スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

別府市制100周年記念事業&蛙のプロット

2024-10-16 19:02:08 | 競輪
 14日の別府市制100周年記念事業別府ナイターの決勝。並びは杉森‐山崎の東日本,阿部‐大西‐小川‐園田‐坂本‐山口の九州で山本は単騎。
 阿部がスタートを取って前受け。7番手に山本,8番手に杉森で周回。残り3周のバックから杉森が徐に上昇。ホームで阿部と並びましたが阿部は引かず,突っ張ったので杉森が引いてまた8番手。そのまま打鐘となって阿部の先行。この流れに乗って山本が発進。ホームで大西の横までは上がりましたがそこで大西の牽制が入って失速。この後から発進した杉本が追ってきましたが,大西がバックから番手捲りで対抗。大西と杉森は踏み合いになりましたが踏み勝ったのは大西。大西が先頭で直線に向かうと番手の小川が差し込み,迫ったものの届かず,優勝は大西。小川が4分の1車輪差で2着。園田も4分の3車身差の3着に流れ込み,九州の上位独占。
 優勝した大分の大西貴晃選手はGⅢ初優勝。このレースは阿部の脚力が上位だったのですが,さすがにこの並びでは自分が勝つためのレースをするとは思えなかったので,大西と小川の優勝争いとなるのではないかとみていました。僕の予想通りの展開となり,両者の優勝争いに。格でいえば小川の方が上だと思いますが,阿部と大西は同じ大分で,しかも別府のレースであったのでこの並びに。その分で大西が有利になったということでしょう。

 『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』には,一読するだけでその信憑性を失わせるようなエピソード,創作であると仮定すればプロットが数多く含まれています。そしてそうしたものにはある共通の特徴が含まれています。ここからその代表的な部分として,三箇所を示します。スピノザに関連することがひとつで,スピノザと関連があったファン・デン・エンデンFranciscus Affinius van den Endenおよびメナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelに関連する部分がひとつずつです。このようにプロットの主人公を別にすることで,特徴というのがいかなるものかがよく理解できると思います。訳出されている順に紹介していきましょう。
                            
 ひとつ目は,おそらく1670年の4月ごろの出来事です。前述しておいた通り,ファン・ローンJoanis van LoonはコンスタンティンConstantijin Huygensの仲介でスピノザのアドバイスを受けたのですが,これは効果が出てきたころです。ローンはすでに恢復しつつあったので,コンスタンティンおよびスピノザも含めた6人の一行で旅行をしました。これは船での旅行で,コンスタンティンがローンに気晴らしをさせる目的であったとなっています。ところが出発して3時間もしないうちに,6人が乗ったヨットが故障してしまいました。これは突風のためだったとされています。
 そこで6人は小さな村に上陸し,ヨットを修理しなければならなくなったのですが,小さな村だったために資材の入手が困難であったため,そこで3日を過ごさなければなりませんでした。そしてその最後の晩に,その村の人たちを集めて,アリストファネスἈριστοφάνηςの『Βάτραχοι』という作品を,オランダの著名な劇作家の作品であるかのように上演したとなっています。このときにスピノザはロープ,というのは船のロープではないかと思われますが,ロープで急造した大きなかつらをかぶり,ディオニュソスDionȳsosの役を演じました。劇中でスピノザはヘブライ語の祈りを長々と唱えて熱演し,ことばが分からない村人に対しては言語であるギリシア語だと説明し,村人はとても喜び,スピノザはアンコールに応えなければならないほどでした。
 これがひとつ目ですが,ここはスピノザと直接的に関係しますので,このエピソードに関しては後で別の観点から説明し直します。
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大阪・関西万博協賛競輪in川崎&第一の規準

2024-10-15 18:57:21 | 競輪
 昨日の大阪・関西万博協賛競輪in川崎の決勝。並びは佐々木‐和田‐福田‐鈴木の南関東,藤井‐山口富生の中部,北津留‐山口貴弘の九州で諸橋は単騎。
 山口貴弘がスタートを取って北津留の前受け。3番手に佐々木,7番手に藤井,最後尾に諸橋で周回。残り3周のバックの出口付近から藤井が上昇。これを佐々木が牽制したため,藤井は前に出られず,周回中の隊列のままバックに戻り,ここから佐々木が発進して打鐘で北津留を叩いて前に。引いた藤井も再び発進。ホームで佐々木を叩いて藤井の先行に。藤井と山口富生の間がやや開き,このラインを追った諸橋の後ろに和田がスイッチ。和田がバックから自力で発進。諸橋もそれを制するように踏み込むと,直線で諸橋と和田の間を突いた福田が抜けて優勝。外の和田が4分の3車輪差で2着。諸橋が4分の1車輪差で3着。
 優勝した神奈川の福田知也選手は一昨年10月の道後温泉杯争覇戦以来となるGⅢ2勝目。当時もそうでしたが今回も寛仁親王牌に出走しないメンバーでの争い。二段駆けが見込める和田が最有力でしたが,藤井が頑張ったためにそういう展開にはなりませんでした。それでも和田はうまくスイッチして自力で発進できたのですが,福田の差し脚が優ることに。藤井と山口富生の間がやや開いたのですが,そこが勝負のあやになったような気がします。

