スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
昨晩の第59回関東オークス。
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フェブランシェが先頭に立つと,発馬後の3コーナーまでに4馬身から5馬身ほどまでリードを広げました。正面に入るところで2馬身くらいまで縮まり,正面でパライバトルマリンがフェブランシェの直後まで取り付きました。メイドイットマムとクレメダンジュとメイショウオーロラの3頭が並んで続き,2馬身差でマルグリッドとサーフズアップとコアリオ。4馬身差でワイズゴールドとスギノプリンセス。ベストホリデーとフークエンジェルが併走で続き6馬身差の最後尾にマインドユアミモザ。ハイペースでした。
3コーナーからパライバトルマリンがフェブランシェに並び掛けていくと,フェブランシェが一杯になり,パライバトルマリンが先頭に。クレメダンジュとメイショウオーロラが並んで追ってきました。単独の先頭で直線に入ったパライバトルマリンはそのまま後ろの追い上げを許さずに優勝。内を回ったクレメダンジュが1馬身差の2着。外を回ったメイショウオーロラが4分の3馬身差の3着で,これらの後ろから直線でメイショウオーロラの外に出されたメイドイットマムがハナ差まで迫って4着。
優勝したパライバトルマリンは重賞初挑戦での優勝。このレースはJRAの1勝クラスを勝っている馬が4頭出走していましたが,いずれも僅差での勝利でしたので,どれくらいの能力差があるのかということがよく分かりませんでした。フェブランシェはおそらく休養明けだったのが響いて一杯になりましたが,それ以外の3頭での上位決着。しかし決定的な差がついたわけではなかったので,はっきりとした力量の差があるというわけではないと思います。例年よりもレベルは低かったかもしれません。Paraiba Tourmalineは希少価値があるトルマリン。
騎乗した戸崎圭太騎手は第52回以来となる7年ぶりの関東オークス2勝目。管理している林徹調教師は関東オークス初勝利。
XのAに対する愛amorが,XのBに対する愛を抑制したり除去したりすることがあるというのは事実なので,愛は一般的に合倫理的な感情affectusであるとはいえないとか,愛は一般的に合倫理的な感情であるけれど例外もあるという見方はありますし,そういう見方が誤っているとは僕はいいません。ただ,僕はこのような解釈はせず,愛は一般的に合倫理的な感情であるといいます。XのAに対する愛とBに対する愛は別個の愛なので,Aに対する愛によってXはAに親切をなしますし,Bに対する愛によってはBに対して親切をなします。それらの親切も個別の親切であって,そういう個別の親切が輻輳することによって,社会societasや共同体に代表されるような人間の集団に融和を齎すことになるという観点から,愛は合倫理的な感情であるといわれるのであり,この観点からは愛は一般的に合倫理的な感情ということになるからです。
もうひとつ,愛が一般的に合倫理的な感情であるわけではないという解釈を採用すると,僕は逆の場合に不都合が生じると考えます。愛の反対感情は憎しみodiumですから,逆の場合というのは当然ながら憎しみの合倫理性について考えるという場合です。
もしも愛が一般的に合倫理的な感情であるとすれば,憎しみは愛の反対感情ですから,一般的に合倫理的な感情ではない,もっといえば,非倫理的な感情であるということになります。このことはスピノザの考え方に合致しているように思われます。たとえば第四部定理四五系二は,憎しみの結果effectusとして生じる欲望cupiditasは非礼turpeでありまた不正injustitiaであるといっていますが,それが意味するところはここでいう非倫理的であるということに寸分と違わないといえるからです。
よって,もしある感情が憎しみを抑制したり除去したりするということがあるとすれば,それは合倫理的であるということになるでしょう。これは,その感情が理性ratioに従って生じる感情であれ受動感情であれ同様です。あるいは合倫理的であるとはいえないにしても,非倫理的なことを否定するnegareような感情であるということになるでしょう。ただしこれは一般的なことなので,愛と同様に個別の感情としての憎しみを考えなければなりません。
習志野きらっとスプリントトライアルの昨晩の第3回川崎スパーキングスプリント。
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発馬後の加速力の違いでキモンルビーがわりと楽にハナを奪いました。エンテレケイアとプリモパイソンとマッドシェリーの3頭が追い,その後ろにコウギョウブライトとティアラフォーカスとカプリフレイバー。さらにコパシーナとモンゲーハガネが続き,その後ろのムジックとナガタブラックまでは集団。2馬身差の最後尾からプリマジアという隊列。ハイペースでした。
3コーナーでは前の隊列がキモンルビー,プリモパイソン,マッドシェリー,ティアラフォーカスの順になり,2馬身差で内を回ったエンテレケイアでさらにコウギョウブライトとモンゲーハガネが並んで外を追い上げる形に。直線に入ると逃げたキモンルビーが追ってきた馬たちを突き放していき,鋭く逃げ切って優勝。早めに単独に2番手に上がったプリモパイソンに,直線も内から追ってきたエンテレケイアが並び掛けたところでフィニッシュ。3馬身差の2着にプリモパイソンが粘り,エンテレケイアがアタマ差で3着。
優勝したキモンルビーは昨年の船橋記念以来の勝利で南関東重賞2勝目。それ以降は勝てていませんでしたが,1200mのレースを除けば2着が6回,3着が1回ときわめて堅実に走っていました。この距離でも発馬後の加速力で他を圧倒しているように,速力が持ち味の馬ですから,距離は短いほどよいということになるのではないでしょうか。父はコパノリチャード。母の父はサウスヴィグラス。
騎乗した大井の御神本訓史騎手は先週の東京ダービーに続いての南関東重賞63勝目。川崎スパーキングスプリントは初勝利。管理している船橋の川島正一調教師は南関東重賞28勝目。川崎スパーキングスプリントは初勝利。
ここまでまとめてきたことから理解できるように,理性ratioに従うことによって生じる感情affectusからであれ,愛amor以外の受動感情からであれ,愛が抑制されあるいは除去されるという場合に,抑制された愛についてそれを合倫理的ではないということはできません。つまり愛が抑制されたり除去されたりする場合には,愛が一般的に合倫理的な感情であるということには何の影響も及ぼさないのです。したがって,受動的な愛が愛を抑制したり除去したりするということがあるとしても,抑制された愛に関しては,愛が一般的に合倫理的であるということには影響を及ぼさないことになります。愛は有徳的である場合にも生じ得る感情ではありますが,理性に従うことによって生じる感情が,受動的な愛を抑制したり除去したりしたとしても,抑制されたり除去されたりした愛が,一般的に合倫理的な感情であるということには影響しないのですから,たとえ理性に従うことによって生じる愛が,受動的な愛を抑制なり除去するなりしたとしても,抑制されまた除去された愛が一般的に合倫理的であるといえることになります。したがって,XのAに対する愛がBに対する愛を抑制するなり除去するなりしたときに,XのBに対する愛に関しては,一般的な愛の合倫理性には何ら影響を与えません。いい換えれば,それに何らかの影響を及ぼすとすれば,抑制するなり除去するなりする方の愛,この場合でいえばXのAに対する愛の方であることになります。
