スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

朝日杯フューチュリティステークス&食べることと眠ること

2018-12-16 19:05:42 | 中央競馬
 第70回朝日杯フューチュリティステークス
 グランアレグリアがハナに立つかの勢いでしたが外からイッツクールが前に出て,2馬身ほどのリードをとって逃げる形。宥めながらグランアレグリアが2番手。また2馬身差の3番手にアドマイヤマーズ。ここからは差がなくクリノガウディー,ディープダイバー,アスターペガサス,ドゴール,ファンタジスト,ヒラソール,マイネルサーパス,コパノマーティンの順で続きました。あとはソルトイブキ,ケイデンスコール,ニホンピロヘンソンの3頭が併走し,エメラルファイトが最後尾。前半の800mは47秒7のスローペース。
 直線に入る手前から3番手のアドマイヤマーズが追い上げ,直線の入口ではグランアレグリアの外に被せるようにして前に。グランアレグリアは逃げたイッツクールとの間に入って苦しくなりましたが,イッツクールが一杯になったので内に入って再び巻き返しに。ただ,道中で行きたがっていたためか伸び脚が鈍り,直線先頭のアドマイヤマーズが優勝。直線手前でディープダイバーに寄られる不利があったクリノガウディーが,直線ではアドマイヤマーズの外に持ち出され,よく伸びて2馬身差の2着。グランアレグリアは半馬身差で3着。
 優勝したアドマイヤマーズは6月に新馬を勝つと7月のオープンも連勝。一息入れてデイリー杯2歳ステークスを制し3連勝でここに出走。4連勝,重賞連勝での大レース初制覇。例年ならば1番人気に推されるような戦績ですが,3着馬のパフォーマンスが素晴らしかったので,2番人気になっていました。グランアレグリアは折り合いを欠いてしまったのが響いたように思えますが,こちらにもここで勝つだけの能力があったのは間違いがないところ。瞬発力よりも持続力で勝負するタイプで,今日のように先行することで持ち味が最大限に生きる馬ではないかと思います。そのあたりは父であるダイワメジャーの特徴をよく受け継いでいるといえるのではないでしょうか。
                                     
 騎乗したミルコ・デムーロ騎手はチャンピオンズカップ以来の大レース制覇。第62回,67回に続き3年ぶりの朝日杯フューチュリティステークス3勝目。管理している友道康夫調教師はダービー以来の大レース11勝目。朝日杯フューチュリティステークスは初勝利。

 節制temperantiaは美味欲luxuriaへの唯一の対抗手段だと僕は考えます。美味欲とは過剰な食欲です。ですからこれに対抗するには,美味欲を充足させることに耐えなければなりません。したがって食べないことが対抗手段になります。このことは精神mensの力potentiaによって可能であると僕は考えます。
 もしも睡眠欲にも,美味欲に対する節制のような精神の力が存在するとすれば,睡眠欲が過剰である限りにおいては眠らないということが対抗手段になる筈です。ですがそれは精神の力ではなし得ないと僕は考えるのです。
 これはたぶん逆の場合で考えた方が分かりやすいのではないかと思います。食欲が不足している場合,理性ratioは現実的存在を維持するために食べることを命じる筈です。これはスピノザがいう節制とは明らかに異なっていますが,節制の一種といっていいように僕には思えます。少なくともそれが精神の力であるということは明白です。このときには人は,原則的に食べることができます。いい換えれば理性が命ずるところに従うことができます。もちろん僕が食欲の反対感情とみなした,体調不良のときに僕たちが感じることがある,何も食べたくない,食べる気がしないという感情affectusが生じている場合や拒食症に罹患している場合とか,もっと別の,経済的困窮とか食糧不足といった物理的な原因causaによってその命令に従えないということはあり得ますが,これは理性が食べるように命ずるところとはまったく別の原因による,いい換えれば別の原因と結果effectusの連結connexioと秩序ordoで生じていることなので除外してください。
 一方,睡眠欲が不足している場合,これは奇妙ないい方で,僕たちが普通に用いることば遣いをすれば,睡眠時間が足りていない場合は,理性は現実的存在を維持するために眠ることを命じるでしょう。しかし理性がそのように命じたからといって,人は食べる場合と同じようにすぐ眠ることができるわけではありません。これは理性の命令とは別の原因と結果の連結と秩序,たとえば僕たちが口にするいい方に倣えば,忙しくて眠る時間もないというような場合を除外しても該当します。
 そもそもこのことは,理性が命令するか否かに関わらず妥当するのです。
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化粧③&食欲と睡眠欲

2018-12-15 19:12:08 | 歌・小説
 化粧②では,歌い手が束にできるほど多くの手紙を送ったことは,歌い手自身の誇りであったといいました。この楽曲にはもうひとつ,歌い手にとっての別の誇りないしは矜持が垣間見られる部分があります。

                                     


     流れるな涙 心でとまれ
     流れるな涙 バスが出るまで


 これは最後の別れの場面について歌っているのでしょう。では歌い手はこれから最後に会いにいくと歌っているからです。この部分はバスに乗るのが歌い手であっても相手であっても成立しますが,全体の構成からは相手がバスで去り,女は見送るのです。というのも以下のような部分があるからです。

     放り出された昔を 胸に抱えたら
     見慣れた夜道を 走って帰る


 ここで歌われる放り出された昔とは,歌い手が出した手紙の束のことです。つまり手紙の束を返してもらったら,走って帰るのです。バスも走りますが,これは歌い手自身が走る筈で,だからバスに乗るのは相手で,歌い手は見送るのでしょう。
 歌い手は,相手の前では涙は流れるなといっています。この部分は明らかに矜持を示しています。涙は止まらなくてもいい,流れてもいのですが,それが相手の前であってはいけないのです。逆にいえば,相手の前で涙を流すことさえなければ,歌い手の矜持は守られるのだといえるでしょう。
 この部分は「流れる」,「止まる」,「出る」というみっつの動詞と「涙」,「心」,「バス」というみっつの名詞という,わりと凡庸な語句から構成されています。これら凡庸なことばで歌い手の矜持を示しているのは,作詞の才能のひとつかもしれません。

 食欲を満たすためにとりあえず食べ,満腹感という喜びlaetitiaの感情affectusによってこの食欲を解消するということが,食欲への対抗手段であり得ることは僕は認めます。繰り返しますがこれは確かに第四部定理七に則っていて,食欲という欲望cupiditasを満腹感という喜びによって排除したといえるからです。
 ただ,注意しなければならないのは,これは食欲一般に対する対抗手段であるということです。したがって,この食欲が過度であるか適度であるかということとは関係しません。つまりこのような方法で食欲という欲望から解放されたとき,その人は適度な食欲を満たしたのかもしれませんし,適度を上回って,つまり過度に食することによって食欲から解放された,つまりスピノザがいうところの美味欲luxuriaから解放されたのかもしれません。それが適度であるか過度であるかということを前もって十全に知るということは,このような方法で食欲から解放される,他面からいえば食欲という欲望を充足させるということの条件には含まれないからです。ところが節制temperantiaの場合には,適度であるかそうでないかが前もって知られているのでなければなりません。この意味において,この方法で食欲を満たすことは,節制とは何らの関係ももたないのです。この結果として,節制したのと同じことになるかもしれませんし,そうでないかもしれないということです。
 眠ることによって睡眠欲を充足させるのが,睡眠欲から解放される手段であり得るという場合にも,これと似たようなことはいい得るかもしれません。ただ睡眠欲に従属して眠ってしまうのであっても,それは食欲の場合における節制と同じように,結果としては理性ratioが命じるところと同じことになるかもしれないからです。もっとも,そういう可能性があるがゆえにこの方法が睡眠欲に対抗する手段であり得るといわざるを得ないのですから,これは当然といえば当然なのかもしれません。
 一方,過度な食欲すなわち美味欲への対抗と,強度であれ軽度であれ睡眠欲に対抗することとで大きく異なるのは,食欲の場合における節制のような即時的かつ理性的な手段は,睡眠欲に対しては存在し得ないことであると僕は考えます。
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書簡五十九&眠気の強度

