スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典マーキュリーカップ&場所

2018-07-16 19:08:52 | 地方競馬
 メイセイオペラ記念の第22回マーキュリーカップ
 ヨシオが逃げました。2番手にザイディックメアとマイネルバサラで4番手がドラゴンエアルとフェニックスマーク,6番手にミツバでしたが,2番手以下の5頭はほぼ一団。7番手以下はエンパイアペガサス,マイネルバローネ,ミッキーヘネシー,ポイントプラスの順で続き,その後ろがコミュニティとヒドゥンブレイド。後方2番手がプリンスダムで最後尾にシンゲツ。超スローペースでした。
 3コーナーを回るとヨシオの後ろはマイネルバサラ,フェニックスマーク,ミツバの3頭の雁行に。ザイディックメアとドラゴンエアルがその後ろで併走となり,ここまでは勝負圏内。直線に入るところのコーナーワークでヨシオが一旦は後ろとのリードを広げましたが,雁行していた3頭のうち大外のミツバは伸びてきてヨシオと優勝争いに。差し切ったミツバが優勝で逃げ粘ったヨシオは1馬身差の2着。直線で苦しくなったフェニックスマークは4馬身差の3着。
 優勝したミツバは昨年のマーキュリーカップ以来の勝利で重賞2勝目。ここは実績は上位。4連勝でオープンを突破してきたフェニックスマークが最も怖い存在でしたが,どうやら壁があったようで,そうなれば順当な勝利といえるでしょう。最後の600mが35秒6だったことからも分かるように競馬の流れは2着馬のもので,それを外を回って捻じ伏せたという形ですので,1馬身という着差以上の能力差はあるとみていいと思います。ただそれはあくまでもこのメンバーの中ではということであり,トップクラスとはまだ少しだけ差があるという印象も残りました。父は第14回を制したカネヒキリ。祖母は1991年に報知杯4歳牝馬特別とサンスポ杯4歳牝馬特別を勝ったゴールデンジャック。そのひとつ下の全弟がスターリングローズ
 騎乗した松山弘平騎手と管理している加用正調教師はマーキュリーカップ連覇で2勝目。

 妹が通っている通所施設はマンションのような建物になっていて,上部に入所施設があります。は妹がそこに入所することができるのがベストと考えていました。ですが今回の件はそこではありません。グループホームの所在地は港南区の上永谷で,僕の家からはそう近いところではありませんでした。
 横浜市営地下鉄のブルーラインには上永谷駅があります。駅は谷といっていいところにあり,北側を環状2号線が通っています。これは僕の推測ですが,この環状2号線の一部は昔は川だったのではないでしょうか。上永谷から東戸塚方面に行くと,護岸と思われる石積みの跡が見受けられますし,構造的に船着き場だったのではないかと思われるようなところもあります。また,上永谷駅の近くには馬洗橋という名の交差点があり,たぶんそこには川に架かる橋がかつてはあったのではないかと思います。
 その上永谷の駅は北側と南側は台地になっています。その北側の台地の一部も地名は上永谷で,妹が紹介されたグループホームはその台地にあります。上永谷駅方面からだけではなく,上大岡駅方面からも向うことができますが,いずれにしてもかなり坂を上って行ったところになります。
 日中に作業する場所は同じ港南区の日野です。グループホームから作業所までは,グループホームが自動車で送迎してくれるとのことでした。
 この作業所はかつて妹がショートステイで2度ほど利用したことがある施設に隣接しています。ここは1泊しかできない上に,必要な荷物がほかと比較すると多かったために,すぐに利用を中止してしまったのですが,まったく知らない場所というわけではありません。作業所はグループホームの利用者の専門ではなく,通所施設も兼ねていますし,ここには入所施設もあり,入所されている方も作業します。人数が多いですから,作業の種類もいくつかあるとのことでした。
 日野は上永谷と比べればかなり広い町ですが,この施設は磯子区の洋光台にかなり近く,実際に最寄りのバス停は洋光台北口という,磯子区内のバス停です。僕の家からならば,グループホームよりはこちらの施設の方が距離としては近いです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書簡七十九&説明

2018-07-15 19:03:41 | 哲学
 書簡七十八に対してオルデンブルクHeinrich Ordenburgは反論の手紙を送っています。それが書簡七十九です。
                                     
 オルデンブルクが最初に主張しているのは,神Deusは自分の似姿として人間を創造したということです。これはフーゴー・ボクセルHugo Boxelとの間で交わされた,優越性の議論と関連していることが分かります。つまりオルデンブルクは,神は優越的にeminenter人間であるという主張を展開しているのです。オルデンブルク自身がこのようないい方をしているわけではありませんが,スピノザはボクセルへの書簡五十六の中で,三角形が話をすることができれば,神は優越的に三角であるというだろうという主旨のことをいっているのに倣った僕のいい回しであると理解してください。いい換えればこの点において,ボクセルとオルデンブルクとの間には一致点があったと僕は考えます。同時にスピノザはそれを否定するのですから,スピノザがそれを否定しているということについては,ボクセルもオルデンブルクもそれを正しく理解することができていたといえます。
 書簡の最後に,オルデンブルクはイエスの復活を比喩的に解してはならないと主張しています。全キリスト教とその真理はこの復活に支えられているとオルデンブルクはいっていますから,この部分は,スピノザが聖書の意図は哲学を教えたり人を賢明にしたりすることではなく,人を従順にすることにあるといっていることに対する反論でもあると僕は解します。オルデンブルクによれば,復活を比喩的に解するなら,イエスの使命と教説は崩壊するのだから,福音書の真実を倒壊させるのと同じです。ただ,スピノザは福音書が真実であるということを前提とはしていないのですから,これは神学的観点からの超論理的な反駁で,スピノザに対しては有効ではないと僕は考えます。
 スピノザはこの書簡に返事を送らなかったようです。ブレイエンベルフWillem van Blyenburgの場合と同じように,自身とオルデンブルクとの間には,橋を架けることができない川があるということを,この書簡によってはっきりと悟ったからでしょう。

 僕たちにとって,というかにとってといった方がいいかもしれませんが,現在の通所施設と同じ福祉団体が運営しているグループホームへの入所の打診は,渡りに船のようなものでした。ということで,詳しい話をしてもらうため,翌日に通所施設の方に家に来てもらうことになりました。
 同時にこの日,福祉事務所からも電話がありました。これは母が延命治療のために入院していたときにあった,隣町に新設されるグループホームへの応募の一件でした。先方によれば,この施設は男の人に限定のグループホームになるということで,妹は応募することができなくなったそうです。僕たちはむしろ別のグループホームへの入所に気持ちが傾いていましたから,これはこれでそこまで悪い話ではありません。こちらの事情も伝え,グループホームを探すことは中止してもらってよいということを伝えました。
 この日の夕方に,Kさんが来訪されました。
 11月1日,水曜日。通所施設の作業の終了後に,通所施設で妹を担当されている方ともう一方のふたりが来訪されました。これは自動車での来訪でしたので,妹も一緒に送ってもらいました。午後4時15分ごろのことです。母と妹,そして通所施設の方々の4人で,30分ほど話し,ふたりは通所施設に戻りました。このときに説明があったのは,まずグループホームの場所です。次にグループホームというのは基本的に夜に寝泊まりするところであり,日中は滞在するところではありません。なのでこのグループホームを利用する場合に,妹は日中はどのように行動することになるのかという説明も含まれていました。これはやはり同じ福祉団体が運営している作業所に出掛けて,作業を行うということでした。さらに,入所する際に必要になるもの,これは日々の生活のための必需品などですが,どういったものを準備すればよいかという話もありましたし,入所した場合にどの程度の費用が必要とされるのかといったことの説明もありました。このような詳しい話がなされたのは,まだ契約をするという段階には至っていませんが,事実上は妹が入所するということで双方が合意に達していたということです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

