スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
日本時間で今朝,アメリカのピムリコ競馬場で行われたプリークネスステークスGⅠ ダート1900m。
フランスゴデイナは行きたがる素振りをみせながら3番手を併走した3頭の真中を追走。向正面で一時的に単独の3番手。前をいく2頭が内を開けて走ったために,ここでインに導かれました。3コーナーを回ると1頭が追い上げていって4番手に。ここも内を回りましたが,前の3頭との差は広がりました。直線に入ってから鞭を入れられて追われましたが伸びはなく勝ち馬から約17馬身差の7着での入線となりました。
能力的にアメリカのGⅠでは厳しかったということもあるのでしょうが,そうしたことを考慮の外に置いても,レースの内容からすると,適性距離はもっと短いところにあるというように感じられました。
同じようなことが新型コロナウイルスに関しても生じつつある,あるいは現に生じています。新型コロナウイルスに感染することは,風邪をひくことと同じであるということを肯定する人,それに同意する人が,少なからず存在しているのは間違いありません。もっといえば,これは国家的な陰謀であって,新型コロナウイルスのワクチンにはマイクロチップが埋め込まれているというような怪情報についても,それを肯定する人,それに同意する人というのが現に存在するのです。人によってはこのような情報は荒唐無稽であって,なぜそれを肯定する,それに同意する人が存在するのか分からないと思うかもしれません。ですが情報の偏りによってはこうしてことは必然的にnecessario生じるのであって,情報が過多になることによって,特定の情報だけに触れる,スピノザ哲学的ないい方では,特定の情報だけに刺激されるafficiようになれば,このようなことが生じても何ら不思議はないと考えておくべきなのです。
もっといえば,こうしたことは必然的に生じるのですから,だれにでも生じ得るというように解さなければなりません。だれにでも起こり得るということは,たとえば僕にも起こり得るということであって,現代社会に生きる人びとは,だれもがそのことを肝に銘じておいた方がよいだろうと僕は思っています。いい換えれば,いかに荒唐無稽な情報についてそれを肯定する,それに同意する人がいるのだとしても,それは他人事の笑い話なのではなく,自身にも起こるかもしれない事象というように把握しておくべきだと思います。
ここまでは,人間の意志作用volitioが,現に有している意志作用によって決定されるということ,すなわち第二部定理四八 と,第二部定理四九備考 から近藤が読み取っている内容から,僕が病理といった現象について説明してきました。しかしこうした病理を生じさせる要因は,これだけで説明することができるというわけではありません。こうした分断を惹起する人間の現実的本性actualis essentiaというのはほかにもあるのであって,それが一部の人間だけに妥当するわけではないということも,スピノザの哲学によって説明することができるのです。
日曜日のNHKマイルカップ を勝ったシュネルマイスター はドイツ産で,競走馬として輸入された馬です。しかし母のセリエンホルデ は,ドイツでシュネルマイスターを産んだ後に輸入されています。Serienholdeはドイツ語でシリアルホールド。6代母がアグサンとサトルチェンジ の祖母にあたる同一牝系で,ファミリーナンバー は16-c 。
シュネルマイスターがまだ競走馬として走り始める前に輸入されたのですが,そこには理由があります。セリエンホルデの母のひとつ下の半妹の産駒,つまりセリエンホルデの従姉にあたる馬が先に輸入されていたからです。その馬がサロミナ 。Salominaは楽曲名。
サロミナはドイツで競走馬生活を終えてすぐに輸入されましたので,繁殖生活は日本だけで送っています。最初の産駒がデビューしたのが2016年。この馬はオープンを勝ちました。そのひとつ下の全妹はサラキア 。昨年の府中牝馬ステークスを勝った後,エリザベス女王杯,有馬記念と大レースを連続で2着して引退。さらにサラキアの2つ下の半弟は,2019年にサウジアラビアロイヤルカップと朝日杯フューチュリティステークス を制し,昨年は毎日王冠を勝っている現役のサリオス です。
セリエンホルデとサロミナという従姉妹の産駒から,この2年の間に大レースを勝った馬が2頭,さらに大レースにも手が届きそうだった馬が1頭出たわけです。おそらく今後もこの牝系から輸入される馬もいるでしょうから,注目しておくべき牝系だといえそうです。
人間の精神mens humanaにとっては情報過多の社会であれば,情報の取捨選択はだれでも行います。あるいは行わざるを得ないといった方がいいのかもしれません。そこでその取捨選択に偏りがあると,Aの得る情報とBが得る情報がきわめて異なったものとなるということが生じ得るのです。得る情報がきわめて異なれば,その情報について,AとBそれぞれの精神の現実的有actuale esseを構成する観念ideaもきわめて異なってくることになります。これはAとBというふたりの間だけでのことですから,これ自体で社会的な問題を惹き起こすというわけではないのですが,こうした情報の分断というのがもっと大きな範囲で生じる場合にはそうではありません。それによって社会的な分断が生じるからです。あるいはこのことが社会的な分断を生じさせる要因となるからです。実際にXについて,それは真verumであるという情報にばかり接している人と,それは偽falsitasであるという情報にばかり接している人の間では,Xに対する肯定affirmatioと否定negatio,あるいは同意と不同意のあり方は真逆になってくるでしょう。そしてこうしたことが広い範囲で生じるようになると,Xが真であるか偽であるかということが,社会的な論争の対象になってしまうようになります。実際にはあるものは真であるかそうでなければ偽であるかのどちらかでしかないのですから,このようなことが論争の対象になるのは,本来的には不毛であるといわなければならないでしょう。僕が病理といっているのは,現実的に生じているこのような現象のことです。そして情報というのはさらに増加していくでしょうから,こうした分断はますます深まっていく可能性があると考えておかなければならないのではないでしょうか。
たとえば地球の温暖化という現象に関して,それを否定する,いい換えればそれに同意しないという人びとがそれなりにいるということは,多くの方が知っているところだと思います。それはフェイクであるということを肯定するあるいは同意するという人びとがそれに該当します。なぜそれがフェイクであるということを肯定しあるいはそれに同意するのかが分からないという人もいるかもしれませんが,それも必然的な現象なのです。
流星の1番は② の後にさらに続きます。ただその部分はこの楽曲の中でリフレインされる部分ですので,後で紹介することにしましょう。
2番の冒頭も,歌い手に話し掛けた長距離トラックの運転手の,歌い手に対することばです。
おいらはこれから北の国まで となりはこれから南まで
何台もの長距離トラックが停車していて,当然ながらそれぞれの行き先は異なります。おそらく同じところで停まると,運転手同士の間でも会話が交わされるのでしょう。この運転手は歌い手に話し掛けてきたくらいですから,たぶん話をすることが好きなのでしょう。だから隣の運転手の行き先も知っていたのだと思われます。
便りのないのが良い便り どこかで会うかもしれねえな
運転手は日本各地を走り回っています。一方,歌い手の方も歌を歌っているので,公演のために全国に出掛けるでしょう。このふたりがまた会うということは,可能性としてはとても低いでしょうが,それでも両者の立場からすれば,また会うということが絶対にないわけではないでしょう。