2018-12-14 19:32:22 | 哲学
 書簡五十九もチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausからスピノザへの手紙です。チルンハウスはロンドンに滞在中でした。訳注ではこの書簡の初めの方が省略されていて,それは仲介者のシュラーGeorg Hermann Schullerがしたことと畠中尚志は推測しています。そうかもしれませんが,シュラーは遺稿集Opera Posthumaの編集者のひとりでもあったわけですから,この手紙はチルンハウスからスピノザにダイレクトに送られ,後にシュラーあるいはほかの編集者が当該部分を省いたという可能性もないとはいえないでしょう。書簡五十七は実際はシュラーが仲介し,だから返事の書簡五十八はシュラー宛となっていますが,この書簡への返信はチルンハウス宛になっています。
                                    
 内容はチルンハウスからスピノザに対する質問です。その質問はおおよそ3つの内容にまとめることができます。
 最初の質問は,延長の属性Extensionis attributumから無限に多くのinfinita物体corpusが発生するということを,どのように演繹的に導くことができるのかというものです。これは文字通りに,延長の属性を原因として無限に多くの物体が発生することを演繹的に証明してほしいという意味でもありますし,他面からいえば,人間はいかにしてそのことを知ることができるのかを演繹的に証明してほしいという意味でもあります。スピノザの哲学ではこのふたつの問いは同一の事柄を他面から論じていることになるからです。
 ふたつめは,真の観念idea vera,十全な観念idea adaequata,そして混乱した観念idea inadaequataに,正確な規定を与えてほしいという要望です。チルンハウスはAの真の観念とAの十全な観念は,同じ観念を別の観点から説明したものではなく,別種の観念であると判断していたふしがこの質問からは窺えます。
 最後は,たとえば円にはいろいろな性質があって,どの性質を取ってみてもそれは円の十全な観念といえそうだけれども,どのように円を観念するのが最も正しい方法であり,かつ,円に限らずすべての観念について,正しい方法でそれを観念すればよいのかということを一般的に示してほしいというものです。これはスピノザの哲学においては,事物の定義Definitioに関連する質問だといえるでしょう。

 過度な食欲に対抗し得るのは節制temperantiaだけです。いい換えれば過度な食欲にそれ自体で対抗できる感情affectusは存在しません。食欲に反対感情があるということは僕は肯定しますが,それは食欲一般に対する反対感情であって,過度な食欲いい換えれば美味欲luxuriaの反対感情ではないのです。
 これと同じようなことが,睡眠欲にも妥当するというのが僕の考え方です。ただし僕たちは睡眠欲については,それが過度であるか適度であるかというようには通常は判断しません。むしろ個々の睡眠欲が強度であるか軽度であるかという仕方で判断をするでしょう。すでに示したように,眠気は睡眠欲という感情を身体corpusとだけ関連させたものですが,僕たちは眠気については少しの眠気とか強い眠気という形容をします。このような形容が成立すること自体,僕たちは眠気が強度であるか軽度であるかという判断をしている証明でしょう。また,確かに僕たちがそのように判断している通り,眠気すなわち睡眠欲には強度のものもあれば軽度のものもあるといっていいでしょう。食欲との比較でいえば,食欲一般が睡眠欲を意味するのに対して,過度の食欲すなわち美味欲に対応するのが強い眠気すなわち強度の睡眠欲ということになるかと思います。
 ただし,食欲一般には節制という方法で対抗できるのですが,睡眠欲に対してこの種の節制は成立しません。精神mensの力potentiaそれ自体で強度の睡眠欲,あるいは強度でなくとも睡眠欲一般に対抗するのは人間にとってはほぼ不可能であるからです。だから僕は前に,この睡眠欲に対抗するためにはむしろ睡眠欲に従属して眠ってしまった方が,それで睡眠欲から解放されるという意味では有効な手段であると認めざるを得ないといったのです。これと似たことは食欲にもいえるのであり,確かに満腹感という喜びlaetitiaの感情が食欲という欲望cupiditasにとってかわるまで食べ続ければ,食欲からは解放されるでしょう。この解消手段は第四部定理七に則しています。そして適切な量の睡眠が人間にとっては必要であるのと同じように,適度な量の食事もまた人間にとっては必要なので,この手段をそれ自体では僕は否定しません。とはいえこれは節制とは関連しないのです。
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竜王戦&過度な食欲への対抗

2018-12-13 19:30:37 | 将棋
 指宿温泉で指された第31期竜王戦七番勝負第六局。
 広瀬章人八段の先手で羽生善治竜王の横歩取り☖3三角。先手の青野流に対して後手が相横歩取りからの飛車角総交換に進め,すぐに激しい戦いに移行しました。
                                     
 後手が打った飛車を先手が捕獲したところ。僕にはすでに先手がよいように思えました。
 ☖8八飛成☗同銀は必然。後手は☖3七角と飛車香両取りに打ちました。
 ☗8五飛と逃げたのが封じ手。後手は☖7三桂と逃げて☗8二飛成の王手に☖6二桂と受けました。そこで☗2七飛の角桂両取り。
 ここで☖4五桂と角を受ければ息長い将棋になったそうです。ただ,局面を長引かせても後手が勝つというのはとても大変に思えますので,やはり先手の方が指しやすかったのではないでしょうか。
 実戦は☖1九角成と香車を取ったのですが,これは☗2一飛成☖3一歩のときに☗2八歩で馬を封じ込められ,形勢がはっきりとしました。
                                     
 広瀬八段が勝って3勝3敗。第七局は20日と21日です。

 スピノザは節制temperantiaすなわち精神mensの力potentiaが,過度の食欲である美味欲luxuriaに対抗する唯一の手段であるといっているわけではありません。ですがこれはそう解釈しておくのが妥当です。僕は食欲には反対感情はあるといいましたが,それは食欲の相反する感情ではあり得ません。一方,食欲に対する相反する感情はあるのですが,これは食欲一般に対する相反する感情であって,食欲が適度であろうと過度であろうと成立します。ここまではすでに僕が説明したことから明らかだと思います。
 これに対して,過度な食欲に対抗するというなら,その食欲が過度であることをあらかじめ知っているのでなければ対抗できません。そしてある個別の食欲について,それは過度であるということを十全に認識するなら,その人はそれをその人の理性ratioによって知っていると結論しなければなりません。ですから過度な食欲に対抗するためにはあらかじめ理性的判断が必要とされるのであって,節制はその理性的判断なしにはあり得ないことが明らかだからです。もっともこのことは,節制が精神の力であるということから,自明であるといっていいかもしれません。というのも,観念ideaが十全adaequatumであるか混乱しているかということ,いい換えれば真理veritasであるのか虚偽falsitasであるのかということは,単に真偽の規準だけを意味しているわけではなく,有と無の関係を同時に意味しているというのがスピノザの哲学の基本的なテーゼのひとつであるからです。このとき,有であるものすなわち十全であるものは確かに精神の力であるといい得るでしょうが,無であるものについてそのようにいうのはそれ以上はないような不条理であるからです。むしろ有が力であるのに対していえば,無は無力impotentia以外の何ものでもないでしょう。よって理性的判断なしに食欲に対抗するなら,それが現実的には過度な食欲に対する対抗になっていたとしても,それは精神の力であるどころか精神の無能を示すものです。このような対抗は,この場合にはたまたま過度な食欲への対抗になっているだけであり,適度な食欲に対しても同様に対抗してしまうでしょう。
 これで,節制だけが過度な食欲への対抗手段であることは明らかです。
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デイリー盃クイーン賞&精神の力