印象的な将棋⑮-1&入所施設

2018-07-14 18:57:37 | ポカと妙手etc
 第38期女流王将戦本戦トーナメント準決勝より。この期は挑戦者決定戦もそこそこの逆転だったのですが,この準決勝は大逆転といっていい内容でした。
                                     
 後手が歩を打った局面ですが,これは悪いとみての勝負手だったと思います。
 先手は☗同歩成と取り☖同銀に☗8三歩。これは☖同銀しかありませんが☗同飛成と切って☖同王に☗8一飛成と追い,☖8二歩に☗8五銀と縛りました。
                                     
 現状は☗8四歩は打ち歩詰めで打てませんが,☗7三香成☖同金☗7五桂の詰めろになっていて,なおかつ7三に後手の金がくれば☗8四歩も打てるようになります。また☗7三香成に☖同王も☗7四銀☖8四王☗8二龍以下の詰み。よってこれは受けに窮した形で,先手はこれで勝ちと思っていたのだと推測します。40秒将棋だったこともありますが,この判断が逆転を産んだのではないでしょうか。

 伯母が帰国したのはこの日です。羽田空港を夜に立つ便の予約でしたので,この日の夕飯まで,伯母は一緒でした。母は抗癌剤による治療を断念したとはいえ,副作用はまだ治まっていませんでした。洗濯機を回して洗濯物をカゴに入れておくとか,僕が取り込んだ洗濯物をたたむといった家事は,僕からみても非常に辛そうではありましたがやっていましたが,食事の支度をするようなことができる状態ではありませんでしたので,次の日からまた僕が食事を作るようになりました。
 10月29日,日曜日。この日はガイドヘルパーを利用してカラオケに連れて行ってもらう予定でしたが,中止となりました。これは台風が接近していたためです。前述したように,僕が食事の支度をするようになったのがこの日からです。
 10月31日,火曜日。妹の通所施設から電話がありました。これは妹の通所施設の経営母体となっている福祉団体が経営している入所施設,つまりグループホームですが,ここに空きができたので,妹の入所を希望するかどうかの打診でした。母は大腸癌を手術する前は何度か妹を通所施設まで送っていて,妹の今後についての相談もしていましたので,こうした打診があったのです。
 障害者の入所施設というのは一般的にはひとつのコミュニティーであり,そこに空きができるというのは,基本的には入所している方が亡くなったということであり,このときもそうでした。こういう場合は公募することになっているのかもしれませんが,空きをどのように埋めるのかということは施設に任されています。グループホームへの入所を希望する障害者の保護者というのは多くいて,順番待ちになっているのが実情かと思いますが,母は余命が限られていて,緊急を要する事態となっていましたので,まず優先的に連絡をもらえたようです。実際のところ経営母体が一緒であるならば,入所させる側もある程度は人柄を理解している障害者を受け入れた方がいいでしょうし,保護者の側からしても,まったく知らない団体が運営している施設よりは安心できます。つまり空きができて妹で埋めるというのは,両者にとって都合がいいことだったのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誤読の理由&断念

2018-07-13 19:05:08 | 歌・小説
 僕は先生が下宿人としての面接,事実上はの結婚相手としての面接の合格の理由は,先生の財産目的ではなかったと読解します。しかし,『こころ』をそのように読解する識者というのは意外と多くいます。そうした読解をする人は,Kとの同居の後,先生に求婚を迫るためにKに対して静がわざと色目を使ったというように読解するパターンが多く見受けられます。僕はこれは誤読であると考えますが,こうした誤読が生じる理由をひとつ示しておきましょう。
                                     
 これは『こころ』のうち,下の先生の遺書の部分に特化した読解です。つまりテクストを記述しているのは先生です。ですからそこに書かれているのは先生の目から見た世界なのです。よってそこには先生によるバイアスがかかっていると考えなければなりません。いい換えればそれは真実ではなく,もし奥さんや静がテクストを残していたら,もっと別のものになっていたという可能性があるのです。
 先生が長男の悲劇を味わったのは,この家に下宿する前のことでした。そして先生は,国元の事情を語った後には,奥さんや静が自分の財産を搾取した叔父と同じような意図をもって自分に接近しているのではないかと疑っています。テクストはこれよりずっと事後に書かれたものなのですから,先生は自分がそうした猜疑心を抱くのが自然であるかのようにテクストを記述することになるでしょう。
 静が優柔不断な先生に求婚を決断させるために,Kに対して色目を使ったという読解も,このような観点を抜いて評価することはできません。確かに『こころ』のテクストは先生を嫉妬させるために静がKを利用したというように読めないわけではありません。でもそれは先生からみてそうだったというにすぎず,本当に静の意図がそうであったとはいえません。たとえば房州旅行後の静の態度は,むしろその読解を否定する要素を有しているといえないでしょうか。
 遺書は先生が自身の目線で書いているということを見落とすと,このテクストは必然的に誤読されると僕は考えます。

 事前の予約があるわけではないので,こうした通院の場合は再診の受付が必要になります。僕の場合でいえば,処方された注射針の量が足りなかったために通院したという例が過去に2度ありましたが,それと同じです。この手続きに少々の時間を要しました。
 この後で消化器内科の受付をして,順番を待っていましたが,これにも時間を要しました。母は待合所のソファーに横になっていましたが,消化器内科の看護師が来て,診察室の反対側にある処置室という部屋に案内してくれました。ここにはベッドがあり,横になって待っていることができるのです。母がそこで横になっている間に看護師によっていくつかの質問がなされました。これは事前の問診に該当するものであったと思われます。その後で,この部屋に医師が来て,母は横になったままで診察を受けました。この医師は消化器内科の主治医ではなく,この日の消化器内科の新患の担当医です。まず血液検査を行いましたが,この結果は良好なものでした。つまり副作用が血液に表れているということはなかったということです。ただ下痢や吐き気は副作用と思われるので,服用していた薬に関しては,本当は飲んだ方がよいけれども,飲むのを中止してもよいという許可を出してくれました。実際に母はこの後は薬を服用していません。つまり抗癌剤による延命治療は断念したということです。
 その後,母は点滴を行いました。これは栄養の補給と吐き気を止めるためのふたつでした。点滴が終るまでは長く時間が掛かりますので,僕はこの間に院内の食堂に出向いて昼食を摂りました。これでこの日の診察は終了です。会計の受付に行った後,支払いのために計算を待っている間も母はかなり辛そうにしていましたので,支払いをせずにそのままタクシーで帰りました。それが午後3時半ごろです。家には伯母がいますから,母のことは任せ,僕は再びみなと赤十字病院に向い,支払いをしました。
 10月28日,土曜日。妹の土曜出勤でした。この日は地域のお祭りへの参加です。妹の作業所からの出店もありました。土曜はガイドヘルパーを頼んでありませんが,この日は伯母に送ってもらいました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小鹿の雑感⑤&副作用