Aの精神mensの現実的有actuale esseとBの精神の現実的有が異なるというのは,Aの精神の現実的有を構成している観念ideaと,Bの精神の現実的有を構成している観念が異なるということです。つまり第二部定理四九 により,Aの精神のうちにある意志voluntasと,Bの精神のうちにうちにある意志は異なるということです。よって第二部定理四八 により,Aの精神のうちに新たに発生する意志作用volitioと,Bの精神のうちに新たに発生する意志作用が,異なるということがあり得るのです。いい換えればAの精神のうちにもBの精神のうちにもXの観念が発生するとして,Aはそれを肯定するあるいはそれに同意するけれど,Bはそれを否定するあるいは同意しないということが生じ得るのです。
このことは,Aの精神の現実的本性actualis essentiaとBの精神の現実的本性が異なっているがゆえに生じることであって,それ自体で人間に大きな問題を齎すものではありません。ただ,上述したことから理解できるのは,Aの精神の現実的有を構成している観念と,Bの精神の現実的有を構成している観念の相違が大きくなればなるほど,ある事柄を肯定するか否定するか,あるいはある事柄について同意するか同意しないかということが,AとBとの間で異なってくる場合もそれだけ大きくなってくるということです。よって,もしもAとBが,ある事柄,たとえばYに関する情報について,正反対の情報に接しているならば,Yに関連する事柄についての肯定affirmatioと否定negatio,あるいは同意と不同意もまた正反対になるでしょう。Aの精神の現実的有を構成している観念もBの精神の現実的有を構成している観念も,AとBが日常的に接している情報によって構成されることになるからです。
こうしたことによって,僕が病理と称した現象が生じてきます。人間の精神は有限finitumであって,たとえばYについてそのすべての情報を得るということができません。このことはYについてだけに妥当するのではなく,すべての事物に妥当します。したがって人間は,情報が多くなればなるほど,それらを取捨選択せざるを得なくなります。現代社会は人間の精神mens humanaにとっては明らかに情報過多の社会ですから,これはだれもが行っていることです。
僕はこのブログでは虚偽と誤謬 を分けています。分けた方がスピノザの哲学を説明するのに便利だと思いますし,正しく理解できると思っているからです。しかしこれはあくまでも僕が便宜的に分けているものであって,『エチカ』の中で明確に定義づけられているわけではありません。なので改めて,そこにどのような区別をしているのかということではなく,僕が何を虚偽falsitasといいまた何を誤謬errorというのかということを詳しく説明しておくことにします。
スピノザの哲学で真理 veritasというのは,真の観念 idea veraの総体のことをいいます。真の観念は本来的特徴denominatio intrinsecaからみられれば十全な観念 idea adaequataのことを意味しますから,十全な観念の総体が真理であるといっても同じことです。僕はこの真理の反対概念のことを虚偽といいます。よって,真の観念の反対概念は誤った観念idea falsaであり,誤った観念は本来的特徴からみられれば混乱した観念idea inadaequataですから,誤った観念の総体あるいは混乱した観念の総体のことを僕は虚偽といっていることになります。
第二部定理七系の意味 よって,神Deusのうちにある観念はすべて十全です。また第二部定理三二 により真veraeです。よって,神のうちに虚偽はありません。そして第一部定理一五 によりあるもののすべては神のうちにあるQuicquid est, in Deo estのですから,虚偽はありません。これはちょうど十全な観念と混乱した観念の関係が,有と無 の関係を意味するということに対応します。つまり虚偽は無であって,存在するといわれるものではありません。
もし虚偽があるといういい方をするなら,それは人間の精神mens humanaのような,有限なfinitum知性intellectusのうちにあります。他面からいえば,ある観念が有限な知性とだけ関連付けられる場合にあるといわれます。この意味において,僕は虚偽は無だけれども,虚偽があるといういい方をします。この点には十分に注意してください。
人間の精神のうちに虚偽があるという場合,それは必ずしも否定的なことだけを意味するわけではありません。虚偽の積極性 というものをスピノザは認めているからです。しかしこのことは,虚偽と誤謬が異なったものであるがゆえに成立するという面がありますので,後の誤謬を詳しく説明するときに触れることにします。
スピノザの哲学でいう意志作用 volitioは,観念ideaが観念である限りにおいて含んでいる肯定affirmatioあるいは否定negatioです。近藤のいい方に倣うなら,同意あるいは不同意です。そしてこの肯定ないし否定,あるいは同意ないしは不同意は,すでにその人間の精神mens humanaのうちにある肯定および否定,あるいは同意および不同意の連鎖がどのようになっているかによって決定されます。これが,人間の精神のうちに新しい意志作用が発生するときの原因causaと結果effectusの連鎖です。したがってある意志作用は,別の意志作用によって決定されるのであり,人間の精神の自由な決意decretumによって決定されるのではないということになるのです。
「自由意志と目的論の帰趨」の中で,第二部定理四九備考 に直接的に関連する事柄についての考察はこれですべてです。しかし,事前にいっておいたもうひとつの点の考察に入る前に,意志作用は自由な決意によって決定されるのではなく,人間精神のうちにある意志作用との関係で必然的にnecessario決定されるということについて,関連する考察をします。というのはこのことは,現代社会が抱えている病理というべきある現象と,大きな関係をもっている,あるいはそうした現象がなぜ生じるかということと説明することができると僕は考えているからです。その病理的な現象というのは,いわゆる陰謀論といわれるような現象です。
人間の精神のうちにはいくつもの観念があって,それらの観念のすべてが何らかの肯定や否定,あるいは同意や不同意を含んでいます。一方で,人間の精神は思惟の属性Cogitationis attributumの個物res singularis,すなわち有限なfinitum様態modiですから,いくつもの観念があるといっても,その数には限りがあります。いい換えれば自然Naturaのうちにあるすべての事柄についての観念が,現実的に存在する人間の精神のうちに存在するということは不可能です。このことから分かるように,現実的に存在するある人間,たとえばAとBが存在するとして,AそしてBの精神の現実的有actuale esseを構成していない新たな観念Xが生じるとき,Aはそれを肯定あるいは同意し,Bはそれを否定あるいは同意しないということが生じ得ることになります。なぜならAの精神の現実的有とBの精神の現実的有は異なるからです。
第59回しらさぎ賞 。
枠入りをやや嫌っていたヴィルトファンがハナに立ちましたが,外からブロンディーヴァが競りかけていきました。2馬身差でポピュラーソング。2馬身差でダノンレジーナ。3馬身差でマーガレットスカイ。2馬身差でルイドフィーネとレイチェルウーズ。2馬身差でアクアリーブル。2馬身差でライゴッド。2馬身差でレイナブローニュ。2馬身差でヒイナヅキ。2馬身差の最後尾にキョウモバライロと,発走後の直線から2コーナーにかけて逃げ争いになったこともあり,かなり縦長の隊列に。最初の600mは35秒0の超ハイペース。