2018-12-12 20:38:35 | 地方競馬
 第64回クイーン賞
 好発のオルキスリアンはすぐに控え,外からアイアンテーラーがハナへ。1馬身差の2番手にサルサディオーネ。1周目の正面では1馬身半差でプリンシアコメータが単独の3番手でしたが,向正面では内からブランシェクールが並び掛け,3番手は2頭。この後ろにオルキスリアンとラインハート。直後のタイムビヨンドまでは集団。4馬身差でアルティマウェポンとドンナディヴィーノ。2馬身差でラモントルドールとハービンマオという隊列。最初の800mは47秒9のハイペース。
 3コーナーを回るとサルサディオーネがアイアンテーラーに並び掛けていき,3番手以降との差が大きく開いてしまい優勝争いは2頭に。サルサディオーネが一時的に迫ったのですが,直線の半ばからまたアイアンテーラーがまた突き放し,鋭く逃げ切って優勝。サルサディオーネが3馬身差で2着。コーナーでブランシェクールとプリンシアコメータの間を突き,直線の入口では3番手に上がっていたオルキスリアンがそのまま粘り切って3馬身差の3着。
 優勝したアイアンテーラーは重賞初勝利。今年の6月に500万を6馬身差で逃げ切ると続く1000万も逃げ切ってレコードタイムで優勝。1600万の初戦は4着でしたが2戦目を逃げ切って勝っていました。1600万を牡馬相手に勝つ馬は牝馬重賞は勝つ能力があるのでここは優勝候補の1頭。できれば逃げたいというタイプが何頭かいて,展開は案じられましたが,ハナに立つと競り掛けられることもなくペースは速くても楽な競馬ができました。相応の能力がありますが,逃げて結果を出している馬ですから,展開次第では惨敗というケースも想定はしておかなければならないでしょう。父はゴールドアリュールファンシミンファンシーダイナの分枝で3代母が1986年に京成杯と牝馬東京タイムス杯,1987年にエプソムカップと新潟記念とオールカマーに勝ったダイナフェアリー。8つ上の半姉の産駒が昨年の全日本2歳優駿,今年のユニコーンステークス,ジャパンダートダービー,南部杯,チャンピオンズカップを勝っている現役のルヴァンスレーヴ。ダイナフェアリーの子孫は最近のダート競馬での活躍が顕著です。
 騎乗した浜中俊騎手と管理している飯田雄三調教師はクイーン賞初勝利。

 もう一点,とくに重要であるのが,節制temperantiaがスピノザがいう,あるいは畠中尚志が訳す美味欲luxuriaに対抗する事柄として論じられている点です。すでに説明したように,この美味欲は過度の食欲を意味する語であって,食欲一般とは異なります。いい換えれば人間が現実的存在を維持していくために必要とされる食欲,ここでは過度の食欲と対応させるために,奇妙ないい方かもしれませんが適度な食欲といいますが,この適度の食欲には節制は対抗しません。他面からいえば,適度な食欲に対抗しようとするなら,それは節制すなわち精神mensの力potentiaではないのです。
                              
 したがって,たとえば適切な体型を維持しているにもかかわらず,なおダイエットをしたいという人間がいたとして,さらに痩せるために食欲に対抗するとするなら,この人間は節制をしているということにはならないのです。僕たちは一般的にはこのような事柄も節制というかもしれませんが,スピノザの哲学ではそれは妥当しません。僕もスピノザに従って,このような行為は節制であるとはいいません。
 そもそも,スピノザがいう節制は,精神の力でなければならないのです。ですが適度な食欲に対抗することは,人間が食事によって栄養を補給しなければ現実的に存在し続けることが不可能である以上,現実的存在の維持に対抗してしまっていることになります。ですからこれが精神の力であることはできません。僕たちはこの場合にも,ダイエットのために食欲に対して過剰なほどに対抗するのも精神の力であるとみなす場合があるかもしれませんが,それは力であるどころか力と反対の意味で無力であるといわなければならないのです。現実的存在を維持することとダイエットをすることのどちらが重要であるのかという問いに対しては理性ratioは,前者が重要であると答えます。しかるに前者より後者を選択するなら,これは理性に反する行為になります。自由の人homo liberとは理性に従う人のことなのですから,このような人は自由の人と逆の意味の無知の人といわなければなりません。よって適度の食欲に対抗するのも精神の力なら,無知の人は自由の人より大きな精神の力を有することになります。これは不条理です。
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ひろしまピースカップ&第三部定理五六備考

2018-12-11 19:01:44 | 競輪
 9日の広島記念の決勝。並びは小松崎‐山崎‐和田の北日本,吉沢‐神山の茨城栃木,三谷‐松浦の西日本で諸橋と中川は単騎。
 少しの牽制の後,松浦がスタートを取って三谷の前受け。3番手に中川,4番手に小松崎,7番手に諸橋,8番手に吉沢で周回。残り3周のバックを出てコーナーに入ると吉沢が一気に上昇。ホームで誘導を斬り,ペースを落としました。ここから小松崎が動き,諸橋まで続いた4人で吉沢を叩いて打鐘。引いた三谷が発進すると小松崎は叩かれ,三谷のかまし先行に。バックから吉沢が発進しましたが,小松崎の後ろの山崎に牽制されて失速。無風で番手有利に進めた松浦が早めに踏んで優勝。松浦マークになった小松崎が1車身差で2着。小松崎マークの山崎も流れ込む形で4分の3車輪差の3着。
 優勝した広島の松浦悠士選手は記念競輪初優勝。このレースは諸橋が関東での結束を選択しなかったので,吉沢の先行になる可能性が低くなり,おそらく小松崎が先行し,単騎を選んだ諸橋が番手や3番手を奪いにいくケースもあるのではないかというのが僕の見立てでした。ところが三谷のかまし先行に。小松崎にやや油断があったかもしれません。松浦は自力も使える上,前を回った3人のうち最も力があるのは三谷ですから,その番手でのレースなら楽だったでしょう。中川は脚を溜めて一気に発進するのが得意ではありますが,さすがに最後尾となっては届きません。三谷ラインについていった方がチャンスはあったように思えます。ほかの選手たちの組立の失敗があったレースだったという印象も強く残りました。

 スピノザもまた,節制temperantiaを感情affectusではなく,精神mensの力potentiaとして規定しています。第三部定理五六備考で次のようにいわれているのです。
                                
 「我々が美味欲に対立させる節制,飲酒欲に対立させる禁酒,最後に情欲に対立させる貞操は,感情あるいは受動ではなくて,それらの感情を制御する精神の能力を表示するものだからである」。
 ここではスピノザは食欲ではなく美味欲luxuriaと,他面からいえば畠中尚志は食欲ではなく美味欲と訳していますが,これは過剰な食欲を意味します。すでに僕が説明したことから分かるように,適度な食欲は現実的に存在する人間にとって必要なものであり,この限りで理性ratioは食欲を肯定します。したがってこの種の食欲は精神の力によって制御される必要はありません。ここで過剰な食欲だけが抽出されているのは,節制が精神の力であるということをいいたかった,いい換えればこの部分の主旨がそこにあったからで,そのために適度な食欲は除外される必要があったからです。
 備考Scholiumのこの部分では注意するべき点がいくつかあります。
 まずこの文章は,節制という精神の力がそれ自体で過度の食欲を制御することができることを前提としているかのようです。しかし実際はそうではありません。もし制御できるとすればそれは食べないということ,いい換えれば過度な食欲を我慢するということであって,過度の食欲それ自体を消滅させるということではありません。このことは第四部定理七から明らかだといわなければなりません。ただし,節制が過度の食欲に対する相反する感情を惹起するということはあり得るので,精神の力がそのような感情の力を利用することによって間接的に過度な食欲を消滅させたり減退させたりすることはあります。これも僕がすでに説明した通りです。また,相反する感情は,第四部定義五からも分かるように,本来的には同じ人間のうちでは両立し得ないので,一方の感情だけが強力になってゆくものですが,節制は感情ではありませんので,過度の食欲と節制はいつまでも同じ人間のうちで両立し得ることになります。これはこの意味で節制をしたことがある人なら経験的に理解できるところでしょう。
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香港国際競走&節制