2018-07-12 19:03:19 | NOAH
 小鹿の雑感④の続きです。
 僕のプロレスキャリアが始まった頃,全日本プロレスの前座で試合をしている選手に,ミスター・林がいました。百田光男,百田義浩,そしてこのミスター・林の3人には,若手の選手たちはなかなか勝てなかったように記憶しています。後にレフェリーも務めるようになりましたが,この林については僕はよく知りませんでした。
 林は旗揚げメンバーではなく,グレート・小鹿などと同じように,日本プロレスの倒産後の合流組です。僕が驚いたのはザ・グレート・カブキによると,林が日本プロレスに入団したのは馬場より早かったということです。つまり林は馬場より先輩なのです。天龍源一郎は,林は試合会場から旅館に戻った後,馬場より先に風呂に入るということがあったそうです。基本的に外国人サイドの控室にいて,外国人選手たちと話していることが多かったといっていますので,全日本では居心地の悪さを感じていたのだと思います。
 レフェリーをやるようになったのは馬場に言われたからだと小鹿はいっています。全日本プロレスで同じようにレスラーからレフェリーに転向した選手にはマイティ・井上がいますが,これはリストラの一種であったと僕は思います。選手としては引退させなければならないけれど,退団はさせず,働き場所は与えるということでしょう。これはレフェリーという仕事に限ったことではなく,引退してスタッフになるように説得したケースもあります。寺西勇はこのケースだったのですが,寺西は固辞して全日本を退団しました。
 林にとってレフェリーはあまりいい仕事ではなかったようです。小鹿によればレフェリーはレスラーより動かなければならず,それがきついと林は愚痴を言っていたそうです。最初の頃は動いていたけれども何ヶ月後かにはコーナーの角に立ちっ放しになったと小鹿は言っています。どういう経緯で退団になったかは不明ですが,大きな要因は『読む全日本プロレス』を書いた和田京平の成長ではないでしょうか。和田は親馬場でしたから,馬場としても使いたかったし,使いやすかったのだと思います。

 10月21日,土曜日。退院の当日です。9時に来るようにということでしたので,その時間に間に合うように病院に向いました。大腸癌を切除する手術をした後の退院は祝日で,一切の支払いがなかったのですが,この日は食事代の支払いだけはありました。
 この日は妹のピアノレッスンもありました。これは木曜日の夜に先生から連絡があり,午後2時半から。僕たちは午前10時10分には帰宅していました。
 10月22日,日曜日。衆議院議員の選挙の投票日でした。僕は午後から投票に行きましたが,母と妹は棄権になりました。
 10月23日,月曜日。この日は伯母が妹を通所施設まで送りました。これは前日から台風の影響が懸念されていたため,ガイドヘルパーによる送りを断ってあったからです。しかしこの日の朝になってみると,出勤できる状態まで天候が回復していました。僕が送ってもよかったのですが,伯母が行かれるということでしたので,依頼しました。
 母は抗癌剤治療の副作用と思われる症状が出ていました。布団の上に横になっている時間がほとんどでしたし,起き上がってくるだけでもかなり辛そうでした。本来は母はこの治療はしたくなかったのですから,この状態で治療を続けていくのは無理ではないかと僕には思えました。
                                     
 10月26日,木曜日。母はずっと下痢気味であったのですが,この日には吐き気も催すようになり,実際に嘔吐することもありました。家には血圧計がありますが,それで計測したところ196mmHgという高い数値も出ました。治療は飲み薬もあるといいましたが,母はその飲み薬を目にするだけで身体が拒絶反応を起こすようになっていて,それを飲むこと自体も困難になっていました。僕はこの日になって,この治療は中止した方がいいだろう,少なくとも母にとってはその方がいいだろうと強く思うようになりました。
 10月27日,金曜日。副作用が辛すぎるので病院に行きたいという申し出が母からありました。ということでみなと赤十字病院に電話をしますと,診察を受け付けてくれるという返事でしたので,午前9時20分に,タクシーで母と病院に向いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農林水産大臣賞典ジャパンダートダービー&オリエンテーション

2018-07-11 20:43:36 | 地方競馬
 第20回ジャパンダートダービー
 テーオーエナジーが先手を奪い,リコーワルサーがそれを追いました。2馬身差の3番手以降は概ね半馬身の間隔でクリスタルシルバー,ハーベストムーン,ハセノパイロ,オメガパフュームの順で続きその後ろにクロスケとグレートタイム。ドンフォルティスはその後ろでこれをマークするようにバイラとルヴァンスレーヴ。3番手からここまでは一団。2馬身ほど離れてサンダベンポート,スパージェット,アルファーティファの3頭が後方集団を形成。前半の1000mは62秒6のミドルペース。
 3コーナーを回るとテーオーエナジーがペースアップ。リコーワルサーは押しながら何とかついていき,内からクリスタルシルバー,外からはドンフォルティスとルヴァンスレーヴが追い上げてきました。テーオーエナジーは直線では一旦は抜け出しましたが,フィニッシュまでは余力を残せず,伸び脚を欠いたドンフォルティスの外に回ったルヴァンスレーヴが大外から突き抜けて優勝。一杯になったテーオーエナジーの外から並んで追ってきたグレートタイムとクリスタルシルバーのさらに外からオメガパフュームがよい脚を使って1馬身半差で2着。グレートタイムがクビ差の3着でクリスタルシルバーはクビ差で4着。
 優勝したルヴァンスレーヴは前走のユニコーンステークスからの連勝。昨年の全日本2歳優駿以来の大レース2勝目。ここはドンフォルティスとルヴァンスレーヴの能力が上位で,距離適性も加味するとドンフォルティスの方が有利かもしれないと思っていたのですが,決定的といえるような差をつけての優勝になりました。もっとも,血統的にみればこちらの方が距離は伸びてよさそうでしたから,これまでマイル戦で好走していたのは,能力の高さによるもので,本当は距離が長い方が向く馬だったのかもしれません。順調なら相当の活躍を期待してよいと思います。父はシンボリクリスエス。母の父はネオユニヴァースファンシミンファンシーダイナの分枝で4代母が1986年に京成杯と牝馬東京タイムス杯,1987年にエプソムカップと新潟記念とオールカマーを勝ったダイナフェアリー。Le Vent Se Leveはフランス語で風立ちぬ。
                                     
 騎乗したミルコ・デムーロ騎手は大阪杯以来の大レース制覇。ジャパンダートダービーは初勝利。管理している萩原清調教師は全日本2歳優駿以来の大レース4勝目でジャパンダートダービーは初勝利。