ヴィルトファンはブロンディーヴァを振り切って単騎の逃げに。最終コーナーでダノンレジーナが外から捲り上げてきて,直線の入口ではヴィルトファンの前に出ました。3番手にポピュラーソングで4番手にルイドフィーネとマーガレットスカイ。抜け出したダノンレジーナに迫ったのは一番外から伸びてきたルイドフィーネで,2頭が並んでフィニッシュ。一杯に粘ったダノンレジーナが優勝。ルイドフィーネがハナ差の2着。最終コーナーは内を回り,直線ではヴィルトファンとポピュラーソングの間から差し込んだライゴッドが1馬身半差で3着。
優勝したダノンレジーナ は前走のオープンから連勝。南関東重賞は東京シンデレラマイル 以来の2勝目。ここでは能力は明らかに上。浦和の1400mは,斤量が結果に及ぼす影響がやや高い面があり,57キロを背負っている点がやや不安でしたが,2着馬も同じ斤量であったこともあり,能力通りの結果を出すことに成功しました。3着に格下の馬が突っ込んできたのはやはり斤量の有利さがあったからだと思われますが,全般的にペースが速い厳しいレースになったこともあり,総合力で優る2頭が3着をやや離す結果になったと思われます。ある程度までついていって,直線の入口では先頭というレース内容は,2着馬より上でした。父は2010年にラジオNIKKEI杯2歳ステークス,2013年にアメリカジョッキークラブカップを勝ったダノンバラード で,その父はディープインパクト 、三代母がドバイソプラノ の母。Reginaはイタリア語で女王。
騎乗した船橋の本橋孝太騎手はブリリアントカップ 以来の南関東重賞21勝目。しらさぎ賞は初勝利。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞50勝目。第48回 以来11年ぶりのしらさぎ賞2勝目。
第二部定理四九備考 が,デカルト René Descartesに対する批判を意図しているかどうかはともかく,デカルトは自由意志voluntas liberaが人間にあることを肯定し,スピノザは否定するnegareのですから,スピノザがデカルトを批判することは間違いありません。一方,スピノザは人間が自由な意志voluntas liberaを有することは否定しますが,人間が意志を有することを否定しているわけではありません。つまり,それは自由なものではないにせよ,意志あるいは同じことですが個別の意志作用volitioを人間が有しているということは認めているのです。
このとき,意志というのが個々の観念ideaが含んでいる肯定affirmatioと否定negatio,近藤のいい方に倣うなら,同意と不同意を意味するとしたら,デカルトは,ある観念を肯定したり否定したりすること,あるいはある観念に同意したり同意しなかったりすることについて,人間の精神mens humanaが自由に決定するdeterminareことができるといっているわけです。いい換えればある観念について,それを肯定するaffirmareこともできるし否定することもできる,あるいはある観念に同意することもできるし同意しないこともできるとデカルトはいっているのです。スピノザはこのことを否定しています。では肯定と否定,あるいは同意と不同意は,ある人間の精神のうちで,どのように決定されるのでしょうか。それを示しているのが第二部定理四八 です。
ここから分かるように,近藤がいっているのは,第二部定理四九備考でスピノザが示していることは,第二部定理四八の具体的な例であるということなのです。第二部定理九 は,現実的に存在する個物res singularisの観念の原因causaは,現実的に存在する別の個物の観念であり,この関係が無限に連鎖していくということを示しています。第二部定理四八というのは,現実的に存在する意志作用について,同じことをいっています。しかし,現実的に存在する個物の観念の原因が,現実的に存在するほかの個物の観念であるということと比較して,現実的に存在する意志作用の原因については,どのように決定しているのかということが具体的には分かりにくいと思われます。ですからその実例が『エチカ』の中に示されているのだという指摘は,重要だと思いますし,とても意義があるものだと思います。
4日の兵庫チャンピオンシップ を勝ったリプレーザ の父はリオンディーズ です。父はキングカメハメハ 。母はシーザリオ 。祖母がキロフプリミエール 。3つ上の半兄にエピファネイア 。3つ下の半弟に2019年のJRA賞 で最優秀3歳牡馬に選出されたサートゥルナーリア 。Leontesはシェイクスピアの「冬物語」の登場人物名。
2歳の11月にデビュー。その新馬戦を勝つと朝日杯フューチュリティステークス に挑戦。見事にこれを制してJRA賞 の最優秀2歳牡馬に選出されました。
クラシックを目指して弥生賞で復帰。後のダービー馬に差し切られてクビ差の2着。初の敗戦を喫しました。皐月賞 は4着に入線しましたが,直線半ばで外に斜行したため5着に降着。ダービー はかなり後ろからのレースをして5着でした。
これで故障を発症してしまい,現役を退きました。
現3歳世代が最初の産駒たちになります。リプレーザはその中で初めての重賞勝ち馬。早くに引退してしまった馬ですが,きょうだいから連想すると,早熟だったということはなく,古馬になっても走ることができた馬だと思われます。ですから種牡馬としては未知の魅力があるとはいえるのではないでしょうか。
現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに,新しい観念ideaが発生したとき,もしその人間の精神がその観念を肯定するaffirmareこともできるし否定するnegareこともできる,あるいは近藤のいい方に倣っていうなら,その観念に同意することもできるし同意しないこともできるのであるとしたら,確かにその人間の精神には自由な意志voluntas liberaがあるということができるでしょう。ところがここまでに説明してきたことから明らかにされたように,人間の精神にはそのような自由意志があるわけではありません。むしろ人間の精神がその観念を肯定するか否定するか,あるいは同意するか同意しないかということは,その時点でその人間の精神の現実的有actuale esseを構成している観念によって決定されるのです。こうしたことが第二部定理四九備考 には含まれているのだと近藤はいっているのであり,僕は備考Scholiumのこの部分をこのように読解したことはなかったのですが,確かに近藤のいっていることは理に適っているという発見がありました。
ただ,近藤はこの点について,ある観念を肯定するのか否定するのか,あるいは同意するのか同意しないのかということについて,それは自由な意志によって決定されると主張したデカルト René Descartesに対する批判を含んでいるという主旨のことをいっていますが,僕はこの点については全面的に同意するわけではありません。確かにデカルトは意志の自由があるという主張,いい換えれば観念を超越する意志作用volitioがあるという主張をしています。それはデカルトの哲学における道徳律の基礎が,理性と感情 の分別,すなわち理性ratioによって感情affectusを統御することにあるということから明白なのであって,こうしたことは意志の自由を認めない限りは不可能だからです。他面からいえばスピノザの哲学では自由な意志が否定されるわけですから,デカルトが目指すような道徳律は,人間に対して不可能なことを要求しているということになります。ですからこの点においてスピノザがデカルトのことを批判するのは間違いありません。この点には僕も全面的に同意します。ただそのことが,第二部定理四九備考のこの部分に意図されているとは必ずしもいえないのであり,それは読解の結果だと思います。