2018-12-10 19:10:49 | 海外競馬
 香港のシャティン競馬場で開催された昨日の国際競走。今年は4レースすべてに延べ9頭の日本馬が出走しました。
                                     
 香港ヴァーズGⅠ芝2400m。クロコスミアは最内枠から逃げました。リスグラシューは行きたがるのを宥めつつ後方3番手を追走。3コーナーから外を回って進出していきました。直線に入るところまでは先頭だったクロコスミアは直線では一杯。勝ち馬から8馬身4分の3差で10着。リスグラシューは前から抜け出した馬と叩き合いになり,一旦は前に出たのですが差し返され,クビ差で2着でした。クロコスミアは牝馬同士でしか実績らしきものがない馬ですので,牡馬相手では苦しかったでしょう。リスグラシューは本質的に距離が長いと思われるので,最後の競り合いで負けてしまったのは仕方がないと思えますが,ここまで走れるのなら,外を回ったロスが痛かったような気もします。
 香港スプリントGⅠ芝1200m。ファインニードルは大外枠からやや押して6番手を追走。3コーナーを回ってから3番手付近まで追い上げました。しかし直線では伸びを欠き勝ち馬から4馬身差で8着。スプリント路線は日本と香港ではレベルの差がありますので,着順はともかく勝ち馬から4馬身差は概ね能力に近いのではないかと思います。
 香港マイルGⅠ芝1600m。ヴィブロスが8番手,ペルシアンナイトが10番手の外,モズアスコットは11番手を追走。ペルシアンナイトが3コーナーを回ってからヴィブロスの外に並び掛けていく形。このレースは3コーナー手前で先頭に立った勝ち馬が強く,直線でも後ろとの差を広げる一方。その分2着争いは熾烈に。最後まで脚を使ったヴィブロスが内の馬をわずかに差して3馬身差で2着。ヴィブロスの外で併せ馬のような形だったペルシアンナイトは残り150m付近から脚色が鈍り勝ち馬から4馬身差の5着。モズアスコットは馬群を割りにいきましたが,行き場がない場面もあって勝ち馬から5馬身4分の1差で7着。勝ち馬を別格とすればヴィブロスは健闘でしょう、ペルシアンナイトは大外枠が響いたかもしれません。モズアスコットはテレビで視た限り,この馬にしては少し細く見えました。3頭ともミドルペースにしては位置取りが後ろ過ぎたきらいはありますが,だからといって勝つのは難しかったでしょう。
 香港カップGⅠ芝2000m。サングレーザーが3番手から離れた4番手,ディアドラらがさらに3馬身差の5番手,ステファノスはそこから2馬身差で6番手の内を追走。縦長だった隊列が徐々に短くなり,サングレーザーは直線に入ってから外,ディアドラがさらにその外でステファノスは内から2頭目に進路を選択。ただこのレースは逃げた馬と2番手の馬がなかなか止まらず,最もよく伸びたディアドラが2番手の馬は何とか差して1馬身差の2着。サングレーザーはそこまで届かず勝ち馬から2馬身半差の4着。ステファノスは勝ち馬から4馬身4分の3差で最下位でした。このレースは勝った逃げ馬と2番手の馬が前走で競り合って共倒れ。ここも発走後は競り合う形だったので隊列が長くなったと思われますが,実際には3着馬がすぐに2番手に控えたので,さほどペースは速くありませんでした。もう少し逃げ馬に近い位置でレースを進めるべきであったのでしょう。

 僕が節制temperantiaはそれ自体では感情affectusではないというのは,以下のような意味です。
 僕たちは好物を目の前にすれば,僕がいう表象の種類でいえば好物を知覚すれば,それに対する食欲を感じます。これは必然的necessariusです。他面からいえば,それを知覚すればそれに対する食欲が湧くもののことを,僕たちは好物というからです。しかし一方で,それを食べることがマイナスになるということを確実に知っている場合には,その食欲に対する相反する感情も生じ,その人は心情の動揺animi fluctuatioを感じます。このとき,食欲は知覚した好物に刺激されることによって発生するのですが,相反する感情の方はそうではありません。むしろこちらは,それを食べることによって自身に害悪が生じる,つまり悲しみtristitiaを感じることになるであろうという確実な認識cognitioから発生するのです。したがってこの相反する感情である欲望cupiditasは,精神の能動actio Mentisから発生しているのです。精神の能動から欲望が発生し得るということは,第三部定理五九から明らかです。
 ひとつ注意しておくと,ここではこうした場合についていっているのであり,食欲が一般的に精神の能動からは生じ得ないということを僕は主張したいわけではありません。現実的に存在する人間は何かを食することによって必要な栄養を摂取しないと,その現実的存在を維持していくことはできません。この限りにおいては食欲は理性ratioによって肯定されなければなりません。いい換えれば精神の能動によって食欲が発生し得ることになるでしょう。これは睡眠欲について説明したことと同じです。個々にみれば理性が肯定する睡眠欲もあれば否定する睡眠欲があるように,理性が肯定する食欲もあれば否定する食欲もあるのです。理性によって食欲と相反する感情が生じるというのは,理性が個別の食欲を否定している場合だといえるでしょう。
 節制というのは,これらの現象一般を指すと僕は規定します。つまり相反する感情そのものが節制なのではなくて,否定されるべき個々の食欲に対抗する相反する感情を発生させる精神の能動,精神の力potentiaのことを節制というのです。たぶんこのように規定した方が,僕たちの節制という語の用法にも近いからです。
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農林水産省賞典阪神ジュベナイルフィリーズ&食欲と心情の動揺

2018-12-09 19:19:46 | 中央競馬
 第70回阪神ジュベナイルフィリーズ
 クロノジェネシスはダッシュがつかず1馬身の不利。ベルスールとメイショウショウブが並んでいましたが,最終的には内のベルスールの逃げに。3番手はプールヴィル,スタークォーツ,ラブミーファインの3頭。6番手にウインゼノビアとローゼンクリーガー。8番手はレッドアネモスで9番手がジョディー。10番手はタニノミッション,ビーチサンバ,メイショウケイメイの3頭。13番手にサヴォワールエメとグレイシア。15番手がシェーングランツとダノンファンタジー。ここまで一団。2馬身差で注文をつけて控えたトロシュナとクロノジェネシスが追走。前半の800mは47秒0でミドルペース。
 目立った動きがないまま直線に入り末脚勝負。まずメイショウショウブが先頭に立ち,その外からラブミーファイン。ですがこの時点でこれらより大きく外を回ったダノンファンタジーとクロノジェネシスの勢いがよく,この2頭が前に。これらの内からビーチサンバ,大外からはシェーングランツも追い上げましたが,前の2頭には届かず。先に前に出ていたダノンファンタジーの方がそのままフィニッシュを迎え優勝。半馬身差の2着にクロノジェネシス。内のビーチサンバがクビ差の3着で大外のシェーングランツが4分の3馬身差で4着。
 優勝したダノンファンタジーは新馬は2着に負けたものの未勝利,ファンタジーステークスと連勝。重賞連勝で大レース制覇。基本的に無敗の馬が強いレースですが,2着だった新馬の勝ち馬は次にサウジアラビアロイヤルカップを勝ち,同じ牝馬ながら来週の朝日杯フューチュリティステークスに回って人気が予想される馬ですから許容範囲内。ということで優勝候補の1頭とみていました。このレースは人気で上位に入着した馬はその後も活躍するケースが多いので,来年のクラシック候補の1頭でしょう。ただ同じことは4着までの4頭すべてに妥当すると思います。父はディープインパクト
 騎乗したフランスのクリスチャン・デムーロ騎手は昨年のホープフルステークス以来の日本での大レース制覇。日本馬に騎乗しての大レース制覇も日本での大レース制覇もこれが3勝目で阪神ジュベナイルフィリーズは初勝利。管理している中内田充正調教師は昨年の朝日杯フューチュリティステークス以来の大レース2勝目。

