スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
第25回中山グランドジャンプ。
ニシノデイジーは立ち上がって3馬身の不利。逃げたのはビレッジイーグルでテーオーソクラテスが2番手でマーク。スマートアペックスとミッキーメテオ,イロゴトシとクリノオウジャ,ダイシンクローバーの順で続き,2馬身差でジューンベロシティ。エミーリオが続き3馬身差でニシノデイジー。大竹柵を飛越すると,ニシノデイジーが8番手に上がり,エミーリオが最後尾に。この後,大生垣の手前では前の2頭が3番手との差を5馬身くらいに広げましたが,飛越を終えるとミッキーメテオが2頭の直後まで追いつき,4番手にイロゴトシとニシノデイジーという隊列に。
最終周回の向正面に入ったところでは3番手がミッキーメテオとニシノデイジーとイロゴトシの3頭になり,6番手にダイシンクローバーで7番手にスマートアペックス。向正面の途中でビレッジイーグルが一杯になり,テーオーソクラテスが先頭に。外からイロゴトシが進出してきて,3コーナーの手前ではテーオーソクラテスの前に。ここからはイロゴトシが後ろを一方的に離していく形になって圧勝。一杯になったテーオーソクラテスを外から差したミッキーメテオが3秒1差で2着。大外から伸びたダイシンクローバーが1馬身半差の3着に届き,テーオーソクラテスがアタマ差の4着。
優勝したイロゴトシは重賞初勝利。今年の1月が障害の初戦で3着。2戦目で勝ち上がり,前走はペガサスジャンプステークスで3着。このレースは絶対的と思える存在が不在で,混戦になると思っていたので,優勝のチャンスがある1頭とはみていましたが,思いのほかの圧勝となりました。距離が延びたこととか馬場が悪くなってタイムがかかったことなどがプラスに作用したかもしれませんが,それだけでは説明がつかないほどの大勝ですから,今後の障害界のエースになれる馬なのかもしれません。父は2015年に東京新聞杯を勝ったヴァンセンヌでその父はディープインパクト。母は1996年のJRA賞で最優秀スプリンターと最優秀父内国産馬に選出されたフラワーパーク。母の父はクロフネ。
騎乗した黒岩悠騎手はデビューから21年1ヶ月で大レース初制覇。管理している牧田和弥調教師は開業から12年1ヶ月で大レース初制覇。
何が人間に共通の本性essentiaであるのかまでは判別することができないとしても,僕たちの精神mensのうちには人間に共通の本性が共通概念notiones communesとして存在します。これと比較していえば,恐竜に共通の本性が,僕たちの精神のうちに同じように存在するとはいえません。共通概念は反復されればされるほどその差異が明確化されていくのですが,僕たちは他人と関係を有するほどには恐竜とは関係を有さないからです。しかしだからといって僕たちの精神のうちにある人間に共通の本性の共通概念が,恐竜に共通する本性の共通概念よりも明瞭判然としているのかといえば,必ずしもそうとはいえないのです。それは,人間に共通の本性の共通概念と,恐竜に共通の本性の共通概念には,一般性のレベルに差があるとみられなければならないからであり,もしも両者が共に十全に認識されるということがあるとしたら,人間に共通の本性の共通概念は,恐竜に共通の本性の共通概念よりも一般性が高い共通概念であるといわなければならず,その分だけ人間に共通する本性の共通概念は明瞭判然さを欠いていることになるからです。つまり,人間に共通の本性の共通概念と恐竜に共通の本性の共通概念では,元々の一般性のレベルに差があるので,明瞭判然さが同一であるとはいえないのです。僕たちはもしかしたら恐竜のことを知っているほどには人間のことを知らないという可能性があると考えておいた方がよいでしょう。
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僕はこれまで,スピノザが明瞭判然といういい方をするのは,混乱した観念idea inadaequataには混乱の度合があるのであって,十全な観念idea adaequataに近い,混乱の度合が低い混乱した観念もあれば,十全な観念とは程遠い,混乱の度合が高い混乱した観念もあるからだと考えていました。しかしここでの考察にみられる通り,このことは混乱した観念の混乱の度合にだけ適用されるわけではなく,十全な観念の十全性の度合,より正確にいえば観念が十全adaequatumであるといわれるときの一般性の度合にも適用されると考えておいた方がよさそうです。少なくともある人間の現実的本性actualis essentiaの十全な観念は,人間に共通の本性の十全な観念よりも,明瞭判然とした観念であるということは間違いありません。
11日に神田明神で指された第8期叡王戦五番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太叡王が5勝,菅井竜也八段が3勝。このほかに二局の千日手があります。
不二家の社長による振駒で藤井叡王の先手。菅井八段の角道オープン三間飛車から先手が9筋の位を取り,相銀冠の持久戦になりました。この将棋は先手の指し回しの素晴らしさに感嘆する一局でした。
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第1図で☗7九銀と引きました。これは角の引き場所を作ると同時に,後手の端攻めに対して,場合によっては☗8九王~☗8八銀という形で受けることを含みに持たせた手です。
後手も☖6二銀と固めたのに対し☗2四歩と垂らし☖3四歩に☗6八角。そこで後手が☖5三角と上がったのに対して2五の歩を狙うのではなく☗3八飛と寄りました。
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こうして3筋を狙うのがこの局面ではベストのようです。後手はこのまま突破をされてはいけないので反撃に出たのですが,その反撃を受け止めて先手が勝ちました。第2図はまだ難しい局面なのですが,この手順で後手が無理にでも攻めていかなければならないと思えるような局面にもっていったのが,先手の勝因となったように思います。
藤井叡王が先勝。第二局は23日に指される予定です。
僕は人間の精神mens humanaが恐竜の共通概念notiones communesを有することについては否定しません。ただそれが恐竜に共通の本性essentiaであるかといわれれば,そうではない,少なくともほとんどの場合でそうではないといいます。現実的に存在する人間は恐竜と関係を有するたびにその人間と関係した恐竜とに共通かつ特有である共通概念を反復的に形成するのであって,かつこの人間は恐竜以外の何らかの物体corpusとも関係を有し,そして関係をもつそのたびごとに,その物体とその人間に共通かつ特有であることの共通概念を反復的に形成します。よってそのような反復の結果として,各々の共通概念の差異を知ることができますから,恐竜の共通概念が恐竜に共通の本性と一致するという可能性は否定できません。ですから僕は現実的に存在する人間の精神が,恐竜に共通の本性を十全に認識するcognoscereことが絶対に不可能であるとはいいません。しかし現実的に存在する人間は有限finitumであるがゆえに,反復的に共通概念を形成することもまた有限であることを考慮するなら,現実的にはそのようなことは生じないと断定しても間違いではないと僕は考えます。いい換えれば,僕たちは恐竜に共通の本性というものについては,部分的には確実に知っているとしても,全体としてはそれを知っていないとしておく方が安全であろうと思います。