 10月20日,金曜日。この日も見舞いに行ったのですが,前日までの病室に入りましたらではなく別の患者がいました。母はこの日に病室が移動になったのです。これまではナースステーションの近くの病室だったのですが,遠い病室への移動でした。こういう移動は一般的には症状が改善してきた場合に行われるもので,母の場合でいえば,副作用を起こしてしまう危険性が減ったということだったのだろうと思います。病室の移動は何らかの仕方で家族に伝えられるのが普通だと思うのですが,事前の連絡がなかったために僕は間違えてしまったのです。
 この日に行われた採血の検査の結果はすでに出ていて,血液への副作用は生じていないということが判明しました。なので翌日に退院することが正式に決定しました。ただ,この後の放射線治療は通院で行うため,そのためのオリエンテーションがあるということで,これに僕も同行しました。みなと赤十字病院の放射線治療専門の部屋は5階にありますので,このオリエンテーションも5階で行われました。詳しい話をしてくれたのは,放射線室の看護師です。話してくれたのはただ放射線治療に関係することだけでなく,これからの生活に関する話も含まれていました。このためにこのオリエンテーションは長い時間を要しました。
 終ってから母の病室に戻ると,薬剤師が来ました。これは退院後の薬剤に関する説明だったのですが,吐き気止めが入っていませんでしたので,それはこちらから依頼しました。僕が帰宅したのは午後6時40分です。この日のブログは事前に書いておいたものを投稿しただけですが,そのわりに通常よりも投稿時刻が遅めになっているのはこの影響でした。
 帰宅後に,福祉事務所から電話がありました。もちろん新たに開設されるグループホームに応募するか否かを問う電話です。母の了解をとってありましたから,この日に正式に応募するということを伝えました。その後で,母からも電話がありました。これは翌日の退院の時間や支払いなどについての連絡です。前回の退院は祝日でしたが今回も土曜なので,入院費の支払いについてはまた後日になるということでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヒューリック杯棋聖戦&治療開始

2018-07-10 19:36:27 | 将棋
 岩室温泉で指された第89期棋聖戦五番勝負第四局。
 羽生善治棋聖の先手で角換り相腰掛銀。豊島将之八段が玉を中央に置いたままにする代償に先攻するという将棋になりました。
                                     
 先手が桂馬を取ってと金を作った局面。ここで後手は☖5五角と王手しました。
 手筋は☗6六歩ですが実戦は単に☗7七歩。後手は☖6八銀と飛車取りに打ち☗2九飛に☖8五歩と打ちました。
 部分的に厳しい攻めで先手は☗同歩と取って☖8六歩を許し,☗5四桂☖同歩と捨てて☗7五角の王手でその歩を取りにいきました。
                                     
 この先手の手順は非常手段という感もあり,後手がうまくやっているのではないかと思えました。王手ですから受ける必要がありますがここで☖5三桂と打ったのは,後の手順からするとあまりよくなかったのかもしれません。
 ☗8六角は当然。後手は次の☖7四桂に期待していたものと思いますが,☗6四銀と打たれ☖8五桂☗5五銀☖同歩☗6五銀で大きな駒の交換に。
                                     
 ここでは☖6五同桂なり☖7九角で攻めていくことができなければいけませんが,無理だったらしく☖2一飛。ただこれは攻め駒の一部だった飛車が僻地に行ってしまう受けで変調。手番を得ている先手がよくなったものともいます。
 羽生棋聖が勝って2勝2敗。第五局は17日です。

 10月17日,火曜日。この日がが抗癌剤治療の1クール目を開始するための入院の日でした。僕が同行しました。
 入院の際は支援センターで受付をするのですが,この日は入院する患者が多く,待機している人が多かったために,病室に入るまで時間を要しました。病室に入ると看護師やら薬剤師やらといった人たちが来て,いろいろと話をするのが常ですが,この日は入院する病棟の事務員が来て話をした後,だれもなかなか来ませんでしたので,僕は事務員の話だけを聞いて帰りました。
 夜になってから,福祉事務所から電話がありました。これは僕の住んでいる町の隣町に,新たにグループホームが開設されることになり,新規に応募することができるので,応募するかどうかを尋ねる電話でした。以前に僕の住んでいる町内の火事について書いたときにいっておいたように,隣町というのはすぐ近くですから,妹が基本的に居住するグループホームの所在地として最適といってもいいくらいです。ただ,妹の将来について最も案じているのは母でしたから,僕の即断で決定するというわけにはいかず,担当者の方に事情を話し,母の希望を聞いた上で答えるということだけをこのときは話しました。
 10月18日,水曜日。この日からいよいよSOX+Bvの治療が始まりました。見舞いに行ったときに,前夜にあった福祉事務所からの電話の件について話すと,応募するようにという答えでした。ただ,この日は福祉事務所の方からは連絡がありませんでしたので,実際にその旨の答えをしたのはもう少し後です。
 10月19日,木曜日。おそらく放射線治療の副作用であったと思われますが,母は前夜は吐き気を催しあまりよく眠れなかったとのことでした。このために深夜に吐き気止めの座薬を注入してもらったっようです。飲み薬ではなく座薬であったのは,頓服薬を飲むと余計に吐き気を感じてしまう可能性があるからだというのが薬剤師の説明でした。この座薬を入れたら楽になったとのことで,薬剤で副作用を抑制できるなら問題ないかもしれないと僕には思えました。20日に血液検査を行い,問題なければ21日の退院が決まりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書簡五十七&SOX+Bv

2018-07-09 19:09:39 | 哲学
 スピノザとチルンハウスとの文通のうち,『スピノザ往復書簡集Epistolae』に掲載されている最初のものは書簡五十七です。この書簡はチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausからスピノザへ,となっていますが,実際にはシュラーGeorg Hermann Schullerを介したものです。書簡六十三が1675年7月25日付で,こちらは1674年10月8日付ですから,当然ながらこの手紙の背後にもライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizが存在するということはありません。
                                     
 ここでチルンハウスがスピノザに対して疑問を呈しているのは,もっぱら自由意志voluntas liberaの問題です。チルンハウスは,人間には自由な意志があることを肯定するデカルトの見解と,それを否定するスピノザの見解とを比較して,次のようにいいます。
 デカルトは,何らかの原因によって強制されないということを自由といい,スピノザは何らかの原因によってある事柄に決定されないことを自由といっているというのがチルンハウスの読解です。そして自由を各々これらのように定義づけるのであれば,デカルトがいっていることも正しいし,スピノザがいっていることも正しいとチルンハウスはいいます。すなわちチルンハウスの見解では,人間が原因によってある結果に決定されないということは不可能だけれども,何らかの原因によって強制されないということは可能であるという見解を有していることになります。
 これらを比較した上で,チルンハウスは真理veritasはデカルトの側にあるといいます。ここで真理というのは,人間には自由な意志があるかないかということに関係する真理のことです。チルンハウスは,デカルトのいうこともスピノザがいうことも正しいといっているのですから,真理がデカルトにある,すなわち人間には自由な意志があるというのは当然でしょう。
 スピノザはなぜその見解に同意し得ないのかということが,この書簡での質問の中心というかすべてです。