 たとえば僕のようなⅠ型糖尿病の患者にとって,食事制限以上の量の食物を摂取すれば,確実に高血糖になります。このとき,目の前に食欲をそそるもの,端的にいえば好物があれば,それを食べたいという食欲は湧きます。ですが食べてしまえば血糖値が高くなるということを確知しているわけですから,そうならないためには食べたくないという感情affectusも生じ得るでしょう。後者の感情は必然的にnecessario生じるとはいえませんが,生じる場合があり得ることは論理的に確実で,この限りで双方の感情は相反する感情であることになります。
 同様に,適正な体型を維持したい,あるいは適性な値を超過した体重を適性値まで戻したいと思っている人もまた,好物が目の前にあれば食欲をそそられるでしょうが,それを食してしまえば適正な体重になることにとってマイナスであると確知している限りで,必然的necessariusではありませんが,それを食べたくないという感情が生じ得ることは明白です。これもまた相反する感情であることになります。
                                
 スピノザの哲学では,このような相反する感情がある人間のうちに生じるとき,その人間は心情の動揺animi fluctuatioを感じているといわれます。そしてこの心情の動揺は,長期化する場合もありますし,短期的に解決される場合もあります。心情の動揺の対象の一方が食欲という欲望cupiditasである場合,基本的にはこの状態は短期的に解消されます。なぜなら,食欲の方が強ければそれを食べるまでですし,相反する感情の方が強いなら食べない,他面からいえば食べることを我慢するまでだからです。どちらの感情からも同じ程度で刺激されるがゆえに,食べるか食べないかをいつまでたっても決定することができないということは,論理的にはあり得るのですが,その場その場で判断されるということが考慮されれば,非現実的に近いといえるでしょう。そもそも食欲をそそられる食物が,長時間にわたって目の前にあるという状況を想定しにくいからです。
 このようなとき,相反する感情の方が優勢のとき,他面からいえばその人間が食べることを我慢するとき,一般的にはそれを節制と僕たちはいうのです。ただし節制はそれ自体では感情ではありません。
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書簡六十五&食欲の場合

2018-12-08 19:08:52 | 哲学
 チルンハウスとの文通のうち,書簡六十五はロンドンに滞在中のチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausがスピノザに対してダイレクトに送ったものです。まだパリに行く前ですから,この書簡にもライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizの関与はありません。
                                     
 この書簡は書簡六十三の第一の質問に対し,スピノザが書簡六十四で答えたことについて,もっと詳しい説明を求めたものです。他面からいえばチルンハウスはスピノザの解答には不備があるとみなしたのです。したがってここではチルンハウスは,人間は思惟Cogitatioと延長Extensioの属性attributumだけを認識するのではなく,その他の属性も認識することができるのではないかといっています。
 チルンハウスの主張の中心は,第二部定理七備考でスピノザ自身がいっていることにあります。スピノザはそこで,無限知性intellectus infinitusが認識するすべての属性は唯一の実体substantiaに属するという主旨のことをいっています。チルンハウスによれば,人間はこのことを理解することができるので,世界が「唯一」であるということを理解することもできます。ところが各々の属性は無限に多くのinfinita仕方で世界を表現するexprimereので,人間は延長の属性の下では人間の身体corpusとして表現され,思惟の属性の下では人間の精神mensとして表現されるのだけれども,人間にとって未知の属性の下でもこれと同じような仕方で表現されなければならない筈なので,論理的には人間はその属性のことも認識できるのでなければならないのです。そして属性は無限に多くあり,それら無限に多くの属性がその属性の下に人間を表現するのであれば,人間は無限に多くの属性を認識できるのでなければならないでしょう。
 人間が思惟の属性およびその属性の下で表現されたものと,延長の属性および延長の属性で表現されたものだけしか認識しないということは,第二部公理五で示されていることです。つまりスピノザにとってそのことは公理Axiomaだったのです。ですからチルンハウスの主張は誤りです。第二部定理七備考から,チルンハウスが示したような事柄は帰結しません。

 すでに示したように,睡眠欲という感情affectusには反対感情が存在しません。ところが第四部定理七が示すように,感情はそれと相反する感情がなければ解消され得ません。反対感情と相反する感情を厳密に異なった意味で僕は用いますから,睡眠欲に対して反対感情がないからといって,同一の人間のうちに睡眠欲と両立することができない相反する感情が存在し得ないということにはなりません。そもそもどんなに強い眠気を感じていたとしても,起きていなければならないと思うことは僕たちにはあります。たとえば自動車の運転中であれば僕たちは確かにそのように感じるでしょう。これは起きていたいという欲望cupiditasの一種とみなすべきであって,睡眠欲に相反する感情であるといえます。ですが,それは睡眠欲の反対感情ではないと僕はみなすのです。
 この点はたぶん分かりにくいのではないかと思います。そこで睡眠と同じような一次的欲求であるといえる食欲について考えてみましょう。食欲が欲望のひとつであるということ,同時にまた何かを食べなければ人間はその現実的存在を維持していくことができないので,人間にあって食欲というのは自然の秩序ordo naturaeによって要求されている感情であるという点で,食欲と睡眠欲には共通する要素があります。
 食欲には反対感情はあると僕は考えます。これはたとえば病気になったときに,食欲が減退するというようなときに感じる感情です。何も食べたくない,食べる気がしないというような状態は,それに陥った経験がある方が多いでしょうし,あるいは自身にはそうした経験はなくとも,そうした状況に陥った人のことを見聞きしたということはほとんどの人にあるのではないかと思います。
 ところがこの感情,何と名付けるべきか分かりませんがこの食欲の反対感情は,食欲の相反する感情であることはできません。なぜならこの感情を反対感情と規定したときの条件から自明であるように,この感情が食欲と同時に同じ人間のうちに生じるということはあり得ないからです。
 一方,食欲に対する相反する感情もあります。食べたいけれども食べたくないという状況は現実的に存在する人間には生じるからです。
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化粧②&対抗

2018-12-07 19:28:21 | 歌・小説
 化粧①で僕はこの歌は情念的であるといいました。そしてこの情念には,幾分か歌い手である女の妄想が入り混じっているようにも感じています。

                                

     あたしが出した 手紙の束を返してよ
     誰かと二人で 読むのはやめてよ


 歌い手はこのように歌っています。
 歌い手がかつて男に手紙を出したのはおそらく事実なのでしょう。そして束といっているくらいですから,歌い手が出した手紙は一通や二通ではなく,かなりの量に上るのでしょう。これもまた事実だと思います。そしてかくも多くの手紙を同じ男を相手に出すことができたこの歌い手は,きわめて情念的な人間であるという見方が可能だと思います。歌い手はそれはその男以外のだれかには読まれてはいけない手紙であると知っているから,だれかと読むのはやめろといっているのであり,よってその手紙の内容はさぞかし情念的なもの,あるいは情熱的なものであっただろうと推測されるからです。なおかつそれを何通も出しているのですから,確かにこの部分には歌い手の性質が含まれているといえるのではないでしょうか。
 歌い手がだれかといっているのは,当然ながら男の恋人でしょう。ふたりでといういい方がそれを示唆しています。でもこの部分には歌い手の想像力が働いているのだろうと僕は思います。つまり,実際に男が恋人とこの手紙を読んでいるというわけではなくて,読んでいるということが歌い手に想像されているだけだと僕は思うのです。そしてその想像によって,歌い手は自身のプライドが傷つけられるように感じているのでしょう。
 束にできるほどの手紙を送る人間は珍しいかもしれず,その限りで男は本当にだれかとその手紙を読むかもしれませんが,歌い手はそれを事実として知っているわけではないでしょう。そしてそれほど多くの手紙を書いて送ることができるということは,実は歌い手にとっては誇りであったのです。その誇りに傷がつくことを,想像の上で歌い手はひどく恐れているのです。