ただし,だからといって,僕たちが知っている恐竜に共通の本性というものが,明瞭判然さを欠いているといえるのかといえば,僕は必ずしもそうとはいえないだろうとも思うのです。これは僕が仮説として示したことに依拠します。僕の仮説では,人間に共通の本性と恐竜に共通の本性とでは,同じように共通の本性であるとしても,ある人間の現実的本性actualis essentiaと人間に共通の本性との間にある一般性のレベルの差は,ある恐竜の現実的本性と恐竜に一般の本性との間にある一般性のレベルの差よりも大きくなるのです。よって,人間に共通の本性の一般性は恐竜に一般の本性よりもより一般性が高いといわれなければなりません。ということはどちらも十全に認識されると仮定するなら,人間に共通の本性は恐竜に共通の本性よりも一般性が高いので,明瞭判然の度合は低くなるのです。
昨晩の第27回マリーンカップ。
ナンヨーアイボリーは立ち上がってしまい2馬身の不利。逃げたのはチェイスザドリームで向正面に入るあたりで4馬身くらいのリードになりました。2番手がペルアアとリネンファッション。この後ろは7馬身くらいの差がつき,オーロラテーラー,レディオスター,サルサレイア,レディバグの順で続きました。また3馬身くらいの差があってナンヨーアイボリー,ナラ。4馬身差でクレールアドレとハナウタマジリ。4馬身差の最後尾にミスティネイルというかなり縦長の隊列。前半の800mは50秒1のミドルペース。
3コーナーを回ってペルアアがチェイスザドリームに並び掛けていくと,リネンファッションは徐々に離されていきました。直線に入るとすぐにペルアアが単独の先頭に。そのまま楽々と抜け出して快勝。外から追い込んできたレディバグが5馬身差で2着。逃げたチェイスザドリームは一杯になり,直線に入るとまたリネンファッションが差を詰めてきました。さらに大外からナンヨーアイボリーが追ってきて3頭の3着争い。制したのは大外のナンヨーアイボリーで4馬身差の3着。リネンファッションがアタマ差の4着でチェイスザドリームが半馬身差で5着。
優勝したペルアアは重賞初挑戦での勝利。ここまでダートでは6戦して4勝2着2回。ここのところ2勝クラス,3勝クラスと連勝していました。ここは実績がある馬が不在のメンバーでしたので,能力では上位という可能性もあり,実際にそうであったとみてよいでしょう。見た目ほどペースが速かったわけではないので,展開には恵まれた面はありましたが,距離には不安があるという馬ではないので,ダートの牝馬路線ではかなりの活躍が見込めそうです。Per Aaはエジプト民族の母語であるコプト語で大きな家。
騎乗した岩田望来騎手と管理している野中賢二調教師はマリーンカップ初勝利。
共通概念notiones communesと事物に共通の本性essentiaは同じものではないので,関連させて考えるためには次の注意が必要です。
僕は人間に共通の本性を,人間の精神mens humanaは共通概念を通してそれを知る,何が人間に共通の本性とまでは断定できないにしてもそれを知るといいました。このことが可能なのは,現実的に存在する人間が,ほかの現実的に存在する人間と関係をもつからです。人間に共通の本性は当然ながらすべての現実的に存在する人間に含まれています。だから人間に共通の本性が,共通概念として現実的に存在する人間の精神のうちに生じるのです。
恐竜に共通の本性の場合は,このような仕方では説明することができません。恐竜に共通の本性は恐竜にだけ含まれているのであって,人間には含まれていないからです。もちろん現実的に存在する人間がある恐竜と関係を有するとき,恐竜は絶滅しているわけですから,これは現実的に存在する人間が現実的に存在するほかの人間と関係を有する場合と同じように考えることはできないのであって,たとえば恐竜の化石と関係を有するとか復元された恐竜の姿と関係を有するといったことを想定しなければなりませんが,このときに人間の精神のうちに何の共通概念も発生しないということはありません。人間にも恐竜にも含まれているあるものは共通概念として人間の精神のうちに生じるからです。しかしそれは恐竜に共通の本性であるわけではなく,何かの本性であると仮定するなら,人間にも恐竜にも共通する本性といわなければなりません。ただし,第二部定義二により,事物の本性はその事物と一対一で対応し合わなければならないのですから,人間にも恐竜にも共通するような何かをひとつの事物と規定しない限り,それを何かの本性ということは避けた方が賢明です。
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とはいえ,人間が恐竜に関係する共通概念,恐竜に共通の本性とは異なった意味での恐竜の共通概念を有さないというわけでもありません。人間が恐竜と上述のような関係をもつときに必ず生じるような共通概念は,少なくとも現実的に存在するその人間と,すべての恐竜には共通するのであって,それはその人間にとっての恐竜の共通概念にほかならないといえるからです。
2022年度の将棋大賞が3日に発表されました。
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最優秀棋士賞は藤井聡太竜王。叡王防衛,棋聖防衛,王位防衛,竜王防衛,王将防衛,棋王挑戦,奪取。名人挑戦。日本シリーズ,銀河戦,朝日杯将棋オープン,NHK杯と出場できる棋戦ですべて優勝。文句のつけどころがない成績で当然の受賞。記録部門の最多勝利賞と勝率1位賞も受賞しています。2020年度,2021年度に続き3年連続3度目の最優秀棋士賞です。
優秀棋士賞は渡辺明名人。名人防衛。名人という大きなタイトルを防衛したことでの選出になりました。2005年度,2008年度,2010年度,2011年度,2015年度,2018年度,2020年度,2021年度に続き3年連続9度目の優秀棋士賞になります。
敢闘賞は羽生善治九段。王将挑戦。実績としては永瀬王座の方が上でしょうが,大きな話題を提供したという点が大きかったと思います。1987年度,1991年度に続く32年ぶり3度目の敢闘賞になります。
新人賞は服部慎一郎五段。新人王戦優勝。記録部門の最多対局賞も受賞しました。
残る記録部門の連勝賞は18連勝の渡辺和史六段でした。
最優秀女流棋士賞は里見香奈女流五冠。女流王位防衛,清麗挑戦,奪取,白玲挑戦,奪取,倉敷藤花防衛,女流王座防衛。2009年度,2010年度,2011年度,2012年度,2013年度,2015年度,2016年度,2017年度,2018年度,2019年度,2020年度,2021年度に続き8年連続13度目の最優秀女流棋士賞です。
優秀女流棋士賞は西山朋佳女流三冠。女王防衛,倉敷藤花挑戦,女流王将挑戦,奪取。女流名人挑戦,奪取。記録部門の女流最多対局賞も受賞しました。2021年度に続き2年連続2度目の優秀女流棋士賞。
名局賞は王将戦第二局。女流名局賞は女流王座戦第五局。名局賞の特別賞は朝日杯将棋オープン2回戦の藤井聡太竜王と増田康宏六段の将棋。終盤で後手の玉が延々と逃げ続けた一局です。
協同してひとつの個物res singularisを構成する個体の数が多くなればなるほど,いい換えればあるひとつの個物が複雑になればなるほど,そうした個物一般とこの個物あるいはあの個物といわれるような個物との一般性のレベルの差は大きくなるだろうと僕は考えています。僕はあの人間あるいはかの人間といわれる人間と人間に共通する本性essentiaによって規定される人間の間にある一般性のレベルの差は,あのティラノサウルスあるいはこのティラノサウルスといわれるティラノサウルスとティラノサウルスに共通の本性によって規定されるティラノサウルスとの間にある一般性のレベルの差よりも大きくなるといいましたが,それはこの理由によっています。人間というひとつの個物を構成する個体の数はティラノサウルスを構成する個体の数よりも多く,その分だけ人間の方がティラノサウルスよりも複雑な個物であることになり,なので個々の人間と人間一般との間の一般性のレベルの差は,個々のティラノサウルスとティラノサウルス一般との間にある一般性のレベルの差よりも大きくなると僕は考えるのです。
