立するためには,スピノザが人間の精神と対象であるその人間の身体との間に導いた関係が,フェルメールの絵画とその絵画の対象との間にも成立するのでなければなりません。すなわち現実的に存在する人間の精神が,対象であるその人間の身体との関係を離れて永遠であるとみなされるように,フェルメールの絵画は,可滅的であるその絵画の対象との関係を離れて永遠を表現しているのでなければならないのです。
ですがこの課題を検討する前に,さらに補足しておきたいことがあります。おおよそ第五部定理二三 とか第五部定理二三備考 におけるスピノザの論述というのは,人間の精神には人間の身体にはないような特権が与えられているとか,精神は身体よりも優越的であるというような読解をされると思うのです。僕はそうした読解が絶対的に誤っているとは考えません。ただし,精神には身体には与えられていない特権があるとか,精神は身体に対して優越的であるとかいうことを,それ自体でスピノザが主張していると解するなら,そういう解釈には懐疑的です。なのでこれに関する僕の見解を表明しておきたいのです。
まず,第五部定理二三備考で,人間の精神が第三種の認識 cognitio tertii generisによって自分の精神が永遠であると感じるといっている点については,何らの特権も優越性も与えられていないことは明白です。これは現実的に存在する人間の精神は,自分自身の身体についてはそれを表象するだけ,つまり混乱して認識するだけであるのに対し,自分の精神の本性に属する「あるもの aliquid」についてはそれが永遠であるということを第五部定理二三証明 の推論によって十全に認識できるから生じる事態であるからです。このために僕たちは自分の身体が永遠であると観想することはできませんが,自分の精神が永遠であると観想することはできるのです。要するにこれは現実的に存在する人間の精神が何を十全に認識し得て,何を十全には認識し得ないのかということとのみ関係しています。ですからもしここに精神の特権があるなら,それは精神が認識という思惟作用をなし得るということだけです。
スピノザの聖書解釈の方法 の最も大きな特徴は,聖書は何らの真理も説かずに,ただ服従 することを教えるという点にありました。このとき,聖書の読者が何に服従するべきかと教えられるのかといえば,もちろん神に対してです。ですがもし神が単に横暴な存在でしかなく,強制的な力によって自らに服従せよと教えたとしても,それで人を服従させることは無理でしょう。したがって人が神に納得して服従するために,神は何らかの条件を満たしていなければなりません。スピノザはこれを『神学・政治論 』の第14章で7項目にわたって示しています。
第一に神が存在することです。これはとくに説明不要でしょう。
第二に神が唯一であることです。神がほかの何よりも優れていることを示すために必要な条件です。
第三に神が遍在することです。そうでないと神に隠し事をすることが可能になるからです。
第四に神が至高の権利を有することです。そうでないと神がほかのものに従うことになってしまうからです。
第五に神を崇拝することが正義を行い愛をなすことに直結することです。これはスピノザが聖書の教えとして理解していることであり,それは万人が納得できることであるから,人が神に服従することができるのです。
第六に神の教えに服従すれば救われることです。これは他面からいえば,服従しなければ救われないということです。
第七に神は悔悛した人を許すことです。もし悔い改めても神が許さないなら,人は救われる希望をもてません。また,神が憐れみ深い存在でもなくなってしまうでしょう。
スピノザはこれらの条件が聖書では満たされていると考えています。だから人を敬虔 pietasにする聖書のことをスピノザは評価するのです。
僕たちの精神のうちに第三種の認識 cognitio tertii generisが発生するとき,僕たちがそれを第三種の認識であると断定しづらい理由は僕には経験的に理解できます。それは単純にいって,僕たちが数多くの物体を表象する,第一種の認識 cognitio primi generisによって認識するからです。つまり僕たちはあまりにも表象に慣れすぎてしまっているために,精神の眼で認識した事柄に対しても,身体の目で認識しているのではないかと思い込んでしまったり疑ったりしてしまうのだと思うのです。第五部定理二三備考 のスピノザのいい回しも,僕たちが物体が現実的に存在すると感じるように,推論によって論証された事柄を感じると解釈できるものになっていて,これは僕たちが第三種の認識に対して疑心暗鬼に陥ってしまうことの理由であると同時に,なおさらその疑心を強くさせるようなものになっているといえるでしょう。これは想像にすぎないのか,それとも第三種の認識なのかと考えているところに,第三種の認識は事物を想像するように感じられる思惟作用であると読解できるいい回しとなっているからです。