 『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』はスピノザを主題に据えた書物ですから,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の全訳を掲載しなかったこと,いい換えればスピノザおよびスピノザと関係があった人物について書かれた部分だけを訳出したのは当然のことといえます。そして僕はその部分しか読んでいません。しかし主題がレンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnであるなら,内容の信憑性はレンブラントについて書かれている部分がどの程度まで史実に適合しているのかという観点から判断されるべきなのです。したがって本来的には,レンブラントの研究者がこれを精読して,どの程度まで信用に値するのかということを判断するのが好ましいといえるでしょう。
                            
 この本は実は全訳を読むことができるようにはなっています。とはいえ僕がそれを読んだところで,僕はレンブラントについては何もといっていいくらい知りませんから,それがどの程度の信憑性を伴なっているのかということは分かりません。ただ,レンブラントの研究者がこれを読んで,それなりの信憑性があると判断できるのであれば,それ以外の部分もそれと同程度の信憑性を有しているということになるでしょうから,スピノザやスピノザと関係がある人びとについて書かれている部分も,その程度の信憑債があるというべきです。一方で,レンブラントについて書かれている部分が知られている史実と著しく反していて,まったく信用に値しないというなら,スピノザやスピノザと関係があった人びとに関する記述も,信用するにはまったく値しないといわざるを得ません。
 僕自身はこの観点からは『レンブラントの生涯と時代』の信憑性を判断することはできません。ただ,信憑性自体の第一の規準はレンブラントについて書かれた部分にあると考えますから,吉田のように,単に作者が作家だから創作だということで,その信憑性を否定するのはあまりよくないのではないかと思います。
 ここまでのことを前提として,『レンブラントの生涯と時代』を純粋な創作とみるのは困難であるという僕の考えの根拠を説明していきます。僕は渡辺の抄訳しか読んでいないのですから,レンブラントに関わる部分はその根拠には含まれていません。
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農林水産大臣賞典マイルチャンピオンシップ南部杯&主人公

2024-10-14 18:59:02 | 地方競馬
 第37回南部杯
 1枠ということもあったと思いますが,レモンポップがやや押して前に。外からペプチドナイルが並び掛け,2頭が並んで逃げるようなレースに。2馬身差の3番手にサヨノネイチヤ。4番手にヒロシクンで5番手にミックファイア。2馬身差でキタノリューオーとダイシンビスケス。2馬身差でアラジンバローズとキタノヴィジョン。10番手にウラヤとタガノビューティー。ここからは離れてボウトロイ。また離れてゲンパチプライド。ゼットセントラルとマイネルアストリアが並んで最後尾。前半の800mは46秒9のハイペース。
 直線に入るところでも前の2頭は先頭。内目を回ったミックファイアが単独の3番手となりましたが,前の2頭とは離されていきました。逃げた2頭の競り合いはフィニッシュまで続きましたが,最後まで抜かせなかった内のレモンポップが優勝。ペプチドナイルが4分の3馬身差で2着。直線で内寄りを差し込んだキタノヴィジョンが5馬身差で3着。
 優勝したレモンポップさきたま杯以来のレースで大レース5勝目。第36回からの連覇で南部杯は2勝目。このレースは負けられないといっていいくらいのメンバー構成。ずっとついてきたペプチドナイルに大きな差はつけることができませんでしたが,発馬後にやや無理をした部分もあったでしょうし,相手も大レースの勝ち馬ですからそれだけの力があるということでしょう。国内では完璧に近い成績を残していて,おそらく競走生活はもう長くないでしょうから,このままいってほしいところです。
 騎乗した坂井瑠星騎手はジャパンダートクラシック以来の大レース11勝目。南部杯は連覇で2勝目。管理している田中博康調教師はさきたま杯以来の大レース5勝目。南部杯は連覇で2勝目。

