スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

農林水産大臣賞典報知新聞社杯エーデルワイス賞&絶対に無限な神と限りでの神

2020-10-16 19:05:30 | 地方競馬
 昨晩の第23回エーデルワイス賞。ウワサノシブコは出走取消で15頭。
 好発はトゥルスウィーとスマイルミュの2頭。内の方からマウンテンムスメがハナへ。2番手にスマイルミュ。3番手にマーサマイディアとソロユニット。5番手にクローリスノキセキとトゥルスウィー。7番手はエイシンウィンク。8番手以下はラストリージョ,レディブラウン,アークリオン,スーパービンゴ,ホーキーポーキーと続いてここまでの12頭は集団。あとはブルーカルセドニー,ミコブラック,アウィウィリオの順でこの3頭は離されました。前半の600mは34秒2のハイペース。
 3コーナーを回ると前の2頭は一杯になり,3案手を追走していたマーサマイディアとソロユニットが前に。この2頭の雁行が直線の入口まで続きました。直線に入るとすぐにソロユニットが先頭に。この2頭の後ろまで追い上げていたラストリージョは前の2頭に並ぼうかというところで一杯。抜け出したソロユニットが後ろとの差を広げていって楽勝。前半は前から離された位置を追走していたミコブラックが外から追い込んで4馬身差の2着。マーサマイディアが1馬身半差で2着。ラストリージョが1馬身差の4着で,やはり後方から追い込んできたブルーカルセドニーがハナ差で5着。
 優勝したソロユニットはデビュー戦こそ2着でしたがその後は前走のリリーカップまで4連勝。5連勝での重賞制覇。結果から一目瞭然ですが,このメンバーではスピード能力の絶対値が違っていました。メンバー全体のレベルがどうであったのかは分からない部分があるのですが,これだけの着差をつけて勝っているわけですから,例年の勝ち馬よりは高いレベルにあるとみてよいだろうと思います。父は2013年のJRA賞の最優秀2歳牡馬のアジアエクスプレス。母の父はアグネスデジタル。祖母の父は1987年に阪急杯とCBC賞を勝ったセントシーザー
 騎乗した北海道の阿部龍騎手は,写真判定の判断に誤りがあったために確定後に着順が変更された2018年の北海道2歳優駿以来の重賞3勝目。第20回以来3年ぶりのエーデルワイス賞2勝目。管理している北海道の角川秀樹調教師も2018年の北海道2歳優駿以来となる重賞10勝目。第11回,12回,15回,18回,20回に続き3年ぶりのエーデルワイス賞6勝目。

 絶対に無限な実体substantiaについて,僕たちが理解し得ることは,まとめると次のようになります。
 まず,絶対に無限な実体は,無限に多くのinfinita属性attributumによって本性essentiaを構成されなければなりません。したがって,僕たちにとって未知のもの,より正確にいうと,僕たちが知り得ない,これは十全に認識し得ないという意味ではなく,たとえ混乱しても認識し得ないものが,絶対に無限な実体の本性を構成しているということです。したがって,絶対に無限な実体の本性を,そのまま認識するcognoscereということはできないということを同時に知るのです。一方,絶対に無限な実体は必然的にnecessario存在するということも僕たちは認識します。つまり,その本性をそのままの形で知り得ないものについて,それが存在するということは知るのです。これらのことが何ら矛盾していないということは,ここまでの説明から明らかでしょう。
                                   
 絶対に無限な実体のことを神Deusというなら,神について僕たちは上述したのと同じことを知るということになります。ただし,絶対に無限な実体の本性が無限に多くの属性によって構成されるのである以上,思惟の属性Cogitationis attributumおよび延長の属性Extensionis attributumもその本性を構成しているのですから,その限りでは僕たちは絶対に無限な実体を認識します。僕の見解opinioでは十全に認識するのです。そしてもちろんこのことも,絶対に無限な実体を神というなら,神について妥当するということになるのです。よって,僕たちは神を十全に認識するのですが,それは絶対に無限な実体としての神であるというよりは,延長の属性および思惟の属性,とくに各々の思惟の属性が実在的に区別されるという点に注意するなら,延長の属性と延長の属性に対応する思惟の属性によって説明される限りでの神であるというべきだというのが,僕の見解です。前にもいったように,人間が神を十全に認識することができるということは,スピノザの哲学の中では肯定されなければならないことなのですが,そこで意味されている神というのは,延長の属性によって説明される神と,延長の属性に対応する思惟の属性によって説明される限りでの神であり,絶対に無限な実体としての神ではないというのが僕の見解になります。
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スポーツニッポン賞鎌倉記念&論理的吟味

2020-10-15 19:12:12 | 地方競馬
 北海道から2頭が遠征してきた昨晩の第19回鎌倉記念
                                        
 ジョーロノが内に切れこみながら前に。内枠で先行しようとした馬の何頭かに不利が生じました。2番手にはピースフラッグ。3番手にハッピーホンコンとトーセンウォーリアとヴァヴィロフ。6番手にナジャ。7番手にセイカメテオポリスとリーチとサラママでここまでの9頭は一団。2馬身差でマイアミ。2馬身差でサンエイウルフとトーセンダーウィン。2馬身差の最後尾にワールドサミットという隊列。ハイペースでした。
 3コーナーを回ってジョーロノにピースフラッグが並び掛けていきました。この時点ではピースフラッグの手応えがよくみえたのですが,ジョーロノが粘り腰を発揮。直線の競り合いではピースフラッグを競り落としました。この間に大外を回って追い込んできたのがリーチで,最内を回って追ってきたのがセイカメテオポリス。最後はこの2頭がジョーロノを差して抜け出す形。内と外に離れてのフィニッシュとなりましたが,先に前に出ていたリーチが優勝。セイカメテオポリスがクビ差で2着。その他の馬の追撃はすべて封じたジョーロノが2馬身半差で3着。
 優勝した北海道のリーチは前走のイノセントカップからの連勝で南関東重賞を制覇。例年のことですが北海道の2歳馬はレベルが高く,この馬はその中でも栄冠賞で3着,イノセントカップを勝っていましたので,上位にランクできる馬。ですから優勝候補の1頭でした。ここまで1000mと1200mのレースしか出走していないので距離が延長することと,左回りになることが課題だったのですが,距離は問題なく,コースに関しては外を回ることで克服することができたという印象です。父は2010年のJRA賞で最優秀2歳牡馬のグランプリボス。その父はサクラバクシンオー。母の6つ上の半姉に2000年にクリスタルカップを勝ったスイートオーキッド。馬名の英語表記は人名のLeitch。有名なのはラグビーのリーチマイケル選手。
 騎乗した船橋の本田正重騎手はユングフラウ賞以来の南関東重賞10勝目。鎌倉記念は初勝利。管理している北海道の林和弘調教師は昨年の黒潮盃以来の南関東重賞制覇。鎌倉記念は初勝利。