このとき,Xにとっては愛は個別の感情で,Aに対する愛とBに対する愛は別個の感情なので,合倫理性を別個の対象に該当するものと解するなら,やはり一般的な愛の合倫理性には影響を与えません。なぜなら,XのAに対する愛はAに対して合倫理的な感情であり,Bに対する愛はBに対して合倫理的な感情であるということになるからです。一方,Aに対する愛が,Bに対する愛を抑制しているあるいは除去しているのは事実なので,XのAに対する愛は,Bに対しては合倫理的ではないとみることもできないわけではありません。そしてこのように解する場合は,愛の一般的な合倫理性に影響を及ぼすことになるといわざるを得ません。
新日本プロレスではジュニアヘビー級というカテゴリーが確立してから,現在までそのカテゴリーが継続していて,全日本プロレスではジュニアヘビー級というカテゴリーは確立したけれども長続きはせず,ひとつのジャンルになったということで,僕が具体的にいいたいのは次のようなことです。
ジュニアヘビー級というカテゴリーの中では,このカテゴリーの中の選手は,そのカテゴリーの中で試合をします。よってジュニアヘビー級の選手は基本的にジュニアヘビー級の選手を相手に試合をするということです。これはシングルマッチであろうとタッグマッチであろうと関係ありません。つまりこの場合は,プロレスの中にヘビー級というカテゴリーとジュニアヘビー級というカテゴリーがあって,ヘビー級のカテゴリーの中ではヘビー級の選手が試合をして,ジュニアヘビー級のカテゴリーの中ではジュニアヘビー級の選手たちが試合をします。よって,ヘビー級の選手とジュニアヘビー級の選手が戦うということは,特別の機会がないと発生しないということになります。初代のタイガーマスクが新日本プロレスでデビューして以降は,新日本プロレスは基本的にこの路線で興行を続けています。
全日本プロレスは短期的にはこのような期間がありましたが,それがプロレスというひとつのカテゴリーに集積し,ジュニアヘビー級はそのカテゴリーの中のひとつのジャンルとなりました。よってジュニアヘビー級の選手,つまり一定の体重以下の選手は,そのジャンルの中でも戦うし,プロレスというカテゴリーの中でも戦います。つまり,ヘビー級の選手とジュニアヘビー級の選手が試合をするということが,ほぼ日常的に生じることになります。いい換えれば,新日本プロレスではヘビー級にもジュニアヘビー級にも意味があるのですが,全日本プロレスでは,ジュニアヘビー級というのは一定の体重以下という意味があるとしても,ヘビー級というのはジュニアヘビー級ではないという消極的な意味しかないのであって,積極的に定義しようとすれば,無差別級といういい方が正しいのです。
NOAHの旗揚げで,僕は実質的な全日本プロレスはNOAHになったと解していますが,NOAHも基本的に全日本プロレスの路線を継承しました。つまりNOAHでも,ヘビー級というのは無差別級という意味なのです。
第四部定理五四備考で不安metusが有用な感情affectusとして示されるとき,それは害悪よりも利益を齎すといわれています。これはそれ自体に明らかなように,利益だけを齎し害悪は齎さないという意味ではありません。害悪を齎す場合よりも利益を齎すことの方が多いであろうというほどの意味です。もちろんこのことは,この備考Scholiumでいわれているほかの感情,すなわち自己嫌悪humilitasと後悔poenitentia,そして不安の反対感情であり,かつ不安があるときに必ずそれと同時にある希望spesの場合にも成立します。これらの感情は,害悪を齎すことがないわけではないけれども,それよりは利益を齎す場合の方が多いので,有用な受動感情であるとスピノザはいっているのです。
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したがって,過剰な愛amorが不安によって抑制されるとき,それは有用である場合,つまり過剰な愛を適正な愛へと正す場合が多くなるというのは事実であるといわなければなりません。ですから不安は有用な感情であるとされるのです。しかし必ずそのようになるのかといえばそういうわけではありません。過剰であった愛を完全に喪失させてしまうような場合,つまり存在していた愛という感情を存在しないようにしてしまうということも生じ得るのです。これが,不安という感情は有用であるけれども,害悪を齎す場合がないというわけではないということの具体的な事例です。ですからこの備考の文言そのものが,たとえ過剰な愛が不安によって抑制されて適性になるのだとしても,愛が一般的に合倫理的な感情であるということに影響を及ぼさないということを示しているといっていいと思います。
本来はこのような説明は蛇足です。たとえ不安によって過剰な愛が抑制されて適性な愛になるということが現実的に存在するある人間のうちに生じるとしても,このときに合倫理的といわれているのは,過剰な愛を適正にした不安という感情のことではなく,過剰であったものが適正になった愛の方です。他人に対して親切をなすように仕向ける感情は愛であって不安ではないのですから,適正化された方がよい過剰な愛が,それでも合倫理的であるといわれ得ることについては,この路線で解釈するのが本来的なものでしょう。
『漱石文芸論集』と同様に,漱石の評論集を集めたものとしては,『文芸の哲学的基礎』があります。これは1978年に講談社学術文庫から発売されたもので,編者は瀬沼茂樹です。
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収録されているのは二編だけです。ひとつは文庫版の標題となっている「文芸の哲学的基礎」でもうひとつは「創作家の態度」です。それぞれが長いものですから,二編だけの収録になっています。この二編を挟むように,冒頭には「この本によせて」,末尾には解説が付せられています。これらは瀬沼が執筆しています。
「文芸の哲学的基礎」の下になっているのは,1907年4月20日に,東京美術学校文学会で行った講演です。もうひとつの「創作家の態度」は,翌年の2月15日に,東京青年会館で行った講演に基づきます。漱石が朝日新聞に入社したのは1907年4月1日付ですから,いずれも朝日新聞の社員になってからの講演です。もしかしたら前者は入社以前から決定していたものかもしれませんが,後者はまさに朝日新聞の社員としての講演という一面があり,主催が朝日新聞社でした。
朝日新聞に入社した漱石は,5月3日付で入社の辞を紙面に掲載しています。大学教授と新聞屋に商売としての上下はないという主旨のことが書かれたものです。そして28日には予告をした上で,6月23日から『虞美人草』の掲載を開始しました。しかしこの間に,漱石の文章がこれ以外に掲載されなかったのかというとそういうわけではありません。4月20日に行った講演は,入社の辞を掲載した翌日の5月4日から,27回にわたって「文芸の哲学的基礎」として発表しています。発表された文章は,講演の文章そのものではなく,漱石が加筆と修正を行ったものです。文庫版に掲載されているのはこの修正版です。
「創作家の態度」の方は朝日新聞主催の講演だったのですが,文章としては1908年4月に『ホトトギス』に掲載されました。これも講演そのものの文章からは補筆が入っています。文庫版に収録されているのはこの補筆版の方です。
このことから分かるのは,理性ratioに従うことによって何らかの感情affectusが生じ,その感情が受動的な愛amorを抑制するなり除去するなりしたことが生じたとしても,それは愛が一般的に合倫理的な感情であるということには何の影響も与えないということです。理性に従えば人は他人に親切にするのであり,そのことが合倫理性の規準とされているのですから,この場合は愛が抑制されたり除去されたりしたとしても,その人間が合倫理的であるということに変わりありません。いい換えればこの事象は,受動感情によって合倫理的であったのが能動感情によって合倫理的であるようになったと説明されるべき事象です。よって受動的な愛を感じていたその当人が合倫理的であったということが変化するわけではありません。なので愛は一般的に合倫理的な感情です。より正確にいえば,愛は能動感情であるか受動感情であるかを問わず,一般的に合倫理的な感情です。