 眠気を感じるということは,他面からいえば眠気を感じる意識があるという意味で,これは起きている状態でしか生じません。スピノザの哲学では意識とは観念の観念idea ideaeのことで,眠気を感じるということは,眠気を感じている自分の身体corpusの観念の観念があるという意味です。
 僕はこの眠気は,睡眠欲という感情affectusを身体とだけ関連させたものであると規定しました。よってこれは,自身の睡眠欲の観念があるといっているのと同じです。感情は身体の状態だけでなく精神mensの状態も意味することになっていますから,この場合には観念の観念という必要はありません。第三部定義三はある種の観念が感情であるといっているので,感情の観念というだけでそれは観念の観念を意味し得ることになるからです。
 このとき,睡眠欲を意識し得るということは,起きているということだから,睡眠欲に対抗できているという意味であると解されるかもしれません。ですが僕はそのようには考えないのです。むしろ起きているにも関わらず睡眠欲を感じているとするなら,それは睡眠欲に従属しているということだと考えるからです。つまり,睡眠欲という感情に支配されて眠ってしまうか,それを感じつつも起きているかということが睡眠欲への対抗であるとは僕はみなしません。睡眠欲に対抗するにはその睡眠欲という欲望cupiditasを解消することが絶対的であると考えるのです。そこでもしも睡眠欲に対抗するということだけを眼中に置けば,むしろそのまま眠ってしまう方がよりよい対抗手段であり得るでしょう。眠れば睡眠欲は除去されるであろうからです。最初にいったように,いかにそれが自然の秩序ordo naturaeが要求する受動的な欲望であったとしても,睡眠自体は現実的に存在する人間の現実的存在を維持するために必要なのですから,睡眠欲に従属してしまうことがその受動的な欲望に対抗することであり得るというのは,本来的にはおかしなことなのですが,確かに対抗の手段であるということは僕は認めます。
 そしてこのようなことを認めざるを得ないのは,起きている限り,睡眠欲そのものを解消するということは不可能であると僕は考えるからです。これにも理由があるのです。
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勝島王冠&唯一の手段

2018-12-06 19:08:39 | 地方競馬
 昨晩の第10回勝島王冠。金沢の吉原騎手が右足の太腿の打撲と筋挫創のためディアデルレイは本田正重騎手に変更。
 モジアナフレイバーは発馬後の加速が鈍く1馬身ほどの不利。内から順にキャプテンキング,ムサシキングオー,ディアデルレイ,ゴーディーの4頭が前に。1コーナーからのコーナーワークで概ね各馬に半馬身ほどの差がつく形になりました。1馬身半差の5番手をリコーワルサーとヒガシウィルウィンが追走。1馬身差の7番手にはユーロビート,リッカルド,クリスタルシルバーの3頭。1馬身半差で追い上げたモジアナフレイバーとグルームアイランドが並び,1馬身差でディアドムス,1馬身差でサージェントバッジ,1馬身差でキングニミッツとなり,4馬身差の最後尾にミヤジマッキーという隊列。最初の800mは50秒4のミドルペース。
 3コーナーでゴーディーは脱落し,前は3頭。この後ろもリコーワルサー,リッカルド,ヒガシウィルウィンの3頭で併走。直線ではリッカルドの外からモジアナフレイバーが伸び,そのまま突き抜けて優勝。逃げたキャプテンキングとヒガシウィルウィンの間に進路を取ったリコーワルサーが一旦は2番手に上がりましたが,また巻き返してきたヒガシウィルウィンがフィニッシュ直前で捕えて3馬身差の2着。リコーワルサーがハナ差の3着でキャプテンキングが2馬身差で4着。直線で不利を受けたかもしれないリッカルドはさらに2馬身半差の5着まで。
 優勝したモジアナフレイバーは南関東重賞初勝利。デビューから4連勝し,その4連勝目がクラシックのトライアルレース。クラシックの2戦も好走。秋は3歳のオープン特別で復帰して優勝。今年の3歳馬はレベルが高いことがすでに判明していましたから,この成績ならここでも通用するのではないかと思っていました。2着馬とは4キロもの斤量差があるので,能力的に凌駕しているとまではいい難い面があるのですが,3着馬が前走の2着馬だったことを踏まえれば,3歳馬のレベルの高さも分かりますし,すでに2着馬に近い能力まで達しているのは間違いないでしょう。斤量が増えること自体は苦にならないだろうと思います。ただ,大井しか経験のない馬ですので,他場で同じように走れるのかは課題となるでしょう。3代母はパテントリークリア。母の6歳下の半弟に昨年の高松宮記念と今年の函館スプリントステークスを勝っている現役のセイウンコウセイ
 騎乗した浦和の繁田健一騎手は昨年のアフター5スター賞以来の南関東重賞7勝目。その後,重賞の東京盃も勝っています。勝島王冠は初勝利。管理している大井の福永敏調教師は開業から5年2ヶ月で南関東重賞初勝利。

 睡眠欲に対抗するために,理性ratioの力potentiaで十分な睡眠の時間を確保するということが,この欲望cupiditasに対抗する唯一の手段であると僕は考えます。ただし,止むを得ぬ事情で睡眠不足に陥ってしまうことはあるのですから,これは絶対にそうしなければならないという道徳律であることはできません。スピノザは第四部定理七〇で,自由の人homo liberは無知の人からの親切をできるだけ避けようとするという意味のことをいっていますが,これと同じように,睡眠欲への対抗も,絶対的であるというよりは可能な限りでというべきだと僕は考えます。他面からいえば,可能な範囲内で睡眠不足を避けようとしない人は,自由の人ではなく無知の人であるといわなければならないでしょう。
                                
 このような対抗手段は,睡眠欲という欲望そのものに対抗する手段であるというより,睡眠欲という欲望を惹起する原因causaに対して関与する手段であるといえます。第一部公理三から明らかなように,原因が与えられなければ結果effectusが生じることはないのですから,原因を解消すれば結果は必然的にnecessario解消されます。ですからこれが有意味な対抗手段であるということは疑い得ないでしょう。もっともこのことは,こうして論理的に訴えずとも,僕たちが経験的に知っていることであるといっていいかもしれません。ただ,僕がこの方法が睡眠欲に対抗する手段であるとするのは,もっと別の理由があるのです。
 睡眠欲というのは欲望の一種で,欲望は感情affectusのひとつです。しかるに第四部定理七で示されているように,感情はそれと相反するより強力な感情によってでしか排除されることができません。つまり理性の力によって直接的にそれを排除することはできないのです。確かに僕たちはどんなに眠いときであっても,起きているということはできるかもしれません。ですが起きているからといって眠気から逃れていることにはなりません。たぶん起きているときに眠気を感じたことがないという人はほとんどいない筈だと思います。この眠気というのは,睡眠欲という感情を単に身体corpusとだけ結び付けた状態のことです。いい換えれば眠気を感じているということと睡眠欲を感じているということは同一のことです。
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竜王戦&睡眠欲への対抗

2018-12-05 19:26:29 | 将棋
 和倉温泉で指された第31期竜王戦七番勝負第五局。
 羽生善治竜王の先手で矢倉模様の将棋。広瀬章人八段は2筋を角で交換させ,自身は5筋を角で交換して2筋を詰められることは甘受するという指し方を採用しました。
 この将棋は先手に変わった手が多く出ましたので,そうした手だけを紹介していきます。
                                     
 後手が8二の飛車をひとつ引いた局面。ここで先手は☗2七角と打ちました。これは普通は☗1八角と打つものなのですが,1筋の突き合いが入っていないこの局面では,飛車の上に打った方が後に別の使い方が生じ得るという判断があったのでしょう。
                                     