京王閣競輪場 で行われた昨日の第75回日本選手権競輪の決勝 。並びは真杉-平原-武藤の関東,郡司に佐藤,清水‐松浦の中国で浅井と松岡は単騎。
松浦がスタートを取って清水の前受け。3番手に松岡,4番手に浅井,5番手に真杉,8番手に郡司という周回に。残り3周のバックから上昇を始めた郡司は真杉の外で併走。真杉が引かなかったためこの併走が残り2周のバックまで続き,打鐘から清水の成り行き先行に。郡司は追い上げていき,うまく3番手に。マークの佐藤も抵抗する松岡を極めて4番手。7番手になってしまった真杉は不発。清水との車間を開けた松浦は,直後の郡司を牽制するように直線ではやや外に持ち出してスパート。郡司は松浦の外から追い込み,佐藤は松浦の牽制で開いた清水と松浦の間へ。松浦は佐藤の差しにも対処し,直線は佐藤と松浦が軽く接触。さらに離れた外から伸びた郡司の3人がほぼ横並びでフィニッシュという大激戦、写真判定の結果,優勝は松浦。外の郡司が微差の2着で内の佐藤がさらに微差で3着。
優勝した広島の松浦悠士選手は前回出走の武雄記念 から連続優勝。GⅠは昨年のオールスター競輪 以来の優勝でGⅠは3勝目。ビッグは4勝目。日本選手権競輪は初優勝。このレースは真杉の先行が有力だったのですが,郡司に被せられて不発。先行する意欲があったのならすぐに引いて巻き返せばよかったと思うのですが,このあたりは経験不足が露呈したといえそうです。清水が先行してうまく立ち回った郡司が3番手ということで,脚力では上位の選手が前になりましたので,残り半周のバックに入るあたりで.前の4人での争いになることがほぼ確定的になりました。脇本や新田の出走があれば別ですが,そうでなければ郡司と松浦は現在の両雄。今年もライバルとして戦っていく筈で,どういうラインになるのかということが,ふたりの結果を分けていくことになるのでしょう。このレースは清水がいた分だけ松浦が有利でした。真杉が不発だったのでレースそのものは単調だったともいえますが,稀にみる大接戦での決着で,いいレースであったとは思います。
現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに混乱した観念idea inadaequataがあるとき,その混乱した観念を排除する観念が同時にその人間の精神のうちにあるか,その混乱した観念が混乱した観念であるという認識cognitioが同時にその人間の精神のうちにあるのであれば,その人間の精神はそのうちにある混乱した観念について,否定するか疑うかするということは,逆にいうと,この条件が満たされないのであれば,この人間の精神はその混乱した観念について否定することもしないし疑うこともしないということになります。否定することもしないし疑うこともしないというのは,より積極的ないい方をするなら,肯定するということになります。あるいは近藤自身が論文で用いているいい方に倣えば,その混乱した観念に同意するということになります。近藤は第二部定理四九備考 をこのように読解しているのです。
このことが意味しているのは,人間の精神がある観念についてそれを肯定するのか否定するのか,また疑うのか疑わないのか,あるいは同意するのか同意しないのかということは,その観念が発生した人間の精神のうちにどのような観念があって,それらの諸々の観念が新しく発生した観念とどのように結合するのかということによって決定されるということです。このときに重要なのは,スピノザの哲学における意志作用 volitioというのが,観念が観念である限りにおいて含んでいる肯定affirmatioないしは否定negatioのことを意味しているということです。ですからこのことの意味をスピノザの哲学における意志作用の意味に合わせて説明するなら,現実的に存在する人間の精神が何らかの観念を形成したとき,その観念がどのような意志作用を含むのかということが,その時点でその人間の精神の現実的有actuale esseを構成している観念がどのようになっているか,あるいは同じことですが,その観念に含まれている意志作用が何を肯定しまた何を否定しているのかということによって決定されるのです。よって,新しく発生したその観念に対して,それを肯定するのか否定するのか,あるいはそれに同意するのか同意しないのかということは,その人間の精神がそのときに自由に決定することができるわけではありません。
第26回NHKマイルカップ 。
バスラットレオンは発馬直後に躓いて落馬。レイモンドバローズは首を下げる発馬となり1馬身の不利。発走直後は横並びでそれぞれの出方を窺っていましたが,ピクシーナイトの逃げに。ホウオウアマゾン,グレイイングリーン,ランドオブリバティという並びになり,好発から控えたルークズネストがグレナディアガーズと並んで5番手。7番手のタイムトゥヘヴンとソングラインまでが一団で続きました。4馬身差でアナザーリリック,シュネルマイスター,ショックアクションの3頭。2馬身差でロードマックス。13番手にゴールドチャリス。14番手にヴェイルネビュラ。15番手にリッケンバッカー。2馬身差でシティレインボー。4馬身差の最後尾にレイモンドバローズ。最初の800mは45秒3のハイペース。
4コーナーでグレナディアガーズがかなり外の方まで出したので,横に馬群が大きく広がりました。残り400m付近でグレナディアガーズが先頭に。その外からソングラインが追い上げてきて,少しの間は競り合いましたがグレナディアガーズが一杯となってソングラインが先頭に。さらに外から伸びてきたのがシュネルマイスターで,この2頭が馬体を離して並ぶようにフィニッシュ。写真判定の結果は外のシュネルマイスターが差し切っていて優勝。ソングラインがハナ差で2着。グレナディアガーズは2馬身半差の3着。
優勝したシュネルマイスター はこれが重賞初制覇。昨年の9月にデビューして新馬勝ち。12月の1勝クラスに出走して連勝。3戦目に選んだ弥生賞は2着でここに出走。底を見せていませんでしたから,可能性はあると思えた馬。このレースはハイペースになった上に,グレナディアガーズがかなり強気なレースをしたため,スピード能力と同時にスタミナも問われることに。前走で2000mの重賞を走っていたこの馬に,それが有利に働いたという面があったのだろうと思います。Schnellはドイツ語で速さ。
騎乗したクリストフ・ルメール騎手はフェブラリーステークス 以来の大レース制覇。第21回 以来5年ぶりのNHKマイルカップ2勝目。管理している手塚貴久調教師は昨年の天皇賞(春) 以来の大レース8勝目。NHKマイルカップは初勝利。
意志voluntasの関係が重要であるといいうのは,次のようなことを意味します。近藤は自身では詳細に触れていませんので,僕の方から説明します。
近藤は,第二部定理四九備考 を,スピノザが直接的にいっていることとは異なった読解をします。たとえば現実的に存在するある人間の精神mens humanaが,翼のある馬を表象したとき,この表象像imagoが翼のある馬の存在existentiaを排除する観念ideaと結合している場合は,この人間の精神は,翼のある馬を表象している,つまり翼のある馬が現実的に存在すると知覚しているとしても,この人間の精神は翼のある馬が現実的に存在するということを否定するか疑うかするのです。また,翼のある馬の表象像が混乱した観念idea inadaequataであるということをこの精神が認識している場合も同様です。これらのことはスピノザが備考Scholiumでいっていることです。近藤はこのとき,こうしたことが,現実的に存在するある人間の精神が,その人間の精神のうちにある翼のある馬の表象像を否定したり疑ったりすることの条件を構成するとみています。要するに,たとえば翼のある馬の表象像が,翼のある馬の存在を否定する観念と結合している際には,この人間の精神は翼のある馬が現実的に存在するということを否定するか疑うかするのですが,もしも翼のある馬が存在するということを否定する観念と結合していないのであれば,そうした否定negatioも疑惑dubitatioも生じないというように理解するのです。もちろん同じことは,翼のある馬の表象像が翼のある馬の存在を否定する観念と結合している場合にだけ成立するわけではなく,この表象像が混乱した観念であることを認識している場合にも成立します。
翼のある馬の観念は一例であって,第二部定理四九備考でいわれていることはすべての表象像あるいは混乱した観念に成立しなければなりません。したがって近藤の解釈は,一般的に示すなら,もし現実的に存在する人間の精神のうちにある混乱した観念があるとき,その混乱した観念を排除する何らかの観念と結合しているか,その混乱した観念が混乱した観念であるという認識cognitioがその人間の精神のうちにあるなら,その人間の精神はその混乱した観念を否定するか疑うかすることになるのです。
2日に奈良競輪場 で行われた秋篠賞の決勝 。並びは吉田‐松崎の中部,中西-三谷-鷲田の近畿,石原-福島-大川の瀬戸内で久木原は単騎。
福島がスタートを取って石原の前受け。4番手に中西,7番手に久木原,8番手に吉田で周回。残り3周のホームの入口から吉田が上昇開始。残りバックの入口で石原に並びました。残り2周半で誘導が退避すると石原は突っ張り,吉田を前に出させないまま打鐘前からの先行に。吉田は引かされ,周回中と同じ隊列に戻りました。ホームから中西が発進。大川の牽制もありましたが,石原のスピードがよく,不発に。マークの三谷は早々に中西を捨て,自力で発進。番手の福島が牽制しようとしたところでうまく開いた大川と福島の間を突き,直線では逃げる石原の内に潜り込むと,石原を差し切って優勝。逃げ粘った石原が半車輪差で2着。石原マークの福島が4分の3車輪差で3着。
優勝した奈良の三谷将太選手はグレードレース初優勝。この開催は日本選手権競輪の直前なので,GⅢはもちろんFⅠでも優勝候補というレベルの選手もなく,混戦模様。決勝のメンバーの中では経験値で三谷と鷲田が他を上回っていると思いましたので,このラインが中心になるかと予想していました。三谷はうまく進路を取ったことが優勝の最大要因で,その面では地元である奈良競輪場での開催だったことが有利に働いたといえそうです。ただレースの内容でいえば,吉田を突っ張って打鐘前から先行し,中西を不発に終わらせた石原が断然に強かったと思います。
現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちにひとつの観念ideaしかないということ,他面からいえば,人間の精神の現実的有actuale esseがひとつの観念で構成されるということはあり得ないですから,この仮定から,人間には自由意志voluntas liberaがないということを結論してもまったく説得力がありません。実際にこれは僕がここで示したことであって,近藤がこのようなことを論文の中で指摘しているわけでもありません。
近藤が重要だと指摘しているのは,第二部定理四九備考 のその後でスピノザがいっていることです。すなわち,もし現実的に存在するある人間の精神が,翼のある馬を表象したとしても,この表象像imagoが,翼がある馬の存在を排除する観念と結合しているなら,この人間の精神は翼のある馬の存在を否定するか疑うことになるし,同様に,現実的に存在するこの人間の精神が,その精神が表象している翼のある馬の観念が十全な観念idea adaequataではないということを認識するcognoscere場合にも,この人間の精神は翼のある馬の存在を否定するか疑うかすることになるという点です。
第二部定理四九 によって,すべての観念はそれが十全な観念であるか混乱した観念idea inadaequataであるかに関係なく,何らかの意志作用 volitioを含んでいます。ですから,翼のある馬の観念が意志作用を含んでいるように,翼のある馬の存在を排除する観念にも意志作用が含まれていますし,翼のある馬の観念が十全な観念ではないという認識cognitio,すなわちその観念のうちにも意志作用が含まれているのです。スピノザがいう意志作用というのは,観念が観念である限りにおいて含んでいる肯定affirmatioないしは否定negatioのことをいうのであり,肯定だけを意味するのではありませんでした。つまり,翼のある馬の観念が含む意志作用というのは,馬に対して翼を肯定する意志作用のことですが,翼のある馬の存在を排除する観念が含んでいる意志作用とは,翼がある馬が存在するということを否定する意志作用ということになりますし,翼のある馬の観念が十全な観念ではないという認識が含んでいる意志作用は,翼のある馬の観念が十全であるいい換えれば真verumであるということを否定する意志作用であるということになります。こうした意志作用の関係が重要なのです。
5日の第33回かしわ記念 。
インティは立ち遅れて2馬身の不利。できれば逃げたいという馬が多かったのですが,サルサディオーネが逃げました。ワークアンドラブ,ワイドファラオ,カジノフォンテン,カフェファラオ,サンライズノヴァ,ソリストサンダー,タイムフライヤーの順でここまでは一団。2馬身差でミューチャリー。2馬身差でインティ。3馬身差でドーヴァー。取り残されたメイショウオオゼキが最後尾という隊列。前半の800mは48秒4のハイペース。
3コーナーからカジノフォンテンがサルサディオーネに並び掛けていき,コーナーの途中で前に出ました。直線に入るとサルサディオーネが一杯になり,カジノフォンテンが単独で抜け出しました。追い上げてきたのはソリストサンダーで,ソリストサンダーを追うようにインティ。ソリストサンダーはカジノフォンテンとの差を徐々に詰めていき,並ぶところまでいったのですが,差し切るには至らず,直線先頭のカジノフォンテンの優勝。ソリストサンダーがハナ差で2着。最後はまたソリストサンダーに離されたインティは1馬身半差で3着。
優勝したカジノフォンテン は京成盃グランドマイラーズ に続く3連勝。前々走の川崎記念 に続いての大レース2勝目。ここはカフェファラオの能力が上なのですが,コーナーが4回というコースには不安がありました。たぶん器用さに欠ける馬で,その弱点を露呈したというところでしょう。カジノフォンテンはソリストサンダーと同じ程度の能力差ということはないと思います。これはカジノフォンテンが自力で早めに前を潰しにいったのに対し,ソリストサンダーがその展開に乗じたという面があったからでしょう。逃げずに大レースを勝ったというのは大きな収穫だといえます。父は2008年にピーターパンステークス を勝ったカジノドライヴ 。母の父は1996年に中山金杯,1997年に中山金杯と東京新聞杯を勝ったベストタイアップ 。母は2002年にスパーキングレディーカップ,2003年にエンプレス杯,2004年に報知グランプリカップとTCKディスタフを勝ったジーナフォンテン 。
騎乗した船橋の張田昂騎手と管理している山下貴之調教師は川崎記念以来の大レース2勝目。
第二部定理四九備考 のこの部分が,なぜ自由意志voluntas liberaを否定することと関連するのかということは分かりにくいだろうと思います。近藤の論文の目的は,ストア派の哲学とスピノザの哲学の間の近似性を示すことであり,スピノザの哲学について詳しく検討することは,そのための二次的な要素にすぎません。ですからこの理由については,僕が独自に解説を加えます。僕はこの点に新たな発見をしたのですから,そのようにするのが自然であるともいえるでしょう。
まず,ある人間が現実的に存在するとして,この人間の精神mens humanaが翼のある馬だけを表象し,それ以外に何も認識しないと仮定するなら,この人間は翼のある馬が現実的に存在すると知覚するpercipereことになります。このときこの人間の精神は,第二部定理四九備考 の別の部分から分かるように,馬に対して翼を肯定しているのです。いい換えれば馬に対して翼を肯定する意志作用volitioを有していることになります。
このことは必然的にnecessario起こるのであって,この人間の精神が馬に対して翼を肯定しようとすることによって生じるのではありません。他面からいえば,この場合にはこの人間の精神は馬に対して翼を否定するということは不可能なのです。よってこの場合に馬に対して翼を肯定する意志作用は,この人間の精神のうちの自由な決意decretumに由来するのではありません。要するにこの場合はこの人間の精神に自由意志というものは存在しなということになります。
ただし,ある人間が現実的に存在して,その人間が翼のある馬だけを表象して,それ以外の何ものも認識しないということはあり得ません。このことは第二部定理一五 から明白だといわなければなりません。実際にはこの備考Scholiumでいわれていることは,人間の精神が翼のある馬だけを表象し,それ以外には何も認識しないということを必要条件としなければ成立しないというわけではなく,現実的に存在する人間の精神のうちにひとつの観念ideaだけがあるという場合であれば,その観念対象ideatumが何であっても成立します。またそれが混乱した観念idea inadaequataでなく,十全な観念idea adaequataであっても成立します。ですが人間の精神のうちにひとつの観念しかないということ自体があり得ないのです。
4日の第35回東京湾カップ 。
ジョーロノがすぐさまハナに立って,抑えながらの逃げに。2番手にギャルダル。3番手にアムールショコラとプレストカイザー。5番手にワールドリングとギガキング。2馬身差でオークハンプトン。3馬身差でレスポンデールとサヨノグローリー。1馬身差でキャッスルヒーロー。2馬身差でランドファースト。2馬身差でイトカワ。3馬身差の最後尾にニヨドスマイルという隊列。
3コーナーでギャルダルがジョーロノに並び掛けていくと,ジョーロノは一杯となって後退。外からギガキングが早めに追い上げてきて,ギャルダルとギガキングが雁行で直線に。この時点で3番手が離されてしまい,優勝争いは2頭。外のギガキングがあっさりと決着をつけ,最後は抜け出して楽勝。ギャルダルが5馬身差で2着。1馬身差の3着は内から順にアムールショコラ,プレストカイザー,ワールドリングの3頭が直線の入口から争い,残る2頭が一杯になったところ,最後まで踏ん張ったワールドリングが制しました。
優勝したギガキング は北海道に所属していたときに,盛岡に遠征して岩手の重賞は勝っていますが,南関東重賞は初制覇。このレースはクラウンカップの上位馬が上位争いをするという傾向があり,今年は3着だったジョーロノは早々に後退しましたが,2着だったこちらが勝ったということで,その傾向は守られたといえそうです。上昇馬に対してはっきりとした差をつけて勝ったという点には大きな価値があるでしょう。父はキングヘイロー 。母の父はバブルガムフェロー 。母の4つ下の半妹の産駒に2018年に愛知杯を勝ったエテルナミノル ,同じく7つ下の半妹の産駒に2019年にNARグランプリ のダートグレード競走特別賞馬に選出されている現役のオメガパフューム 。
騎乗した大井の和田譲治騎手はフジノウェーブ記念 以来の南関東重賞4勝目。東京湾カップは初勝利。管理している船橋の稲益貴弘調教師は南関東重賞3勝目。東京湾カップは初勝利。
それでは「自由意志と目的論の帰趨」の内容に関する考察に入ります。
この論文の中で,第二部定理四九備考 に関する言及があります。僕はこの部分に関しては,混乱した観念idea inadaequataにも意志作用volitioが含まれている,つまり意志作用を含んでいる観念は十全な観念idea adaequataだけではなく,混乱した観念の場合にも同様であるということをスピノザが主張しているということを示すために何度か援用してきました。つまりスピノザの哲学では,個々の観念と個々の意志作用は同じものであり,よって個々の観念の総体である知性 intellectusと,個々の意志作用の総体である意志 voluntasは同一であるということをいっている第二部定理四九系 が,十全な観念だけではなく混乱した観念にも成立するということを示すために援用してきたのです。これはこれで,観念を超越するような意志作用は存在しないということ,あるいは同じことですが,知性を超越するような意志が存在しないということをいっているわけで,スピノザの哲学では重要な原理のひとつですから,意味のないことではありません。ただ,近藤はこの部分を援用することによって,これとは別のことを示しています。これは僕にとっては新しい発見でした。
スピノザはこの部分に続けて,もしもある人間が現実的に存在していると仮定し,その人間の精神mens humanaが翼のある馬以外に何も認識しないとしたら,この人間は翼のある馬が現実的に存在すると観想するcontemplariという主旨のことをいっています。なぜならこの場合には,翼のある馬の観念について,それが混乱した観念ではないかと疑う理由をこの人間は何も有さないからです。しかしもしこの人間の精神のうちにほかの観念があって,その観念が翼のある馬の存在existentiaを排除する観念である場合や,その観念によって翼のある馬の観念が十全ではないとその人間の精神が認識するcognoscere場合にはこのことは妥当しません。
「その場合には精神はその馬の存在を必然的に否定するか,そうでなければその馬について必然的に疑うであろう 」。
この場合に翼のある馬の観念を疑うのは当然のことだと思います。しかし近藤がいうには,ここには僕たちの意志作用が自由なものではないということが示されているのです。
3日の第1回若潮スプリント 。
先行争いになりましたが,ファイナルキングがハナにいき,2番手にハートプレイス,3番手にサイダイゲンカイとなり,まずこの3頭が抜け出す形。2馬身差でチャンプタイガー。5番手はエンテレケイアとブラックストーム。7番手にチュラウェーブ。8番手にピースフラッグ。9番手はマテーラフレイバーとリュウノヘラクレス。11番手にキャストロポポ。2馬身差の最後尾にヴァヴィロフ。前半の1200mは34秒4の超ハイペース。
3コーナーでファイナルキングのリードが3馬身くらいに。ハートプレイスは何とかついていきましたがサイダイゲンカイは後退。内を回ってチャンプタイガーがハートプレイスに並んできました。直線はハートプレイスの外からチュラウェーブも伸びてきました。この3頭の競り合いからハートプレイスが脱落。残る2頭は競り合いながら逃げるファイナルキングに迫ってきましたが,ファイナルキングが一杯に逃げ切って優勝。外のチュラウェーブが4分の3馬身差の2着で内のチャンプタイガーが半馬身差で3着。
優勝したファイナルキング は南関東重賞初挑戦での初勝利。前走はこの日の2着馬に7馬身の差をつけて逃げ切り,3走前も5馬身差の逃げ切りで,前々走は途中からハナに立つ形での競馬で5着。こうしたことから現状は逃げるのがベストということでしょう。2着馬との着差が前走とかなり詰まったのはおそらくペースの影響。ですから高いスピード能力をもっているのは間違いありませんが,課題もあるということになると思います。父はサウスヴィグラス 。母の父はゴールドアリュール 。母は2012年に優駿スプリント を勝ったゴールドキャヴィア 。
騎乗した船橋の左海誠二騎手はハイセイコー記念 以来の南関東重賞51勝目。その後に全日本2歳優駿 を勝っています。管理している林正人調教師は南関東重賞18勝目。
第一部公理三 が因果論を示していることは一目瞭然です。ただ,このことが目的論を否定するということについては,自明ではないかもしれません。場合によっては,因果論的な結論と目的論的な結論が同一になるという場合がないというわけではないからです。そこでここでは,スピノザがどのような観点から目的論を否定するのかということを示しておきます。
スピノザによる目的論の否定は,主に人間の優越性 の否定という観点からなされます。人間が優越的であるという観点は,神Deusが人間を創造したという神学的観点と結びつきがあります。このときにそれと同時に,神は人間のために全自然を創造したということがいわれ,これが目的論と結び付くのです。すなわちこれは全自然が人間の目的finisのために存在するという見方に直結するからです。
スピノザが否定するのはこのことです。つまり人間は全自然に対して優越的な存在ではないし,自然Naturaは人間が何らかの目的を果たすために存在しているわけではない,他面からいえば,神が自然を創造したといういい方を許容するのだとしても,それは人間のためではないとスピノザはいっているのです。もし創造するcreareといういい方をするのであれば,神は人間を創造しまた全自然を創造するのですが,そこに何らかの目的があるわけではありません。むしろ神は神の本性naturaの必然性necessitasに従って創造するのであり,この創造のために働いているのは因果論的関係だけです。ここで第一部公理三が出てくるのであり,神は人間あるいは全自然に対しての起成原因causa efficiensであり,人間あるいは全自然はその結果effectusです。神は何らかの目的を果たすために起成原因となるのではありません。その本性の必然性によって万物の起成原因なのです。
こうしたことは第一部の付録で詳しく説明されています。そして目的論の否定の観点としては,以下の一文を示すだけで十分でしょう。
「自然は何の目的も立てずまたすべての目的原因は人間の想像物以外の何ものでもない 」。
自然のうちに何らかの目的を見出すのは僕たちの想像,表象の種類 としての想像にほかなりません。よってそれは事物についての十全な認識cognitioではなく,混乱した認識なのです。
第22回兵庫チャンピオンシップ。
すぐにロードエクレールがハナへ。3馬身差でゴッドセレクション,3馬身差でランスオブアース,2馬身差でリプレーザ,1馬身差でサラコナンと発走後の向正面で早くも縦長に。1周目の正面に入ってロードエクレールのリードは1馬身くらいに。2番手にゴッドセレクション。その直後にランスオブアースとリプレーザとなり,前の4頭は凝縮。5番手のサラコナンはここから10馬身くらい離され,事実上は4頭のレースになりました。
3コーナーでゴッドセレクションがロードエクレールに並び掛けていき,外のゴッドセレクションが少し前に出て直線に。ここでロードエクレールは一杯になり,ゴッドセレクションが単独の先頭に立ちましたが,コーナーは内を回って直線で外に出てきたリプレーザがゴッドセレクションを差し切って優勝。ゴッドセレクションが半馬身差で2着。リプレーザのさらに外から伸びたランスオブアースがロードエクレールを差して3馬身半差の3着。ロードエクレールがクビ差で4着。
優勝したリプレーザ は重賞初挑戦での勝利。3月に4戦目の未勝利を勝った後,前走は芝1200mの1勝クラスを最後尾に近い位置から豪快な差し切り勝ち。芝を走ったのは前走だけでしたので,ダートは不安ではありませんでしたが,一気の距離延長は明らかな課題。それでも陣営は追走が楽になるからプラスとコメントしていて,実際にその通りの結果に。力量は前走でオープンを勝っていた2着馬が上と目されていましたが,差し脚が生きる展開になって,こちらが逆転したという結果だったように思います。父はシーザリオ の産駒で2015年のJRA賞 の最優秀2歳牡馬に選出されたリオンディーズ でその父はキングカメハメハ 。母の父はマンハッタンカフェ 。Ripresaはイタリア語で再開,加速。
騎乗した幸英明騎手と管理している大根田裕之調教師は兵庫チャンピオンシップ初勝利。
近藤智彦の「自由論と目的論の帰趨」には,「ストア派とスピノザ」という副題がついています。近藤は古代ストア派とスピノザの哲学を,歴史的な観点から切り離して,哲学的観点からのみ比較することを論文の主目的としています。そしてそのときに,自由意志voluntas liberaと目的論というふたつの観点を切り口としています。要するに,古代ストア派の自由意志についての考え方とスピノザの哲学における自由意志の考え方,そして古代ストア派の目的論に対する考え方とスピノザの哲学における目的論の考え方を,比較するというのがこの論文の内容です。比較するといっていますが,全体的にいえば,自由意志に関しても目的論に関しても,古代ストア派の哲学とスピノザの哲学との間の類似点あるいは一致点を指摘することが目的となっている印象を僕は受けました。
僕は古代ストア派の哲学の内容がどのようなものであったのかということについては詳しくは知りません。ですから近藤がスピノザの哲学とストア派の哲学の間に類似点があるということについては一切の考察をしませんし,何らかの見解opinioを表明するということも控えます。では僕が何を考察するかといえば,この論文の中で,スピノザの哲学について言及されている点の中で,僕が気になった事柄です。前もっていっておきますが,それはふたつあります。そしてそのうちのひとつは,近藤の主張によって僕が初めて気が付いた点であり,もうひとつはやや疑問に感じられた点です。
これらの考察に入る前に,論文のタイトルに合わせて,自由意志および目的論というのがスピノザの哲学の中でどのような位置づけにあるのかということを確認しておきます。簡単にいってしまえば,スピノザはこの両方を認めていません。近藤はこのことがストア派の哲学と類似しているとみているわけですから,ストア派もそのような見方をしていたと解していることになります。
自由意志に関しては,第一部定理三二系一 が明白に物語っています。スピノザは神Deusにさえ自由意志を認めていないのですから,人間にもそれを認めません。目的論に関しては,第一部公理三 が表明しています。スピノザが認めるのは因果論です。
第23回かきつばた記念 。
ラプタスがハナへ。2番手がスマートセラヴィーで3番手にテイエムサウスダン。4番手がベルダーイメルで5番手がケイアイテディ。2馬身差でノボバカラとナリタミニスター。2馬身差でメイソンジュニアとウラガーノ。5馬身差でサンデンバロン。後方2番手がゴールドクイーンで最後尾にエイシンハルニレという隊列。最初の600mは35秒3のハイペース。
向正面でスマートセラヴィーは苦しくなり,テイエムサウスダンが2番手に上がって3番手にベルダーイメル。コーナーに掛かると逃げたラプタスがテイエムサウスダンとの差を広げていきました。ただ4番手に上がってきたノボバカラはベルダーイメルとまだ2馬身くらいの差があり,上位争いは3頭。コーナーで広げたリードを直線でさらに広げたラプタスが鋭く逃げ切って優勝。テイエムサウスダンが3馬身差で2着。直線でテイエムサウスダンの外に持ち出したベルダーイメルでしたが届かず1馬身差で3着。
優勝したラプタス は前走のオープンから連勝。重賞は昨年のかきつばた記念 以来で3勝目。この馬は自分のペースで逃げることができるかが最も大事。このレースは発馬で不利がなければそれが叶いそうでしたので,最有力ではないかと思っていました。前走は好位から差していたように,逃げられなければだめというわけではないのですが,やはり重賞ではこれからもその点が最も重要になってくるのではないかと思います。父はディープブリランテ 。5代母がバウンドトゥダンスとファーストアクト の祖母。Raptusは衝動。
騎乗した幸英明騎手は第13回 ,22回に続き連覇でかきつばた記念3勝目。管理している松永昌博調教師は連覇でかきつばた記念2勝目。