一方,もしも何らかの受動感情,ここではこれを愛以外の受動感情と限定しますが,そうした受動感情によって愛が抑制されまた除去されることによって,その人間が親切をなすことが抑制されまた除去されるのであれば,合倫理性の規準からしてこれは合倫理的でないことがその人に生じたといわなければなりません。したがってこれは合倫理的であった人間が合倫理的ではなくなったという事象として説明されるべきであって,その原因causaが愛の抑制ないしは除去とされているので,やはり愛は一般的に合倫理的な感情であるということになります。考察の過程で説明したように,たとえば不安metusという感情が過剰な愛を抑制して適切な愛にすることによって,過剰な親切を適正な親切にするということが現実的には生じるのですが,過剰であろうと適切であろうと,親切をなすことの原因となっている感情は愛の方なのであって不安ではないのですから,この事象が現実的に生じる場合にも,不安が合倫理的な感情であって愛は合倫理的な感情ではないということはできません。よって愛が一般的に合倫理的な感情であるということには何の影響もなく,不安というのは,第四部定理五四備考にあるように,有用であるというだけです。
京都向日町カップの決勝。並びは朝倉‐黒沢‐志村の関東,佐々木‐佐藤‐小島の神奈川,簗田‐二藤の静岡で阿部は単騎。
朝倉と黒沢がスタートを取りにいき朝倉の前受け。4番手に佐々木,7番手に簗田,最後尾に阿部の周回。残り3周のバックの出口から簗田が上昇。阿部は続きませんでした。誘導との車間を開けていた朝倉は,誘導が退避するタイミングから突っ張りました。上昇していた静岡のふたりが下りてきたので隊列に乱れが生じ,簗田が黒沢の後ろに下りて3番手。4番手に志村,5番手に佐々木でこの後ろに下りてきたのが二藤。佐藤が7番手になって打鐘。ホームから最後尾の阿部が発進。バックで黒沢が対抗してここから黒沢と阿部の激しい競り合い。制したのは黒沢で阿部は直線で一杯。黒沢の後ろにいた簗田が直線で阿部の外から黒沢を差して優勝。簗田の後ろになった志村は黒沢の内を突き,こちらも黒沢を差して半車輪差の2着。黒沢が4分の1車輪差で3着。
優勝した静岡の簗田一輝選手はこれがグレードレース初優勝。現況の脚力だと朝倉が最上位と思えるメンバーでしたが,簗田は記念競輪の決勝などの経験はこのメンバーの中では多く,その経験が生きれば優勝の目があるとみていました。結果的に朝倉は2周の先行のようなレースになってしまい自滅。無理に先行争いをするのではなく,よい位置に下りることができたことでチャンスが広がりました。最後尾から単騎での捲りになった阿部のスピードは見所がありましたが,さすがにあの位置からでは苦しいでしょう。一旦は静岡ラインを追った方がよかったかもしれませんが,下りる位置によっては競ることになるかもしれないので,これはこれで仕方なかったのかもしれません。
XのAに対する愛amorとBに対する愛を,それぞれ個別の感情affectusとしてみるのであれば,たとえBに対する愛がAに対する愛を抑制したり除去したりするのであっても,愛が一般的に合倫理的な感情であることには何の影響も与えません。しかし個別の感情がそれぞれどう対応し合うのかということまで考慮に入れるのであれば,この場合は,XのAに対する愛はAに対してもBに対しても合倫理的であるけれど,XのBに対する愛は,Bに対しては合倫理的であるけれどAに対しては合倫理的であるとはいえず,むしろ非倫理的であるとみられなければならないといういい方が可能です。そして僕はこのこと自体は肯定します。このとき,このことが愛は一般的に合倫理的な感情であるということに対してどのような影響を与えるかということについては,ここまで考察してきたことをまとめた上で判断を下す必要があると思います。
まず重要なのは,スピノザの哲学において合倫理的であるということは,ある種の行動ないしは振る舞いについていわれることであって,感情そのものやその他の思惟の様態cogitandi modiそのものについていわれることではないということです。つまり愛は一般的に合倫理的な感情といわれるとき,それは愛という感情そのものについていわれているのではなく,愛という感情がその人に生じさせる振る舞いについていわれているのです。要するに,愛という感情はその人に合倫理的な振る舞いをさせるように仕向けるので,それは合倫理的な感情であるといわれているのです。
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この振る舞いを具体的に示しているのが第三部定理三九です。この定理Propositioは条件を付けていますが,原則的にある人を愛した人はその人に親切にするようにするといっていて,この親切にするという振る舞いが合倫理的であるために,愛は一般的に合倫理的であるといわれるのです。ではなぜ他人に親切にすることが合倫理的であるといえるのかといえば,それは現実的に存在する人間は有徳的であれば,いい換えれば理性ratioに従っているならば他人に対して親切にするからです。有徳的であれば必然的にnecessario合倫理的であり,その合倫理的な振る舞いをさせる受動感情は,合倫理的といわれます。
本性としての悪というのは存在しませんし,それと同様に本性としての善というのもありません。しかし善の確知は単に疑わないというだけでなく,疑い得ないという場合もあるのに対し,悪の確知は疑い得ないということはあり得ず,疑わないということだけです。これらのことが矛盾しないということは説明できました。僕は現実的に存在する人間が善bonumを確知するcerto scimusとか悪を確知するというときには,基本的にこの路線で解釈します。
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ただし,このことは善と悪を第四部定理八に依拠して解釈する場合です。この定理Propositioでは善は喜びlaetitiaの認識cognitioで悪malumは悲しみtristitiaの認識としています。喜びと悲しみは反対感情ですから,この場合は善と悪は反対概念になります。つまり善の反対概念が悪であって,悪の反対概念が善です。このようにここでは善と悪が対等の関係にみられています。別のいい方をすれば,ここでは善も悪も同じような意味で積極的に規定されていることになります。
ところが,第四部定理序言で善悪について言及されるとき,そこではこのような関係が成立していません。同様に第四部定義一と第四部定義二で,善と悪がそれぞれ定義されているところでも,善と悪の対等な関係は成り立っていません。定義Definitioの方で説明すれば,第四部定義一というのは明らかに善を積極的に定義しているといえますが,第四部定義二の方は悪を積極的に定義しているわけではなく,善を妨害するものとして,消極的に定義されています。いってみればこれらの部分では,善と悪は対等な関係にあるわけではなく,善という積極的なあるものがあって,それを妨げる,いい換えればそれを否定するnegareものとして悪があるのです。つまり,善は積極的なものであり,その積極的なものを否定するものが悪なのです。
これらの部分がこのような仕方で善と悪に言及していることには,ある理由があると僕は考えています。それもまた善悪が事物の本性essentiaを示すのではなく,現実的に存在するある人間によって認識されるものであるということに関係しています。このとき,善であるものは積極的に認識されるのですが,悪なるものは悲しみの認識と積極的に認識されるのではなく,積極的なものである善を否定するものとして認識されるという場合があるのです。
これで第一の課題も解決することができました。確かに現実的に存在する人間は,理性ratioに従うことによって受動的な愛amorを抑制したり除去したりすることはあるのですが,このことと愛が一般的に合倫理的な感情affectusであるということとは矛盾しません。なのでこれでこの考察を終了してもよいのですが,追加として次のことをいっておきます。