そしてこれは仮説としてではありますが,このことが各々の共通概念notiones communesの間でも成立すると考えるのです。すなわち僕たちが構成する人間一般の共通概念,これは人間に共通の本性を認識するcognoscereことによって構成される共通概念ですが,こうした共通概念は,ある知性intellectusが形成するティラノサウルス一般の共通概念と比べたときに,同じようにある個物に共通する本性によって構成される異なった個物の共通概念であるという点では一致しますが,だから一般性のレベルが同じレベルにあるというのかといえばそういうわけではないのであって,より複雑な個物である人間に共通する本性よって構成される人間の共通概念の方が,一般性のレベルが高くなるのではないかと思っています。あるいは同じことですが,人間の共通概念よりもティラノサウルスの共通概念の方が,より明瞭判然とした共通概念であるのではないかと思っているのです。
これはあくまでも仮説です。そして人間に共通の本性が何であるのかとかティラノサウルスに共通の本性とは何かも大きな課題になるでしょう。
9日の高知記念の決勝。並びは新田に荒井,平原に松川,町田‐松浦‐才迫の広島,犬伏‐宗崎の四国。
平原がスタートを取って前受け。3番手に新田,5番手に犬伏,7番手に町田で周回。残り2周のホームから町田が上昇。しばらくは犬伏の外で併走。打鐘を迎えてから前を押さえにいきました。平原は3番手に入ろうとする動きをみせましたが,才迫が位置を守り,平原が4番手となってホーム。今度は犬伏が発進。犬伏のかまし先行になったのですが,宗崎が連結を外してしまったために,町田が犬伏の番手に嵌りました。町田は最終コーナーから発進。バックから車間を開けていた松浦もそこから踏み出しました。しかし後方からの捲り追い込みになった新田が直線で外からふたりを差し切って優勝。松浦が4分の3車輪差で2着。町田が1車輪差の3着で新田マークの荒井が4分の1車輪差で4着。
優勝した福島の新田祐大選手は立川記念を完全優勝して以来の優勝で記念競輪10勝目。高知記念は初優勝。このレースは普段は連携することの方が多い広島勢と四国勢が別ラインで戦い,残りのふたつが即席のラインということで,脚力それ自体が結果に占める比重が大きくなるだろうと予想していました。そうなると優勝候補は松浦と新田。展開は松浦に向いたといえますが,松浦が予期していたよりも新田のスピードが上回ったようで,最後は新田に軍配が上がるというレースでした。松浦は新田よりも平原の方を気にしていたのかもしれません。宗崎が犬伏に続くことができていれば,また違ったレースになったように思います。
もしあのティラノサウルスとかこのティラノサウルスという形で知性intellectusがそれを概念するconcipereことができるとすれば,その観念ideaはティラノサウルス一般の観念,あるいはそうしたものがあったとしてティラノサウルスの共通概念notiones communesよりさらに明瞭判然とした観念であることになります。そしてティラノサウルスの観念として,これ以上に明瞭判然とした観念はないといえます。したがって,知性がティラノサウルスを知るためには,このティラノサウルスとかあのティラノサウルスといわれるような,個々のティラノサウルスを十全に認識していくのが最もよい方法であることになります。
この場合のティラノサウルスというのは一例であって,事物は具体的に認識されるほどより明瞭判然となっていく以上,これはあらゆる事物の認識cognitioについて妥当します。したがって,人間のことを知るためには,人間に共通の本性essentiaを知るよりも,あの人間この人間といわれるような諸個人を十全に知っていく方がよいということになります。このとき,あのティラノサウルスとティラノサウルス一般の認識のレベルには,これは共通概念の一般性のレベルの差とは異なったレベルといわなければなりませんが,一般性のレベルに差があるということは明白だといえます。同様に,ある特定の人間の認識と人間に共通の本性の認識とでは,一般性のレベルに差があるといわなければなりません。しかしその双方のレベルの差が同じだけのレベルの差であるのかといえば,僕はそうであるとは考えないのです。つまり,ティラノサウルス一般とこのティラノサウルスの間にある一般性のレベルの差と,人間一般とあの人間との間にある一般性のレベルの差は,異なると僕は考えています。そしてその差は,人間一般とある人間の間の一般性のレベルの方が大きくなると僕は考えているのです。
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第二部定義七により,個物res singularesというのは多数の個体が協同して構成される場合があります。この多数というのは当然ながら決まった数を意味しません。よって,より多くの個体が協同することによって構成されている個物ほど,より複雑な個物であることになります。そして僕の考えでは,この個物の複雑さの度合が,一般性のレベルの差に比例します。
昨日の第83回桜花賞。
逃げたのはモズメイメイ。2番手にコナコーストで3番手にトーセンローリエ。4番手はブトンドールとシングザットソング。6番手にペリファーニア。7番手にライトクオンタムとハーパー。9番手にドゥアイズとコンクシェルでここまでは一団。2馬身差でシンリョクカとムーンプローブ。13番手にエミュー。14番手にラヴェル。2馬身差でリバティアイランドとドゥーラ。2馬身差の最後尾をキタウイングとジューンオレンジが併走という隊列。前半の800mは45秒9のミドルペース。
直線の入口ではモズメイメイとコナコーストが後ろを2馬身ほど離しました。この競り合いから抜け出したのはコナコースト。6番手から前をいく各馬の外を回ったペリファーニアが追ってきて2頭の競り合いに。しかし後方から大外を回って追い込んできたリバティアイランドがこの2頭を差し切って優勝。一旦はペリファーニアが前に出たのですが,内から差し返したコナコーストが4分の3馬身差で2着。ペリファーニアがクビ差で3着。
優勝したリバティアイランドはここが阪神ジュベナイルフィリーズ以来のレースで大レース2勝目。前走の内容から力量は断然であることがはっきりしていましたから,優勝自体は順当なもので,位置取りからすれば着差以上の能力差があるのも間違いないでしょう。ただ,騎手が控えたというわけではなく,ペースもそれほど早かったわけではないのに,かなり後方の位置になってしまったのは,今後に向けてはやや不安な材料が出てきたような気がします。一過性のものであるなら問題ありませんが,こうしたことが続くようだと,能力は上でも取りこぼすというケースが生じることも懸念されます。父はドゥラメンテ。
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騎乗した川田将雅騎手はドバイワールドカップ以来の大レース37勝目。国内では阪神ジュベナイルフィリーズ以来。第74回,82回に続き連覇となる桜花賞3勝目。管理している中内田充正調教師は阪神ジュベナイルフィリーズ以来の大レース6勝目。桜花賞は初勝利。
