スピノザの哲学で良心の呵責conscientiae morsusが非道徳的なことであるとされているのは,一般に悲しみtristitiaが非道徳的であり,良心の呵責は悲しみの一種であるからです。このときに気を付けておいてほしいのは,この道徳は,能動actioと受動passioという観点から発生しているということです。したがって,悲しみはスピノザの哲学ではみっつとされる基本感情affectus primariiのひとつで,その悲しみの反対感情が喜びlaetitiaであるからといって,直ちに喜びが道徳的である,あるいは同じことですが,喜びの一種とされるすべての感情が道徳的であるといわれるわけではないのです。第三部定理五九は,能動的である喜びと欲望cupiditasがあるといっていますが,すべての喜びと欲望が能動的であるといっているわけではありません。つまり,受動的な喜びもあれば受動的な欲望もあるわけです。その限りでは喜びも欲望も非道徳的なことになるのであって,それが能動的である限りにおいて,道徳的であるといわれるのです。
たとえば第三部諸感情の定義一二の希望spesや,第三部諸感情の定義二八の高慢superbiaは,基本感情としては喜びの一種です。希望に関しては定義Definitioの中でそのようにいわれていますし,高慢は第三部諸感情の定義二八説明から分かるように自己愛philautiaの特質とされていて,この自己愛というのは第三部諸感情の定義二五の自己満足acquiescentia in se ipsoのことであって,それは喜びの一種です。しかるにこのふたつの感情については,その定義それ自体から明らかなように,観念ideaとしてみた場合には混乱した観念idea inadaequataであって,それは第三部定理一によって受動です。なのでこれらの感情は喜びであっても必然的にnecessario非道徳的とされることになります。一方,必然的に能動とされるような感情はありません。したがって,それ自体で道徳的であるとされる感情があるわけではないのです。ですから,良心の呵責は非道徳的なことであるとされるのですが,何らかの道徳的な感情が前もってあるのではありません。感情は能動的である限りにおいては道徳的であり得るのであり,良心の呵責は能動的ではあり得ないので,それ自体で非道徳的であることになります。そしてすべての悲しみと,ある種の喜びおよび欲望は,それ自体で非道徳的であることになるのです。
僕はもしも良心の呵責conscientiae morsusを感情affectusとして定義するのであれば,自身がなしたあるいはなすであろう害悪の観念ideaを原因causaとして伴った悲しみtristitiaとするのがいいのではないかといいました。この観点からいって,『エチカ』の第三部諸感情の定義の中で定義されている感情の中で,最もそれに近いのは,意外に思われるかもしれませんが,第三部諸感情の定義二〇の憤慨indignatioであると思います。この感情は,害悪の観念を原因として伴っているからです。この憤慨は,定義Definitioの中で直接的にそのようにいわれているわけではありませんが,他人に対して向かう感情です。それが自分自身に対して向かうと,良心の呵責ということになるのではないかと僕は思うのです。他面からいえば,良心の呵責というのは,自分自身に対して向かう憤慨であるといういい方が可能なのではないでしょうか。
良心の呵責と憤慨の類似性をいうためには,スピノザの哲学の観点からひとつだけ注意しておきたいことがあります。憤慨は,憎しみodiumの一種として定義されていますが,憎しみは第三部諸感情の定義七から分かるように,悲しみの一種です。ですから,僕がいった良心の呵責も憤慨も,同じように悲しみであるという点では変わるところはありません。ただ,憎しみというのは外部の原因の観念 idea cause externaeを伴った悲しみのことをいうのであり,僕がいう良心の呵責は外部の原因の観念を伴っているわけではありません。伴っているのは自分がなしたあるいはなすであろう害悪なのですから,それは外部に対していえば内部だからです。ですからこの意味での良心の呵責は悲しみの一種であっても,憎しみの一種ではないのです。他面からいえば,憎しみというのは外部に向かう感情なので,内部には向かいません。つまり自分で自分を憎むということは,スピノザの哲学では語義矛盾となるのです。とはいえ,自分で自分を憎むというのは,文法的にはあるいは慣用的な表現としては成立します。ですから,僕がいう良心の呵責を,自分で自分を憎むことの一種であると理解しても,間違いであるというわけではありません。ただスピノザの哲学では,そのようないい方は成立しないのだということは,理解しておいてください。