愛が僕たちのうちに生じるとき,それは個別の感情として生じます。そしてこれが個別の感情として生じるがゆえに,愛は部分的に合倫理的であるとはいえない,もっといえば非倫理的な感情であるとみなすことができる場合があるということについては,僕は否定しません。ただし,理性に従うことによって愛を抑制したり除去したりすることは合倫理的であるとしかいえないので,このことは受動的な愛の場合にのみ限定していえることです。
再三にわたっていっているように,第四部定理七でいわれているように,僕たちに生じるある感情を抑制するのは,それとは別の感情です。ただこの現象が僕たちのうちに生じるときには,それは個別の現象として生じるのです。つまり,ある個別の感情が,それとは別の個別の感情によって,除去されたり抑制されたりするのです。しかるに愛は個別の感情,すなわち,XのうちにあるAに対する愛とBに対する愛は別の感情です。したがって,Xのうちに生じるBに対する愛という感情が,同じXのうちにあるAに対する愛という感情を抑制したり除去したりするということは現に生じ得ます。現に生じ得るというより,このことは僕たちが自身のことを反省的に顧みるならば,僕たちのうちでしばしば生じている現象であることが理解できると思います。Aを愛していたけれどもBを愛することによってAに対する愛が減少したとか醒めてしまったというようなことは,多くの人が経験していることだと思われます。
このとき,愛は個別の感情なので,Aに対する愛とBに対する愛は別の感情としてみられなければならず,その限りではどちらも合倫理的な感情であるといわなければなりません。ですから,愛が一般的に合倫理的な感情であるということまで否定されるわけではありません。
7日に徳島市で指された第34期女流王位戦五番勝負第四局。
里見香奈女流王位の先手で5筋位取り中飛車。伊藤沙恵女流四段が向飛車にしたので,先手は左玉から飛車を2筋に戻しました。
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後手が中央を手厚くしながら木村美濃を目指した局面。ここで金が離れたのをみて先手が☗4五歩と仕掛けました。結果的にこの仕掛けが機敏だったようです。大捌きになって先手の桂損となりましたがその代償として龍を作る展開になり,優位に立ちました。この形で中央を手厚くするのは有力な作戦だと思うのですが,この局面で銀を上がるのは危険で,もう少し工夫が必要なようです。
里見女流王位が勝って3勝1敗で防衛。第23期,26期,27期,28期,30期,31期,32期,33期に続く五連覇で9期目の女流王位です。
愛amorは人間を他者への親切に駆る感情affectusであるがゆえに合倫理的であるといわれます。このとき,愛も親切も個別のことを意味するわけではなく,愛一般また親切一般を意味します。よって,個別の愛が抑制されたり除去されたりする事象が生じたからといって,一般的に愛が合倫理的であるということが否定されるわけではありません。個別の愛はそれ自体でみられるなら他人に対する親切にその人間を駆る感情であるということは事実なのであって,それが個別の感情のすべてに適用されるからです。よって受動的な愛,これは個別の愛としての受動的な愛ですが,それは理性ratioによって抑制されるあるいは除去されるということがあり得ますが,だからといって抑制されたり除去されたりしたその個別の愛は,合倫理的な感情ではなかったと解する必要はありません。
一方,理性はそれ自体で有徳的であり,かつ合倫理的であるとみられなければなりません。これは理性を個別的なものとみるか一般的なものとみるかは関係がありません。というのは第四部定理三五にあるように,理性に従う限りでは人間の現実的本性actualis essentiaは一致するので,たとえば現実的にある人間が個別の理性に従うということが生じるとしても,生じたその現象はその人間に特有の事象ではなく,現実的に存在する人間であればだれにでも同じように生じる事象であるからです。ですから理性が一般的に有徳的であるといわれることと,現実的に存在するある人間が理性に従う限りでは有徳的であるといわれることは,異なったことをいっていると解する必要はありません。というか,同じことをいっていると解するべきだと僕は考えます。
よって,現実的に存在する人間は理性に従っている限りでは有徳的であり,かつ合倫理的であることになります。ですから理性に従って愛を抑制したり除去したりしたとしても,合倫理的なのです。つまり,理性によって受動的な愛が抑制されたり除去されたりすることは現にあるのですが,だからといってそれは愛が一般的に合倫理的な感情であるということとは矛盾しませんし,現実的に存在する人間は有徳的である限りでは合倫理的であるということとも矛盾しません。
昨晩の第69回東京ダービー。コロンバージュが競走除外になって15頭。
ボヌールバローズの逃げとなりました。2番手にミックファイア。3番手にオーマイグッネスとリベイクフルシティ。5番手のナンセイホワイトとヒーローコールまでは一団。2馬身差でルクバーとオピニオンリーダー。1馬身差でピノホホッアとガンモヘラクレスとブルマリンシェール。1馬身差でウインドフレイバー。4馬身差でライズゾーン。1馬身差でナイトオブバンド。1馬身差の最後尾にサベージという隊列。前半の1000mは63秒7のスローペース。
3コーナーを回るとボヌールバローズにミックファイアが並び掛け,ヒーローコールが差のない3番手。その後ろは3馬身ほど離れてリベイクフルシティとナンセイホワイトとサベージの3頭。直線の入口ではミックファイアが単独の先頭。あとは後ろを離していく形になって快勝。早めに3番手に上がっていたヒーローコールが6馬身差で2着。外を回って追い上げたナンセイホワイトが1馬身4分の3差の3着でさらに外を回ったサベージが1馬身半差で4着。
優勝したミックファイアは羽田盃に続いての南関東重賞2勝目。デビューからの連勝を5に伸ばしました。羽田盃の内容から能力上位は明らか。距離はそれほど案じる必要はないと思っていましたが,久々だった前走の反動はやや不安でした。しかしそれも問題にならずこのレースも圧勝。4着まで上位人気の馬が占めているように各馬が力を出し切ってのものですから,着差がこの馬の能力を表しているといえるでしょう。スローペースなのにレースレコードを出していますから,ジャパンダートダービーでも優勝候補の1頭だと思います
騎乗した大井の御神本訓史騎手は東京プリンセス賞以来の南関東重賞62勝目。東京ダービーは初勝利。管理している大井の渡辺和雄調教師は南関東重賞9勝目。東京ダービーは初勝利。
第三部定理三九は,ある人のことを愛している人は,条件はつくものの,その人に対して親切をなそうとするといっています。このときにいわれている親切というのも,第三部諸感情の定義六でいわれている愛amorが一般的であるのと同じように,一般的なことです。現実的に存在する人間が他者に対してなすあるいはなそうとする親切は,個々の親切であって,一般的な親切ではありません。XがAになす親切と,XがBになす親切は,同じ親切であるとは限らないからです。それらが同じように親切といわれるのは,それがAにとっての善bonumであり,Bにとっての善であるということ,より正確にいうなら,XがAにとっての善であると認識し,またBにとっての善であると認識しているからです。