第二部定理三八系は,現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちには共通概念notiones communesがあるということをいっています。ただしこれは第二部定理三八を受けたものです。この定理Propositioでいわれているのはすべての物体corpusに共通するものの共通概念です。なのでこの共通概念を有しているだけでは,共通概念の一般性のレベルに差があるということは人間の精神は知りようがありません。すべて同じレベルの共通概念があるだけだからです。ですからこのことについての論証Demonstratioに訴求するなら第二部定理三九になり,第二部定理三九の様式で形成される共通概念が現実的に存在する人間の精神のうちにあるということ,もっと正確にいえば,この様式で形成される共通概念がいくつか現実的に存在する人間の精神のうちにあるということでなければなりません。このことは『エチカ』の定理や系Corollariumに含まれているわけではありませんが,これも第二部自然学②要請三および第二部定理一四から明らかだといえるでしょう。つまり現実的に存在するすべての人間が,共通概念には一般性のレベルに差があるということを知っていると僕は考えます。
スピノザの哲学では,事物は具体的に概念されるほどより明瞭判然と概念されるということになっています。したがって再び恐竜とティラノサウルスの関係に戻せば,恐竜に共通の本性essentiaの共通概念よりもティラノサウルスに共通の本性の共通概念の方が,より明瞭判然とした共通概念であると僕は考えます。では,あのティラノサウルスかこのティラノサウルスといわれるような,個々のティラノサウルスの観念ideaについて何らかの知性intellectusが十全に認識できるのかといえば,僕はそれは不可能ではないといいます。第五部定理二二は,現実的に存在する人間の身体humanum corpusの本性を永遠の相species aeternitatisの下に表現するexprimere観念が神Deusの中にあるという意味のことをいっていますが,その証明Demonstratioの手法からすると,これはティラノサウルスの場合にも成立しなければなりません。神の中にあるということは永遠にあるという意味でなければなりませんから,たとえどれほど困難であるにしても,それを十全に認識することができる知性があると僕は考えるからです。
日本時間の今朝,アメリカのサンタアニタパーク競馬場で行われたサンタアニタダービーGⅠダート9ハロン。
マンダリンヒーローは向正面に入ったところでは逃げた馬から6,7馬身差の5番手。この差が3コーナーにかけて3馬身差くらいまで詰まりました。このコーナーでは内に入って進出。外から捲り上げてきた馬もいて,直線の入口では4番手。直線は前をいく3頭のうち,先頭の馬と2番手の馬との間に進路を求めると,3番手にいた外の馬と3頭の競り合いに。直線先頭というレースをしたPractical Moveをフィニッシュにかけて追い詰めましたが届かず,ハナ差の2着でした。
この馬は昨年のハイセイコー記念まで4連勝して今年の初戦は雲取賞で2着。そのときが初めての1800mで,走破タイムは1分54秒6でした。日本のダート,とくに地方競馬のダートはタイムがかかるのに対し,アメリカのダートはタイムが早くなる傾向がありますので,まずそれに対応することができるのかということが焦点。単純な比較はできませんが,6秒ほど走破タイムを更新しましたので,そうした対応力はあったことになります。日本のダート馬は展開面での恩恵を受ければ海外の大レースを勝てるところまできているということはすでに判明していましたが,今日のこの馬のレースぶりをみると,普通にレースの流れに乗って勝つという日を迎えるのもそう遠くない将来のことなのではないかと思いました。
共通概念notiones communesには一般性のレベルに差があると僕が考えていることの根拠,およびドゥルーズGille Deleuzeと福居の共通概念の理論を僕がどのように評価しているのかということは理解してもらえたと思います。ただ,共通概念の一般性というのは,共通の本性essentiaをもつ個物res singularisによって異なり得ると僕は考えています。最後にこのことも説明しておきましょう。
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恐竜は絶滅しているけれど,恐竜に共通の本性は,形相的本性essentia formalisとして神Deusの属性attributum,この場合は延長の属性Extensionis attributumの中に含まれていて,かつその観念ideaは神の無限な観念の中に包容されています。このゆえに僕たちは恐竜の本性について考えることができるのです。ところで,恐竜というのはある種の生物のことをいうのであって,その中には個別の種類が含まれています。たとえばティラノサウルスとかトリケラトプスといわれるものです。このとき当然ながらティラノサウルスに共通の本性は形相的本性として延長の属性に含まれていますし,その観念は神の無限な観念に包容されています。このことはトリケラトプスの場合にも該当します。そこでもしもある知性intellectusが,ティラノサウルスの共通概念を認識しまた恐竜の共通概念を認識するcognoscereならば,恐竜の共通概念の一般性のレベルは,ティラノサウルスの共通概念の一般性のレベルよりも高いということを理解します。これはそれ自体で明らかだといえるでしょう。
僕の考えでは,そもそもこうしたことが同意されるということ自体のうちに,共通概念の一般性のレベルに差があるということ,あるいは僕たちがそのことを知っているということが含まれているのです。というのは僕たちがそうしたことに同意することができるのは,そうした関係にある共通概念を有しているからにほかならないからです。つまり一般的にいえば,共通概念には一般性のレベルに差があるということに同意することができるのは,実際に僕たちが共通概念を有しているがゆえにそのことを知っているからなのであって,要するに共通概念を有していさえいれば,経験的に共通概念には一般性のレベルに差があるということを知ることができるのです。ただしこのことは第二部定理三八系に訴えて論証することはできないのです。
オーストラリアのランドウィック競馬場で行われたクイーンエリザベスステークスGⅠ芝2000m。
ユニコーンライオンは逃げるレース。道中は1馬身くらいのリードで終始しました。そのまま直線に入り,残り300mくらいまで先頭で粘りましたが,そこから並んで追ってきた後続の馬たちに差され,突き抜けて勝ったDubai Honourから概ね3馬身4分の3差の5着でした。
この馬は鳴尾記念と福島記念を勝っていますが,日本で大レースを勝つというのは大変というレベルの馬。その馬がこの路線では日本ほどのレベルにないオーストラリアに遠征してどのくらい走れるのかというのが注目点。コース設定がコーナーの中間からの発走となっていて,逃げたいこの馬にとって大外枠になったのは著しく不利でした。勝ち馬はイギリスからの遠征馬で,その馬には能力面で敵わなかったとみるべきでしょうが,2着とは僅差でしたから,条件に恵まれればもう少し上位の着順もあったように思います。勝ちタイムが遅くなっているのはスローペースの影響もありましたが主因は馬場状態の影響で,この点に関しては勝ち馬には有利に働いたしユニコーンライオンにはマイナスであったのではないでしょうか。勝つためにはどこかで後ろを引き離さなければならなかったのですが,そういうシーンを作れなかったのは馬場状態の影響があったのだろうと思います。
共通概念notiones communesがどの範囲まで共通しかつ特有であるのかまでは分からないにしても,共通かつ特有ということにレベルの差があるということは現実的に存在する人間は確実に知ることができます。つまり共通概念の一般性にはレベルの差がある,一般性の高い共通概念もあれば一般性の低い共通概念もあることを僕たちは知ることができるという結論になります。つまり,第二部定理三八が共通概念の理論としてどのような位置づけとなるのかとは関係なく,第二部定理三九がこの結論を保証していると僕は考えているのです。これが,共通概念には一般性のレベルに差があると僕が考えることの根拠になります。