 この日は今後の具体的な治療方法が消化器内科の医師から伝えられました。
 が行う抗癌剤治療はSOX+Bvという治療法です。簡単に説明しますが,点滴による放射線治療と薬剤の服用を合わせて行うもの。まず点滴治療を行い,同時に薬剤の服用を開始します。薬剤を3週間続けて飲んだら,1週間は休みます。これが1クールで,4週間が経過したらまた点滴治療を行って,同じことを繰り返すというものでした。放射線治療も薬剤の服用も副作用を伴うので,その説明にも長く時間が割かれました。とくにこの治療を開始するときには激しい副作用を発症してしまうおそれがあるので,第1クールは入院して行うということでしたので,その日程の説明もありました。
 この診察の後,僕たちは入院支援センターというところに向いました。これは入院するときの受付をするところですが,この日は入院のための詳しい説明を受けるためです。といっても9日に退院したばかりなのですから,入院にあたって何が必要なのかといったことは心得ているので,ごく短い時間で終了しました。なお,この日の会計で,9日までの入院費を同時に支払っています。帰宅したのは10時10分ごろで,この日は母は僕につかまることなく,すべて自力で歩きました。
 9日に注文した座椅子は,この日の午後6時ごろに配達されました。この座椅子は母が不在のときなどに僕が使うこともありますが,僕が使ってもかなり楽に感じられる優れものです。よい買い物だったのではないかと思います。
 10月12日,木曜日。9月26日に破損してしまった眼鏡の鼻あての修理にようやく行くことができました。その場で直してもらえましたので,またこちらの眼鏡を使用するようになりました。
 10月15日,日曜日。妹が叔母に連れられて昼食の外食に出掛けました。これは伯母の来日中の恒例行事のひとつになっています。
 10月16日,月曜日。この日が叔母の帰国の予定日だったのですが,延期しました。これは伯母自身の意志によるものです。母は退院はしたものの,抗癌剤治療のためにまた入院するので,退院してくるまでは滞在したいとのことでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

阿波おどり杯争覇戦&退院

2018-07-08 19:03:56 | 競輪
 小松島記念の決勝。並びは天田‐牛山の関東,三谷‐村上の近畿,太田‐小倉の徳島,山田に守沢で野田は単騎。
 天田がスタートを取って前受け。3番手に太田,5番手に三谷,7番手に野田,8番手に山田で周回。残り3周のバックから山田がゆっくりと上昇。守沢の後ろに三谷が続き,野田もこのラインを追いました。ホームの入口でまず山田が天田の前に。さらにホームで三谷が山田の前に出て誘導の後ろに。三谷‐村上‐野田‐山田‐守沢‐天田‐牛山‐太田‐小倉の一列棒状になると三谷が打鐘まで誘導を使い,そのまま先行。バックで先に動いたのが山田。車間を開けていた村上が対応しようとするとその内に進路を取ったのが野田。さらに後ろから天田も捲ってきて直線。粘る三谷,村上との間を割った野田,三谷マークの村上,山田の後ろから村上の外を伸びた守沢,天田マークからさらに外を伸びた牛山の5選手はさほど差がなくフィニッシュ。優勝は大外の牛山。8分の1車輪差の2着は写真判定となり村上。守沢が微差の3着で三谷が半車輪差で4着。野田が4分の3車輪差で5着。
 優勝した茨城の牛山貴広選手は昨年6月の富山記念以来となる記念競輪2勝目。このレースは力では三谷ですが,打鐘まで誘導を使えたとはいえ得意とはいえない先行に。これは太田が強敵とみて,太田に自由には走らせないという作戦だったのだろうと思います。結果的に太田は経験不足を露呈するような形で後方に置かれて不発。展開的には村上が有利でしたが,山田マークではなく単騎を選択した野田が,まるで三谷の先行を予想していたかのように近畿ラインを追走し,最終コーナーで村上に内から絡んでいったため,村上の伸び脚に影響が出ましたし,展開にももつれが生じました。突っ込んできたのが守沢,牛山という,自力ではなくマーク選手だったというのは,逃げた三谷がそれだけ強かったということだと思います。

 入院は手術のためでした。ですから主治医は消化器外科の執刀医で,回診に来たのもその先生です。そして消化器外科での治療は明日の退院をもって終了することが同時に告げられたとのことです。これ以降は抗癌剤を用いての延命治療になるわけですが,それについて具体的にどのような治療をするのかということについては,消化器内科の主治医と相談して決定するようにいわれたようです。介護保険の認定に関しても,消化器内科の主治医の診断書が必要とのことで,相談するならそちらの主治医に対してでなければならず,よってこの段階では何も着手できませんでした。
 10月9日,日曜日。退院の日です。10時ということでしたから,それに間に合うようにみなと赤十字病院に行きました。退院当日は諸々の手続きがあるのですが,この日は看護師が病室にやってきて,ちょっとしたやり取りがあっただけでした。前日にいわれていた通り,入院費の支払いはしないで帰りました。タクシーを使いましたが,7階の病室からタクシー乗り場まで,母は僕につかまりながら歩きました。
 僕の家は母の母を引き取った関係でリフォームしましたが,かつて和室だった1階はフローリングになっています。ただ,そこに掘り炬燵をしつらえましたので,椅子にテーブルという生活ではありません。よってテーブルに向って座布団の上に座るという形になるのですが,母はもっと楽に座りたいということで,座椅子を所望しました。これはこの日のうちにAmazonで注文しました。この,椅子にテーブルではなくフローリングに座布団という形式での生活が,後に母を苦労させることになります。一概にはいえませんが,老後を見据えて家を設計するのであれば,たぶん椅子にテーブルというのを生活の中心に据えた方がよいのではないかと今の僕は思っています。
 10月11日,水曜日。退院してまだ2日ですが,消化器内科の通院の日でした。これが午前9時からで,僕が母に同行しました。入院した日も含め,これまではずっとバスで行っていたのですが,この日からはタクシーを使うようになりました。これ以降,母が病院に行く場合は必ずタクシーです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孤独の肖像1st.③&打ち合わせ

2018-07-07 19:06:09 | 歌・小説
 孤独の肖像1st.は,に示した楽曲の冒頭部分に続いて,テーマであるといえる孤独がすぐに歌われます。
                                

     どうせみんなひとりぽっち 海の底にいるみたい

 ②で僕がいったように,あるひとりの人間が自分にとって全人類を代表するような存在であるということが僕たちには起こり得ます。その場合に,その人間を何らかの理由によって失うと,僕たちはあたかも海の底にひとりぽっちでいるかのような強烈な孤独感を味わうことになるのです。おそらく人間にとっての孤独感というのは,本来的にはそのような心情のことを意味するのでしょう。いい換えれば,たとえ海の底にひとりぽっていでいようと,それが常態であるとしたら,僕たちは孤独感に苛まれるということはないのです。もし人がひとりで産まれ,ひとりで生き,ひとりで死んでいくものであるとすれば,人は孤独感という心情を味わうこともなかったでしょうし知ることもなかったでしょう。
 ですが現実には人はひとりで生きていくことができません。そのゆえにだれしも何らかの孤独を感じるのです。それは共同しなければ生きていくことができない人というものの宿命であるといっていいかもしれません。