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なおかつ第三部定理三七でいわれているように,愛から生じる欲望は,愛の大きさに比例します。よって,XがAを愛しているならXはAに親切をなす,いい換えればAにとっての善を与えるつまりAを喜ばせようとするでしょうし,Bを愛しているならBを喜ばせようとするでしょう。しかしXはAもBも愛しているけれど,AよりBをより多く愛しているとすれば,XはAを喜ばせようとする以上にBを喜ばせようとすることになるでしょう。あるいは,AよりもBを大きく喜ばせようとするでしょう。これは,XがAを喜ばせようとする欲望より,Bを喜ばせる欲望の方が大きいという意味になります。そしてその理由は,XはAよりもBの方をより愛しているということになるのです。この帰結として,XがAに対してなす親切とXがBになす親切は異なってくることになります。つまり現実的に存在する人間が,愛のゆえになす親切は,一般的なものではなく個別的なものであるといわなければなりません。
愛という感情affectusが一般的に合倫理的であるといわれるのは,愛という感情が他者に対して親切をなすように仕向けるものであるからです。このとき,ここでいわれている愛というのは個別の愛を意味するのではなく,第三部諸感情の定義六に合致する一般的な愛を示しています。そして同様に,親切というのも個別の親切を意味するのではなくて一般的な親切を意味しています。
5日にベトナムのダナンで指された第94期棋聖戦五番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太棋聖が2勝,佐々木大地七段が2勝。
産経新聞の会長による振駒で藤井棋聖の先手となり,角換わり相腰掛銀。後手の佐々木七段が4筋に飛車を回る将棋になりました。
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ここで先手が最も指したかったのは☗3六歩でした。ただ☖6七金☗5九王☖3六角の進展に自信が持てなかったので断念しました。
最善手は☗5三角。☖3三玉に☗3四歩☖同銀としてから☗4四角成と切り,☖同王に☗5六桂と王手で角の利きを遮断する順でした。
後手はこの順があると知っていたので,第1図は負けと思っていたようです。ですが先手はそれが分からなかったので☗5二と☖同銀☗同金☖同玉☗6七銀と進めました。これは粘りにいったような順。
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後手は負けと思っていたのが第2図に進んだのでチャンスと感じたようです。しかしここで☖8六歩と突いたために☗1七角と打たれてチャンスを逸しました。第2図は☖4三金と上がるべきで,それなら五分の戦いでした。部分的には後手が読み勝っていたのですが,先手が粘りにいった順が五分だったので,その部分で読み負けていたのが致命傷にはならなかったという一局でした。
藤井棋聖が先勝。第二局は23日に指される予定です。
現実的にXという人間が存在していると仮定します。このXが愛amorという感情affectusを感じるとして,Xは特定の対象にだけ愛を感じるとは限りません。XはAを愛しまたBを愛し,そしてCも愛するというように,様ざまな対象を愛することがあり得ます。このとき,XのAに対する愛,Bに対する愛,Cに対する愛は,一般的にいえば同じように愛という感情ではありますが,現実的に存在するXにとっては各々が別の感情です。このことをいっているのが第三部定理五六でした。
ではXにとってそれぞれ異なるこれらの異なる感情が,一般的には愛といわれるのはなぜかといえば,第三部諸感情の定義六により,XはAの観念ideaを有する限りではそのAの観念を原因causaeとして喜びLaetitiaを感じ,Bの観念を有する限りではBの観念を原因として喜びを感じ,またCの観念を有する限りではCの観念を原因として喜びを感じるからです。このことの中に,第三部定理五六でいわれていることの論証Demonstratioが含まれているといえます。もしこれら各々の感情がXにとって同一の感情であるというなら,XにとってAの観念もBの観念もCの観念も同一であるというのと同じことであって,しかしそれをいうのは不条理であるからです。
Xにとってこれら各々の感情は別個の感情ですから,同じようにその観念を原因として喜びを感じているからといって,同じように同じだけの喜びを感じているわけではありません。どのような仕方でどれだけの喜びを感じようと,ある観念を原因として喜びを感じれば,その観念対象ideatumに愛という感情を抱いていることになるというだけのことです。したがって,XはAの観念を原因として感じる喜びよりも,Bの観念を原因として感じる喜びの方が大きいということはあり得ます。あり得るというより,現実的にはそういう場合がほとんどであるといえるでしょう。この場合はXはAもBも愛しているけれども,AよりもBをより多く愛しているといわれることになります。
第三部定理三七は,愛から生じる欲望cupiditasは,愛が大きければ大きいほど大きくなる,つまり比例関係にあるという意味のことをいっています。そしてこのことが第三部定理三九と関係してくるのです。
大垣記念の決勝。並びは橋本に佐藤‐菅田の北日本,松谷‐山賀の南関東,犬伏‐荒井‐園田の西国で浅井は単騎。
犬伏がスタートを取って前受け。4番手に浅井,5番手に松谷,7番手に橋本で周回。残り3周のバックから橋本が上昇。残り2周のホームの入口で犬伏と並ぶと,誘導が退避するタイミングで犬伏を叩きました。浅井がスイッチすると,松谷もスイッチ。差のある4番手に浅井,5番手に松谷,差のある7番手に犬伏,最後尾の園田は荒井と車間が開き,縦長の一列棒状で打鐘から残り1周のホームに。ここから犬伏が巻き返しを図りましたが,浅井が先んじて発進。松谷が浅井の捲りに乗ったこともあり,犬伏は不発に。浅井はそのまま猛スピードで橋本を捲り,マークの松谷との差は直線で詰まったものの抜かせずに優勝。浅井マークのレースになった松谷が1車輪差で2着。佐藤マークから直線で松谷と山賀の間を突いた菅田が4分の3車身差で3着。松谷マークの山賀が8分の1車輪差の4着で橋本マークから内に進路を取ることになった佐藤が半車輪差で5着。
優勝した三重の浅井康太選手は4月の四日市での協賛競輪以来の優勝でGⅢ32勝目。記念競輪は一昨年9月の松阪記念以来となる31勝目。大垣記念は初優勝。このレースは犬伏が人気に推されていましたが,先行するのは橋本でしょうし,浅井の位置取りが犬伏よりも後ろになるとは考えにくかったので,簡単ではないだろうと思っていました。結果的に松谷がずっと浅井マークのレースになったため,余計に苦しくなりました。浅井の捲りに対して佐藤がもう少し抵抗するのではないかと思っていたのですが,あっさりと乗り越えることができたので,差こそ詰められたものの展開的には楽な形での優勝。佐藤が牽制できなかったのは浅井のスピードがよかったためですから,浅井の脚力が以前に戻りつつあるということなのだと思います。
この観点についてはここでは明確な解答はしないといっておきましたから,これ以上の探求はここではしません。何らかの意味で理性ratioが悪malumを認識するcognoscereということを肯定するaffirmareのであれば,ここまでにいってきたことは守られなければなりません。それを守った上で,各々が,何らかの意味というのがどのような意味であるかということを考えていかなければなりません。もちろん,理性が悪を認識しないという見解opinioもあり得ますが,その場合でも,そこで考察をストップするのではなく,理性が悪を認識していると読解することができるような定理Propositioに関して,それらは善悪の認識cognitioとは関係していないということを説明する必要があります。
これで第二の課題は第一の観点も第二の観点も説明することができました。なので第一の課題の解決に向かうことにします。この課題は,受動的な愛amorが理性に従って生じる感情affectusによって抑制されたり除去されたりすることは有徳的であるといわれなければならないのに,愛が一般的に合倫理的な感情であるといわれるのは不条理ではないかというものでした。このことは第二の課題の中で,合倫理的であることがより合倫理的になるという事例によって説明したことからも解決することができそうですが,こちらの課題は愛という感情を一般的にみたものなので,それとは異なった仕方で解決を目指します。というのは,理性から生じる感情によって愛が抑制されたり除去されたりするというとき,もしもそれが理性から生じる愛によって受動的な愛が抑制されまた除去されるなら,この説明でもよいのですが,受動的な愛を抑制したり除去したりする理性から生じる感情が,愛であると限定することができるわけではないからです。