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したがって,福居が第二部定理三八は共通概念の一般相であり,第二部定理三九はその具体相であるというとき,もしもそれが,前者がすべてに共通するもののことであり後者がいくつかのものに共通かつ特有であるもののことを意味し得るとするならその見解opinioを否定しません。ですが福居のこの見解は,考察の中で説明したようにこのような意味を有するものではありません。ですから,僕は福居のこの見解については全面的に否定します。一方,ドゥルーズGille Deleuzeが第二部定理三八は共通概念の適用の秩序を示し,第二部定理三九が共通概念の形成の秩序を示すといっていることについては,後者が形成の秩序を構成しているということについては同意します。前者については肯定はしませんが否定はしません。ただし,第二部定理三八と第二部定理三九の間に,共通概念の論理としてある断絶があるということは認めます。これは第二部定理三八を第二部定理三八系と合わせたものとして考えた場合にも同様です。共通概念の形成の秩序というのを文字通りに共通概念が形成されることと解するなら,第二部定理三八系は確かに共通概念の形成の秩序を示しているとみることが可能でしょう。ですが,第二部定理三八系で示される共通概念は,すべてのものに共通であるものの共通概念ですから,共通概念に一般性のレベルの差があるということを僕たちに教えることはありません。この点では明らかに第二部定理三八およびその系Corollariumと第二部定理三九の間には,断絶があります。
4日に鶴巻温泉で指された第16期マイナビ女子オープン五番勝負第一局。対戦成績は西山朋佳女王が2勝,甲斐智美女流五段が3勝。
マイナビ出版の社長による振駒で甲斐女流五段が先手となり,西山女王のノーマル三間飛車。先手は居飛車穴熊に組みました。この将棋は中盤の戦いで後手が飛車交換を挑み,先手がそれに応じられない形であったために避けたのですが,それで先手の飛車の働きが著しく鈍くなったために後手が優勢に。ただ終盤で後手が攻め誤ったために,瞬間的に先手にもチャンスが訪れていたようです。
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この局面で☗6八金と歩を取ったのですが,これが敗着になりました。☖8七桂不成☗同銀☖7九馬☗7八金☖6九馬と進んだ局面が,☖4八歩成と☖6七銀成の両狙いになっていたからです。
第1図では☗9六歩と催促してしまうか,☗2八飛と引いて☖4八歩成を受けるかすれば,先手もまだ戦えていました。
西山女王が先勝。第二局は19日に指される予定です。
もしBと関係を有するときにはXとYの共通概念notiones communesがAの精神mensのうちに生じ,Cと関係を有するときはYとZの共通概念がAの精神のうちに生じると仮定すれば,XはAとBには共通かつ特有であるけれどCの中には含まれてなく,またZはCと共通かつ特有であるけれどBの中には含まれてなく,またYはAにもBにもCにも共通かつ特有であるということをAは知ることができるでしょう。第二部定理四三は,現実的に存在する人間の精神mens humanaにはそのことが可能であることを示しているからです。よってこの限りではAは,Yの共通概念の一般性のレベルは,Xの共通概念およびZの共通概念のレベルより高いことを理解することができることになります。
もちろんこれはこの限りのことです。実際にはYはAとBとCの中には含まれているけれどその他のものにはまったく含まれてなく,XはCには含まれていなけれどもそれ以外の多くのものに含まれているということが現実的にはあり得るのであって,そうした場合はこのケースによって認識された共通概念の一般性のレベルに関する認識cognitioは虚偽falsitasであるということになりますし,またおそらく誤謬errorであるということにもなるでしょう。しかし現実的にはAはBおよびCとだけ関係を有するのではなく,その他多くのものと関係を有するのであって,そしてそのたびごとに反復的に共通概念を形成していくわけですから,この限りでは虚偽であったり誤謬であったりし得るということで,Aが共通概念の一般性にレベルについて正しく認識するcognoscereことはできないと結論することはできません。むしろそうした反復によって各々の共通概念にはレベルの差異があるということをAは十全に理解していくといわなければなりません。
共通概念のレベルがどこまで広がるかということについては,現実的に存在する人間の身体humanum corpusがすべての外部の物体corpusと関係を有さなければ知ることができないことです。しかしこれを現実的に存在する人間についていうことはできませんから,それを完全に知ることは人間には不可能でしょう。これは現実的に存在する人間が,人間に共通の本性essentiaの何たるかを知るのはきわめて困難であるということと同じです。
昨晩の羽田盃トライアルの第26回クラウンカップ。
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ポリゴンウェイヴが逃げて向正面に入るところで3馬身くらいのリード。2番手にチェルカトローヴァで3番手にオーマイグッネスとハセノゴールドとゴールドラッドマン。7馬身ほどあってサムタイムアゴー。7番手にブルグミューラーで8番手にナイトオブバンド。2馬身差でライズゾーン。10番手にスカイアクロスとコンプラドール。4馬身差でナガタエースとハーピーレックスが最後尾を併走。前半の800mは50秒1のハイペース。
直線の入口ではポリゴンウェイヴとチェルカトローヴァとハセノゴールドが雁行。逃げたポリゴンウェイヴが内を開けたので,チェルカトローヴァは直線はポリゴンウェイヴの内に進路を取りました。外のハセノゴールドがポリゴンウェイヴに並ぼうとするとまたポリゴンウェイブが踏ん張るという競り合いになり,ハセノゴールドの方がやや力尽きると,その外から追い上げてきたナイトオブバンドがハセノゴールドを差して2番手に。ポリゴンウェイヴはその追撃も最後まで凌ぎ,一杯に逃げ切って優勝。ナイトオブバンドが4分の3馬身差で2着。ハセノゴールドが半馬身差で3着。
優勝したポリゴンウェイヴはニューイヤーカップ以来の勝利で南関東重賞2勝目。ここでは実績が断然。先週の京浜盃を走ったばかりで疲労が懸念されましたが,それを克服しての優勝となりました。直線でフラフラしていたように,気性面が最大の課題の馬なので,おそらくこのレースのように多少はペースが上がっても逃げてしまった方が力は出せるのでしょう。距離が長くなるのはマイナスに作用しそうに思えます。母の父はキングカメハメハ。フロリースカップ系ガーネットの分枝で母のひとつ上の半兄に2014年の福島記念と2015年の金鯱賞を勝ったミトラ。Polygon WaveはPerfumeのアルバム名。
騎乗した船橋の山口達弥騎手は2020年の東京ダービー以来の南関東重賞2勝目。管理している浦和の小久保智調教師は南関東重賞61勝目。第20回,21回,22回に続き4年ぶりのクラウンカップ4勝目。