僕が示したふたつの経験が第三種の認識であるかどうかは別としても,少なくとも第五部定理二三 で「あるもの aliquid」といわれている何かが現実的に存在する人間の精神によって認識されるなら,これは第三種の認識でなければならないということだけは間違いないといえます。そしてこの「あるもの」が現実的に存在する人間の精神の本性に属するものであるということも推論すなわち第二種の認識 cognitio secundi generisによって確定できます。したがって人間の精神というものは,それは現実的に存在するとみられる限りにおいても永遠であるということ,その全体が永遠であることはもちろんあり得ませんが,神の本性を通して永遠なる必然性によって考えられなければならない何かは永遠であるといわなければなりません。このためにスピノザの哲学において永遠の公式というものを成立させるためには,観念されたものが精神の外に実在するかしないかに関係なく,観念は実在し得るということが根拠にならなければなりません。いい換えれば観念対象なしに観念が実在し得ないと,この永遠の公式は成立しないことになるのです。
遺書の記述からすると,先生の自殺の方法 として,水死するというのが適当であるというのは間違いありません。これは血の色 を見せず,かつ自殺ではなく事故死と見せかけることも可能な方法だからです。ただ,もしも実際に先生がこの方法で自殺したとして,静 がこれを事故死と判断できたかといえば,ひとつだけ疑念の残る点があります。
先生が自殺することを決意したのは,乃木の殉死の報に触れたことが一因,それも大きな要因になっています。史実として,明治天皇が死んだのは7月30日。乃木殉死は9月13日で一報が新聞に掲載されたのは翌日です。先生はそれから2,3日後に自殺を決意したと書いていますから,それは9月16日か17日になります。その後,先生は遺書を書き上げるために10日以上を費やしたという意味のことを書いていますので,遺書が完成したのはどんなに早く見積もっても9月27日にはなっていなければなりません。
先生はこの遺書を書くためだけに生命を永らえたという主旨のことをいっています。ですからこれを書き,私に対して郵送したらすぐに自殺を決行したものと思われます。実際に遺書の最後のところに,あなたがこれを読む頃には自分はとっくに死んでいるだろうという意味のことが書かれているので,先生の気が変わらなかった限りはそうだったと確定できます。そして私の手記の中には先生は死んだと書かれているのですから,テクスト上は先生の心変わりはなかったといえます。
なので先生が自殺したのは,早くても9月の終わり,もしかしたら10月に入ってからであったと僕は考えます。この時期に先生の水死体が海に上がったとして,それが事故死と思われるかどうかは微妙ではないでしょうか。もし夏の暑い盛りのことであれば,事故死とみなされても自然です。先生は沖の方まで泳ぐことがあったので,なおさらそうでしょう。しかし海水浴シーズンでない時期では,静がそれを事故死と判断しなかった可能性の方が高いのではないかと僕は思います。
「精神の眼は論証そのもの 」の論述のうち,僕が注目するのは,最終的には「あるもの aliquid」の認識が第三種の認識 cognitio tertii generisであると結論付けられているにしても,最初にこれが第三種の認識かという問いを自ら立てた上野が,おそらくそうであると解答し,さらにこの解答が正しいことは,第五部定理二三備考 によって明らかだとはいわず,そこに示唆されているという,どことなくどっちつかずの記述をしている点にあります。僕にはこうした記述というのが,それが正しいということに対して心強い味方になるのです。
曖昧な記述になっているからそれを心強く感じるというのは,ことによると不思議に思われるかもしれません。ですがこの記述は,僕が第三種の認識をしていると思っていることに対して,確かに僕は第三種の認識をしているのだと,断定的にいいきることができないでいるのと,きわめて酷似していると僕には思えるのです。