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前もっていっておいたように,このことは,第三部諸感情の定義六で定義されている愛は,一般的なものであって,現実的に存在する人間は,このような一般的な仕方で愛を感じるわけではないということを踏まえておくことが重要です。すなわち,外部の原因の観念を伴った喜びLaetitia, concomitante idea causae externaeはすべからく愛といわれるのですが,外部の原因の観念というのは現実的には個別のものであって,AでもBでもCでもあり得るのです。
日本ダービーを勝ったタスティエーラの父はサトノクラウンです。
2歳の10月にデビューして新馬を勝つと続く東京スポーツ杯2歳ステークスで重賞を制覇。十分に賞金を稼いだので休養に入りました。
3歳初戦の弥生賞も制して重賞2勝目。皐月賞は1番人気に推されましたが,同じ厩舎のドゥラメンテの6着。ダービーもドゥラメンテの3着でした。
秋は天皇賞(秋)にぶっつけで出走。これはラブリーデイの17着に大敗。
4歳初戦の京都記念を制して重賞3勝目。遠征したクイーンエリザベスⅡ世カップは12着と大敗。帰国して出走した宝塚記念は6着でした。
この年も天皇賞(秋)で復帰。これは同じ厩舎のモーリスの14着。しかし再び遠征した香港ヴァーズを勝って大レース初制覇を海外で達成しました。
5歳初戦の京都記念で連覇を達成して重賞5勝目。大阪杯はキタサンブラックの6着でしたが宝塚記念を勝って大レース2勝目。
また天皇賞(秋)で復帰してキタサンブラックの2着。ジャパンカップは10着,有馬記念がキタサンブラックの13着でした。
6歳初戦は遠征したドバイシーマクラシックで7着。帰国して出走した宝塚記念は12着でした。
秋はジャパンカップで復帰。9着に敗れて現役を引退しました。
大レースは2勝していますが,大敗も多く,超一流の成績を残した競走馬ではありません。ダービー馬が輩出したように,基本的に中距離から長距離向きの産駒が多くなると思われます。
理性ratioによって害悪を与えたり親切にすることを断念するとすれば,受動感情によってそうする場合と異なっていると考える必要があります。なぜなら,第四部定理三五にあるように,理性に従う限りでは人間の現実的本性actualis essentiaは一致するからです。だからたとえばAという人間が現実的に存在していたとして,AはBを憎んでいるけれど,理性に従うことによってBに害悪を与えることを断念したということが生じたとしても,それがAであることに何らかの意味があるとすれば,そのときにAは理性の指示に従ったということ,いい換えればその限りにおいてAは自由の人homo liberであったということであって,Bに害悪を与えることを断念したことではありません。理性の指示に従うとすれば,すなわち自由の人でありさえすれば,だれであろうと憎しみのゆえに害悪を与えるということについては断念することになるからです。
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ここから理解できるように,もし理性が何らかの意味で悪malumを認識するcognoscereのだとすれば,それは認識したその人間にとって悪であるということを意味するのではありません。それは現実的に存在するすべての人間にとっての悪であって,とくに現実的に存在する人間が理性に従っている限りにおいての悪なのです。よって,理性が何らかの意味で悪を認識するという場合は,だれがそれを認識するのかということは問う必要がありません。このことは主体subjectumの排除と関係していることはいうまでもありません。いい換えれば,理性が何らかの意味で悪を認識するといわれるときの悪は,ある特定の主体にとっての悪というわけではないので,主体が排除されたような意味での悪です。第四部定義二は,悪とは現実的に存在する人間が確知するcerto scimusものであるといっていますが,だれが確知するのかということをこの場合は気に掛ける必要はありません。また,第四部定理八は,意識された限りにおいての悲しみtristitiaを悪といっていますが,理性が何らかの意味で認識するような悪は,現実的に存在するすべての人間が同じように感じる悲しみであることになります。いい換えれば第三部諸感情の定義三により,すべての人間が大なる完全性perfectioから小なる完全性に移行することになります。
第73回安田記念。
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外からウインカーネリアンがハナへ。2番手以下はジャックドール,ソダシ,ドルチェモア,カフェファラオの順で続き,その後ろにセリフォスとダノンスコーピオンとシャンパンカラーが併走。その後ろがガイアフォースとソングライン。さらにメイケイエールとイルーシヴパンサーとレッドモンレーヴが併走で追走。その後ろにナミュール。ソウルラッシュとシュネルマイスターまで,集団でのレース。2馬身差でナランフレグで最後尾にマテンロウオリオンという隊列。前半の800mは46秒0のスローペース。
直線に入るところではまだウインカーネリアンが単独で先頭。その後ろはジャックドール,ソダシ,カフェファラオの3頭で併走。この中で最も手応えがよかったジャックドールが直線に入ると前に出ました。内を回ったセリフォスが進路を変更しながら最終的にジャックドールとソダシの間に進路を取り,ジャックドールを差したのですが,外からソングラインが末脚を伸ばし,セリフォスをあっさりと差し切って優勝。ソングラインのさらに外からガイフォースとシュネルマイスターが並んで追い込み,シュネルマイスターはセリフォスに迫りましたが届かず,セリフォスが1馬身4分の1差で2着。シュネルマイスターがアタマ差の3着でガイアフォースがクビ差で4着。直線先頭のジャックドールはクビ差で5着。
優勝したソングラインはヴィクトリアマイルから連勝で大レース3勝目。安田記念は昨年も制していて連覇となる2勝目。このレースは上位に入った3頭とソダシを合わせた4頭が,この条件ではほかに対して能力上位で,それぞれには大きな差がないという一戦。したがって結果としては順当なものであったと思います。レースをすれば着順も着差も出ますが,それがそのときの能力差を表しているというよりは,レースのたびに着順も着差も変わり得るという関係にあるとみた方がいいと思います。同年のヴィクトリアマイルと安田記念を連勝するのは,これまでに挑戦した馬の質からみてもかなりの偉業といえ,この点は称えられるべきでしょう。父はキズナ。母の父はシンボリクリスエス。祖母の父はアグネスタキオン。3代母がソニンク。祖母の3つ下の半弟が2011年にエルムステークス,2012年にダイオライト記念,2013年に浦和記念,2014年に佐賀記念を勝ったランフォルセで,4つ下の全弟が2011年にアーリントンカップ,2013年にカペラステークス,2014年に東京スプリントとさきたま杯と東京盃,2015年にさきたま杯を勝ったノーザンリバー。
騎乗した戸崎圭太騎手はヴィクトリアマイル以来の大レース20勝目。第61回以来となる12年ぶりの安田記念2勝目。管理している林徹調教師はヴィクトリアマイル以来の大レース3勝目。安田記念は第72回に続く連覇で2勝目。