僕は現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちには,すべての人間に共通する本性essentiaの共通概念notiones communesはあるけれど,何が一般に人間の本性natura humanaであるのかは分からない,分かるにしてもきわめて困難であるといいました。福居の論理は僕がそのことの根拠としたことに準じています、すなわち,現実的に存在するAという人間がBという外部の物体corpusと関係をもつと,AにもBにも共通しかつ特有であるXとYの共通概念が発生するのですが,XがBとだけ共通しかつ特有であるのかということはこのことだけではAに知られるわけではありません。このことはYについても同様です。したがって,Xの共通概念の一般性とYの共通概念の一般性のレベルに差があるということはAには知られ得ないのです。ですからこの限りでは,共通概念は共通概念に留まるのであって,一般性のレベルに差はありません。より正確にいえば,共通概念の一般性のレベルに差があるということはAの精神には知られ得ないのです。だからこの点だけみれば,福居の主張に理があるということを僕は認めるのです。
しかしこれはあくまでもこの限りでのことです。第二部定理三九は,現実的に存在するある人間が,ある特定の外部の物体とだけ関係を有するということを前提しているとは僕は考えません。Aという人間が現実的に存在するなら,Bという外部の物体とだけ関係をもつわけではないのであって,Cとも関係をもつしDとも関係をもつという具合に,数多の物体と関係をもつことを前提しているのであって,その関係をもつそのたびごとに,共通概念が反復的にAの精神のうちに発生するということを含意しているのだと僕は解します。よって共通概念が反復的に形成されることによって,各々の共通概念に差異があるということは,その共通概念がどのような類の共通概念であるということは分からないにしても知られ得ると僕は考えるのです。
分かりやすく次のような例をあげましょう。AがBと関係を有するとき,XとYの共通概念がAの精神のうちに発生し,Cと関係を有するときにはYとZの共通概念が形成されると仮定しましょう。この限りでは各々の共通概念に差異があるとAは認識できます。
四日市競輪場で争われた昨晩のベイサイドナイトドリームの決勝。並びは新山‐守沢‐成田‐庄子の北日本でここに中田が番手戦,嘉永‐浅井‐渡辺の西日本で諸橋は単騎。
浅井がスタートを取って嘉永の前受け。4番手に諸橋,5番手に新山で,新山の後ろは中田と守沢で内外が入れ替わりながらの周回。残り2周のホームで新山が発進。このときは守沢がマークしていました。しかし嘉永が突っ張ったので新山は引き,この間に最後尾まで下がっていた中田が再び守沢の横まで追い上げてきました。打鐘から再び新山が発進。後ろが競りになっていたのでふたりともついていくことができず,単騎の捲りに。ホームの出口では新山が叩いたのですが,嘉永が番手に嵌りました。渡辺が連結を外したので,浅井の後ろに諸橋が入り,競りの後ろだった成田が諸橋の後ろに。番手から出た嘉永と嘉永マークの浅井,さらに最終コーナーで内を突いた諸橋の優勝争いとなりましたが,外の浅井が抜け出して優勝。嘉永が1車輪差の2着に残り,諸橋が8分の1車輪差で3着。
優勝した三重の浅井康太選手は1月の別府のFⅠ以来の優勝。GⅢは一昨年9月の松阪記念以来となる優勝で31勝目。四日市では2014年,2015年2月,2015年8月,2018年と記念競輪を制覇しています。このレースは嘉永と新山の二分戦。新山の後ろが競りになりましたが,おそらく後ろからになった場合はこうするという事前の打ち合わせがあったのでしょう,新山が発進するタイミングで守沢が番手を守りました。しかし嘉永が抵抗したために,再び番手が競り合いになりました。守沢がすんなりと番手を回っているということに嘉永が気付いていたわけではないでしょうが,そこで一旦は突っ張ったことで,西日本ラインが優位に立ちました。結果だけでいえば新山は無理矢理にでもすぐに叩きにいった方がよかったということになるでしょう。
福居は第二部定理三九は共通概念notiones communesの具体的な相であるといっていたのでした。このいい方自体は僕は否定しません。ここまでの説明から分かるように,この定理Propositioは明らかに現実的に存在する人間の精神mens humanaのうちに共通概念が形成されるときの具体的な様式を示しているといえるからです。ただし,福居はこれとは違った意味でこの定理は共通概念の具体的な相であるといっているのであって,そのゆえに共通概念には一般性のレベルに差があるわけではないといっているのです。僕は逆に,この定理が第三部定理三八とは関係なしに,共通概念には一般性のレベルがあるということを示す,より正確にいうなら,共通概念に一般性のレベルに差があるということを現実的に存在する人間の精神に教えることを示していると考えています。いい換えれば,具体的ということが何を意味しているのかということが,福居と僕の間で異なっているといえます。福居はドゥルーズGille Deleuzeの共通概念の理論を否定するためにそのようにいっているのに対し,僕はこの定理が共通概念の形成の秩序を示すというドゥルーズの見解opinioには賛成します。その差異は,ここでいう具体的ということの意味の差異に還元することができるのです。
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福居は第二部定理三八が共通概念の一般的な相を示すのに対して,第二部定理三九は共通概念の具体的な相を示すといっています。そこでいわれているのは,たとえば現実的にAという人間が存在して,このAがBという外部の物体corpusと関係するときに,AにもBにも共通かつ特有であるものは,Aの精神のうちで共通概念として認識されるということです。もう少し強調していうなら,そのことだけなのです。この限りにおいて,共通概念に一般性のレベルに差がないと福居が結論付けることは,誤っているとはいえないと僕は思います。というのは,AとBに共通かつ特有なものはひとつだけであるとは限らず,いくつかあると考えるべきであって,ここでは分かりやすくそれをXとYのふたつに限定するなら,Xの共通概念もYの共通概念もAの精神のうちに形成されるのですが,そこに一般性のレベルに差があるということはAの精神には知られないというべきだからです。
「文学論」の一部が含まれている『漱石文芸論集』を簡単に紹介しておきます。
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岩波文庫から磯田光一編で出版されているもの。出版されたのは1986年5月16日。僕が所有しているのは1991年1月10日に発刊された第6刷で,この間には改編や改刷は行われていません。ただし現時点で発売中のものもそうであるのかは僕には不明です。
全体は四部構成になっています。Ⅰが「文学論」の序,同じく第三編第二章の抄録,文芸の哲学的基礎,創作家の態度の抄録です。Ⅱは写生文,文芸とヒロイック,艇長の遺書と中佐の詩,文芸と芸術の抄録,坪内博士と『ハムレット』,道楽と職業です。Ⅲは予の愛読書,予が文章に裨益せし書籍,戦後文界の趨勢,夏目漱石氏文学談,文学談,余が『草枕』,文芸は男子一生の事業とするに足らざる乎です。そしてⅣが老子の哲学の抄録,英国詩人の天地山川に対する観念の抄録,『文学評論』第四篇であるスウィフトと厭世文学の抄録です。どういう意図からこのような四部構成になっているのかは書かれていないので分かりません。
この後に付録があって,これは漱石の同時代に作家に対する言及の索引です。これはこの『漱石文芸論集』に収録されているものの索引ではなく,漱石の書簡も含めて岩波文庫から出版されているすべての著作に対する索引です。これでみると漱石が言及しているのは38人。その中でもやはり高浜虚子と正岡子規に対する言及はほかに比べて多くなっていることが分かります。『漱石文芸論集』の注解はこの索引の後に付されていて,これは古川久が担当しています。そして最後に編者である磯田光一の解説があり,この解説はわりと長めです。