『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』では良心の呵責conscientiae morsusが後悔poenitentiaの同類感情とされていました。後悔は『エチカ』でも定義されています。第三部諸感情の定義二七です。そこでは,僕たちが自由な決意decretumによってなしたと信じる行為の観念ideaを伴った悲しみtristitiaが後悔といわれています。このとき,自由な決意によってなしたということは,字義通りに積極的に解する必要はありません。僕たちが何かある行為をなして,後にその行為を表象して悲しみを感じたときに,もしもその行為をなさないことも可能であったと表象されるなら,僕たちは後悔するとスピノザはいっているのです。他面からいえば,ある行為について,自分はその行為をなすこともできたしなさないこともできたと認識した場合には,僕たちはその行為を自分の自由な決意によってなしたと判断しているということです。
良心の呵責が,この意味での後悔の類似感情であったとして,その場合にはおそらく自由な決意であるかどうかということはあまり関係ありません。むしろそのある行為が害悪を伴っているかいないかということが重要なのであって,そこに害悪が伴っている場合には,この種の後悔は良心の呵責といわれると理解するのが適切だと僕は考えます。したがって,『短論文』でいわれている良心の呵責が,『エチカ』でいわれている後悔の類似感情であるということは可能だと思います。しかし『エチカ』でいわれている良心の呵責,すなわち第三部諸感情の定義一七でいわれている落胆conscientiae morsusについて,それは後悔の類似感情であるというのは僕には難しいと思えます。少なくともこの場合の良心の呵責すなわち落胆は,事前にそれと関係する希望spesおよび不安metusという感情がないならば,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちには発生し得ない感情affectusですが,後悔の方はそのような感情であるとはいえないからです。よって『エチカ』で定義されている良心の呵責が,『エチカ』でいわれている後悔の類似感情であるとはいえないでしょう。したがってスピノザは,良心の呵責が後悔の類似感情であるという点については.『短論文』のときと『エチカ』のときで,考え方を改めている,あるいはそれぞれの感情を見直しているといっていいと思います。
実はこのことは,僕がここで深く考察したいことではないのですが,そのことと無関係というわけでもありませんから,もう少し探求を進めます。
スピノザは『短論文Korte Verhandeling van God / de Mensch en deszelfs Welstand』でも良心の呵責conscientiae morsusについて触れています。そこでは,善bonumであるか悪malumであるかを疑うようなあることをなすことによって生じる悲しみtristitiaが良心の呵責であるといわれていて,それは後悔poenitentiaの類似感情であるとされています。そして畠中は,この場合にはそれを良心の呵責と直訳してもいいのだけれど,第三部諸感情の定義一七の感情affectusについては,それを良心の呵責と直訳するのは適当ではないので,落胆conscientiae morsusという訳語を充てるといっています。
僕はこの点についても疑問を感じます。後悔という感情は,過去に関係するのか未来に関係するのかといえば,過去と関係します。厳密にいえば,未来のこととして表象されるある事象と関係はし得ますが,その事象がそれと関連づけられる過去の事象とは絶対に関係します。したがって,後悔というのは僕たちが過去のある事柄を表象しなければ,生じることがない感情です。これに対して良心の呵責というのは,未来の事柄と関係し得ますし,未来の事柄とだけ関係し得るのです。僕たちはある事柄をなそうとして,その事柄によってだれかに害悪を及ぼすと確知するcerto scimus限りで,良心の呵責を感じるということがあり得ますし,現にあるからです。ですから,僕はスピノザが『短論文』で示している良心の呵責についても疑問がありますし,畠中がその場合にはそれを良心の呵責と直訳してもよいといっていることにも疑問をもちます。