 先手が6二の金を銀で取り,後手が3五の馬で取り返した局面。ここでは☗7二金と打ちました。これも馬を攻めるのなら☗6三金と打つのが自然ですが,この場合は☖5一馬と逃げた後に☗6三角成とし,確実に桂馬を取れるのでこちらの方がよいということだったと思われます。
                                     
 先手が2四の飛車で桂馬を取りつつ王手をし,後手が合駒をした局面。ここは☗1一龍が最も普通の手ですが☗3三桂☖4二玉という交換を入れてから☗7六銀と手を戻しました。つまり7七の銀を取られてはいけないので,王手をしつつ飛車にヒモを付けたという意味。実際に龍は取られて先手が成桂を作る展開に進みましたが,この成桂が後手玉に対して働きかける展開に進みました。
                                     
 後手が銀を打って3三の地点を補強した局面。ここから☗7一金打☖5五角☗7七歩☖7一飛☗同金と進めています。飛車を取りながら1段目の横利きを消すのは大きいですが,金を使って盤上の金がそっぽにいくのでこれも浮かびにくい順と思います。ところがこの7一の金も完全な遊び駒にはならず,2一の成桂と同様に後手玉に働きかける駒であり続ける展開となりました。☗7一同金の局面はちょうど先手が金桂得で,その2枚が7一の金と2一の成桂。この2枚が遊んでいれば別ですが,そうでないということであればここでは先手が優勢なのでしょう。
 異筋の手を連発した羽生竜王が勝って3勝2敗。第六局は12日と13日です。

 現実的に存在する人間が寝坊したり寝過ごしてしまったりすることが,常に能動的な欲望cupiditasである睡眠欲から由来するということはできません。他面からいえば,理性ratioによって肯定され得る睡眠欲に由来するとはいえません。しかしそうでないともいいきれないのです。たとえばその寝坊によって他人に迷惑をかけてしまったとしても,それは理性によって肯定されるべき睡眠欲に由来するものであったというケースがあり得ることになります。もしそこでその睡眠欲に精神の力で対抗し,睡眠することを避けたがゆえに,後に身体corpusに重大な支障を来すことになってしまうということがあり得るということから,これは明らかであるといわなければなりません。そもそも僕の考えでは,受動passioである睡眠欲に対して能動的に精神の力で対抗するというのは,眠さを我慢して行動するということではないのです。
 現実的に存在する人間はその現実的存在を維持していくために睡眠を必要とするのは確かですが,それは一定の量の睡眠です。もちろんそこには個体差が生じますが,適切な量の睡眠時間を確保していれば,受動的な睡眠欲に支配されてしまうということは生じません。したがって,睡眠欲に対抗するためには,睡眠時間を確保するということが重要であることになります。そしてそれが理性の仕事であると僕は考えます。たとえば無意味に夜更かしをすることによって睡眠欲に従属してしまう,つまり寝坊をしたり寝過ごしてしまったりするなら,これはその夜更かしの方に原因があるのであって,この夜更かしを理性によって避けなかったという意味で,自由の人homo liberと反対の意味で無知の人の行動であったということになるでしょう。ただ,どのような人間であっても止むを得ない理由によって睡眠不足に陥ってしまうということはあるわけですから,単純に睡眠が不足することは無知の人がすることだというわけではありません。極端にいえば,どれほど自由の人として行動する人間であっても,睡眠不足に陥ってしまうということはあり得るのであり,この意味では自由の人であろうと無知の人であろうと,寝坊したり寝過ごしてしまったりすることは起こり得ることなのです。
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泗水杯争奪戦&理性と睡眠欲

2018-12-04 19:00:51 | 競輪
 四日市記念の決勝。並びは吉田‐鈴木‐木暮の関東,浅井に園田,稲毛‐山本の近畿に内藤で岡村は単騎。
 牽制が長引きましたが浅井が意を決してスタートを取り前受け。3番手に岡村,4番手に稲毛,7番手に吉田で周回。残り2周のホームに入る前のコーナーから吉田が上昇。これを見て岡村が動き,ホームの出口では浅井を叩いて誘導の後ろに。吉田はすぐには上昇せず4番手で稲毛の動向を確認。バックに入って稲毛が動いたのを見て自身も発進。打鐘では先行争いになるかと思われましたが稲毛が争わずに4番手に入ったので,7番手に岡村,8番手に浅井の一列棒状になってホームを通過。浅井はバックの入口から発進。吉田との車間を開けていた鈴木が最終コーナーの手前から番手捲りを敢行しましたが,直線の入口では浅井が並び掛け,その勢いのまま先頭まで突き抜けて優勝。園田が離れてしまったので中団から浅井を追うような形になった山本が直線では大外を伸びて1車身差の2着。展開は絶好だった鈴木は4分の1車輪差の3着まで。
 優勝した三重の浅井康太選手は前回出走の競輪祭から連続優勝。記念競輪はその前に出走した豊橋記念以来の25勝目で出走機会3連続優勝。地元となる四日市記念は2014年,2015年2月,2015年8月と三連覇していて3年ぶり4度目の優勝。ここは出走メンバーの中では脚力は抜けた上位。ただ,調整は競輪祭に向けてであったでしょうから,体調面でのお釣りが残っているかが不安でした。稲毛を牽制した吉田がうまく先行に持ち込み,番手から発進した鈴木のさらに上を8番手から捲ってしまったのですから文句のつけようがない内容。終わってみれば実力通りの優勝であったといえるでしょう。

 睡眠欲は自然の秩序ordo naturaeが現実的に存在する人間に対して要求するもの,いい換えれば現実的に存在する人間が自然の秩序に応じて感じる欲望cupiditasですから,受動passioに属します。スピノザが,理性ratioによって欲望を統御する,他面からいえば精神mensによって身体corpusを統御するという,人間に対して不可能なことを求めている道徳律に対抗し,新たな道徳律として示したのは,能動actioによって受動を回避するということでした。このとき理性は精神の能動を意味するので,自由の人homo liberは理性に従って行動することになります。したがって,受動に隷属して睡眠欲にのみ従属するような人間がいるとすれば,そういう人間はスピノザが自由の人と反対の意味で用いる無知の人であるといわなければなりません。したがって,このような意味において寝坊ばかりしている人間がいるとしたら,そういう人間は間違いなく無知の人です。このことは僕も肯定します。ですからこのような人間の寝坊とか寝過ごしに対しては,寛容である必要は必ずしもないでしょう。
                                
 しかし一方で,現実的に存在する人間は睡眠を必要とするということ自体は疑い得ないのであり,睡眠欲はこのようなコナトゥスconatusとしてみられる限りでは,否定されるべき材料をもちません。むしろ理性が目覚めていることを要求していたとしても,受動に従って眠っていた方が,現実的存在の維持にとっては有益であるという場合さえあり得ることになります。ですから,確かに睡眠欲に常に従属し,惰眠を貪ってばかりいる人間は無知の人といわれるべきでしょうが,これとは逆に,一切の睡眠欲に従わないような人間は,自己の現実的存在を維持することを無視している人間であることになりますから,実は同じ意味において無知の人なのです。人間が現実的に存在するために睡眠を必要とするということは,理性によって,すなわち精神の能動によって確実に知るcerto scimusことができることなので,理性は本来的には,能動的に睡眠欲を肯定することができるからです。第三部定理五九は,能動と関係する欲望があるといっていますが,睡眠欲はそのひとつです。ただし個々にみれば,能動と関係し得る睡眠欲と関係し得ない睡眠欲があるということです。
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チルンハウスの誤解①&睡眠欲

2018-12-03 19:05:56 | 哲学
 書簡六十三チルンハウスEhrenfried Walther von TschirnhausがシュラーGeorg Hermann Schullerを介して質問した4つの項目のうち,第二の質問に関しては,チルンハウスに何らかの誤解があったのは間違いないと僕は考えます。この誤解がいかなるものであったのかということを,スピノザからの返信である書簡六十四も参考にして,何回かに分けて考察してみます。
                                     