漱石の文芸論はこの本でなければ読めないというものではありません。重複しているものもありますが,ほかのものもいずれ紹介します。
第二部定理三九で共通かつ特有といわれるとき,それはある共通概念notiones communesを形成する人間が外部の物体corpusと関係する限りにおいて共通かつ特有といわれるのであって,単に共通かつ特有であるものが共通概念を形成する人間の身体humanum corpusにも外部の物体にも含まれているだけでは,共通するともいえないし,特有であるともいえないのです。いい換えれば,共通であり特有であるものを含んでいるふたつのものあるいは複数のものが関係を有する限りにおいて,それは共通であり特有であるといえるようになるのです。僕が第二部定理三九は,ドゥルーズGille Deleuzeがいっているように共通概念の形成の論理を構成していると解するのは,この事情が関係しています。
福居の主張によれば,第二部定理三九は共通概念の具体的な相を構成するのでした。僕はこのこと自体を否定することはしません。この定理Propositioの様式によって形成される共通概念が具体的なものであることについてはそれを否定する要素はないからです。しかしこの具体的な相というのは,ある特定の共通概念を意味するのではありません。たとえばXがAという人間の身体とBという外部の物体にそれぞれ含まれているなら,AはBと関係を有する限りでXの共通概念を形成することになります。しかしこの関係においてAの精神のうちに発生する共通概念がXの共通概念だけであるかといえば,そうであるかもしれないけれどもそうだと断定することができるわけではありません。Xとは異なったもの,たとえばYもAの身体の中にもBという物体の中にもあるのであれば,Yの共通概念もAの精神のうちで形成されることになるからです。したがって,人間の身体と外部の物体に共通かつ特有であるものというのを,単一のものと解することはできません。
さらにこれは,Aという人間がBという外部の物体と関係をもつ場合のことです。Aという人間がほかの外部の物体たとえばCとは関係をもたないということはできません。よってAがCと関係をもつ限りにおいてもこれと同じことがいえなければならないのであって,もちろんBとCだけでなく,外部の物体と接触するときにはすべからくこのことが成立していなければなりません。
書簡六十八は書簡六十二に対する返信です。これはオルデンブルクHeinrich Ordenburgからスピノザに宛てられたもので,書簡六十八にも書かれている通り,1675年7月22日付となっています。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
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スピノザとオルデンブルクの間での文通はしばらく途絶えていました。『スピノザ往復書簡集Epistolae』に掲載されているものでは,1665年12月8日付のオルデンブルクからの書簡三十三で途絶え,次が1675年6月8日付のオルデンブルクからの書簡六十一です。すべてが遺稿集に掲載されたわけではないのですが,途絶えていたのは間違いありません。これはオルデンブルクとロバート・ボイルRobert Boyleが,スピノザの思想に不信を抱いたことが一因です。ただこの少し前にロンドンを訪れたチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausが仲介したので,また文通が再開されました。
書簡六十一にはスピノザからの返信があったと書簡六十二に書かれています。その中でスピノザは『エチカ』の出版の意志をオルデンブルクに伝えました。そこでオルデンブルクはそれに対する忠告を与えています。それは,宗教的本務の実践を危うくするように思えるどのようなこともその中に取り入れるなということでした。オルデンブルクは『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』は読んでいました。そしてオルデンブルクはキリスト教徒でしたから,その内容については疑問を抱いたのです。その疑問は誤解であったという主旨のことを書簡六十一の方ではいっているのですが,それはおそらくチルンハウスの説得の一時的な効果だったのであり,本心ではオルデンブルクはスピノザに対する不信を抱き続けていたのでしょう。それでこのような忠告をしたものと思われます。
出版されたら『エチカ』を受け取ることには異存はないけれども,オルデンブルクが受け取ったとは分からないようにしてほしいという主旨のことを最後にいっています。この時点でオルデンブルクは,自身がスピノザと関係しているということを知られることが好ましくないと思っていたことが分かります。
共通概念notiones communesといわれるときの共通の意味は,たとえばXはAとBに共通するという意味ではありません。AとBが関係を有することによって,Aの中にもBの中にもあるXがAの精神mensのうちに共通概念として発生することをもって,XはAにもBにも共通であるといわれるのです。なのでこのことは,第二部定理三八にだけ適用されるわけではありません。第二部定理三九も共通概念についての定理Propositioですから,この定理の中で共通といわれている部分も,これと同じように解さなければなりません。とくにこちらの定理は,すべての物体corpusに共通であることについて示されているわけでなく,人間の身体humanum corpusといくつかの物体に共通であるものについて言及されていますから,なおのことそのような意味に解する必要があると僕は考えます。たとえばXはAという人間の身体とBという外部の物体には含まれていても,Cという外部の物体には含まれていないとしたら,Xの共通概念はAがBと関係を有する限りにおいてはAの精神のうちに発生するでしょうが,AがCと接触する限りではAの精神のうちには発生しません。このときAが,Bとは共通であるけれどもCとは共通しないということを知るのは,AがBともCとも関係を有する限りにおいてなのであって,AがBとだけ関係をするならCとは共通しないということを知る余地はありませんし,Cとだけ関係を有する場合にはBと共通するXの観念idea自体がAの精神のうちに発生しないのですから,共通するとか共通しないということ自体がAに知られ得ないからです。
第二部定理三九は,単に共通するとだけいわれているのではなく,共通でかつ特有であるものといわれています。この場合の特有もまた共通と同じ意味で解されなければなりません。XがAとBには特有であるけれどもCには特有ではないということは,やはりAがBおよびCの両方と関係する限りでAに知られることになるのであって,一方とだけ関係をもつ場合にそれは知られ得ないということは,共通であることについて説明したのと同じ仕方で論証できますし,BともCとも関係をもたない場合には,特有とされるものの観念がAの精神のうちには発生しません。
第67回大阪杯。
好発はマリアエレーナ。前にいく構えをみせたのはノースブリッジ,マテンロウレオ,ジャックドール,ノースザワールドの4頭。ジャックドールの逃げになり2番手にノースザワールド。2馬身差でマテンロウレオ。2馬身差でダノンザキッド。5番手にノースブリッジとヒシイグアス。この後ろはポタジェ,ヒンドゥタイムズ,ヴェルトライゼンデ,マリアエレーナ,キラーアビリティの順で差がなく続き,ジェラルディーナとスターズオンアースまでは一団。2馬身差でモズベッロとラーグルフ。5馬身差の最後尾にワンダフルタウンという隊列。前半の1000mは58秒9のミドルペース。
3コーナーを回っても逃げたジャックドールの手応えは楽。追っていたノースザワールドの方が押してやっとついていく形になり,その後ろは内にマテンロウレオで外からダノンザキッド。直線に入るとダノンザキッドが単独の2番手に上がりましたが,なかなかジャックドールとの差が詰まりませんでした。この間にスターズオンアースが追ってくるとダノンザキッドの外に。ここからは2頭が並んでジャックドールとの差を詰めていきましたが,どちらも届かず,一杯に逃げ切ったジャックドールが優勝。外のスターズオンアースがハナ差の2着で真中のジャックドールがクビ差で3着。
優勝したジャックドールは札幌記念以来の勝利。重賞は3勝目で大レースは初勝利。デビューしてからずっと2000mのレースだけを走り続けていて,この距離のスペシャリスト。ここは昨秋の天皇賞ほどのメンバーにはなりませんでしたので大レース制覇を達成する絶好のチャンスでした。逃げなくても大丈夫なのですが,逃げて自らペースを作った方がより強さを発揮できる馬だと思います。父はモーリス。d'Orはフランス語で黄金。
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騎乗した武豊騎手はジャパンダートダービー以来の大レース制覇。第32回,34回,37回,41回,42回,58回,61回に続き6年ぶりの大阪杯7勝目。管理している藤岡健一調教師は2016年の桜花賞以来となる大レース3勝目。大阪杯は初勝利。
すべての物体corpusに共通すること,これは第二部自然学①補助定理二によりいくつかあると考えなければなりませんが,ここでは考察を容易にするため,そのうちのひとつを抽出して,これをXと仮定しておきます。このときXは,現実的に存在する人間,たとえばAという人間の身体humanum corpusの中にあります。また,Aにとっての外部の物体,たとえばBの中にもあります。こうしたことが現実的に存在するすべての物体に妥当するので,Xはすべての物体に共通するといわれることになります。よってこの場合は,Aの身体の中にあるXは,すべての物体に共通するものであるといういい方ができますし,Bの中にあるXはすべての物体に共通するものであるといういい方もできることになるでしょう。これが第二部定理三七で,すべてのものに共通といわれるときの共通の意味になります。
ところが,第二部定理三八ですべてのものに共通omnibus communiaであるといわれている場合は,このような意味に解することができません。厳密にいえば,すべてのものに共通であるXが観念対象ideatumとしてAの身体の中にも外部の物体であるBの中にもあると解するなら,上述した意味で解することができないわけではありませんが,この定理Propositioは明らかにXが観念対象としてみられているのではなく,Xの観念ideaとしてみられているのですから,この点を重視するなら,上述の意味には解せないのです。なぜなら確かにXはAの身体の中にあるものではあるのですが,だからといって直ちにAの精神mensのうちにXの観念があるということにはならないからです。すでにみたように,このことはAが何らかの外部の物体,たとえばBと関係することによって共通概念notiones communesとしてAの精神のうちに発生することになるからです。よってXは,AがBと関係することによって,もちろんこれはBでなく外部の物体であれば何でもよいのですが,この関係性においてAにもBにも共通であると解さなければなりません。他面からいえば,もしもAの身体が外部の物体と一切の関係をもたない場合には,XがAの身体の中にあるのだとしても,Aの精神のうちにはXの共通概念は存在し得ないのです。そしてその場合には共通とはいえないのです。
昨年末の全日本2歳優駿を勝ち,先日のUAEダービーを鮮やかに逃げ切ったデルマソトガケの3代母は1981年にアメリカで産まれたエイプリルソネットという馬で,日本での基礎繁殖牝馬となります。ビューチフルドリーマーと同じくファミリーナンバーは12。
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アメリカで2頭の産駒を産んでから輸入されました。1990年から2004年までの間に13頭の産駒を日本で産み,そのうちの7頭が牝馬であったため,牝系が広がっていきました。
一族から最初の重賞の勝ち馬は,1997年に産まれた牝馬から出ています。この馬は競走馬としてもオープンを勝つなど活躍しました。この馬が2004年に産んだのがミリオンディスク。2009年にカペラステークスを勝って一族にとって初の重賞制覇を達成。翌2010年には北海道スプリントカップも勝ちました。
ミリオンディスクの6つ下の半妹がアムールポエジー。こちらは2013年に関東オークスを勝っています。そして繁殖牝馬となってからはデルマソトガケの母になりました。
デルマソトガケは一族の最初の大レースの勝ち馬というわけではありません。エイプリルソネットが1992年に産んだ牝馬の孫に,ワイドファラオがいます。2019年にニュージーランドトロフィーとユニコーンステークスを勝つと,翌2020年にはかしわ記念を勝っています。
デルマソトガケまでで一族からの重賞の勝ち馬は4頭しかいません。ただ未勝利で終わるような馬はそれほど出ていない一族です。こうした一族が代を経て活躍馬を量産するようになるということはそれなりにあることですから,エイプリルソネットがそのような基礎繁殖牝馬となる可能性は残っていると思われます。
第二部自然学①補助定理二は,第二部定理三八系を論証するにあたっては有効ではありません。この系Corollariumは,現実的に存在する人間は外部の物体corpusと何らかの関係をもつことを前提しているといえます。このことを暗黙の前提とすることについては,僕は否定しません。第二部自然学②要請三から明白だといえるからです。また現実的に存在する人間の精神mens humanaによる認識cognitioについていうなら,第二部定理一四から明らかだといえるでしょう。逆にいえばスピノザは第二部定理三八系を証明するにあたっては,これらの要請Postulatumと定理Propositioとに合わせて訴求する方がよかったであろうと僕は思います。
これはスピノザの過失といえば過失といえるのかもしれません。この過失はきわめて微細なものであって,僕にとってはさして問題とするに値するようなものではありません。ただ,ドゥルーズGille Deleuzeが第二部定理三八と第二部定理三九を,共通概念notiones communesの適用の論理と形成の論理とに分けて考えているということに対しては,いくらかの影響を与えた可能性も残ります。少なくとも第二部定理三八系を第二部定理三八と合わせて理解するなら,いい換えれば定理と系を一体化したものと考えるのであれば,第二部定理三八と第二部定理三九を,ドゥルーズが示したような仕方で分節することはできなかったかもしれないからです。
ここまで僕が示してきたことは,第二部定理三七および第二部定理三八で,すべてのものに共通するといわれているときの,共通ということをどのように解するべきなのかということと関係してきます。もっとも第二部定理三七は,すべてのものに共通するものは個物res singularisの本性essentiaを構成しないといわれているだけであり,この個物の本性というのは現実的に存在するある個物,現実的に存在する物体corpusの本性と解することができますから,単にすべての物体に共通するものと理解してもよいかもしれません。しかし第二部定理三八は共通するものの観念ideaについて言及されているのですから,それと同じように解することはできません。その共通するものの観念は,現実的に存在する外部の物体と接触することによって,接触した人間の精神のうちに形成されるということになっているからです。