     だからだれかどうぞ上手な嘘をついて嘘をついて

 その孤独感のゆえにこの楽曲の歌い手は嘘を求めます。大事なのは求めているのが嘘であるということです。つまり自分が求めているものは本当のことではないと知りながら,歌い手はそれを求めているのです。

 前日には医師が回診に来たら,退院後のことについて助言を求めるようにに言ってありましたが,その時間からこのときまで,医師は母の病室には来なかったようです。こういうわけで,車椅子にしろ介護用ベッドにせよ,すぐ用意するのはやめておくことにしました。予定の退院日が迫っていましたから,この日のうちに着手しておかないと間に合わない状況でしたが,もし生活に苦労することがあっても,少しの間は母に我慢してもらうことにしたのです。
 見舞いを終えれば妹の歯科検診の計算も終わっていますから,会計をして帰りました。前にもいったかもしれませんが,妹の医療費は無料,つまり全額が公費の負担です。ですから清算といっても支払いはないのですが,それでも計算には一定の時間が掛かるものなのです。
 10月7日,土曜日。前日に僕たちが帰った後だったかこの日の午前中であったかは定かでないのですが,医師の回診があって,予定通りに9日に退院するということが決定しました。ただし,採血の検査が問題ないならばという条件がついていました。これは,採血の結果を待たずに通知しておいた方が僕たちにとっては都合がよいであろうという配慮であったものと思います。母は退院後の生活についても助言を求めたようですが,痛みが生じている手術跡は,日ごとに回復してくる筈であるから,現段階では介護用のベッドを用意する必要はないだろうと言われたようです。ということで,もし退院後の生活であまりに苦労するようなことが生じてしまえば別ですが,当面の間はそれなしで生活してみるということで僕の意見と母の意見は一致しました。
 10月8日,日曜日。妹が伯母に伴われて美容院に行きました。僕はその間に母の見舞いに行きました。これは翌日の退院にあたっての打ち合わせも兼ねていました。まず,採血の結果ですが上々とのことで,退院は可能であるという最終決定が出されていました。時間は午前10時。退院にあたっては入院費の支払いが必要で,前日に概算が出されるのが通例です。しかしこの日は出ていませんでした。というのも翌日は祝日なので,支払いは後日になるからということでした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

農林水産大臣賞典スパーキングレディーカップ&痛みの原因

2018-07-06 18:46:23 | 地方競馬
 ホクトベガメモリアルの昨晩の第22回スパーキングレディーカップ
 最初からそのつもりだったようで,押しつつオルキスリアンがハナを奪い,向正面にかけて3馬身くらいのリードをとりました。2番手にリエノテソーロ。この後ろはラインハート,オウケンビリーヴ,ラビットランの3頭で,この後ろは7馬身くらい離れてフラワーオアシスとワンミリオンス。2馬身差でシュンプウ。3馬身差でドンナディヴィーノとラーゴブルー。ブランシェクールはその後ろになり,最後尾はマテリアメディカとマコトカンパネッロ。前半の800mが50秒0のミドルペースだったわりにはかなり縦長の隊列になりました。
 3コーナーを回るとオルキスリアンは一杯で,リエノテソーロが自然と先頭に。その外をオウケンビリーヴが追い上げ,さらに外からラビットラン。この順で直線に入ると入った時点での差がなかなか変わらず,結局そのままの並びでフィニッシュまで到達。優勝はリエノテソーロで半馬身差の2着がオウケンビリーヴ。1馬身半差の3着にラビットラン。
 優勝したリエノテソーロは一昨年の全日本2歳優駿以来の勝利で重賞3勝目。このレースは能力最上位はラビットランだと思われましたが,久しぶりのダート戦の上,ダートではオープンクラスとの対戦が初めて。こういう場合は対応できないケースも往々にしてあるので,その場合にはおそらく能力では2番手と思われるリエノテソーロが優勝候補の筆頭になると考えていました。ただ,このレースは牝馬重賞の中ではメンバーのレベルがそうも高くなかったため,この馬が相対的に能力上位に押し出されたという側面があります。ですから今後はダートの牝馬路線を中心に戦っていくことになったとしても,勝ち続けることができるとはいえないと思います。
                                     
 騎乗した吉田隼人騎手と管理している武井亮調教師はスパーキングレディーカップ初勝利。

 10月6日,金曜日。伯母はこの日は高校の同窓会があり,午前9時20分ごろに家を出ました。僕はその後で地域のケアプラザに行きました。ケアプラザは地区センターと同じ建物にあり,地区センターは選挙の投票所として使われているところです。同じ町内で,歩いて2分か3分のところですから,そんなに大変なことではありません。まず窓口の人に来意,というのは母の介護認定の件ですが,それについて相談したいという旨を告げると,担当の人が出てきて,ロビーのような場所で説明をしてくれました。いずれにしても申請書は必要なので,その書類を受け取って帰りました。
 この日は妹の歯科検診の予約が入っていました。指定歯科がみなと赤十字病院ですから,の見舞いも同時にできます。検診の予約が午後3時でしたので,それに間に合うように妹を通所施設まで迎えに行き,そのまま病院に行きました。検診はクリーニングだけでしたので,まず会計の窓口に行き,そのまま清算はせずに,というのは計算に時間が掛かるためですが,母の病室に向いました。午前中に受け取った介護保険の申請書は,そこで母に渡しました。
 母はこの日からひとりで歩くことが許可されていました。これは要するにベッドからひとりでトイレまで行ってもよいということを事実上は意味します。これまではトイレに行きたくなれば,ナースコールで看護師を呼んでいたのです。そしてこの日は見舞いの間に,母は自力でベッドの上に座ることができました。実は僕は勘違いしていたのですが,母に対して起き上がることを阻止していたのは,癌による痛みが発生しているからではなくて,開腹手術をしたときの手術痕が痛かったからでした。このことをこの日になってようやく母から聞きましたので,介護用のベッドや車椅子は,すぐには用意しなくていいかもしれないと思い直しました。というのは,手術痕が痛いのであれば,それは時間の経過とともに回復してくるのが自然であると思えたからです。ベッドや車椅子なしの状態で家に帰り,それで生活することが困難であるということが実際に判明すれば,その後に用意すればいいのではないかと思えてきたのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王位戦&相談員

2018-07-05 19:33:12 | 将棋
 豊田市で指された第59期王位戦七番勝負第一局。対戦成績は菅井竜也王位が5勝,豊島将之八段が2勝。
 振駒で菅井王位が先手になり5筋位取り中飛車。中盤の戦いは難しいところがあったと思いますが,最終的に先手が捌ききる形に進みましたので,その時点で先手がはっきりと優位に立っていたと思います。
                                     
 先手が7四に歩を打って,後手が7三の桂馬を跳ねたところ。部分的にはお手伝いのような感もありますが,ここで☗8四角と打ったのが好手で,これで先手は勝ちが見えてきたのではないでしょうか。
 後手が☖3二香と徹底抗戦に出たので,先手はとりあえず☗7三歩成として後手が☖9九飛と下駄を預けてきたところで攻め合うのではなく後手の攻めを切らせる方針に出ました。それが☗4四歩☖同歩と後手の角筋を遮断しておいて☗7九金と寄る手。☖7八歩に☗6六角と打った角を引いて使い,先手の飛車の捕獲に成功しました。
                                     