上野は自分自身の経験に関しては一言も語っていません。ですからこれは僕の推測になるのですが,たぶん上野自身も,自身のしているある認識について,これが第三種の認識であると思い当たるふしがあるのでしょう。そしてそういう実体験があるがゆえに,断定することができず,曖昧ないい回しをすることになっているのだと僕は思います。要するに上野のこのいい方は,上野にもまた僕と同じような経験があるということを僕に推理させるのです。そして一致した経験があるという点において,僕はそれを心強く感じるのです。同じような経験をして,同じようにそれを第三種の認識であると感じるのならば,それが確かに第三種の認識であると断定できる根拠になるからです。
第五部定理二三備考でいわれているように,確かに第三種の認識というのは,論証そのものなのです。しかしそれは,たとえばXについて第三種の認識をすればそれがXについての論証そのものになり得るという意味なのであって,その認識が第三種の認識であるということについては不確実に感じられるような認識として,現実的に存在する人間の精神のうちに発生するのかもしれません。だから僕も上野も断定できなかったのだと思えるのです。
地方所属馬のかしわ記念およびさきたま杯トライアルの第27回東京スプリント 。
ダノンレジェンドが出負け。ハナを奪ったのはコーリンベリー。ルックスザットキル,グレープブランデー,ブルドッグボスの3頭が追走。サトノデートナ,ゴーディーと続き,ファイヤープリンス,セイントメモリー,スクワドロンの3頭の集団。ダノンレジェンドとレーザーバレットはこの後ろに。前半の600mは35秒7でスローといっていいくらいのミドルペース。
3コーナー回るとコーリンベリーとルックスザットキルの2頭で後ろを離していき,グレープブランデーとブルドッグボスが並んで追う形に。直線に入ると喰らいついていたルックスザットキルは一杯に。コーリンベリーが後ろを置き去りして悠々と逃げ切り2馬身半差で快勝。グレープブランデーがブルドッグボスを振り切って2着。大外から末脚を伸ばしたダノンレジェンドが2馬身差の3着に届きました。
優勝したコーリンベリー は昨年のJBCスプリント 以来の勝利で重賞3勝目。その後の2戦は距離が長く大敗していましたが,ここは適距離に戻っていたのでチャンスはあると思われました。JBCスプリントのときはダノンレジェンドより内枠に入って逃げ切ったもので,今日は枠順の関係が逆になっていたのでハナを奪われた場合にどうなるかを懸念していましたが,相手の自滅もあり,先手を奪えました。この形なら力を発揮できます。激しい競り合いになることが予想できるなら,評価を少し落とす必要があるかもしれません。父はサウスヴィグラス 。三代母の半弟に1994年の福島記念を勝ったシルクグレイッシュ 。
騎乗した松山弘平騎手と管理している小野次郎調教師は東京スプリント初勝利。
「精神の眼は論証そのもの 」は長いので,現在の考察に関連する部分の主張だけ対象にします。
上野によれば,第五部定理二二 および第五部定理二三 は,人間にとって表象することができないものについての言及です。つまりスピノザはここで,僕たちには表象不可能な事柄について考えさせようとしているのです。これは,これらの論述が,人間に対してある身体あるいは自分の身体の本性の現前へと向かわせる論証ではあり得ないということから明らかです。確かに第五部定理二二の人間身体の本性を永遠の相の下に表現する観念は,第五部定理二三証明 では人間の精神の本性に帰属しています。しかしそれが人間の精神の本性に帰属するということと,それがその人間の思惟作用に帰属させられるというのは別のことです。第五部定理二二でいわれている観念は,神の知性のうちで十全です。ですが第二部定理一九 および第二部定理二七 から明白なように,それはその人間の精神の本性に属していたとしても,その人間の精神のうちでは混乱しているからです。
このために第五部定理二三では「あるもの」という,何であるかは分からないけれども確かに存在するものという主旨の記述がされなければならないのです。それは現実的に存在する人間にとっては具体的に思考することが不可能なものという意味なのです。