 論理的吟味の上で絶対に無限な実体substantiaを認識しているということで,僕がいいたいのは次のようなことです。
 絶対に無限な実体は,無限に多くのinfinita属性attributumによってその本性essentiaを構成されていなければなりません。もしそうでないなら,僕たちはその本性を構成しないような属性があると概念するconcipereことができることになり,そのように概念された途端に,その実体は実体ではあっても絶対に無限absolute infinitumではないと概念されることになるからです。つまり僕たちが何らかのものを絶対に無限と概念するためには,そのように概念する対象のものに,無限に多くの属性を帰する必要があるのです。すると同時に僕たちは,僕たちにとって未知の属性が,絶対に無限な実体の本性を構成しているということも同時に理解します。第二部公理五というのは公理Axiomaですから,僕たちはそれを共通概念notiones communesによって自明のものとして認識します。そしてこの公理の意味のうちには,僕たちが認識するcognoscereことができる属性は延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumだけであるということが含まれています。よって僕たちにとっては未知である属性がその本性を構成するとしなければ,僕たちは絶対に無限な実体を概念することができないのです。
 このとき,スピノザの哲学では,一般に事物の本性というものは,それがなければあるものが,逆にあるものがなければそれが,あることも概念することもできないものであるというように,第二部定義二でいわれているのです。したがって,絶対に無限な実体は無限に多くの属性がなければあることも考えることもできませんし,無限に多くの属性というのは絶対に無限な実体がなければあることも考えることもできないものなのです。よって僕たちは,僕たちにとって未知なるものをその本性に帰さなければ,絶対に無限な実体を概念することができませんし,逆に絶対に無限な実体を概念しなければ,無限に多くの属性というものも概念することができません。そして同時に,第一部定理一一第三の証明により,僕たちは絶対に無限な実体は存在するということを理解するので,絶対に無限な実体と無限に多くの属性について,存在するという場合も同様のことをいうことができるのです。
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新人王戦&還元の意味

2020-10-14 18:53:25 | 将棋
 12日に指された第51回新人王戦決勝三番勝負第一局。池永天志四段と齊藤優希奨励会三段は公式戦初対局。もしかしたら初対面だったのかもしれません。
 振駒で齊藤三段の先手となり角換り。銀を3八のまま速攻。これに対する後手の池永四段の受けが強気すぎたようで,先手がよくなりました。
                                        
 後手が歩を打ったところ。ここで長考して☗2六銀と出たのですが,これが長考後の悪手。ここは☗4五歩と攻め合うか,☗2八銀と辛抱しておくかのどちらかでした。
 ☖同銀☗同飛☖3七歩成と進展。ここで☗4九金と逃げるのが長考の時点での読みだったそうですが,☖3五金☗2九飛☖4七角☗2四馬のときに☖3四歩の受けがあり,この手を見落としていたとのこと。第1図の局面での☖3四歩は反則なのでうっかりしたということであれば,初歩的な見落としになります。
 先手は金を逃げずに☗2四馬と修正。☖4八と☗2五馬の取り合いに進展。後手は☖2四歩と打ちました。
                                        
 ここで☗同馬と取ったので☖5九角が厳しくあっさりと後手の勝ちになりました。第2図は玉砕でも☗4三成桂としなければ勝負にできなかったようです。
 池永四段が先勝。第二局は19日です。

 人間の精神mens humanaが思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態である無限知性intellectus infinitusを十全に認識するcognoscereことができるのかどうかということが,人間の精神による神Deusの認識をどのように把握するのかということに還元されると僕はいいました。そのことの意味が,人間の精神のうちに実在し得る神の十全な認識は,延長の属性Extensionis attributumおよびそれに対応する思惟の属性によって説明される限りでの神であるという点に存するのです。これらの属性は,確かに神の本性essentiaを構成するのですから,僕たちがこのような様式で神を十全に認識するとき,それは神の十全な観念idea adaequataであるといわなければなりません。しかし神の本性を構成するのがこれらの属性だけではなく,僕たちが認識することができない無限に多くのinfinita属性によっても構成されることを考慮に置くなら,それはその限りで説明される限りでの神なのであって,絶対に無限な実体substantiaとしての神ではないといわざるを得ないでしょう。
 第一部定義六というのは,書簡九でいわれているところの,それ自身が吟味されるために立てられた定義Definitioです。ですからまず,絶対に無限な実体すなわち無限に多くの属性によってその本性を構成されるもののことを神というのです。そして神がこのように定義されると,それが必然的にnecessario存在しなければならないということを僕たちは十全に認識します。絶対に無限な実体というのは実在性realitasにおいて最高のものなので,もしそれが存在しないのであれば何も存在しないことになるからです。いい換えれば,絶対に無限な実体として神が定義されれば,神が存在するかそうでなければ何も存在しないかのどちらかでなければならないということを僕たちは理解するのであり,しかし何も存在しないというのは不条理なので,神は存在するということを僕たちは認識します。そしてこのときに僕たちが認識している神は,絶対に無限な実体としての神であると考えなけれなりません。それが絶対に無限な実体であるからこそ,必然的に存在するということが帰結しているからです。
 したがって,このような意味では僕たちは絶対に無限な実体を認識しているといえます。ですがこれは論理的吟味の上でそう認識しているだけなのではないでしょうか。
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燦燦ムーンナイトカップ&神の認識

2020-10-13 18:53:59 | 競輪
 11日の夜に松戸競輪場で行われた燦燦ムーンナイトカップの決勝。並びは永沢‐斎藤の北日本,大石‐成清‐武田の南関東,寺崎-山本の近畿,阿竹-岩津の四国中国。
 スタートを取ったのは寺崎でそのまま前受け。3番手に阿竹,5番手に永沢,7番手に大石で周回。残り3周のホームから大石が上昇開始。寺崎を叩きにいきましたが,寺崎は引かずに突っ張り,いきなり先行争いに。残り2周のホームまで続いた先行争いは寺崎が制し,大石は圏外。この間に阿竹が内から上昇。打鐘で寺崎の前に出ると寺崎は浮いてしまい,山本が岩津にスイッチ。隊列は阿竹-岩津-山本-永沢-斎藤‐成清‐武田の順で7人の一列棒状に。バックから山本が自力で発進。すぐに前のふたりを飲み込み,そのまま後ろを離していく形で優勝。2着争いは阿竹の後ろから出た岩津と,山本を追う形で伸びた永沢の接戦となり写真判定。3車身差の2着は外の永沢で,岩津はタイヤ差で3着。
 優勝した京都の山本伸一選手はこれが初めてのグレードレース優勝。ここは新鋭の寺崎の脚力が上位と目されましたので,展開は有利になる可能性がありました。大石を突っ張った寺崎の走りがよかったということになるでしょう。ただ,寺崎が浮いたときに,本来であれば迎え入れるべきだったようには思います。寺崎はレースの経験が少ない選手ですから,そもそも阿竹に内を掬わせないようなアシストもあってよかったのではないでしょうか。

 Deusをどのように解するべきなのかということは別にして,人間が神を十全に認識するcognoscereことが可能であるということ自体は,スピノザの哲学の中では否定することができません。たとえば第五部定理二四は,人間が神を十全に認識することができるということを前提としなければ成立しないといえます。ただしこの神を,絶対に無限な実体substantiaとしての神と解してよいのかどうかは微妙だといえるので,それを検討することにします。
                                   
 事物を十全に認識するということは,その事物の本性essentiaを十全に認識するということと等置することができます。これは第二部定義二から明白だといわなければなりません。そこでいわれているのは,事物とその事物の本性は一対一で対応し合うのであり,かつその他の事物やその他の本性とは対応し合わないということだからです。しかるに神の本性は,無限に多くのinfinita属性attributumによって構成されるということが,第一部定義六でいわれています。つまり人間には認識することができない属性が,神の本性に含まれているのです。ですからこの点からすれば,人間が絶対に無限な実体としての神を十全に認識することは不可能であることが一目瞭然であるとさえいえるでしょう。
 このことと,人間が神を十全に認識することが可能であるということは,矛盾しません。というのは,人間は延長の属性Extensionis attributumと延長の属性に対応する思惟の属性Cogitationis attributumについては十全に認識することができます。そしてこれらの属性が神の本性を構成しているということは間違いありません。さらにこれらの属性は,それ以外の属性とは実在的に区別されるのですから,それらの属性を認識することができないとしても,そのこととは関係なく神の本性として認識されるのです。すなわち人間は神の本性を十全に認識することができるということになりますから,人間は神を十全に認識することができるのです。ただそれは,上述したような意味においての絶対に無限な実体としての神の認識cognitioであるとはいえません。絶対に無限な実体としての神に対応させていうならば,延長の属性および延長の属性に対応する思惟の属性によって説明される限りでの神の十全な認識であるというのが適切でしょう。
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マイルチャンピオンシップ南部杯&還元

2020-10-12 19:21:04 | 地方競馬
 第33回南部杯
 パンプキンズが押して一旦は前に出ましたが,内からインティとモズアスコットが出ていき,この2頭が並んで逃げるようなレースに。パンプキンズは3番手。4番手はモジアナフレイバーとアルクトス。6番手にワイドファラオ。7番手にゴールドドリーム。8番手のイダペガサスとサンライズノヴァまでは一団。4馬身差でヒガシウィルウィン。1馬身差でワンダーリーデル。残るモンサンルリアン,キタノイットウセイ,リンクスゼロ,ナラの4頭はそこから6馬身くらい離されて集団での追走に。前半の800mは45秒5のミドルペース。
 3コーナーを回ると内からインティ,モズアスコット,アルクトスの3頭が雁行。インティは直線入口を待たずに後退。3番手にモジアナフレイバーが上がってきましたが,競り合うモズアスコットとアルクトスには追いつけず。長く続いた競り合いは,外のアルクトスが競り落としてレコードタイムで優勝。モズアスコットがクビ差で2着。モジアナフレイバーが1馬身4分の1差で3着。
 優勝したアルクトスは昨年のプロキオンステークス以来の勝利。大レースは初勝利。ここでは実績でも能力でもやや劣る存在でしたが,昨年も2着になっているように,コースの適性は高そうでした。結果的に前にいった馬だけで上位を占めることになりましたので,そういった展開面および天候や馬場状態もプラスに働いたということだと思います。この時計ですから,2着馬がそうであるように,時計が早くなる方が力を出せるタイプとみてよさそうです。父は2007年にシンザン記念と弥生賞,2008年に京都記念を勝ったアドマイヤオーラ。その父がアグネスタキオンで母がビワハイジ。母の父はシンボリクリスエス。Arctosはギリシャ語で北斗七星。
 騎乗した田辺裕信騎手は2017年の東京大賞典以来となる大レース8勝目。第29回,30回に続き3年ぶりの南部杯3勝目。管理している栗田徹調教師は開業から9年7ヶ月で大レース初制覇。

 人間には未知である,すなわち認識するcognoscereことができない属性attributumが無限に多くあります。その属性のうちひとつを抽出し,それをAの属性としておきましょう。このAの属性を対象とした思惟の属性Cogitationis attributumがあって,思惟の属性があるからには第一部定理二一により,無限知性intellectus infinitusもあるわけです。人間はそれを認識することはできません。一方,延長の属性Extensionis attributumを対象としている思惟の属性については,僕の見解opinioとはいえ,十全に認識することができるので,無限知性も認識することができるといわなければなりません。このとき,Aの属性と延長の属性は,実在的に区別されるのです。よって,第一部公理五により,僕たちはAの属性を対象とした思惟の属性を認識することができなくても,延長の属性を対象とした思惟の属性を認識することはできるのです。ですから少なくとも人間にとっては,延長の属性を対象とした無限知性が無限知性なのです。なので延長の属性を対象とした無限知性だけを無限知性と解することにも一理あるのです。実在的に区別されるものの間では,一方の認識cognitioが他方の認識に依存しないのですから,むしろ実在的に区別される各々の無限知性があると考えるのが正当であり,それらの総体のことを無限知性という方がおかしいというのは,解釈のあり方としては全面的に否定することはできないでしょう。
                                   
 さらにこれらのことは,第一部定義六にいわれる神Deum,すなわち絶対に無限なabsolute infinitum実体substantiamをどのように解するべきなのかということに還元されるというのが僕の考え方です。絶対に無限な実体が神といわれるのは『エチカ』におけるルールのようなものですから,これはスピノザの哲学を考察するにあたっては否定することはできません。そして,第一部定理一一により,あるいはとくにその第三の証明により,絶対に無限な実体が必然的にnecessario存在するということは僕たち人間にも理解することができます。ですが,絶対に無限であるということは,その本性essentiaが無限に多くのinfinita属性によって構成されるという意味です。いい換えれば,人間には認識することができない属性によってもその本性を構成されるのです。この意味で僕たちは神を十全に認識することができるのでしょうか。
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竜王戦&相違

2020-10-11 19:05:42 | 将棋
 一昨日と昨日,セルリアンタワー能楽堂で指された第33期竜王戦七番勝負第一局。対戦成績は豊島将之竜王が16勝,羽生善治九段が17勝。
 野村ホールディングスの広報部長による振駒で羽生九段の先手。矢倉を目指したところ後手の豊島竜王が超急戦策。先手が攻め合いに出てすぐに終盤になる将棋でした。
                                        
 先手が角を打った局面。ここで後手が☖2七歩と叩いて封じ手となりました。
 封じ手は二者択一で☗2七同飛か☗3三角成。後者は☖4二金☗同馬☖同王という応じ方があり,先手は成算がもてないようです。そこで☗同飛の方が選択されましたが,後手は☖4五桂と跳ね出すことができました。
 ここから☗1一角成☖8六歩☗同歩☖8九角と進みました。☗1一角成とすればこれは先手には避けようがない手順です。
                                        
 第2図となってみると,先手は攻め合って勝つのも受け切って勝つのも困難で,差が出ているようです。この攻め合いで勝てないのなら先手は先に受けておく必要があります。なので☗1一角成のところでは☗5八金としておくのが優りました。
 豊島竜王が先勝。第二局は22日と23日の予定です。

 神Deusの属性attributumは無限に多くあるということが,第二部定理七系の解釈の前提となっているため,それら無限に多くのinfinita属性の各々を対象とした無限知性intellectus infinitusがあることになり,そこには人間が認識するcognoscereことができない無限知性があることになります。よって人間が無限知性を十全に認識することはとても不可能だという結論が生じます。いい換えれば,ここで無限知性といわれている思惟の様態cogitandi modiは,無限に多くの各々の属性を対象とした無限知性の総体を意味しているのです。
 第二部定理七も,解釈の前提にはこれと同じことが必要となります。しかし,観念ideaと観念対象ideatumが同一個体である場合には,人間は延長の属性Extensionis attributumを対象とした思惟の属性Cogitationis attributumについては十全に認識することができるというのが僕の見解なので,第一部公理三第一部公理四,そして第一部定理二一により,人間は思惟の属性を原因causaとして生じる無限知性を十全に認識することができるし,無限知性を原因として生じる思惟の属性の間接無限様態についても十全に認識することができるという結論になります。したがって,ここで無限知性といわれている思惟の様態は,延長の属性を対象とした無限知性のことだけを意味しているのです。これが同じように無限知性という語に記号化されていても,その記号の対象となっている思惟の様態には相違があるということの具体的な意味になります。
 このうち,すべての属性を対象とした無限知性の総体のことを無限知性というということは,おそらく不自然であると感じられないのではないかと僕は推測します。というのは,たとえば神の知性というのを想定した場合,もちろんそれは思惟の様態でなければならないのですが,その知性のうちには,神が働く力agendi potentiaによって生起するもののすべての観念が含まれていなければならないというように判断されると思われるからです。いい換えれば,もしある思惟の様態が無限知性といわれるのであれば,それは神の働く力によって生起するもののすべての観念を含んでいなければならないというように判断される方が普通であると思われるからです。
 しかし,延長の属性を対象とした無限知性だけを無限知性ということも一理はあります。
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王座戦&想起してほしいこと

2020-10-10 18:54:35 | 将棋
 6日に神戸で指された第68期王座戦五番勝負第四局。
 久保利明九段の先手でノーマル四間飛車。途中で永瀬拓矢王座の方がよくなり,そこから徐々に差を広げていく指し回し。途中は逆転は難しそうとみられていたのですが,先手の粘りに手を焼いて,なかなか勝ちきることができないまま終盤戦が長く続きました。
                                        
 後手が2筋の突破を狙って香車を打った局面。先手は☗4二角成と指しました。これは金を取って受けに使う狙い。
 この局面は後手のチャンスで,☖1八金☗同玉から2七で清算し,☖2九飛成☗2八歩に☖1八角☗2六玉☖1四桂と打つ寄せがありました。とはいえ☖同銀は自然な手なので,もう40手以上1分将棋だったことも踏まえれば,これを逃したのは仕方がなかったのかもしれません。ただし☗2八金と埋められてしまいました。
 先手からは☗3四桂と王手銀取りに跳ねる手が残っているので,後手も☖3一銀と戻ったのですが,これが最終的な敗着になったようです。☖2七香成☗3四桂☖3三王☗2七銀☖同銀成以下の攻め合いは,後手に分があったようです。
                                        
 第2図でも☗3四桂はあり,☖1二玉に☗1五歩と突きました。実際は☗1五歩より☗9二龍か☗4一龍の方がよかったようですが☗1五歩は次善策とでもいうべき手で,これでも先手の勝ちになっています。
 久保九段が勝って2勝2敗。第五局は14日に指される予定です。

 観念の対象ideatumが形相的有esse formaleである場合であれ,観念ideaとその観念の観念idea ideaeの場合であれ,同一個体を規準として考察した点では同じです。あるいは,同一個体というのはスピノザの哲学に特有の平行論から起成してくる概念notioなのですから,平行論に基づいて考察したという点では同じです。ところが各々の場合で得られた結論は異なるものとなりました。すなわち,観念と観念の観念が同一個体であるという観点から考えると,人間は無限知性intellectus infinitusを十全に認識するcognoscereことが可能であるという結論になります。ところが観念されたものideatumを形相的有とし,その形相的有とその観念は同一個体であるという観点から考えると,人間が無限知性を十全に認識するということは不条理なことであるという結論となってしまうのです。そしてこのとき,実はふたつの無限知性は,単に同じ語に記号化されているだけであり,実際には異なったものであるというのが僕の考えなのです。
 ここで想起してほしいのは,僕がチルンハウスの誤解について,佐藤一郎が『個と無限』の中で示したのとは別の方法で考察したときの内容です。とくにそこで,実在的区別というのがいかなる区別distinguereであると解するべきなのかということについて僕が言及した内容です。僕の見解opinioでは,思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものである観念は,単にAの観念とBの観念と区別された場合の区別を,一様に様態的区別であるということはできません。もしもAとBが同一の属性attributumに属する様態であれば,Aの観念とBの観念の区別も様態的区別であるということになるのですが,もしAとBが異なった属性の様態であるとすれば,AとBが実在的に区別されるように,Aの観念とBの観念も実在的に区別されなければならないのです。Aの観念もBの観念も思惟の様態ですが,だから様態的に区別されると一概にはいえないのです。
 ある属性と別の属性は実在的に区別されます。第一部定義六から分かるように,神Deumの本性essentiamは,実在的に区別される無限に多くの属性infinitis attributisからなるのです。第二部定理七系は,それら無限に多くのすべての属性に妥当します。したがって,実在的に区別することが可能な無限に多くの無限知性があるということが帰結します。
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農林水産大臣賞典レディスプレリュード&別の観点

2020-10-09 19:09:26 | 地方競馬
 昨晩の第17回レディスプレリュード
 サラーブとチェリーシャクナゲの2頭が好発。外の方からアッキー,マドラスチェック,プリンシアコメータの3頭が上がっていき,この順で3番手までを占めました。4番手にチェリーシャクナゲとレーヌブランシュで6番手にサラーブ。7番手はアンバラージュとマルシュロレーヌ。9番手はマルカンセンサー。10番手にレガロデルソル,シネマソングス,ゼットパッションの3頭でここまでの12頭は一団。2馬身差でナムラメルシー。2馬身差でサンルイビル。15番手がナンヨーオボロヅキで最後尾にクオリティスタート。最初の800mは50秒4のスローペース。
 3コーナーでは前の3頭が雁行に。4番手にはレーヌブランシュとマルシュロレーヌという隊列に。直線でマドラスチェックはアッキーには合わせずやや外に。プリンシアコメータも開いたところは突かずに外に。アッキーは一杯になり,プリンシアコメータの外からマルシュロレーヌが伸びてきました。競り合いかと思われましたがマルシュロレーヌの差し脚が抜群で,前の2頭を差すと差を広げていって快勝。2番手のマドラスチェックと3番手のプリンシアコメータの差も徐々に広がる形となり,マドラスチェックが3馬身差で2着。プリンシアコメータが2馬身半差で3着。
 優勝したマルシュロレーヌはここが重賞初挑戦での勝利。デビューから一貫してマイルから中距離の芝を走って2勝。前々走で2着になった後,初めてのダート戦を選択すると,最後の600mをほかの馬に1秒以上の差をつける末脚を発揮して3勝目。ここは実績上位はプリンシアコメータでしたが,この馬は歴代のトップクラスとは差がある馬ですから,牡馬相手に初ダートの3勝クラスを勝ったこの馬にも大いにチャンスがあると思われたところ。スローペースでの3馬身差はきわめて大きな差ということができますので,この馬は牝馬のダート路線でトップに立てる馬かもしれません。父はオルフェーヴル。祖母は1997年に報知杯4歳牝馬特別と桜花賞とローズステークス,1999年に阪急杯,2000年に京都金杯を勝ったキョウエイマーチ。Marche Lorraineはフランスのルイ・ガンスが作曲した行進曲。
                                        
 騎乗した川田将雅騎手と管理している矢作芳人調教師はレディスプレリュード初勝利。

 ここまではXの観念ideaとXの観念の観念idea ideaeが同一個体であるという関係から考察してきました。今度はXが形相的有esse formaleすなわち知性intellectusの外に実在するものとして,XとXの観念は同一個体であるという観点から考察します。
 第二部定理七系から,Xがどのような形相的有であったとしても,その観念が存在しなければなりません。そしてその観念は,無限知性の一部を構成していると考えるべきです。このことは第二部定理一一系から明白だといえます。ところで,第一部定義六から,神Deumの属性attributisは無限に多くinfinitisあるのであって,その無限に多くのどの属性を抽出したとしても,このことは妥当するといわなければなりません。一方で第二部公理五から,人間が認識するcognoscereことができる様態modiは,思惟の様態cogitandi modiのほかには物体corpusすなわち延長Extensioの様態だけですから,これでみれば無限知性intellectus infinitusを構成する観念の中には,人間が認識することができないものの観念が含まれていることになります。だとすれば,人間が無限知性を十全に認識することができるというのは,直ちに不条理であるといわなければならないでしょう。
 このことはおそらく次の説明からより容易に理解できるのではないかと思います。神の本性essentiaが無限に多くの属性から構成されるのである以上,その本性のすべてを人間は認識することができない,いい換えれば人間には認識することができない属性が存在するということは,たとえ人間が思惟の属性と延長の属性だけしか認識できないとしても,確実だということができます。そこでたとえばそういう属性のひとつとして,Aという属性があったとしましょう。このとき,Aの属性の直接無限様態が何であるかとか,Aの属性の間接無限様態が何であるかということは,そもそもAの属性を認識することが人間には不可能なのですから,それを人間が知る術はないというほかありません。このことはそれ自体で明らかだといっていいと思います。これと同じ意味において,思惟の属性の直接無限様態である無限知性についても,それが何であるかということは人間には知る術がないということがいえるのでなければならないことになるのです。なのでそれができるという主張は不条理なのです。
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農林水産大臣賞典東京盃&無限知性とその観念

2020-10-08 19:01:30 | 地方競馬
 昨晩の第54回東京盃。フランシスコダイゴは左の前脚の蹄の底の内出血で競走除外となり14頭。
 マッチレスヒーローは発馬のタイミングが合わずに1馬身の不利。マテラスカイは発馬後の加速が鈍く,残る12頭から置いていかれました。ハナに立ったのはクルセイズスピリツ。2番手はカプリフレイバー,ジャスティン,サイタスリーレッド,ラプタスの4頭の集団。6番手にヤマニンアンプリメとブロンディーヴァ。8番手にブルドッグボス,コパノキッキング,ジョウランの3頭でここまでは一団。2馬身差でトロヴァオとサブノジュニア。マテラスカイが後方2番手。3馬身差でマッチレスヒーローという隊列。前半の600mは33秒8のハイペース。
 2番手集団からラプタスが上がり,3コーナーではクルセイズスピリツの前に出て先頭。楽に追ってきたのがジャスティンで,この3頭で後ろを4馬身ほど離しました。クルセイズスピリツも直線に入るまでは頑張りましたが,そこまでで一杯。ラプタスとジャスティンの競り合いからはジャスティンが抜け出しました。差し脚を伸ばしたのは8番手集団にいたブルドッグボスとコパノキッキングの2頭。馬群を捌くように伸びたブルドッグボスはジャスティンに迫りましたが届かず,優勝はジャスティン。ブルドッグボスがクビ差で2着。大外からになったコパノキッキングは半馬身差で3着。
 優勝したジャスティン東京スプリント以来の勝利で重賞2勝目。東京スプリントは逃げ切りでしたが,ここは逃げるのは難しそうだったので,それがどう影響するかとみていました。とはいえその前のオープンを勝ったときは3番手からの競馬でしたので,この形でも問題はなかったようです。今年のJBCスプリントは同じ大井の1200mで行われることになっていますので,今年に入ってその舞台で重賞を2勝したこの馬が中心になりそうです。父はオルフェーヴル。はとこに2017年に黒潮盃を勝ったブラウンレガート
                                        
 騎乗した戸崎圭太騎手は東京盃初勝利。管理している矢作芳人調教師第47回以来7年ぶりの東京盃2勝目。

 無限知性intellectus infinitusというのがどのような思惟の様態cogitandi modiであるのかということと,それを人間の精神mens humanaが十全に認識するcognoscereことができるのかということを考慮の外に置くとして,無限知性の観念idea,つまり無限知性を観念の対象ideatumとした観念というのはあると僕は考えます。すでにいったように,無限知性は諸観念の総体のことを意味しなければなりませんから,無限知性の観念というのは観念の観念idea ideaeという意味になりますが,そうしたものはあると僕は考えているのです。これは,たとえどのような思惟の様態であったとしても,それは観念の対象になると僕は考えるからです。ちなみにこの関係はどこまでも続いていく,すなわちどのような観念であってもその観念の観念があって,この観念の観念を対象とした観念,つまり観念の観念の観念もあって,さらにその観念もあるという具合にどこまでも続いていくと僕は考えています。スピノザは第二部定理四三について,人間はあることを知っているならそれを知っていることを知ることができ,さらにそれを知ることができるという具合にどこまでも続いていくという意味のことをいっていますが,これと同じことが,無限知性の観念の場合も妥当するというのが僕の考えopinioです。ただしこのことについてはここでは気にしなくて構いません。
 無限知性と無限知性の観念は,同一個体と考えられます。したがって第二部定理七でいわれている,観念と観念の対象の関係が成立しなければなりません。よって,無限知性の秩序と連結Ordo, et connexioと,無限知性の観念の秩序と連結は一致します。無限知性は思惟の属性Cogitationis attributumを原因causaとして発生するのですから,無限知性の観念は思惟の属性の観念から発生するのです。もちろんこれは,無限知性の観念も思惟の属性の観念も十全な観念idea adaequataである場合です。すでに述べたように,思惟の属性の十全な観念というのは,人間の精神のうちにあることができるというのが僕の見解opinioです。なのでこの場合には,人間の精神のうちに,無限知性の十全な観念があることができるといわなければなりません。同様に,無限知性の十全な観念があるのであれば,思惟の属性の間接無限様態の十全な観念も人間の精神のうちにあることになるでしょう。
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霧島酒造杯女流王将戦&矛盾

2020-10-07 19:11:57 | 将棋
 3日に霧島ファクトリーガーデンで指された第42期女流王将戦三番勝負第一局。対戦成績は西山朋佳女流王将が1勝,室谷由紀女流三段が2勝。西山王将の1勝は新人王戦でのものです。
 霧島酒造の社長による振駒は歩が4枚で西山女王の先手。先手の角頭歩戦法に後手はしばし考えていましたが四間飛車に。先手は三間飛車にして相振飛車になりました。
                                        
 後手が歩を突いた局面。狙いはもちろん☖3六歩です。しかしこれは緩手で,ここを境に先手が優勢になりました。ここは☖8七銀と飛車取りに打つべきでした。
 先手は二者択一。ひとつは☗6五歩と突いて飛車の横利きを通す手。もうひとつが☗5六銀と打って角に働き掛ける手。感想戦の様子だと本当は☗6五歩と突きたかったようですが,危険を伴うとみて☗5六銀と打ちました。
 これに対して角を逃げるのは仕方がありませんが,実戦の☖3三角よりは☖4四角として5三に利かせた方ががよかったかもしれません。☗4五銀なら☖5五角で千日手を狙います。
 先手はここで☗6五歩と突きました。
                                        
 後手はここで☖8七銀と打ちましたが,これは俗にいう証文の出し遅れ。飛車取りは放置して☗6四歩からの攻め合いで先手が勝っています。
 西山王将が先勝。第二局は13日の予定です。

 第一部定理二二は,ある属性attributumの間接無限様態の原因causaはその属性の直接無限様態であるといっています。無限知性intellectus infinitusは思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態ですから,もし人間の精神mens humanaが無限知性を十全に認識するcognoscereことができるということであれば,人間がそれを十全に認識することができることを示したのと同じ理屈によって,人間の精神は思惟の属性の間接無限様態についても十全に認識することができるということが帰結します。つまりこの場合は,なぜスピノザが思惟の属性の間接無限様態を明示しなかったのかという観点からなされた河合の考察も,論拠を失うことになります。僕は思惟の属性の間接無限様態が何であるかについては明確な答えを持ち合わせていませんし,河合の考察というのが説得力を有しているということも認めていますが,完全にそれに同調するわけではないのには,こうした事情が関係しているのです。
 人間の精神は思惟の属性の直接無限様態である無限知性を,十全に認識することができるということも論理的にいえるし,十全には認識することができないということも論理的に示すことができるのは,それ自体でみれば大いなる矛盾であるといっていいでしょう。ですが僕は,この点に関してはさほどの矛盾が含まれているというようには考えていません。というのは,人間が無限知性を十全に認識することができるといわれている場合の無限知性と,人間には無限知性を十全に認識することができないといわれている場合の無限知性とでは,単に同じ無限知性という語で記述されているという一致点があるだけなのであって,実際にはそれぞれの場合で異なった思惟の様態cogitandi modiについてそれを無限知性といっているのだと考えているからです。いい換えれば,人間が無限知性を十全に認識することができるのかそれともできないのかということは,実は無限知性という語で示される思惟の様態を,どういったものであると判断するのかということの相違に帰着すると思うのです。そしてさらにこの相違は,後に述べるようなさらに別の相違へと還元されていきます。少し長くなりますが,せっかくの機会なので,この点についてもここで詳しく探求しておくこととします。
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「火の国杯争奪戦」IN久留米&別の場合

2020-10-06 18:52:27 | 競輪
 4日に久留米競輪場で行われた熊本記念の決勝。並びは郡司‐東の神奈川,三谷‐山口の近畿中部,清水‐松本の中四国,松川‐中本の熊本で佐藤は単騎。
 三谷がスタートを取って前受け。3番手に清水,5番手に松川,7番手に郡司,最後尾に佐藤で周回。残り3周のバックの出口から,佐藤まで連れて郡司が上昇開始。佐藤の後ろに松川がスイッチ。ホームで郡司が三谷を叩くと,松川がコーナーで郡司の前に。バックで外から上昇した清水が松川を叩いて打鐘。3番手に松川,5番手に郡司,7番手に佐藤,8番手に三谷の一列棒状に。コーナーで松川が内から上昇し,松本と番手戦。ホームから三谷が発進。番手戦は松本が守りました。三谷の捲りは清水の横まで。その後ろから郡司が発進。東がマークを外し単騎になりましたが,あっさりと捲り切って直線は独走の形で優勝。外からふたりめのところを伸びた中本が2車身差で2着。清水と三谷の間を突いた松本が4分の1車輪差で2着。
 優勝した神奈川の郡司浩平選手は前々回出走の岐阜記念以来の優勝で記念競輪10勝目。熊本記念は初優勝。このレースでは脚力だと郡司がトップで清水と三谷が続く形。各々がラインの先頭での競走になりましたが,清水が逃げて三谷が後方でしたから,展開面は最も有利になりました。圧勝の形になったのはこの展開の要素が大きかったように思います。

 ここまでは,人間の知性intellectusは無限知性intellectus infinitusを十全に認識するcognoscereことはできないという場合の根拠を示しました。ただし僕は,人間の知性が無限知性を十全に認識することができるということも,論理的に示すことができると考えています。今度はそちらの場合の方を示していきましょう。
                                   
 第一部定理二一から,ある属性attributumの直接無限様態の原因causaはその属性それ自体です。したがって,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態の原因は思惟の属性であるということになります。第一部公理四により,結果effectusの認識cognitioは原因の認識に依存しますので,思惟の属性の直接無限様態である無限知性の十全な認識は,思惟の属性の十全な認識に依存することになるでしょう。一方,第一部公理三により,一定の原因が与えられれば結果は必然的にnecessario生じるのですから,もしも思惟の属性の十全な認識が与えられれば,無限知性の十全な認識は必然的に発生するということになります。ですから,もしも人間の知性のうちに思惟の属性の十全な観念idea adaequataが存在し得るのであれば,同じ人間の精神mens humanaのうちに無限知性の十全な観念が発生し得るといわなければなりません。
 僕の見解opinioでは,思惟の属性の十全な観念というのは人間の精神のうちにあることができるのです。それどころか,思惟の属性の十全な観念というのは,現実的に存在するすべての人間の精神のうちにあるのでなければなりません。というのは,これは以前に詳しく説明したことがありますが,僕たちが共通概念notiones communesによって何事かを十全に認識するときには,少なくとも延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性については,同時に十全に認識されていなければならないからです。しかるに第二部定理三八系では,すべての人間のうちで共通する共通概念があるといわれています。したがってこれは,すべての人間が思惟の属性および延長の属性については,十全に認識するという意味でなければならないと僕は考えるのです。
 人間が認識することができる属性が思惟の属性と延長の属性だけであるとはいえ,無限知性は思惟の様態cogitandi modiなのですから,人間が無限知性を十全に認識したとしてもおかしくないともいえるでしょう。思惟の様態は人間が認識することができるものだからです。
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凱旋門賞&無限知性の認識

2020-10-05 19:08:39 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜にパリロンシャン競馬場で行われた凱旋門賞GⅠ芝2400m。
                                        
 事前の想定から回避した馬も多かった上,出馬が確定した後に取り消した馬が4頭もいたので,出走は11頭。ディアドラは発馬のタイミングが合わず1馬身半くらいの不利。そのまま最後尾の内を2頭で併走する形。後ろを離して逃げていく馬がいなかったので,道中は先頭から7馬身くらいの差でした。最後の直線の入口で1頭分だけ外に。直線に入るとまた内に入って追い出されましたが,目立った伸びはみられず。勝ち馬からおよそ9馬身差の8着でした。
 相手関係が強かったですし,ディアドラにとっては適距離よりも長いと思われましたので,条件の面からも苦戦は免れないと思っていました。さらにこの馬の武器である末脚を生かすのには最悪の不良馬場になりましたので,この結果は仕方がないところだといえるでしょう。個人的にはもっと負けてもおかしくはないとみていたくらいで,結果はまったく伴いませんでしたが,レースの内容は悪くなかったと思います。

 人間の知性intellectusが無限知性intellectus infinitusを十全に認識するcognoscereことが可能であるかどうかということについても,僕は明確な答えを持ち合わせていません。論理的にいうと,それはできるともいえるしできないともいえると思っているからです。
 第二部公理五の意味から,人間が認識することができる属性attributumは,延長の属性Extensionis attributumと思惟の属性Cogitationis attributumのふたつです。第一部定義六から分かるように,属性というのはこのふたつだけでなく,無限に多くあるのであって,その無限に多くのinfinita属性のすべてが神Deusの本性essentiaを構成します。そして第一部定理一六により,それら無限に多くの属性のすべてから,無限に多くのもの,いい換えれば無限に多くの様態modiが発生するのです。さらに第二部定理七系は,神が思惟する力cogitandi potentiaは神が働く力actuali agendiと等しいといっています。したがって,無限に多くのそれぞれの属性から生じる無限に多くのものについて,その観念ideaが存在しなければなりません。ところで知性とは観念の総体のことをいうのですから,無限知性というのはそれらの観念の総体であるということになるでしょう。したがってそこには,そもそも人間に認識することができない無限に多くのものが含まれていることになります。もしもこの点を重視するのであれば,人間が無限知性を十全に認識することなどはそもそも不可能であるといわなければならないでしょう。
 この場合は,僕たちが認識している無限知性は,河合のいい方に倣うなら,不条理の先にあるものということになると思います。第二部定理一一系は,人間の精神mens humanaが神の無限知性の一部であることを示しています。これは明らかに,無限知性が部分に分割され,有限finitumであると把握されているといえます。河合は不条理の先には間接無限様態があるといっていますが,書簡十二で部分に分割され有限であるとみられるのは,無限様態modus infinitusなのですから,思惟の属性の直接無限様態である無限知性がこのように把握されてもおかしくありません。あの知性も無限知性の一部でこの知性も無限知性の一部であるという具合に,すべての知性あるいは知性の一部を構成する観念が無限知性の一部であるというように無際限に進めれば,無限知性の認識cognitioに至ってもおかしくない筈です。
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スプリンターズステークス&無限知性の観念

2020-10-04 19:24:12 | 中央競馬
 第54回スプリンターズステークス
 ビアンフェの枠入りにだいぶ手古摺りました。好発はラブカンプー。内からモズスーパーフレア,外からビアンフェが追い掛けていき,この2頭で3コーナーにかけて後続を5馬身くらい離していく形に。引いたラブカンプーが3番手。4番手集団にダノンスマッシュ,メイショウグロッケ,ライトオンキューの3頭。少し離れてミスターメロディ。さらにダイメイプリンセス,キングハート,ダイアトニックの3頭。また少し離れてダイメイフジとレッドアンシェル。あとはクリノガウディー,エイティーンガール,グランアレグリアの順で続き,離れた最後尾にアウィルアウェイという隊列。前半の600mは32秒8の超ハイペース。
 モズスーパーフレアは直線の入口までは先頭で頑張りましたがさすがにこのペースは応えました。内を回ってその外に出てきたミスターメロディが一旦は先頭に。それをさらに差したのが外を回って直線の入口では前を射程圏に入れていたダノンスマッシュ。さらに大外からグランアレグリアが猛然と追い込み,最後は突き抜ける形で優勝。ダノンスマッシュが2馬身差で2着。離れた最後尾から末脚を伸ばしたアウィルアウェイがミスターメロディをを差して半馬身差で3着。ミスターメロディは半馬身差で4着。
 優勝したグランアレグリア安田記念からの連勝で大レース3勝目。春の一連の成績からは今日はこの馬が最有力候補と考えていました。その意味では順当な勝利。この距離のレースにしては圧勝といえる内容になったのには,展開上の有利さがいくらか作用したでしょう。ですからこのメンバーでトップなのは間違いないと思いますが,2着馬と着差ほどの能力差があるわけではないかもしれません。父はディープインパクト。Gran Alegriaはスペイン語で大喜び。
                                        
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手はヴィクトリアマイル以来の大レース制覇。第53回からの連覇でスプリンターズステークス2勝目。管理している藤沢和雄調教師は安田記念以来の大レース制覇。第31回,53回に続く連覇でスプリンターズステークス3勝目。

 第一部定理二二により,思惟の属性Cogitationis attributumの間接無限様態の原因causaは思惟の属性の直接無限様態です。思惟の属性の直接無限様態は,書簡六十四により無限知性です。結果effectusの認識cognitioは原因の認識に依存するのですから,思惟の属性の間接無限様態の認識,つまりここでいっているYの観念の観念idea ideaeは,無限知性の観念に依存することになります。第二部定理四〇の4つの意味から,十全な観念idea adaequataが結果として発生するためには,その原因の観念も十全な観念でなければなりません。よって,思惟の属性の間接無限様態の十全な観念というのは,無限知性の十全な観念から発生することになります。いい換えれば,無限知性の十全な観念があるのでなければ,思惟の属性の間接無限様態の観念は発生し得ないことになります。また,第一部公理三により,原因さえ与えられれば結果は必然的にnecessario与えられるのですから,もしも無限知性の十全な観念が与えられるなら,思惟の属性の間接無限様態の十全な観念が必然的に生起することになります。
 そこで問題となってくるのが,人間の知性のうちに,無限知性の十全な観念が発生し得るのかということです。もしもそれが発生し得ないのであれば,思惟の属性の間接無限様態の十全な観念は人間の知性のうちには発生し得ないということになります。要するに,思惟の属性の間接無限様態は,人間の知性によっては十全に認識するcognoscereことができない観念であるということになります。そしてこの場合は,スピノザが思惟の属性の間接無限様態についてそれを明示しなかった理由について,河合と同じような結論を出すことができます。
 確かに,人間の知性が無限知性を十全に認識することはできないということはできるように思えます。そもそも有限finitumである人間の知性が無限知性を十全に認識するということが不可能ではないかと思われるからです。そしてもしもこのことが正しいのであるとすれば,一切の有限な知性は無限知性を十全に認識することはできないということになりますから,もしも思惟の属性の間接無限様態について,それを十全に認識することができる知性があるとすれば,それは無限知性を措いてほかにはないということになるでしょう。
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バラ色の未来④&説得力の理由

2020-10-03 18:54:23 | 歌・小説
 で,だれかによって誘われた歌い手は,次のように返します。

                                    

     わかってる 未来はまだ遥か遠くて届くまでに
     まだ何千年もかかると

 バラ色だといわれた未来が現実となるのは,まだ何千年も先であるということが,歌い手には分かっているのです。当然ながら何千年後に歌い手が生きているということはあり得ないわけですから,歌い手にとって実際に意味しているところは,自分が生きている間にはバラ色の未来が訪れることはないということになります。このバラ色の未来というのは,歌い手にとってのバラ色の未来でもあるでしょうが,もっと広く,人類にとってのバラ色の未来であるとみえます。というのも,③では手を取られたり目を閉じられたりしたのは,歌い手ではなく「あなた」であるとされていたからです。
 同時にこのことは,歌い手がそう歌っているその時点のことだけを意味するともいえない面があります。いつ,だれがそのような誘いをかけられたところで,バラ色の未来はまだ何千年も先のことであるというようにも受け取れるからです。そしてもしそうであるならば,人類にとってのバラ色の未来はいつでも何千年も先のことであって,永遠に訪れることがない時代のことになるでしょう。

 延長の属性Extensionis attributumの間接無限様態の認識cognitioへ至る過程を,思惟の属性Cogitationis attributumの間接無限様態の認識へ至る過程にそのまま当て嵌めてみます。すると,何らかの不条理な認識,この場合は思惟の様態cogitandi modiの認識でなければならないので,実際はある観念の観念idea ideaeが有するような不条理の先に,思惟の属性の間接無限様態であるYの観念の認識へ至るということになります。この場合,Yの観念というのがどのような観念であるかは人間の知性intellectusにとっては明らかではありません。というのは,それは不条理な認識の先にあるものなのですから,十全な観念idea adaequataであるのか混乱した観念idea inadaequataであるのか,あるいはもっと正確にいえば,十全な観念の観念であるのか,混乱した観念の観念であるのかといえば,混乱した観念の観念にほかならないからです。要するに,この認識の先にYの観念の観念が生じるのだとしても,それは混乱した観念なのです。ここではYの観念が思惟の属性の間接無限様態であるとされているのですから,これは,人間の知性は思惟の属性の間接無限様態を,混乱して認識するcognoscereということを意味します。いい換えればそれが十全な観念としてどのような形相formaを有するものなのかということは,人間にとっては不明なのです。このゆえに,河合はスピノザは思惟の属性の間接無限様態についてはそれを明示しなかったのだと主張しているのであり,この主張には説得力があると僕は感じているのです。
 ただし,これはあくまでも河合の考え方なのであって,本当に思惟の属性の間接無限様態が何であるのかということは,人間にとっては不明であるということを,僕自身が確実視しているというわけではありません。ただ,このような結論というのは,あるいは別の方法でも示すことができるかもしれないと僕は思っていますので,その方法を示しておきましょう。もちろんこれも河合と同様に,思惟の属性の間接無限様態が何であるのかということに着目するのではなく,思惟の属性の間接無限様態をある観念とみたときに,その観念の観念がいかにして人間の知性のうちに発生するのかということに注目した方法です。
 第一部公理四は,結果effectusの十全な認識が原因causaの十全な認識に依存するといっています。
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大山名人杯倉敷藤花戦&無限様態の観念

2020-10-02 18:57:14 | 将棋
 昨日の第28期倉敷藤花戦挑戦者決定戦。対戦成績は中井広恵女流五段が2勝,石本さくら女流初段が1勝。
 振駒で石本初段の先手となり,角道オープン三間飛車。後手の中井五段の囲いに不備があるとみて先手が駒損を覚悟の攻めに出ましたが,思ったほどの戦果をあげることができず,作った龍が自陣に戻ることに。その時点で先手は苦戦に陥っていたと思われますが,決定的な差がついていたというわけではありませんでした。
                                        
 ここで先手は☗6六角と王手に打ちつつ龍が移動した後の☖5七香成を防ぎましたが,これが疑問手で,はっきりとした差がついたようです。
 ☖3三銀の合駒に先手は☗2六龍と逃げました。後手は☖5六歩☗同歩として角を使えるようにしてさらに☖6二飛と回りました。
                                        
 これで眠っていた飛車も使えるようになり,後手は勝利への目途が立つことになりました。したがって第1図では後手の大駒の捌きを封じる意味で,☗7六龍と逃げておくのがよかったのではないでしょうか。
 中井五段が勝って挑戦者に。タイトルを失った第12期以来,16年ぶりの倉敷藤花戦三番勝負出場。第一局は来月5日の予定です。

 無限知性intellectus infinitusをXの観念ideaとみなすことができるという点で,思惟の属性Cogitationis attributumの直接無限様態については,それが思惟の様態cogitandi modiのうち第一のものである観念でなければならないという規則は守られています。これと同じように,思惟の属性の間接無限様態についても,Yの観念であるということが遵守される必要があります。
 このとき,河合の論述というのは,YすなわちYの観念の観念対象ideatumは何であるのかということに向っているのではなく,Yの観念を人間の知性がいかにして獲得するのかというベクトルで展開されているのです。このことは,無限infinitumの第三の規程に含まれる不条理の先に,第二の規程のひとつである間接無限様態が発生してくると河合がみているということから明らかだといえるでしょう。ですから,思惟の属性の間接無限様態がYの観念であるといわれる場合には,人間の知性のうちにあるYの観念が論述の対象となっているのではなくて,Yの観念の観念がその対象になっているのです。そして第二の規程と第三の規程の間にある関係は,無限という概念notioにおいては一般的な関係であると河合はいっているのですから,実はこのことは思惟の属性についてだけ妥当しているのではなく,ほかのすべての属性についても妥当するといわなければなりません。もっとも,河合がいっているのは人間の知性による認識cognitioですから,実際には第二部公理五の意味によって,思惟の属性のほかに問題となるものがあるとすれば,それは延長の属性Extensionis attributumの場合だけであるともいえます。
 様態のうち第一のものが観念でなければならないのは,いうまでもなく思惟の属性だけです。だから思惟の属性の様態について考える場合には観念の観念が考えられなければなりません。しかし延長の属性の場合には,たとえば延長の属性の直接無限様態がPであって,延長の属性の間接無限様態がSであるとするならば,Pの観念とSの観念だけを考えればよいのです。そこでもしも第三の規程を延長の属性に該当させて,その認識いい換えるなら何らかの物体corpusの観念から不条理が発生したときにSの観念に到達するなら,延長の属性の間接無限様態はSであるという結論に人間は到達することができます。
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