 後手は第2図からはすぐに☖7九歩成と取った方がよかったかもしれませんが,それでも打った飛車を取られてしまっては勝つのは難しかったと思います。
 菅井王位が先勝。第二局は24日と25日です。

 介護保険の申請は,母が小脳出血を起こしたときに行ったことがあります。あのときは母はしばらくは自力で立つこともできず,退院後の生活が心配でしたから,僕の方から当時の主治医に相談しました。それが可能だったのは,磯子中央病院では主治医と家族の面談が定期的に行われていたからです。僕が相談したところ,主治医は申請は行っておいた方がいいと助言し,そのために必要な書類,診断書ですが,それをすぐに書いてくれました。
 みなと赤十字病院ではこのような面談はありません。消化器内科の主治医とは母の通院のときに会いましたし,手術の執刀をした消化器外科の医師とも,手術前日と当日に会いました。ただそれ以外は会っていません。つまり僕の方から医師に対して直接的に診断書の依頼をすることはできません。実際にみなと赤十字病院はこの種の申請は窓口を通して行うことになっています。ですから申請用の書類を入手するということは僕には可能でしたが,この時点ではそれ以上は何かができるというわけではありませんでした。
 一方,母の状態についていえば,小脳出血で倒れたときほどの心配は僕にはありませんでした。とはいえ癌による痛みが生じているために自力ではベッドの上に座るということさえままならない状況であるのなら,やはり母が要望しているように,介護用のベッドが家には必要ではないかとこの時点では思えました。それだけではなく,車椅子も用意しておいた方がいいのではないかと思っていたくらいです。ただ,この点に関しては僕や母だけの判断で実行してしまうのはよくないのではないかという気もしましたので,主治医が病室まで往診にきたときに,どうするべきかを相談しておいてほしいと母に依頼しました。そもそもみなと赤十字病院には入院患者に対する相談員という役職の方がいて,必要な患者のところには出向いてくれます。父が余命が僅かになって退院したときも,その相談員の協力で自宅にベッドを用意したり,訪問医や訪問看護師を依頼したのです。その相談員が母のところに訪れていないのは,その必要がないという判断があるからかもしれないというように僕には思われたのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄人&黄疸

2018-07-04 19:04:42 | NOAH
 『外国人レスラー最強列伝』の第1章は鉄人ことルー・テーズです。
                                     
 テーズは1916年生まれで,日本ではまず力道山のライバルでした。ですから馬場からみても先輩格のレスラーになります。
 1964年2月5日に,馬場はデトロイトで当時はNWA王者だったテーズに挑戦しています。これは馬場の2度目のアメリカ遠征の末期,三大タイトル挑戦のひとつで,高額なファイトマネーが支払われた試合です。『1964年のジャイアント馬場』というタイトルからも分かる通り,このとき馬場はアメリカでもスターでしたが,試合はテーズが勝っています。
 馬場が帰国の決断をして日本プロレスのエースになった後,1966年2月に日本武道館で馬場のNWAインターナショナルタイトルにテーズが挑戦。この試合は馬場が勝ちました。僕はテーズは馬場のことをアスリートとしては高く評価してなかったのではないかと思っていますが,この敗戦を受け入れたのは,馬場が日本プロレスのエースであるということは肯定していたからだと思います。
 その後,テーズは新日本プロレスや国際プロレスに参戦するようになったため,馬場とは疎遠になりました。しかし国際プロレスの倒産後に,馬場がレフェリーとしてテーズを招聘。1982年に2度,1983年に1度,レフェリーとして全日本で試合を裁くとともに,選手に対する指導も行いました。ジャンボ・鶴田がバックドロップを使うようになったのはこのときの指導の賜物です。また,1983年の来日のときは,若手レスラーによるルー・テーズ杯争奪リーグ戦が行われ,ここで準優勝して出世のきっかけをつかんだのが三沢光晴です。
 テーズはこの後,また新日本に出たりUWFインターで顧問を務めたりしました。節操がないといえばその通りですが,高く評価して呼ばれるならそこに行くというのは,ビジネスとしては当然でしょう。
 UWFインターに参戦していたゲーリー・オブライトに身の振り方を相談されたとき,馬場は誇り高く正直なプロモーターだから,全日本に行くチャンスがあるならそうするべきだと答え,それが全日本に移籍する決断につながったとオブライトは言っています。馬場の死に際しても,プロモーターとしての馬場を高く評価する発言をしており,レスラーとしてはともかく,馬場がプロレス業界において優秀な人物だと考えていたのは間違いないでしょう。

 この日の夜にロサンゼルスの伯母が来日しました。僕の家に着いたのは午後7時50分ごろです。この来日は母の病気に合わせたというものではなく,それ以前から予定されていたものです。そこにの事情が重なりました。この翌日から,可能であれば伯母が夕飯の支度をするようになりました。
 10月4日,水曜日。伯母はみなと赤十字病院にはどのように行ったらよいのか分からないということで,前日と同様に途中で妹をピックアップしつつ,3人で母の見舞いに行きました。これは同時に,妹の通所施設がどこにあるのかを伯母が知ることができたということです。母はリハビリでは昨日よりも長く歩くことができたようですが,38℃台の発熱が続いているとのことでした。体温は看護師が朝と夕方に計測している筈ですが,熱を下げるための処方はしていないということでしたから,おそらくその必要はないという判断があったのだろうと思います。また,手術後は絶食中でしたが,この日の昼食から食事が可能になりました。
 伯母は母の顔には黄疸が出ているという意味のことをいいました。母の癌は肝臓に転移していましたから,黄疸はその症状です。ただ,僕は毎日顔を合わせていることもあってか,母の顔にそのような変化が出ているということにはあまり気付いていませんでした。伯母は久々に会ったので,母の顔色が顕著に変化しているということに気付いたのだと思います。
 10月5日,木曜日。伯母は中学校の同窓会に出掛けました。来日が事前から予定されていたのでこのような予定もあり,母も自分のためにそうした予定を中止してほしくはないということでしたので,伯母も事前に組んでおいた日程はこの日に限らずすべてこなしました。午前9時に家を出て,帰ってきたのが午後3時50分ごろです。妹は伯母に任せることができる状況になりましたので,この日はその後で僕がひとりで母の見舞いに行きました。僕が着いたとき,Kさんも見舞いに来ていました。この日のリハビリでは,母が入院している病棟を歩いて1周したようです。ただ母は,退院後の家に介護用のベッドを所望し,また介護認定も受けたいと要望しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

書簡六十三&リハビリ

2018-07-03 18:55:47 | 哲学
 スピノザとチルンハウスとの文通のうち,書簡六十三はシュラーGeorg Hermann Schullerを解してチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausがスピノザに哲学的質問をしたものです。書簡の冒頭に,チルンハウスがイギリスにいることが書かれています。チルンハウスの渡英の目的はイギリスの王立協会の会員と友誼を結ぶためでした。ここでチルンハウスはロバート・ボイルRobert BoyleやオルデンブルクHeinrich Ordenburgと会い,スピノザとオルデンブルクの文通を再開させることに成功しました。このことは書簡の最後の部分から分かります。
                                     