ではこうした認識が第三種の認識であるといっていいのでしょうか。上野はまず,おそらくそうであるという,やや不確定な結論を呈示しています。そして少なくとも,第五部定理二三備考 というのは,これが第三種の認識であるということを示唆しているとしています。したがって「あるもの」の認識が直観知であるという点では,上野の結論も「個を証するもの 」の結論と一致していることになります。
第五部定理二三備考でスピノザが論証そのものというときの論証は,精神が永遠であるということを僕たちは感じたり経験したりするということとだけ関連付けていえば,第五部定理二二と第五部定理二三の論証以外ではあり得ないと上野はいいます。つまり第三種の認識とは,これらの論証による僕たちの理解だということになります。
第三部諸感情の定義二八 の高慢superbiaという感情affectusを,スピノザは狂気の一種と考えました。その狂気の一端は,第四部定理五七において示されているといえます。
「高慢な人間は追従の徒あるいは阿諛の徒の現在することを愛し,反対に寛仁の人の現在することを憎む 」。
高慢な人間は自己への愛amorのために自分を正当以上に感じるのですから,そのように感じさせてくれる人間,すなわち阿諛追従の徒を好むのはきわめて自然といえるでしょう。一方,ここで寛仁generositasの人といわれているのは,高慢な人間を正当以上には評価せず,正当に評価する人のことです。それは高慢な人間にとっては自分が高慢であることができることの否定です。したがって高慢な人間は寛仁の人が存在することを憎むのです。
この定理Propositioは高慢な人間の一特質について示しているといえます。ですが同時に,スピノザが高慢な人物とみなしているのがどういう人間であるのかということを僕たちに教えてくれる定理であるともいえます。たとえば愛は第三部諸感情の定義六 に示されますが,愛の一特質である第三部定理二一 のような感情の模倣 affectum imitatioが,僕たちに愛を教えてくれるようにです。
自分と信念を共有し,自分を支持する人だけで周囲を固める政治家とか政治的権力者は現実に存在するといえます。あるいは重役にイエスマンだけ配する企業経営者というのも現実的に存在するといえるでしょう。スピノザはそういった人間のことを,阿諛追従の徒を好む高慢な人間であるとみなし,こういう人間は狂気の一種に取りつかれているのだといっているのです。
このようにみれば,政治的独裁者が粛清を行ったり,ワンマン経営者が役員を解職したりすることがまま生じる理由もよく分かるのではないかと思います。高慢な人間からみて,ある人物が阿諛追従の徒から寛仁の人に変化したとみられたら,その人間は排除するべき人間になるからです。
数学の例で示した僕の精神mensのうちで起こる思惟作用と,第一部定理一一第三の証明 によって僕の精神のうちに生じる思惟作用は,構造的には完全に一致しているといえるでしょう。数学の例は実在的有を対象としていないのですから,僕はそれを身体の目で感覚しているということはあり得ません。そうであるなら,神Deusの実在の場合も,僕は精神の眼で神の実在を感じているということになるのだろうと思うのです。とりわけそれらが僕にとって論証Demonstratioそのものになるのですから,第五部定理二三備考 でスピノザが述べていることと,僕の精神の中で生じることとは,整合性がとれるように僕には思えます。
よって僕はこれが第三種の認識cognitio tertii generis,僕自身が経験している第三種の認識であると考えているのです。するとスピノザが当の備考Scholiumでいっているのは,やはり人間の精神は,第二種の認識cognitio secundi generisを基礎とした推論によって論証された事柄について,それを直観知scientia intuitivaによって,すなわち第三種の認識によって感じることができる,認識することができるということなのだろうと考えます。つまりそこでスピノザが具体的にいっているのは,第五部定理二三 で,人間の精神は身体corpusと共に完全には破壊されないということが推論によって論証されるのだから,人間は自分の精神が永遠aeterunusであるということを第三種の認識によって感じたり経験したりすることができるということだろうと解釈するのです。