神Deusの無限な観念ideaといわれている以上,それが属性attributumではなく様態modiであるとしても,無限様態modus infinitusでなければならないと僕は考えます。いい換えればそれは個物res singularisの観念あるいは同じことですが,思惟の属性Cogitationis attributumの個物とみなすことはできないと考えます。この点からいえば,人間の精神mens humanaはそれ自体が思惟の属性の個物なのですから,第二部定理八 でいわれている神の無限な観念については,それを十全に認識するcognoscereことができないということもできそうです。いい換えればこの神の無限な観念というのは,神のうちにある神の観念idea Deiを意味するのであって,人間の精神のうちにある神の観念には妥当しないということができそうです。僕は思惟の属性の間接無限様態については,それを人間が十全には認識することができない様態であるがゆえに,スピノザはそれを明示しなかったのだという,『スピノザ哲学論攷 』における河井徳治の指摘には一理あるという見解opinioを表明していますが,このような観点からは,神の無限な観念と思惟の属性の間接無限様態を等置する見方を正当化することができるかもしれません。
いずれにせよ僕が神の無限な観念について,その結論を明確にしないというのは,結局のところそれは神の観念というのが,スピノザの哲学においては多様な解釈を要求されているのだということと関係します。つまり,神の観念というのが多様な解釈を要求されているのと同じように,神の無限な観念というのも多様な解釈が要求されていると考えるのです。そしてそれは,第二部定理八および第二部定理八系 でいわれている,形相的本性essentia formalisの身分と,個物が現実的に存在している場合の本性である現実的本性actualis essentiaの身分を,スピノザの哲学において,形而上学的な観点からどのように解するのかということと大きく関連するだろうと思います。逆にいえば,このことについてどういう形而上学的立場を採用するのかということが,神の無限な観念というのをどのようなものと解するのかということを決定づける大きな要素となると考えます。
「存在しないものの存在論」についての考察はこれで終了とします。続いて近藤智彦による「自由意志と目的論の帰趨」に関連する考察を開始します。
第163回天皇賞(春) 。北村友一騎手が2レースで落馬し,肋骨を骨折した疑いがあり病院に搬送されたためにディアスティマは坂井瑠星騎手に変更。
オセアグレイトはすぐに控えました。逃げようとしたのはディアスティマとジャコマルの2頭。内のディアスティマが逃げてジャコマルは2番手に。3番手はカレンブーケドール,シロニイ,ディープボンドの3頭でこの5頭が先行集団を形成。2馬身差でアリストテレスとゴースト。2馬身差でワールドプレミアとウインマリリン。1馬身差でメイショウテンゲン。3馬身差でマカヒキとメロディーレーン。3馬身差でオーソリティ。4馬身差でユーキャンスマイル。1馬身差でナムラドノヴァン。1馬身差でディバインフォース。4馬身差の最後尾にオセアグレイトと,発馬後の向正面でかなり縦に長い隊列になりました。最初の1000mは59秒8のハイペース。
逃げたディアスティマが2周目の向正面で一旦は差を広げ,3コーナーに向ってまた差が詰まっていくというレース。ジャコマルはここで一杯になり,カレンブーケドールが単独の2番手に。これを外からディープボンドが追い,ディープボンドをマークするようにアリストテレス。さらにワールドプレミアとウインマリリンも追い上げてきました。直線に入るとディアスティマが一杯になり,カレンブーケドールが先頭に。ディープボンドは迫ってきましたが,アリストテレスはスピードアップするのにもたもたしました。その外から伸びてきたのがワールドプレミアで,カレンブーケドールを差したディープボンドも差し切ってレコードタイムで優勝。ディープボンドが4分の3馬身差で2着。早め先頭のカレンブーケドールが2馬身差の3着で,フィニッシュ前でようやく伸びてきたアリストテレスがアタマ差の4着。
優勝したワールドプレミア は一昨年の菊花賞 以来の勝利で大レース2勝目。この馬は菊花賞後の有馬記念で3着になった後,休養に入って復帰したのが昨年のジャパンカップ。このときのレースの内容から能力の減退はないとみていました。ここはアリストテレスが最有力候補で逆転候補の筆頭がこの馬と考えていましたので,優勝は能力通りで順当なものと解していいと思います。おそらく各馬の位置取りが結果の明暗を分けた面があり,この馬の位置がこのレースを勝つのには最適だったということではないでしょうか。その意味では騎手のファインプレーがあっての優勝ともいえそうです。父は第133回 を勝ったディープインパクト で父仔制覇。7つ上の全兄に2012年にきさらぎ賞,2014年にマイラーズカップを勝ったワールドエース 。
騎乗した福永祐一騎手は昨年の菊花賞 以来の大レース38勝目。天皇賞(春)は初勝利で第148回 以来の天皇賞2勝目。管理している友道康夫調教師は一昨年の香港マイル 以来の大レース15勝目。国内では一昨年の菊花賞以来。第137回 以来となる13年ぶりの天皇賞(春)2勝目。天皇賞も2勝目。
柏葉の論文の本格的な考察に入る前に,神の観念 idea Deiのスピノザの哲学における身分を考察しました。その中で,第二部定理七系 でいわれている神の観念Dei ideaからその意味を探求するなら,それは思惟の属性Cogitationis attributumの能産的自然 Natura Naturansということになると僕はいいました。第二部定理八 は,その系の次の定理Propositioです。そして思惟の属性の能産的自然とは,思惟の属性そのもののことにほかなりません。ですからこうした配置の意図 があったとすれば,第二部定理八の神の無限な観念というのも,思惟の属性と等置することができることになります。柏葉が神の無限な観念を思惟の属性と等置しているというのは,柏葉が明言しているわけではなく,僕の解釈ではそうなっているということではありますが,この解釈はこれらの強みをもっているといえます。
逆に,この解釈が抱えている弱みというのは,僕が神の観念の身分を考察したときにいったことの中にあります。すなわち,第二部定義三 からして,観念というのは観念の対象ideatumが何であるのかということとは関係なく,思惟の属性の所産的自然Natura Naturataとみなされなければならないと考えられます。よってそれに則していえば,いかに神の無限な観念といえども,観念である以上は能産的自然ではなく所産的自然,つまり思惟の属性そのものではなく思惟の属性の様態modiと考えるべきだということになるでしょう。
僕はこの神の無限な観念の身分については,ここでは明確な結論を出すことはしません。したがって,柏葉の主張が正しいとも誤っているともいいませんし,標準的解釈,神の無限の観念を無限知性intellectus infinitusと等置する解釈についてもそれが正しいとも誤っているともいいません。少なくとも僕がそうしているように,個物res singularisの形相的本性essentia formalisと個物の現実的本性actualis essentiaを異なった本性であると解する限りでは,神の無限な観念を無理なく無限知性と等置することができます。いい換えればそれが区別の規準と齟齬を来すことはありません。ですから標準的解釈を否定する必要もないと考えるからです。さらにいえば,区別の規準を僕の手法で満たすなら,この神の無限な観念は,思惟の属性でも無限知性でもなく,思惟の属性の間接無限様態と解することもまた可能でしょう。