 チルンハウスはこの書簡で4つのことを質問しています。チルンハウスはイギリスを訪問した後でフランスに渡っているので,この質問の背後にライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizがいるということはありません。
 質問の概要は,第一に,現状の『エチカ』では第二部公理五でいわれている事柄を,背理法でない方法によって示すことができるかという主旨です。ただし公理Axiomaは思惟の様態cogitandi modiと延長の様態について述べていますが,質問は思惟の属性Cogitationis attributumと延長の属性Extensionis attributumとなっています。僕の解釈では,これは同種の質問です。
 第二に,神Deusの知性intellectusが人間の知性の原因causaであり得るのはなぜかというものです。チルンハウスは神の知性と人間の知性は共通点をもたないので,第一部定理三によって神の知性は人間の知性の原因ではあり得ないといっています。
 第三は,第一部定理九からは,多くの属性を有する実有が存在するということが帰結するのに,スピノザの主張からは,各々の実有はただふたつの属性,これはXの属性と思惟の属性を意味しますが,そのふたつから成っているということが帰結するのではないかということです。
 第四は,思惟の属性および延長の属性の直接無限様態は具体的に何で,間接無限様態は具体的に何であるかというものです。
 これはライプニッツが背後にいない質問です。いい換えればチルンハウスはこのような観点に関心を抱いていたといえるでしょう。

 HCUにもナースステーションがあって,そこの窓口で訪問した目的を伝え,がいる病室に案内してもらいました。開腹手術でしたからもちろん全身麻酔を用いましたが,僕が到着したときにはすでに母の意識は戻っていました。直前に執刀医に教えられたことを母に伝え,少しだけ話していましたが,母から眠いという訴えがありましたので,すぐに切り上げて僕は帰りました。僕が家に着いたのは午後6時15分ごろです。この日も妹の帰宅に間に合わないことは事前に判明していましたので,Kさんに家で待機していてもらいました。母が入院した日と同じように,Kさんは自身と妹の弁当を買ってきて,僕は病院からの帰途に自分で弁当を買って帰りました。Kさんがふたり分だけ買って僕の分は僕が自分で買うのは,僕は食餌療法が必要な身なので,弁当には適切な量というものがあり,Kさんにはそれが分からないからです。
 10月3日,火曜日。みなと赤十字病院の一般病棟の面会時間は午後3時からです。その時間に見舞いに行けば妹の終業時間は午後3時半ですから,妹の帰宅には間に合わなくなってしまいます。ただ,妹の通所施設は僕の家とみなと赤十字病院の間にありますので,まず3時半ごろに妹の通所施設に行き,妹をピックアップしてそのままふたりで母の見舞いに行きました。手術直後の前日は母はHCUで過ごした筈ですが,予定ではこの日のこの時間にはすでに消化器内科の入院病棟に移動していることになっていて,その通りでした。手術後にはリハビリ,というのは歩行訓練のことですが,それが午前と午後にあり,僕たちが到着したときはちょうど午後のリハビリの最中でした。手術が大腸でしたから,この時点では母はまだ絶食中でしたが,そのわりには元気そうにみえました。ただ,立ち上がれば少しはひとりで歩くことができましたが,自分ひとりの力で立ち上がることはできませんでした。というか,ベッドで起き上がるということもひとりではままならない状態でした。その点は気掛かりでしたが,まだ手術の翌日ということもあって,もう少し様子を見て今後のことを決めることにしました。帰宅したのは午後5時10分でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南三条⑤&手術終了

2018-07-02 19:10:45 | 歌・小説
 南三条④でこの楽曲は二番が終了です。そして三番の冒頭で,声を掛けた方の女が男を呼び寄せます。で歌われていたように,声を掛けた方の女は赤ん坊をおんぶしていました。呼んだのはその赤ん坊の父親,すなわち声を掛けた女の夫です。その夫がかつて目の前にいる女と付き合っていたことをこの女は知りません。緊迫の場面といっていいでしょう。
                                     
 歌詞の関係で聞き手はここまでの緊迫感を味わうことはできないようになっています。しかし声を掛けられた女に,一瞬の緊張が訪れたことは疑い得ないでしょう。そしてその緊張は思わぬ形で崩れるのです。

      この人なのよと呼び寄せた男に心当たりはなく
      そんなはずはない あの人と幸せになったはず


 目の前に現れた男は女が予期していたのとは異なった男でした。女は予期していた男との別れの辛さを乗り越えるために,本当は自分から男を奪ったわけではない目の前の女のことを憎み続けていたのです。それがすべて覆されることが生じたのですから女はさぞかし驚いたことでしょう。赤ん坊を背負った女はその女の戸惑いに気付きました。そして女が困惑している理由も悟り,女に伝えます。

      戸惑う私に気づいて教える屈託のない声で
      あなたの知ってるあの人とは間もなく切れたわと


 屈託のない声と歌われているので,もしかしたら女は夫にも聞こえるくらいの声でそう言ったのかもしれません。このあたりはで歌われた女の無邪気さに相通ずるものがありそうです。

 僕は家から持参してきた朝日新聞を読んだり,読書をしたりしながら手術の終了を待ちました。僕にとっての母の件の始まりの日である8月23日に,僕は川崎に出掛けていて,そのときに読書をしていましたが,その後はまとまって読書をする時間はなく,これは久々の読書でした。このときに読んでいたのは『主体の論理・概念の倫理』という本です。その後もまとまって読書に充てられる時間というのが少なく,現時点でもこの本は読了できていません。「二〇世紀フランスのエピステモロジーとスピノザ主義」という副題の,スピノザと関連した書籍ですが,読み終えてから詳しいことを紹介します。時間の問題もあるのですが,内容が僕にとっては非常に難解で,それもこの本をなかなか読み終えることができない理由のひとつになっています。
 手術の終了を僕に告げにきたのは7階の事務の担当者でした。その人に案内されて3階に移動し,まず手術室の近辺にある小部屋に入りました。ここで執刀医による話がまずあったのです。大腸癌を切除する手術は上首尾に終ったことと,もともと切除する予定であった部分と別に,もう1箇所も開腹したら癌であるとみられたので,切除したということを告げられました。実際に切除した部分も見せてもらったのですが,僕が見た限りでは,切除予定であった部分より,開いてみて切除を決断した部分の方が大きかったです。これで腸閉塞を発症して死んでしまうというおそれは消滅しました。
 母は僕が入った小部屋とは反対側にあるHCUに運ばれ,もう面会が可能な筈であるといわれました。HCUは僕が救急搬送されて入院したときに,最初に入れられた病室です。僕はそこからすぐに一般病棟に移動しましたが,HCUはベッド内から移動できない病室なので,一般病棟への移動もベッドを使ってのものでした。ですから僕は自分が入院した部屋であるにもかかわらず,みなと赤十字病院のHCUがどこにあるのかよく分かっていなかったのですが,このときに初めてその位置関係を知ることができました。僕の入院中も他の患者の入退室がありましたが,救急患者だけでなく手術後の患者もおそらくいたのでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする