『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』には,一読するだけでその信憑性を失わせるようなエピソード,創作であると仮定すればプロットが数多く含まれています。そしてそうしたものにはある共通の特徴が含まれています。ここからその代表的な部分として,三箇所を示します。スピノザに関連することがひとつで,スピノザと関連があったファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenおよびメナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelに関連する部分がひとつずつです。このようにプロットの主人公を別にすることで,特徴というのがいかなるものかがよく理解できると思います。訳出されている順に紹介していきましょう。
ひとつ目は,おそらく1670年の4月ごろの出来事です。前述しておいた通り,ファン・ローンJoanis van LoonはコンスタンティンConstantijin Huygensの仲介でスピノザのアドバイスを受けたのですが,これは効果が出てきたころです。ローンはすでに恢復しつつあったので,コンスタンティンおよびスピノザも含めた6人の一行で旅行をしました。これは船での旅行で,コンスタンティンがローンに気晴らしをさせる目的であったとなっています。ところが出発して3時間もしないうちに,6人が乗ったヨットが故障してしまいました。これは突風のためだったとされています。
そこで6人は小さな村に上陸し,ヨットを修理しなければならなくなったのですが,小さな村だったために資材の入手が困難であったため,そこで3日を過ごさなければなりませんでした。そしてその最後の晩に,その村の人たちを集めて,アリストファネスἈριστοφάνηςの『蛙Βάτραχοι』という作品を,オランダの著名な劇作家の作品であるかのように上演したとなっています。このときにスピノザはロープ,というのは船のロープではないかと思われますが,ロープで急造した大きなかつらをかぶり,ディオニュソスDionȳsosの役を演じました。劇中でスピノザはヘブライ語の祈りを長々と唱えて熱演し,ことばが分からない村人に対しては言語であるギリシア語だと説明し,村人はとても喜び,スピノザはアンコールに応えなければならないほどでした。
これがひとつ目ですが,ここはスピノザと直接的に関係しますので,このエピソードに関しては後で別の観点から説明し直します。
『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』はスピノザを主題に据えた書物ですから,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の全訳を掲載しなかったこと,いい換えればスピノザおよびスピノザと関係があった人物について書かれた部分だけを訳出したのは当然のことといえます。そして僕はその部分しか読んでいません。しかし主題がレンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnであるなら,内容の信憑性はレンブラントについて書かれている部分がどの程度まで史実に適合しているのかという観点から判断されるべきなのです。したがって本来的には,レンブラントの研究者がこれを精読して,どの程度まで信用に値するのかということを判断するのが好ましいといえるでしょう。
この本は実は全訳を読むことができるようにはなっています。とはいえ僕がそれを読んだところで,僕はレンブラントについては何もといっていいくらい知りませんから,それがどの程度の信憑性を伴なっているのかということは分かりません。ただ,レンブラントの研究者がこれを読んで,それなりの信憑性があると判断できるのであれば,それ以外の部分もそれと同程度の信憑性を有しているということになるでしょうから,スピノザやスピノザと関係がある人びとについて書かれている部分も,その程度の信憑債があるというべきです。一方で,レンブラントについて書かれている部分が知られている史実と著しく反していて,まったく信用に値しないというなら,スピノザやスピノザと関係があった人びとに関する記述も,信用するにはまったく値しないといわざるを得ません。
僕自身はこの観点からは『レンブラントの生涯と時代』の信憑性を判断することはできません。ただ,信憑性自体の第一の規準はレンブラントについて書かれた部分にあると考えますから,吉田のように,単に作者が作家だから創作だということで,その信憑性を否定するのはあまりよくないのではないかと思います。
ここまでのことを前提として,『レンブラントの生涯と時代』を純粋な創作とみるのは困難であるという僕の考えの根拠を説明していきます。僕は渡辺の抄訳しか読んでいないのですから,レンブラントに関わる部分はその根拠には含まれていません。
コンスタンティンConstantijin Huygensがファン・ローンJoanis van Loonにスピノザを紹介したという『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の設定は,不自然ではありません。しかしこのことは,これが創作ではないということを保証するものではありません。むしろ自然な設定であるがゆえに,創作することも可能だといわなければなりません。むしろ創作としてはあまりに不自然であると思われることが含まれている場合に,それが純粋な創作であるとは疑わしいということができるのです。ただ,僕がここでこの例を先に示しておいたのは,この作品の中には確かに設定としてごく自然と思われる事柄も含まれているということをいっておきたかったからです。純粋な創作としては不自然と思われる部分についても後に説明しますが,『レンブラントの生涯と時代』はそういう部分だけで構成されているわけではありません。
それから,この作品が生まれる契機となったのがスピノザだったという設定になっていますから,その中にスピノザに関わるようなことも書かれることになったのですが,あくまでも主題がレンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnにあるということは前にもいったとおりです。したがって,吉田がいっているように,これがヘンドリックHendrik Wilem van Loonの創作であるとしたら,ヘンドリックはレンブラントについて書きたかったということになり,スピノザについて書きたかったわけではないということになります。いい換えればヘンドリックはレンブラントには関心があったけれども,スピノザに対しては,少なくともレンブラントほどには強い関心をもっていなかったということです。もしもスピノザのことを書きたかったのならそれを主題にすればよいのであって,わざわざレンブラントを主人公に据える必要はありませんから,これは当然のことだといえます。
したがって,この作品がどの程度まで歴史に準じているのかということ,いい換えれば史実として参考になる資料があるのか否かということは,第一にはレンブラントについて書かれている部分を読んで,それがすでに知られているレンブラントの人生の歴史にどれほど適合しているのかということをみなければなりません。しかし『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』は抄訳なのです。
さらに次のことにも留意しておかなければなりません。
著者がだれであっても,この本は『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』という題名から分かるように,レンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnが主題となっています。その中にスピノザが出てくるのは,ファン・ローンJoanis van Loonがそれを書く契機になったのがスピノザであったからだとされています。ローンとレンブラントは仲が良かったので,レンブラントが死んでしまったときにローンはひどく落ち込んでしまいました。鬱状態になったと解するのがよいでしょう。その頃のローンが仕えていたのがコンスタンティンConstantijin Huygensで,そのコンスタンティンがローンの状態を見かねて,スピノザにアドバイスしてもらうように諭しました。ローンは逡巡したのですが結局はスピノザと会うことにしました。そこでスピノザはローンに対し,自身に起こったことやそのときの気持ちを書いてみるようにという助言をしたのです。その助言によってローンは実際にそれを書いてみることにしました。ここから分かる設定は,ローンはそれを発売するつもりがあったわけではなく,自身の癒しのために書いたということです。なのでスピノザがこの中に登場してくることになり,同時にスピノザの知り合いで,ローンと面識があった人たちのことも書かれることになりました。
この部分が創作であることを僕は否定しませんが,史実であったとしてもおかしくはありません。スピノザがホイヘンスChristiaan Huygensと親しかったことは史実から明らかですし,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』ではホイヘンスの弟とはもっと仲が良かったかもしれないとされています。コンスタンティンはその兄弟の父親ですから,スピノザと面識があったとしてもおかしくありません。とくにコンスタンティンの別荘はフォールブルフVoorburgの近郊にありましたから,スピノザがフォールブルフに住んでいた頃,コンスタンティンの一家が別荘に滞在しているときはスピノザがその別荘を訪れるという機会があったとしてもおかしくありません。つまりコンスタンティンとスピノザの間に面識があったという想定は不自然なものではありませんから,コンスタンティンがローンとスピノザを仲介して会わせたとしてもおかしくはないのです。
吉田はこのような事情を考慮して,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』は職業作家が手の込んだフィクションとして世に問うた作品であって,歴史資料として勘違いされたのだといっています。
僕はこの見解に同意しません。この本の中にはフィクションが多く含まれていることは事実だと思いますが,ヘンドリックHendrik Wilem van Loonが何らかの資料に当たっているのは間違いないと僕には思えます。なのでこの本の中には,資料としての価値がある部分が,断片的には含まれていると思います。というのも,吉田がいうように,この本が職業作家が書いたフィクションであるとすれば,その内容があまりに不自然であるからです。いい換えれば僕は,文学評論という立場から,この本の内容のすべてがフィクションであるというのは無理があると考えるのです。なぜ僕がそのように解するのかということはこれから説明していきますが,その前にいっておかなければならないことがあります。
まず,ヘンドリックがいっているように,仮にこの本がファン・ローンJoanis van Loonが書いたものをヘンドリック自身が全訳したものであったとしても,この中にはフィクションが含まれていると考えなければなりません。先ほどもいったように,僕は文学評論の観点からこの著作物が完全なフィクションであるというのは無理があるといっているわけですから,そのことは著者がファン・ローンであろうとヘンドリックであろうと変わるところはないからです。一方で,この本を純粋な史実と解するのも無理があるのであって,このこともまた著者がだれであろうと同じです。なのでここでは『レンブラントの生涯と時代』の著者が,ファン・ローンであるかヘンドリックであるかということは問いません。どちらであったとしても結論は同じであって,資料としての価値がまったくないということはないのです。ただひとつ確実なのは,ヘンドリックが職業作家として『レンブラントの生涯と時代』を書いたとした場合は,おそらくファン・ローンが書いたものを何らかの仕方で参照したのであって,したがって著者がどちらの場合であったとしても,ファン・ローンが何も書き残していなかったということはあり得ません。
『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の中の,メナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelがスピノザに対して第二のアコスタになるのかと怒鳴ったとされる場面は,ファン・ローンJoanis van Loonが同席していたわけではありません。このときに同席していたのはジャン・ルイJean Louysという人物で,ルイがローンに手紙で伝えた内容です。そしてこのルイはオランダ人です。そのルイがこのように伝えているということは,ルイには第二のアコスタになりたいのかという意味が理解できたからです。つまりルイはウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaの末路を知っていたのであり,この伝え方からしてそれはファン・ローンも知っているとルイは前提していたことになるでしょう。つまりダ・コスタの一件は,単にアムステルダムAmsterdamのユダヤ人だけに知られていたわけではなく,この当時の,少なくともアムステルダムに住んでいたオランダ人にも有名な出来事であったということになるでしょう。ですからこのことをスピノザが知らなかったということは考えられないのであり,たとえダ・コスタとスピノザの間に面識がなかったとしても,スピノザは間違いなくダ・コスタのことを知っていたということは断定していいと僕は思います。
ところで,吉田はこの後で『レンブラントの生涯と時代』について触れていて,その内容は後世の創作であると指摘しています。この点をみておきましょう。
『レンブラントの生涯と時代』は,ファン・ローンが書いたものとされていますが,ファン・ローンはこれを公にするつもりで書いたわけではありません。後に説明しますが,このことはその内容とも合致しています。したがってこの本はファン・ローンが出版したわけではありません。出版したのはヘンドリック・ウィレム・ファン・ローンHendrik Wilem van Loonという人物で,これはファン・ローンからみて9代後の子孫にあたります。ですから出版されたのは1930年になってからであり,ニューヨークで,英語で発刊されたのです。ローンはオランダ語ないしはラテン語で書いていたので,ヘンドリックがそのオランダ語,しかもスピノザの時代に使われていたオランダ語かラテン語を英訳したことになっています。そしてこのヘンドリックというのは作家です。
スピノザとウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaの間に本当に面識があったかどうかは分かりません。ただ,仮に会ったことがなかった場合でも,ダ・コスタはスピノザのことを知らかったとしても,スピノザがダ・コスタを知らなかったということはあり得ないでしょう。もちろんそれは,単にダ・コスタという人間がいたということを知っていたということではなくて,ダ・コスタがかつて破門宣告を受け,その宣告を解いてもらうために屈辱的な儀式を行った後で,自殺をした人間であるということを知っていたという意味です。 ファン・ローンJoanis van Loonの『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の中に,メナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelがスピノザに対して,第二のアコスタになるのかと怒鳴りつける場面があります。これに対してスピノザは,ウリエルの後を追うつもりはないと答えています。この部分は実際にあった出来事であるとはいえない面があるのですが,ファン・ローンがこのように記しているということは,スピノザがダ・コスタのこと,とくに末路を知っていたことを前提しているからです。いい換えれば,スピノザがダ・コスタのことを知っているということは,当然視されていることになります。
スピノザが死んだとき,呪詛されるべきスピノザの死をアムステルダムAmsterdamのユダヤ人のだれかが知ったとしたら,それは瞬く間にその共同体の中に広まったであろうから,レベッカRebecca de SpinozaやダニエルDaniel Carcerisもそのことを知ったであろうと僕はいいました。これはアムステルダムのユダヤ人共同体というのがそれほど大きな共同体ではなかったがゆえのことです。だからこのことはダ・コスタの破門や自殺についても同じことがいえるのであって,このことはアムステルダムのユダヤ人共同体に住んでいた人なら,だれでも知っていたであろう出来事だと解するのが適切です。なのでたとえスピノザとダ・コスタの間には面識はなかったとしても,スピノザがダ・コスタのことを何も知らなかったということはあり得ないというべきでしょう。
さらにいうと,このことは単にアムステルダムのユダヤ人共同体に住んでいた人だけに周知の出来事だったというわけではなく,オランダ人にもおそらく同様でした。
グツコウKarl Ferdinand Gutzkowの戯曲はあくまでも戯曲ですから,創作です。戯曲に書かれている会話がダ・コスタUriel Da Costaとスピノザとの間であったことはあり得ないのはもちろん,実際にスピノザとダ・コスタが顔見知りで,何らかの会話を交わすことがあったということでさえグツコウの創作であると解さなければなりません。とくにこの会話の中で,スピノザはアコスタすなわちダ・コスタのことを,オーハイムと呼びかけます。このオーハイムというのは古いドイツ語で,母親の兄弟,すなわち母方の伯父ないし叔父という意味があったそうです。つまりグツコウの戯曲の中では,ダ・コスタがスピノザの母の兄弟という設定になっています。スピノザの母はハンナですが,ダ・コスタがハンナの兄弟であったわけではありません。このことから最もよく理解できるように,これは完全な創作なのです。
しかし吉田が指摘しているように,ハンナとダ・コスタは,きょうだいではなかったとしても,ハンナの一族とダ・コスタの一族は,遠縁だけれども親戚関係にあったという説があります。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,少なくともハンナの一族もダ・コスタの一族も北ポルトガルから迫害を逃れてアムステルダムAmsterdamにやってきたのであって,ポルトガル時代まで遡ると,両一族に何らかの関係があったと考えられるといわれています。
さらにこれとは別の関係があります。スピノザの父であるミカエルは,アムステルダムのユダヤ人共同体において,理事会の役職についていたことがあったのですが,1637年から1638年にかけてはウリエルの弟であるアブラハムが同じ役職に就いています。さらにこのふたりは,1642年から1643年にかけては,ユダヤ人の学校の評議員を務めています。したがって,スピノザの父とダ・コスタの弟は,間違いなく知り合いであり,おそらく会話を交わすような間柄であったと思われます。
これらのことを踏まえれば,スピノザとダ・コスタの間に面識があったというグツコウの設定自体は,それほど不自然なものではないだろうと吉田はいっています。ウリエルとアブラハムが仲のよい兄弟だったかは分かりませんが,不自然でないのは確かでしょう。
最後に僕の方から次のことをいっておきます。 フロイデンタールJacob FreudenthalもナドラーSteven Nadlerも,競売によってスピノザの葬儀費用および借金は完済することができて,僅かながら剰余金が出たとみています。このことについてナドラーはフロイデンタールの見解に従っていて,フロイデンタールはコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaにある報告を計算することからそのようにいっています。ただ,コレルスの伝記がすべてを報告しているのかどうかは分からないのです。競売の売上に関しては記録が残っていますから,そのことによってスペイクがどの程度の収入を得ることができたかははっきりしています。しかし葬儀に関する支出に関していうと,たとえば葬儀屋がスピノザの親族,つまりレベッカRebecca de SpinozaとダニエルDaniel Carcerisに対して未払いの葬儀代を請求し,これが2月28日に支払われています。支払ったのはおそらくスペイクで,だからスペイクはこの代金もレベッカに対して請求したと思われます。ところがこの代金は,棺代やその装飾と思しき費用や,葬儀の参列者にスペイクが振舞った2リットルのワインの代金よりも安価になっています。なので,6台の馬車が出たようなスピノザの葬儀費用として十分であったかは定かではありません。スペイクは前もっていくらかを葬儀屋に支払っていて,葬儀の後に同じ葬儀屋からそれでは賄えなかった分の請求を受けたので,その分の領収書だけが残っていたという可能性もないわけではないのです。
フロイデンタールおよびナドラーの報告とコレルスの伝記を合わせて読む限り,スペイクはリューウェルツJan Rieuwertszを通してシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesのきょうだいから葬儀費用を出してもらった上で,さらに競売によって葬儀代と借金を上回るだけの利益をあげたというように解釈できます。しかし実際には競売だけではスピノザの葬儀に必要な費用のすべてを捻出することができたというわけではなくて,それでは不足した分をリューウェルツに送ってもらったのかもしれません。レベッカは請求された金額から支払いを済ませると少ししか残らないから相続を放棄したのですが,レベッカにすべての葬儀費用が請求されていたかというと,実はそうではなかったかもしれないのです。
レベッカRebecca de Spinozaが提出されたとされる嘆願書に対して,裁判所がどのような判断を下したのかは分かりません。ただ,レベッカがその後も遺産相続人を主張するならスペイクに支払うべきであった費用を支払わなかったということは確実です。スペイクの方はそれを取り戻す必要がありましたから,スピノザの遺品を競売にかける権限を得て,実際にそれらを競売にかけたのです。この権限が,公的機関から得たのか,それとも遺産の相続人であったレベッカおよびダニエルDaniel Carcerisから得たのかは,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』からははっきりしません。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの方ではハーグDen Haagの裁判所から権限を得たとなっていますから,支払いを拒むレベッカに対して業を煮やしたスペイクが裁判所に訴え出て,権限を与えられたということなのだと思います。
競売が実際に行われた期日をナドラーSteven Nadlerは11月としか表現していませんが,これはコレルスの伝記にある通り,11月4日のことであったと思われます。この競売には多くの参加者があったと書かれていますが,これはおそらく売り上げからのナドラーが類推したことでしょう。ナドラーもこの競売によって借金に充てる以上の収益があったとみています。
一方で,スペイクはリューウェルツJan Rieuwertszを通して,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesのきょうだいから葬儀費用と家賃は弁済されていました。このこともナドラーは史実であるとみています。したがって,競売によって得た収益は,そうした費用に充足させる必要はなかったものと思われます。なので,スピノザにそれ以外の借金があって,それに充てるための費用をスペイクがなお必要としていたのでない限り,借金に充てる以上の収益があったというのは,単純に収益のほとんどがスペイクの手許に残ったという意味にしか僕には解せません。すべてといわずにほとんどというのは,競売を実施するにあたっても費用というのが必要だったのであって,そうした費用についてもこの収益の中から支払われたとみるのが妥当であると思うからです。ただレベッカはたとえ相続してもスペイクには支払わなければならなかったわけですから,わずかな収益を遺産として相続する必要はないと判断したのでしょう。
3月2日の遺品目録によって,スピノザの借金が明らかになったとナドラーSteven Nadlerはいっています。これはレベッカRebecca de Spinozaからの目線で考えるとよく理解できます。レベッカは遺産相続人であるとスペイクに申し出たわけですが,その時点でスピノザの遺産がどれほどのものであるか分かっていませんでした。なのでレベッカがスペイクに遺品目録を作成する権限を与えたのは,その内容を詳しく知りたかったからだということになるでしょう。この路線で解すると,ナドラーがここでいっていることは一貫性があることになります。
なお,これは遺品の目録ですから,たとえばスペイクが支払った葬儀代の費用は含まれていません。スペイクはこの遺品目録にあった負債だけでなく,そうした費用についてもレベッカに請求しました。前にいっておいたように,スピノザには未払いの家賃があって,それをナドラーはスピノザのスペイクに対する借金と表現しているのですが,そうした借金もまた遺品の目録に含まれていたわけではなく,スペイクがレベッカに対して直接的に請求したものでした。もちろん遺品目録の中には,売ることによって得られるものもあったでしょうが,そうしたものから借金を支払ってしまうと,もしも自分の手にいくらかの金銭が残されたとしても,それが僅かであるということが,レベッカにもはっきりと分かるようになったのです。
このためにレベッカはスペイクから請求された借金,すなわちスピノザの未払いの家賃と葬儀代を支払うことを拒みました。スペイクの方はレベッカが遺産相続人であることを主張するならそれは支払われるべきだと考えていましたから,そのために代理人を立ててレベッカに請求しました。これが1677年5月30日のことであったとされています。そしてこの日にレベッカは,ハーグDen Haagの裁判所に対して,この支払いを一時的に保留するための嘆願書を出しています。これは『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』にも書かれていることであって,むしろナドラーがフロイデンタールJacob Freudenthalの調査に依拠している事柄です。これは『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』の方に詳しく示されている記録が残っていますから,この嘆願書がこの日に出されたことは史実です。
老いた鶏のスープを食べさせることが,医療行為であるのかどうか分かりません。もしこれが医療行為であったとしたら,スペイクはその指示によってアムステルダムAmsterdamから来たその人が医師であったと理解したでしょう。しかしそうでなかった可能性もあるわけですから,このことでスペイクがアムステルダムから来た人物を医師であると特定できたと断定できるわけではありません。
この人物は,スピノザが死んだときに,スペイクの家にふたりきりでいました。だからスピノザが死んだということを判定したことになります。こうした判断が医師にしかできなかったとすれば,アムステルダムから来た人物は間違いなく医師だったことになります。ただ,人が死んだかどうかということだけの判断であれば,これはだれにでもできるといえます。実際に僕の父が死んだときも僕の母が死んだときも僕は枕元にいましたが,死んだのではないかと思ったから看護師を呼んだのであり,確かに僕には父も母も死んだということが分かったのです。ただ僕が看護師を呼んだのは,その最終判定が医師に任されているからであり,僕が呼んだ看護師も,確かに死んでいると判断し,さらに医師を呼んで最終的な判断をしてもらったのです。したがって,もしこの時代にも死亡診断書のような書類があって,その診断書を出すことができるのが医師免許を持っている人に限定されていたのであれば,スピノザの死亡診断書を書いたのはこのアムステルダムから来た人物にほかならないでしょうから,この人物は確かに医師であったと断定することができます。よって当時の状況がこのようなものであれば,アムステルダムから来たのはシュラーGeorg Hermann Schullerであったことになり,マイエルLodewijk Meyerであったことにはなりません。しかし当時の状況が分からないので,このようにはいえないのです。したがって,アムステルダムから来た人物が医師であるとコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaに書かれているからといって,それをシュラーであったとする材料にはならないのではないかと僕は思います。医師ではなかったマイエルが来た場合であっても,スペイクはマイエルを医師であると間違える可能性を否定することができないからです。
僕はこのような状況から考えると,遺稿集Opera Posthumaの編集者の総意としてスピノザの遺稿の売却が考えられていたわけではなく,シュラーGeorg Hermann Schullerが独断でライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対して遺稿の買取りを打診したのではないかと思います。他面からいえば,ほかの編集者たちは考えを改めて遺稿集の出版を決断したわけではなくて,その遺稿を入手した以上は出版するために当初から奔走していたのではないかと思います。
『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』に関連した部分はこれだけです。次に『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』の当該部分をみておきます。
すでにいっておいたように,ナドラーSteven Nadlerはスピノザの死を看取った医師はマイエルLodewijk Meyerであったと解しています。ただし,シュラー説も紹介されていて,その可能性を否定していません。これはフロイデンタールJacob Freudenthalが実際にはシュラーであったとするときにも同様なのですが,この人がアムステルダムAmsterdamから来た医師であったということが理由のひとつとされています。マイエルは医師ではないけれどもシュラーは医師であったので,アムステルダムから来たのが医師であったとするなら,それはマイエルではなくシュラーであったとする見方です。
僕はそれが本当に理由になるのかということは疑問に感じる部分もあります。すでにいっておいたように,もしもスペイクがシュラーが来たのにマイエルが来たと勘違いするなら,スペイクはシュラーともマイエルとも面識がなかったとしなければなりません。なのでシュラーなりマイエルなりが来たときに,その人が医師であるのか医師ではないのかということをスペイクが知ることができるのかということに疑問を感じるからです。スペイクが,実際にはシュラーが来たのにマイエルが来たと間違える場合の例をすでに示しましたが,それと同じように,スピノザからは医師が来ると伝えられていたけれどもマイエルが来たという場合には,スペイクはマイエルのことを医師と思い込むということがあり得るからです。実際にこのアムステルダムから来た医師と記述されている人がなしたと書かれているのは,老いた鶏のスープを作らせてスピノザに食させたことと,スピノザの死後に机の上の金品を持ち帰ってしまったことだけです。