ただし,畠中が『短論文』の感情は良心の呵責と直訳するべきで,『エチカ』の感情は落胆という訳語を充てるべきだというとき,どちらの感情が良心の呵責という感情により近いのかという観点からそれを考えれば,確かに『短論文』で示されている感情の方が,『エチカ』で示されている感情よりは良心の呵責に近いという点には同意します。『短論文』と『エチカ』は,『短論文』の方が先に書かれています。つまりスピノザは,より良心の呵責からは離れていると思われる感情のことを,後に良心の呵責というようになったのです。
確かにスピノザは絶対的な善bonumが存在するということを認めません。同様に,普遍的な悪malumが存在するということも認めません。むしろ同じものが,現実的に存在する別々の人間にとって,一方にとって善であり,他方にとって悪であるということがあり得るということを認めますし,同じものが現実的に存在するある人間にとって,あるときには善であってもまた別のときには悪にもなり得るということを認めます。そして,神Deusは本性naturaの必然性necessitasによって働くagereのであり,すべてを善意によってなすということは全面的に否定します。もし神が善意によってすべてのことをなすのであれば,神の外に善という目的finisを立て,神はその目的に従属することになるので,神は不完全な存在者であることになるといって,そうした意見opinioを論難します。ただ,これだけのことによってニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheがスピノザを自身の先達とみなすのは,根拠として弱いようにも思えます。確かにこれらのことは,現実的に存在する人間が良心をもつことを,あるいはこの場合には疚しさを感じることをといった方がいいかもしれませんが,そうしたことを否定するnegareことに繋がるでしょう。しかし一方で,スピノザが上述の主張をするとき,そこで良心について,あるいは疚しさについて,何事かを積極的に語っているというわけではないからです。
ではスピノザは良心について,もしくは疚しさについて,直接的に何かをいっているのでしょうか。『エチカ』にはそうした部分がないように思えるかもしれませんが,必ずしもそんなことはありません。それは第三部諸感情の定義一七の落胆conscientiae morsusと関係する部分です。この感情affectusを説明するときにいっておいたように,畠中はこれを落胆と訳していますが,この感情を日本語に直訳するなら,それは良心の呵責となるのです。そしてニーチェが強調しているのもこの部分です。とくにニーチェは,スピノザがこの感情を,スピノザが歓喜gaudiumの反対感情とみていることを重くみます。つまりスピノザにとって,良心の呵責は歓喜の反対感情なのであるから,スピノザはそれを肯定的には解釈していないとみるのです。この感情をどう解するかは別として,この見方自体は正当なものでしょう。
ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheは良心は現実的に存在する人間にとって不要であると考えています。それは,良心の起源が原罪にあるからです。これはつまり,贖うことができない罪や,返済することができない負債は現実的に存在する人間にとって不要であるといっているのと同じことですから,ニーチェが良心は不要であるといったとしても,その理由は理解できるのではないかと思います。そして良心がない状態の人間,いい換えれば原罪や負債によって自身を苛むことがない人間のことを無垢な人間というのですから,ニーチェの思想の原理は,良心をもつより無垢であれということになります。僕の見解opinioでは,これを新約聖書に照合させていえば,使徒たちであるよりもイエスであれということになるのです。
ニーチェは,良心を有するより無垢である方がよいという主旨のことをいうときに,ひとりの先達について触れています。それがスピノザなのです。ニーチェは,意地の悪いやり方であったけれども,スピノザはこのことに気が付いていたといっています。ニーチェは意地の悪いやり方というのを,ある日の午後にスピノザが自分自身のうちに良心の呵責conscientiae morsusが残っているかという問いを立てているうちに,世界は疚しさが創案される前の状態に戻ったのだといういい方で説明しています。これはニーチェの想像なのであって,実際にスピノザの精神mensのうちでそのような思惟作用が行われたと断定はしない方がいいでしょう。ただ,スピノザは,第四部定理八から分かるように,善悪を人間の認識cognitioに帰している,つまり普遍的な善悪があるというようには考えていませんし,第一部定理三三備考二から分かるように,神Deusが善意の下にすべての事柄をなすという考え方については,きわめて否定的です。これらのことを合わせれば,ニーチェがいうように,スピノザが良心の疚しさを否定すること,他面からいえば,人間に疚しさを感じさせるだけの思惟作用としての良心を,否定しているという見方はできることになるでしょう。贖うことができない原罪も,返済することができない負債も絶対的な悪malumではあり得ないことになりますし,神が善意から良心を人間に与えるということもないからです。