僕は第四部定理七〇を指摘しましたが,これは一例であって,『エチカ』の中にはほかにも,理性ratioが何らかの意味で悪malumを認識するcognoscereことができると解釈することができるような定理Propositioがあるかもしれません。ですから何らかの意味で理性が悪を認識するといっても,その具体的な意味はどこを解釈するかということによって異なり得るでしょう。ただ,第四部定理六八とか,これを論証する根拠となっている第四部定理六四が『エチカ』に含まれているということは厳然たる事実です。ですからそのことをどのような意味で解するにせよ,その意味がこれらの定理と反してはいけません。他面からいえば,理性は何らかの意味で悪を認識するというとき,その何らかの意味のうちに,それはこれらの定理には反しないということが含まれていなければなりません。
それからもうひとつ,第三部定理三九で,憎しみodiumのゆえに害悪を与えることを断念するとか,愛amorのゆえに親切をなすことを断念するといわれるとき,実際にそのようなことが起こるのならそれは個別的な現象として生じます。たとえば,不安metusという感情affectusが害悪を与えることを断念させるとしても,現実的に存在する人間が何に対して不安を感じるのかということは個人によって異なりますし,不安を感じるとしてもどの程度の不安を感じるのかということも個人によって異なります。しかもそれは単にある人と別の人の間で異なっているだけでなく,同じ人間のうちでも,あるときとそれとは別のときとでは異なっています。つまりある人間は不安を感じるがゆえに断念するけれども,別の人間は不安を感じないので断念しないということはあり得ますし,同じ人間があるときは不安のゆえに断念したけれども別のときには不安を感じなかったので断念しなかったということが起こり得るのです。このことは第三部定理五一から明らかだといえます。そしてこの相違が各々の人間の現実的本性actualis essentiaの相違を意味します。このことを示しているのは第三部定理五七です。逆にいえば,現実的に存在する各々の人間の現実的本性が異なっているので,第三部定理三九でいわれていることは,個別の事象と考えられなければならないのです。
『こころ』は作者である漱石と,作品内作者であるわたしおよび先生との役割分担が,小説としてそうあるべき姿となっています。これは小説家としての夏目漱石の技量以外の何ものでもないと僕は考えます。
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『こころ』は漱石がいくつかの小説,とりわけ朝日新聞に入社して以降いくつかの新聞小説を書いてから書かれたものです。ですから,この卓越した技量というのは,必ずしも最初から漱石に備わっていたものではなかったかもしれません。実際に漱石が最初に書いた新聞小説である『虞美人草』は,別の意味ではありますが小説としては失敗作だったといえます。漱石はそれを反省材料としてそれ以降の小説を掲載していったのは間違いありません。そしてそのような反省を繰り返していったのが,『こころ』の成功に結実したとみることができます。いい換えれば,『こころ』を執筆する時点でようやく漱石は作品内作者を登場させるだけの技量をもつことができ,自分にそれだけの技量が備わったということを漱石自身も理解したので,『こころ』という作品内作者が登場する小説を書くに至ったという見方です。つまりこうした技量を漱石は実践の中で身につけていったという可能性は大いにあるでしょう。
漱石は元々は小説家であったわけではなく,英文学者でした。ですから文学論を学び,また自身でも考えていました。そのことが小説家としての技量に生かされたと考えることもできます。この場合は漱石は小説家としてデビューする時点で,ある程度の技量を備えていたということになります。処女作である『吾輩は猫である』は,小説を書くというような気持ちよりももっと軽い気持ちで書いたものではないかと僕には感じられますが,少なくとも小説家として朝日新聞に入社したときには,漱石には小説家という自負はあったのは間違いありません。ですから,漱石は作家としてデビューした時点である程度の技量は身につけていたのであって,『こころ』よりももっと早い時点で作品内作者の作品を書いていたとしても,漱石自身と登場人物との間の役割分担をうまくこなせていたかもしれません。
実践的なものだったのか理論的なものだったのかははっきりと確定させられるわけではありません。漱石がこの技量をいかに身につけたのかは,謎だといえそうです。
第四部定理七〇は,自由の人homo liberは無知の人から親切にされることを可能な限り避けようとするという主旨のことをいっています。ここでいわれている無知の人とは,自由の人とは反対の人びとと解するべきです。よって,自由の人とは理性ratioに従う人のことですから,無知の人とは理性に従わない人,あるいは同じことですが,受動感情に従う人という意味になります。つまり自由の人は,受動感情に従っている人から親切にされることについては極力避けようとするのですが,それを避けようとするその判断は,自由の人の理性から生じているといわなければなりません。
ですからこのことは,理性に従う人は,受動感情に従っている人から親切にされると,その後に何らかの悪malumが生じるからそれを避けようとすると解釈できないわけではありません。そしてこのように解釈するなら,自由の人は理性に従うことによって何らかの意味では悪というのを認識しているということになるでしょう。よって,第四部定理六八とか,その定理Propositioの証明にあたっての最大の根拠となっている第四部定理六四および第四部定理六四系を,文字通りの意味に解することによって,理性による認識cognitioによっては悪という概念notioは生じ得ないというのであるとしても,たとえば第四部定理七〇のような定理について,それを悪とは関連付けないで,悪と関連付けないということは同時に善bonumとも関連付けないということを意味しなければなりませんから,善悪とは関連付けなくてもよいのはなぜなのかということについては,説明する責務を負うと僕は考えます。
これとは逆に,第四部定理七〇を,善悪と関連付けて考える場合には,少なくとも何らかの意味で理性は悪についての認識を有するということになりますから,第三部定理三九でいわれていることのうち,憎しみodiumによって害悪を与えることを断念することも,愛amorのゆえに親切をなすことを断念することも,受動感情だけから生じるわけではなく,理性からも生じる,少なくとも生じ得るといわなければなりませんから,さらに先へと探求を進めていく必要があります。そこでここからは,さらに歩みを進めていくために必要とされることを説明していきます。
昨晩の第27回北海道スプリントカップ。
ケイアイドリーは発馬後の加速が鈍く1馬身の不利。ジャスティンとスペシャルエックスとダンシングプリンスの3頭が並んで逃げるようなレース。3馬身差でスティールペガサス。1馬身差でアイオライト。2馬身差で巻き返してきたケイアイドリーとホッコーライデン。5馬身差でフジノパンサー。4馬身差でスマートアヴァロン。3馬身差の最後尾にジャスパーシャインという縦長の隊列。33秒7の超ハイペース。
3コーナーでは前の3頭のリードは5馬身くらい。この時点ではケイアイドリー,スティールペガサス,アイオライトの3頭が併走の4番手。この3頭が並んだまま前との差を詰めていって,直線の入口では1馬身くらい後ろまで追いつきました。スペシャルエックスは脱落してジャスティンとダンシングプリンスの競り合いとなり,ここから前に出たのはダンシングプリンス。並んで追ってきた3頭のうちケイアイドリーがダンシングプリンスの外から前に出てきて先頭に。一番外からアイオライトが伸びてきましたが,ケイアイドリーには追い付けず,優勝はケイアイドリー。アイオライトが1馬身半差で2着。ケイアイドリーが抜けた後にダンシングプリンスとアイオライトの間から伸びたスティールペガサスが1馬身差で3着。