 まず,チルンハウスの言い分は,次の3点に分割することができます。
 Ⅰ神Deusの知性intellectusと人間の知性は本性essentiaにおいても存在existentiaにおいても異なるので,何ら共通点をもたない。
 Ⅱ互いに共通点をもたないものは一方が他方の原因であることはできない。
 Ⅲこのゆえに神の知性は人間の知性の原因ではあり得ない。
 スピノザはこの質問に対しては,結果は本性の上でも存在の上でも原因と異なるから結果といわれるのであるという意味の返事をしています。これはスピノザがチルンハウスの質問は,あるものが本性の上でも存在の上でも異なるものを原因とすることができるのかという主旨であると解したことを窺わせます。ですが,僕の考えではチルンハウスの質問の主旨は別のところにあったのです。チルンハウスはこれに対して再質問はしていないのですが,おそらくこの解答はチルンハウスを満足させなかったか,さもなければチルンハウスの誤解を強化させただけだったのではないかと思います。
 僕の考えでいうと,チルンハウスがいいたかったのは,三分割した部分のうち,③は誤りでなければならぬということです。そして③が誤りであるということについては,スピノザも肯定するという思い込みがチルンハウスにあったのだと思うのです。

 奇異に思われるかもしれませんが,僕は寝坊をするとか寝過ごしてしまうといったことにはさほど罪悪感はありません。ですから逆に,だれかが寝坊することによって自分が待たなければならなくなったという場合も,その人をとくに咎める気にはなりません。こうしたことは現実的に存在する人間であれば,だれであれ起こり得ることだと考えているからです。
 程度の差はありますが,現実的に存在する人間はだれでもその現実的存在を維持するために睡眠を必要とします。このために自然の秩序ordo naturaeは現実的に存在する人間に対して,その現実的存在を維持するために睡眠を要求します。これを現実的に存在する人間の方からみた場合は,睡眠欲という欲望cupiditasとして規定されることになります。そしてこの欲望には反対感情は存在しません。現実的に存在する人間が睡眠欲に対抗するとすれば,それは自然の秩序に対して知性の秩序で対抗するという意味であり,これは感情affectusではなくて精神の力だからです。
 一方,睡眠欲は自然の秩序によって要求されているとはいえ欲望の一種ですから,第三部諸感情の定義一により,その人間の現実的本性actualis essentiaそのものです。いい換えれば第三部定理七によってコナトゥスconatusそのものであって,一種の力potentiaです。このことは,人間が睡眠を必要としているということ,他面からいえば睡眠なしでは現実的存在を維持することが不可能であるということから明らかだといわなければなりません。睡眠なしに現実的存在を維持することができないということは,睡眠欲はそれを感じる人間が,その人間の現実的存在に固執する力であるということにほかならないからです。
 このために現実的に存在する人間は,睡眠が量的に足りていない場合には,強い睡眠欲を感じることになります。一般的にはこれは人間の身体corpusがそれを感じていると理解されるでしょうが,欲望は基本感情affectus primariiのひとつで,第三部諸感情の定義三から理解できるように,感情は単に身体に妥当するのではなく精神mensにも妥当します。スピノザの哲学においては現実的に存在するある人間の精神とは,その人間の身体の観念のことなので,身体が欲望しているなら精神も欲望しているのです。
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チャンピオンズカップ&寝坊

2018-12-02 19:06:20 | 中央競馬
 アメリカから1頭が遠征してきた第19回チャンピオンズカップ
 最内のアンジュデジールがハナに立って2馬身ほどのリード。2番手にルヴァンスレーヴ。3番手はヒラボクラターシュとインカンテーション。2馬身差でパヴェルとサンライズソア。2馬身差でアスカノロマン,ケイティブレイブ,ミツバの3頭。1馬身差でオメガパフューム。1馬身差でセンチュリオン。1馬身差でアポロケンタッキー。1馬身差でサンライズノヴァ。2馬身差でノンコノユメ。4馬身差の最後尾にウェスタールンド。最初の800mは49秒6の超スローペース。
 3コーナーからルヴァンスレーヴが内で控え続けたので,外を回ったヒラボクラターシュとインカンテーションの2頭がアンジュデジールを追う形に。しかし直線に入ってアンジュデジールとヒラボクラターシュの間に進路が開いたルヴァンスレーヴが追われると伸び,最終的には抜け出して優勝。外から脚を伸ばしたサンライズソアが一旦はルヴァンスレーヴに迫る勢いだったもののフィニッシュ前に失速。最後尾からインを回り,逃げ粘るアンジュデジールとサンライズソアの間を突いたウェスタールンドが内からサンライズソアを差して2馬身半差の2着。サンライズソアがクビ差で3着。アンジュデジールが1馬身4分の1差で4着。
 優勝したルヴァンスレーヴ南部杯に続き4連勝で大レースも4勝目。古馬との初対戦でいきなり撃破した力量の持ち主で,前走の2着馬が出走してくれば最大の強敵になると思っていたのですが,出走を回避。それなら大方の確率で勝つことができるだろうと思っていました。まだ3歳ですが間違いなくダートでは現役最強の日本馬。怪我などのアクシデントに見舞われない限り,大レースの勝利数をどんどん積み重ねていくことになるでしょう。父はシンボリクリスエス。母の父はネオユニヴァースファンシミンファンシーダイナの分枝で4代母が1986年に京成杯と牝馬東京タイムス杯,1987年にエプソムカップと新潟記念とオールカマーに勝ったダイナフェアリー。Le Vent Se Leveはフランス語で風立ちぬ。
                                     
 騎乗したミルコ・デムーロ騎手は南部杯以来の大レース制覇。第16回以来3年ぶりのチャンピオンズカップ2勝目。管理している萩原清調教師は南部杯以来の大レース6勝目。チャンピオンズカップは初勝利。

 住職をはじめとするお寺の人たちと意見を交換し合い,最終的に僕が最もよいと考えていた方法,すなわちさしあたって母の遺骨はお寺の納骨堂に納骨し,会堂が完成した後に会堂内の納骨スペースに移すことに決定しました。したがって母の四十九日法要は,仮ではありますが納骨を兼ねるものになるということも決定したわけです。ただし,その具体的な日時についてはこのときには決定することができませんでした。これはお寺の都合がこの時点では何も分からかったからです。
 この後,別室で精進落としが行われました。ただ,僕の住職に対する挨拶が長引いてしまった関係で,僕がその部屋に到着した時点では,すでに参列者の方々の飲食は始まっていました。散会後,父のきょうだいの三女の長男の自動車で家まで送ってもらいました。僕たちが帰宅したのは午後8時25分でした。8月16日のブログの投稿時刻が遅くなったのはこのためでした。
 この後,僕たちを送ってくれた従兄から電話があり,翌日の葬式のときには家まで行き,また自動車で送ってくれることになりました。ところが,普通ならあり得ないと思われるであろうことが起こったのです。
 8月17日,金曜日。僕が目を覚ますとすでに午前9時45分を回っていました。葬儀は斎場の順番の関係で午前10時からでしたので,これは寝坊です。
 僕は電波時計を使っていて,これを目覚まし時計としても用いています。この目覚まし時計にはスヌーズ機能がついています。というか,スヌーズ機能がついていなければ,僕にとっては目覚まし時計としての役割を果たさないのです。そして僕は就寝前にこの目覚まし時計をセットします。このときもセットをし忘れたわけではありません。ですから目覚まし時計は鳴ったのです。というか,鳴った筈なのです。ですが僕は無意識的にそれを何度も止めてしまったのでしょう。スヌーズ機能はある回数を超過すると機能しなくなるので,それが機能しなくなるまで同じことを繰り返したのだと思います。
 一方,携帯にも電話が入っていたのですが,通夜のときにマナーモードにしたまま直し忘れたので,こちらは鳴りませんでした。
コメント
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