これは『スピノザ〈触発の思考〉』で触れられていることではありませんが,僕から補足をしておきます。 ニーチェの反キリストは,反イエス,すなわち現実的に存在した人間としてのイエスを否定するということに向けられているわけでは必ずしもなく,そのイエスをキリストつまり救世主として,キリスト教を布教していった人びと,とくにその初期に布教していった人びとに対して向けられています。一方,キリスト教において原罪という概念の典拠をどこに求めるべきなのか,具体的にいえば旧約聖書に求めるべきなのか,それとも新約聖書に求めるべきなのかということに関しては,様ざまな見解があり得ると思いますが,ニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheはキリスト教の原罪,贖うことができないような罪について語ろうとしているのですから,少なくともそれはイエス以後の事柄について言及していると解する必要があります。その場合には,聖書における典拠が何であるのかということとは関係なく,イエスが原罪について語っているのか,それともイエスをキリストとしてキリスト教を布教した人たちが原罪について語っているのかということだけが問題になります。ですからたとえ典拠が旧約聖書にあるのだとしても,旧約聖書をどのように解するのかということが問題となるのであって,ニーチェ自身の思想の論拠となり得るのは,新約聖書だけであることになります。旧約聖書はイエス以前の書物であり,イエス以後についてはもちろん,イエスについて何かが書かれているわけではないからです。
イエスは原罪について詳しく語っているわけではありません。それは共観福音書で共通しています。ですからキリスト教における原罪について責任を負うのは,イエス以後の使徒たちであることになります。他面からいえば,キリスト教における原罪,返済が不可能なほどの負債というのを,イエスが抱えていたということはできません。むしろイエス自身は原罪を知らなかったのであり,よって原罪がその起源となる良心,苛まれるような思惟作用も有していなかったということになります。ニーチェはその状態を無垢というので,イエスは無垢な人間であったことになるでしょう。
ここまでにいってきたことから,僕の考察が必ずしも『スピノザ〈触発の思考〉』の主旨と関連しないであろうこと,少なくともそういうことが多くなるということは,容易に予測できると思います。これはたとえば『主体の論理・概念の倫理』を巡る探求を行ったときにも,必ずしもその主旨に沿った探求をしたわけではなく,スピノザの哲学について僕の探求心がそそられる事柄についてのみ考察をしたということと同じです。ですから書籍の主旨という観点からすれば,そこから大きくはみ出した探求をしていく場合もあるでしょう。また,スピノザ以外の思想家の思想については,その思想家の書籍にあたるのではなく,取り上げられている内容に沿って理解していくという点も同様になります。ですから僕の考察は,『スピノザ〈触発の思考〉』の論評というのとは程遠い内容になるということを,あらかじめ理解しておいてください。
この書籍は6人の思想家の,スピノザの哲学と関係する触発について指摘されているのですが,すべてで7章あります。そして第1章は,「〈良心〉の不在と偏在」というタイトルになっていて,とくに特定の思想家の触発について集中的に書かれているわけではありません。もしも強いて思想家の名を出せばそれはニーチェFriedrich Wilhelm Nietzscheということになるのですが,ほかの思想家たちについてはその思想の全貌とスピノザ哲学との触発という観点がもたれているのに対し,ここではニーチェの思想の全貌について触れられているわけではありません。いってみればこの章は,浅野が触発というとき,それで具体的に何を意味しようとするのかということを読者に理解してもらうためのものになっています。それは浅野が意図的にそうしたというわけではないと僕は思いますが,書籍の全体としては,明らかにそのような役割が与えられているのは確かだと思います。
標題からも分かるように,この章では良心について集中的に語られています。その冒頭で,ニーチェの良心についての考え方が示されていて,それはキリスト教の原罪に関連するのだというのがニーチェの見方です。これは浅野がそういっているというだけでなく,確かなことです。