優勝したケイアイドリーは2月にオープンを勝って以来の勝利。重賞は初制覇。このレースはダンシングプリンスの能力が上位でしたが,59キロという斤量は明らかに不利で,ほかの馬にもチャンスがあるとみていました。その場合はケイアイドリーとアイオライトの2頭が有力とみていましたが,1200mの距離適性ではケイアイドリーの方が上回っていたようです。東京スプリントの2着に続いての好走なので,スプリント路線では上位の力があるとみて間違いないでしょう。父はエスポワールシチー。ひとつ上の半兄が昨年の佐賀記念と白山大賞典を勝っている現役のケイアイパープル。
騎乗した藤岡康太騎手は北海道スプリントカップ初勝利。管理している村山明調教師は第20回以来7年ぶりの北海道スプリントカップ2勝目。
結論を出すことはしませんので,どういった順序でそれを考えていけばよいのかを示します。
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まず留意しなければならないのは,もし自由libertasであるなら,人は悪malumという概念notioを形成しないといっている第四部定理六八です。この定理Propositioは悪という概念を形成しないというだけでなく,善bonumという概念も形成しないといっていますが,善の概念が形成されないのは悪の概念が形成されないからです。すなわち,善と悪は反対の概念ですから,あるものが悪と認識される限りにおいて他のものは善と認識され得ることになります。よってもし悪が概念として形成されないのであれば,善も概念として形成されようがありません。また,ここで自由といわれているのは,人が理性ratioに従っているということを意味します。つまり人は理性に従う限りでは悪の概念を形成しないということがこの定理の主旨で,悪の概念が形成されないなら善の概念も形成されないことになるのです。
理性に従っている人が悪の概念を形成しないことの根拠となるのは,第四部定理六四であり,そこから直接的に生じる第四部定理六四系です。人間は理性に従っている限りでは事物を十全に認識します。ところが悪の認識cognitioは十全な認識ではなく混乱した認識です。よって人は理性に従っている限り,いい換えれば自由である限り,悪を認識するcognoscereということがありません。よってこの場合には人は悪の概念を形成し得ないでしょう。そして悪の概念を形成し得ないのなら,善の概念も形成し得ないことになるでしょう。このようにして第四部定理六八は論証されることになります。
この定理をそのまま受け止めるのなら,理性は悪を認識することはないでしょう。よって第三部定理三九でいわれていることのうち,憎しみodiumのゆえに他人に害悪を与えることを断念することと,愛amorのゆえに他人に親切をなすことを断念することは,理性によって生じることはなく,たとえば不安metusのような受動感情からのみ生じるということになります。
ただし,この解釈を採用したから,このことについてそれ以上は考える必要がないというようには僕は思いません。『エチカ』には理性が悪を認識すると解釈できる定理もあるからです。
書簡六十二のおよそひと月前,1675年6月8日付でオルデンブルクHeinrich Ordenburgからスピノザに宛てられたのが書簡六十一です。『スピノザ往復書簡集Epistolae』に収録されたものの中では,この書簡が書簡三十三の次にオルデンブルクからスピノザに宛てられた書簡です。実際にはこの書簡の冒頭で,数週間前に『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』の感想をスピノザに送ったという主旨のことが書かれていますので,それがスピノザに届いたかどうかは分かりませんが,オルデンブルクがスピノザに書簡を送っていたことは間違いありません。
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『神学・政治論』が刊行されたのは1670年です。書簡三十三は1665年12月8日付ですから,ふたりの文通が途絶えたとして,それが『神学・政治論』の刊行に由来するということはできません。しかも,この書簡によれば,スピノザがオルデンブルクに送った『神学・政治論』はオルデンブルクに届かなかったということが書かれています。オルデンブルクは間違いなく何らかの方法で『神学・政治論』を入手し,それを読んだのですが,それを読んだのがこの書簡を書く少し前だったことを窺わせますので,なおのこと『神学・政治論』そのものが文通が途絶える要因となったということはできないでしょう。ただスピノザの思想が神学にとって危険であるということは,『神学・政治論』を読まずとも知り得ますから,そのことが文通が途絶えた要因であるのは間違いないと思います。
数週間前に送った感想は,『神学・政治論』の内容の多くのことが宗教を害するということでした。これは書簡六十二の内容とは一致しているといえます。ただこの書簡では,スピノザが真の宗教を害することを企てているとはまったくあり得ないと信じることを発見したといっています。
書簡六十三ではシュラーGeorg Hermann SchullerがチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausはロンドンにいるといっていて,この年の春からロンドンにいました。もしかしたら『神学・政治論』をオルデンブルクに渡したのはチルンハウスだったかもしれません。そのためにオルデンブルクはまたスピノザに書簡を送るようになったと考えられます。この書簡の『神学・政治論』に対するオルデンブルクの見解は,チルンハウスの影響を受けたものだったと推測されます。
僕たちは理性ratioが直接的に感情affectusを統御することができると思い込んでいる,少なくとも思い込みがちです。同様に,ある事柄を十全に認識しさえすればそのものの混乱した観念idea inadaequataは排除され,またそれ以降は発生することもないと思い込みがちです。僕たちはデカルトRené Descartesのオペレーションシステムの下に形成された社会に生きているので,そのこと自体は仕方がないことだと思います。しかしそのために,ある感情が受動感情によって抑制されたり排除されたときに,それが理性によって抑制されまた排除されたと思い込みやすくなっているのです。これは理性への過信というより理性への妄信とでもいうべきことですが,理性への過信に気をつけなければいけないのと同じように,あるいはそれ以上に,理性への妄信には僕たちは気をつけなければなりません。僕たちは理性に従う限りでは単に合倫理的であるというだけでなく,有徳的でもあり得るのですが,有徳的であるからといって,受動感情を統御することができるわけではありません。理性から生じる感情だけが,受動感情を抑制したり排除したりすることができるのです。同様に,有徳的であるからといって,事物を混乱して認識するcognoscereことがなくなるわけではありません。理性は混乱した観念を除去することはできませんし,混乱した観念が発生することを妨害することもできないのです。もしもこうしたことのどれかひとつでも僕たちにとって可能であると思うならば,それは理性への妄信であって,そのように思うとき,僕たちはまさに誤謬errorを犯しているといわなければなりません。
第二の課題の第一の観点についてはこれで解決することができました。次に,第二の課題の第二の観点について考察します。
この観点は,結局のところ,悪malumの確知というのが僕たちにとって十全な認識cognitioであり得るのかあり得ないのか,またあり得るとするならどのような意味であり得るといえるのかということに帰着します。僕はこのことは第四部序言との関連で考察していますので,ここではそのことについてはっきりとした結論は出しません。そちらの探求が進捗すれば,どのような結論になるかは自ずから明らかになっていくでしょう。