このように解釈すると,この備考では第二種の認識と第三種の認識との間の橋渡しがされているといえるでしょう。第二部定理四一 とか第二部定理四二 は,明らかに第二種の認識と第三種の認識との間には何らかの橋を架けることができるけれども,それらと第一種の認識cognitio primi generisとの間にある谷には橋を架けることができないということを暗示しているように思えますが,そこに架けることができる橋がどういう橋であるのかということが,この備考で示されているということになります。
こうしたことを対象とした論考に,上野修の「精神の眼は論証そのもの」があります。タイトルからして何が主題になっているかは明白でしょう。これは『デカルト、ホッブズ、スピノザ 』に収録されています。
1日に2015年度の将棋大賞 が発表されました。
最優秀棋士賞は羽生善治名人。名人防衛,棋聖防衛 ,王位防衛 ,王座防衛 ,王将挑戦,朝日杯将棋オープン優勝 。タイトル数を増やすことこそできなかったものの,保持していたものは完全防衛で当然の受賞。1988年度,1989年度,1992年度,1993年度,1994年度,1995年度,1996年度,1998年度,1999年度,2000年度,2001年度,2002年度,2004年度,2005年度 ,2007年度 ,2008年度 ,2009年度 ,2010年度 ,2011年度 ,2014年度 に続き2年連続21回目の最優秀棋士賞。
優秀棋士賞は渡辺明竜王 。竜王挑戦 ,奪取 ,棋王防衛 。実力からすると物足りない気がしないでもないのですが,羽生名人に次ぐ活躍だったのは間違いないと思います。2005年度,2008年度,2010年度,2011年度に続き4年ぶり5度目の優秀棋士賞。
敢闘賞は佐藤天彦八段。王座挑戦 ,棋王挑戦 ,名人挑戦。記録部門の最多対局賞,最多勝利賞,連勝賞を獲得。王座か棋王を獲得できていれば,優秀棋士賞の可能性もあったかと思います。記録部門を除くと2009年度の新人賞以来2度目の将棋大賞受賞。
新人賞は斎藤慎太郎六段。順位戦C級1組で昇級を決めた以外,棋戦での目立った活躍はありませんでしたが,勝率1位賞を獲得して佐藤八段の記録部門独占を阻止しました。記録部門も含めて将棋大賞初受賞。
最優秀女流棋士賞は里見香奈女流名人。女流王位挑戦 ,奪取 ,女流王将挑戦 ,奪取 ,倉敷藤花挑戦 ,奪取 ,女流名人防衛 。休場からの復帰で復活の年になりました。2009年度,2010年度,2011年度,2012年度 ,2013年度 に続き2年ぶり6度目の最優秀女流棋士賞。
女流棋士賞は室谷由紀女流二段。マイナビ女子オープン挑戦 を決め,女流最多対局賞も受賞しました。将棋大賞初受賞。
升田幸三賞は富岡英作八段。これは2009年か2010年に指された角換り腰掛銀の富岡流によるもので,この戦型の戦後同型があまり指されなくなったことに大きく影響しています。
名局賞は渡辺棋王が防衛を決めた棋王戦の第四局。名局特別賞に棋王戦挑戦者決定トーナメントの羽生名人と阿部健治郎六段の一戦。角換り相腰掛銀から後手の阿部六段が3三に銀を上がらず桂馬を跳ねて攻めに使い,勝った将棋です。
推論によって論証された神の存在を実感するとき,僕は単に第二種の認識 cognitio secundi generisによって神が存在することを知ったというだけでなく,第三種の認識によって神が存在すると認識したのではないかと思えます。すなわちスピノザが第五部定理二三備考 で,知性によって理解する事柄を想起する事柄と同等に感じるといっていることの意味は,第二種の認識によって認識した事柄を,第三種の認識によっても認識するということではないかと思うのです。
スピノザは第三種の認識がどういう認識であるかを説明するために,比例数を例示しています。具体的にどんなものか示しませんが,スピノザが例として数学を使用しているのは,もしかしたら意味があるかもしれないと僕には思えます。というのは数学というのは実在的有を対象としているのでなく,理性の有を対象としているといえる面があるからです。いい換えれば純粋に認識のみを扱っているといえる面があるからです。そして数学的な論証においても,僕は神の実在と同じような実感を抱くことがあるのです。
(a+b)²=a²+2ab+b²という公式が数学にはあります。この公式が正しいという論証方法はいくつかあると思いますが,僕にその正しさの確信を抱かせるのは,一辺がa+bという長さの正方形が平面上にあるとき,この正方形の面積は,同様に平面上にある一辺がaの正方形ひとつ,縦がaで横がbの長方形ふたつ,一辺がbの正方形ひとつの面積を足したものと等しいという論証です。この論証によって僕は(a+b)²=a²+2ab+b²という公式が正しいということを確信します。a+bなどという長さが実在するわけはありませんから,このことは僕の精神のうちでのみ生じているといっていいでしょう。そしてこの確信を抱くことによって,僕はもはや先述の論証なしで,(a+b)²=a²+2ab+b²は正しいと知ることができるのです。他面からいえば,(a+b)²という式が何を意味しているかを知るのです。スピノザが提出している例と異なりますが,スピノザがそれで示そうとしている第二種の認識と第三種の認識の相違から,これは第三種の認識だと僕には思えます。
第三部諸感情の定義二八 の高慢は,自己愛が高じて自分自身を正当以上に評価することによって生じる感情です。ですからこれには反対感情 が生じ得ることになります。すなわち第三部諸感情の定義二六 で定義されている感情,岩波文庫版で謙遜ないしは自劣感と訳され,僕が自己嫌悪humilitasと訳した悲しみが高ずることによって生じる感情です。これは『エチカ』では自卑と名付けられ,第三部諸感情の定義二九に示されています。
「自卑とは悲しみのために自分について正当以下に感ずることである 」。
自卑と自己嫌悪が異なるという点には注意してください。自卑は高慢の反対感情であり,自己嫌悪は第三部諸感情の定義二五 の自己満足の反対感情です。
スピノザは高慢を狂気の一種とみなしましたが,自卑については明言していません。ただ,自卑的な人間は高慢な人間に最も近いといっていますので,これも狂気か,それに近い感情だとみなしていると解してよいものと思います。なぜこのふたつが近い感情であるのかということは,いずれ詳しく説明するでしょう。
第三部定理一三 は,僕たちを悲しませるものを表象した場合には,その表象像を除去する傾向を僕たちが有するということを示しています。ですから人間の精神の現実的本性というものは,自卑とかその要因になる自己嫌悪という感情に対しては,それ自体で反抗的であることになります。ですから自己満足とか高慢という感情に人間が支配されることに比べれば,自己嫌悪や自卑に支配されてしまうことは稀であるといえるでしょう。そしてこれらの感情を除去するためには,第三部諸感情の定義三〇 の名誉gloriaという感情が必要です。第四部定理七 にあるように,感情を排除するのは別の感情だからです。なので自卑的な人間は,名誉欲が強くねたみ深いという傾向を有することになります。
第五部定理二三備考 でスピノザがいっていることを僕がこういうふうに解釈するのは,それが僕の経験に裏打ちされているからです。そして経験に裏打ちされていることが,僕がこの解釈を正しいと断定できない理由のひとつにもなっています。経験による認識は第一種の認識 cognitio primi generisである可能性を否定できないからです。ですがこの経験を具体的に示しておくことは有益でしょう。
第一部定理一一 で神の実在が論証されるとき,僕は第三の証明 が最も優れていると考えています。それは単にこの論証が論理的に明快であるからというだけではないのです。この論証によって僕が神の実在に確信をもつことができるからなのです。
神が存在するかそうでなければ何も存在しないかのどちらかでなければならず,何も存在しないというのは不条理であるから神は存在するということを論理的に示したこの論証によって,僕は神の存在に確信をもつことができるのですが,この確信は能動的感覚にほかならないと僕には思えます。つまり推論によって単に神が実在するということが論証されたに留まらず,神が存在するということを僕は同時に実感するのです。そしてこの実感こそが,僕が確信といっていることの正体にほかならないのです。
もちろん僕はこの論証によって,たとえばある物体が現実的に存在するというように神を知覚するのではありません。もちろんそれは想起するのでもありませんし想像するのでもありません。これが受動的感覚と能動的感覚との間の相違です。いい換えれば,僕はこの論証によって,身体の目によって神が存在すると実感することはできません。ですが僕の精神の眼は,この論証によって確かに神が実在するということを実感するのです。つまり推論によって論証した事柄を,現実的に存在すると認識することはできなくても,存在するというようには感じられるのです。そしてさらにいうならば,精神の眼によって実感することができたということ自体が,僕には神が確実に存在するということの何よりの論証になり得るのです。
ここではスピノザのいい回しに合致するように説明しましたが,この実感は僕にはリアルなものなのです。
仮面貴族 はリングの中でも外でもナルシスト であったのは事実と思います。ですが僕はそのことを全面的には否定しません。むしろ僕にはマスカラスはナルシストになる十分な理由があったと思えるからです。
馬場はマスカラスのことを実力的には大したことはなかったといっています。それは確かに事実なのでしょう。ですが観客動員力があったというのもまた事実です。そしてこのことは,プロレスラーとして誇ることが許されることだと思います。どんなに実力があったとしても,客を呼ぶことができないのであれば,プロとしては失格という烙印を押されても致し方ないと思うからです。
プロレスラーたるものは客を呼ぶことができなければならないという考え方は,馬場にもあったと思います。というより馬場は全日本プロレスの社長であったのですから,そういう考え方をもっていなければ,経営していくことができなかった筈だと思うのです。たとえば馬場がマスカラスを低く評価している実力に関していえば,不沈艦 とか超獣 は,レスリングのセオリーを会得しているとはいえないとしても,強かったということを馬場は認めていました。ですが経営者としての馬場がこのふたりを同じように評価していたのかといえばそうでもありません。全日本プロレスへの貢献という意味においては,ハンセンの方がブロディより上であったと馬場ははっきりといっています。馬場はその理由に関しては明言していませんが,意味するところはハンセンの方がブロディよりも客を呼べたということにあるのは間違いないといっていいでしょう。
なのでマスカラスが自分は客を呼べるレスラーであることを理由に,リング内で自分の好きなようにプロレスをしたり,リングの外でほかの選手より上位の待遇を要求することがあったとしても,単に自分勝手な振舞いであるという評価だけをすればよいというものではないと僕は思うのです。つまり僕がマスカラスをナルシストであるというとき,それは必ずしもマスカラスを批判しようという意図だけを含んでいるわけではありません。
正直なところ,第五部定理二三備考 の抜粋部分でスピノザが何をいいたかったかが,僕にはよく分かっていないかもしれません。けれどもこういうことではないかと思うところはあるのです。
僕たちは様ざまな事物を表象することによって,現実的に存在すると認識します。これと同じようなことが,僕たちが論理的に帰結させた事柄の場合にも生じるとスピノザはいっているのではないでしょうか。すなわち,推論によって論証された事柄は,表象によって事物が現実的に存在すると認識されるように認識される,あるいは認識され得るとスピノザはいっていると思うのです。
スピノザはそのことについては何もいっていませんが,仮に僕の解釈が正しいものであったとしたら,ここにはよく注意しておかなければならないことが含まれていると僕は考えます。僕たちが表象によって事物を認識するとき,それはその事物を混乱して認識しているのです。しかし僕たちが推論をする場合には,これは第二種の認識 cognitio secundi generisに依存することを意味するので,十全に認識するのです。ですから同じようにそれを現実的に存在すると認識するとしても,いい換えればそういう感覚を感じるとしても,その感覚には大きな違いがあるといわなければなりません。表象による感覚が受動的感覚であるとするなら,推論による感覚は能動的感覚といわなければならないでしょう。
能動的感覚というと,それ自体が語義矛盾であるかのように思われるかもしれません。しかし僕はスピノザの哲学においては,こういういい回しが必ずしも的確性を欠くとは思いません。なぜならスピノザの哲学における能動と受動 の相違というのは,それを人間の精神に限定させていえば,その人間の精神が十全な原因となっているか部分的原因となっているかの相違にすぎず,それで生じる思惟作用,感覚も含めた思惟作用は,必然的にその精神に生じるものであるという点では何らの相違もないからです。いい換えれば主体の排除というのは,精神が能動的である場合にも受動的である場合にも同じように妥当するからです。つまり主体的感覚はあり得ませんが,能動的感覚というのは確かにあると思うのです。
二律背反 となっている漱石のドストエフスキー評 のうち,漱石が示す共感の中心となっているのは,共に死の瀬戸際からの生還 という特異な体験を有しているという点にあります。しかし漱石はこれと関係した別の理由も示しています。
漱石は修善寺の大患で意識が覚醒した後,一種の精神状態に陥り,その状態を毎日のように繰り返すようになったそうです。そしてその精神状態からドストエフスキーのことを連想したといっています。ドストエフスキーを想像せざるを得ないほど,その精神状態は尋常を飛び越えていたのだと漱石は書いています。
ドストエフスキーを想像したその精神状態のことを,一種微妙な快感と漱石は表現しています。それはドストエフスキーが癲癇の発作に襲われたときに感じたもので,自己と外界が円満に調和した境地であり,天体の端から無限空間に滑落したような境地であると漱石は事前に知っていました。
漱石はそれを知っていただけなのであり,実際に体験していたわけではありません。ですが大吐血をした後で生還した後に,こうした表現が相応しい精神状態を実際に体験したのです。これが漱石が示す共感の,もしかしたら最大の理由になっていたのかもしれません。
ドストエフスキーはこの高揚感を,銃殺直前の恩赦として感じたのではなく,病的状態として感覚したのです。ですが癲癇という病気が神の似姿 を表現することができたことから分かるように,これは神聖な病と西洋ではとらえられていました。漱石はそのことを心得ていました。つまり癲癇という病から派生する連想が,漱石の場合には聖なるものへと容易に移行できたのです。おそらく漱石が感じた尋常を飛び越えた精神状態というのは,病的にして聖なるものであったということなのでしょう。
第五部定理二三 の人間の精神mens humanaの中の永遠なるあるもの aliquidというのが,第三種の認識 cognitio tertii generisであるということ,あるいは第三種の認識によって現実的に存在しているその人間の精神に生起するものでなければならないということは,「個を証するもの 」で出されている結論と一致しています。つまり僕は佐藤の見解に同意します。そしてこのことは,その直後にスピノザが付している備考Scholiumの内容から強化されると考えます。
スピノザはこの備考の最初の方で,現実的に存在する人間は,身体corpusが現実的に存在する以前に自分が存在していたということを想起することはないとし,その理由を示しています。これは第一部定義八説明 と関係しています。永遠性aeternitasは持続duratioや時間tempusによっては説明されないものであり,現実的に存在する以前という時間は,永遠aeterunusには属さないからです。しかしスピノザは,現実的に存在する人間も自分が永遠であると感じるし経験する(sentimus experimurque, nos aeternos esse )とも述べています。そしてその理由を以下のように説明しています。
「精神は,知性によって理解する事柄を,想起する事柄と同等に感ずるからである。つまり物を視,かつ観察する精神の眼がとりもなおさず〔我々が永遠であることの〕証明なのである (Mentis enim oculi, quibus res videt, observatque, sunt ipsae demonstrationes )」。
現状の課題にとって必要なのはここまでですが,備考はまだ続いています。そこで主張されていることの中心をなすのは,人間の精神が持続するdurareといわれるのは人間の身体が持続している限りにおいてであり,そしてこの限りにおいて,人間の精神はものの存在を時間によって決定したり,ものを持続するものとして認識する力potentiaを有するということです。今は関係ありませんが,たぶんこの部分は重要です。というのはこれは逆に考えてみれば,人間の精神が,というかこれは人間の精神に限らず一般に精神なるものがといっていいかと思いますが,その精神が永遠なるものとしてみられる限りにおいては,ものを時間によって決定したり持続するものと認識したりすることはないと主張していると解せるからです。実際に永遠である精神が持続とか時間を認識しないということは,この後の定理Propositioと関係していると僕は考えます。ですがそれについてはここでは考察しません。