 コンスタンティンConstantijin Huygensがファン・ローンJoanis van Loonにスピノザを紹介したという『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の設定は,不自然ではありません。しかしこのことは,これが創作ではないということを保証するものではありません。むしろ自然な設定であるがゆえに,創作することも可能だといわなければなりません。むしろ創作としてはあまりに不自然であると思われることが含まれている場合に,それが純粋な創作であるとは疑わしいということができるのです。ただ,僕がここでこの例を先に示しておいたのは,この作品の中には確かに設定としてごく自然と思われる事柄も含まれているということをいっておきたかったからです。純粋な創作としては不自然と思われる部分についても後に説明しますが,『レンブラントの生涯と時代』はそういう部分だけで構成されているわけではありません。
                            
 それから,この作品が生まれる契機となったのがスピノザだったという設定になっていますから,その中にスピノザに関わるようなことも書かれることになったのですが,あくまでも主題がレンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnにあるということは前にもいったとおりです。したがって,吉田がいっているように,これがヘンドリックHendrik Wilem van Loonの創作であるとしたら,ヘンドリックはレンブラントについて書きたかったということになり,スピノザについて書きたかったわけではないということになります。いい換えればヘンドリックはレンブラントには関心があったけれども,スピノザに対しては,少なくともレンブラントほどには強い関心をもっていなかったということです。もしもスピノザのことを書きたかったのならそれを主題にすればよいのであって,わざわざレンブラントを主人公に据える必要はありませんから,これは当然のことだといえます。
 したがって,この作品がどの程度まで歴史に準じているのかということ,いい換えれば史実として参考になる資料があるのか否かということは,第一にはレンブラントについて書かれている部分を読んで,それがすでに知られているレンブラントの人生の歴史にどれほど適合しているのかということをみなければなりません。しかし『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』は抄訳なのです。
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秋華賞&契機

2024-10-13 19:00:36 | 中央競馬
 第29回秋華賞。丹内騎手が昨日の新潟の3レースで落馬し腹部を負傷したためコガネノソラは坂井瑠星騎手に変更。
 クイーンズウォークは発馬で躓き2馬身の不利。外の方からセキトバイーストが前に出ての逃げ。向正面に入るあたりでリードは4馬身。2番手にクリスマスパレード。2馬身差でタガノエルピーダ。4番手にラヴァンダ。5番手にコガネノソラ。6番手にアドマイヤベルとランスオブクイーン。8番手にチェルヴィニア。9番手にホーエリートとステレンボッシュ。11番手にミアネーロ。12番手にチルカーノとボンドガールとクイーンズウォーク。5馬身差の最後尾にラビットアイ。前半の1000mは57秒1の超ハイペース。
 超ハイペースになったのは逃げたセキトバイーストが飛ばしたためで,3コーナーでは8馬身のリード。2番手のクリスマスパレードと3番手のタガノエルピーダとの間も4馬身。直線の入口ではセキトバイーストのリードは3馬身くらいに。直線でもみるみる詰まっていき,前を行くクリスマスパレードとラヴァンダの間に進路をとったチェルヴィニアが先頭に。そのまま抜け出した優勝。大外から追い込んだボンドガールが1馬身4分の3差で2着。馬群の内目を縫うように捌いてきたステレンボッシュが半馬身差で3着。
 優勝したチェルヴィニアはここがオークス以来の実戦。大レース連勝で2勝目。このレースは桜花賞馬のステレンボッシュとオークス馬のチェルヴィニアの争い。それぞれに不安材料があり,チェルヴィニアは唯一の遠征競馬だった桜花賞が大敗だったことで,ステレンボッシュは不利な外枠に入ってしまったこと。ステレンボッシュはかなり厳しいレースになったので影響があったかもしれません。チェルヴィニアは桜花賞のときは久々の実戦で,態勢が整っていなかったための大敗だったのでしょう。遠征競馬にも不安がないことを証明し,3歳牝馬のトップに立ったとみていいと思います。母の父はキングカメハメハ。4代母がロイコンで祖母が2003年の京都牝馬ステークスを勝ったハッピーパス。母は2016年のフローラステークスを勝ったチェッキーノでひとつ上の半兄が昨年の新潟記念を勝ったノッキングポイント。Cerviniaはマッターホルン山麓の集落名。
                            
 騎乗したクリストフ・ルメール騎手はオークス以来の大レース制覇。第22回23回に続く6年ぶりの秋華賞3勝目。管理している木村哲也調教師はオークス以来の大レース11勝目。秋華賞は初勝利。

 さらに次のことにも留意しておかなければなりません。
 著者がだれであっても,この本は『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』という題名から分かるように,レンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnが主題となっています。その中にスピノザが出てくるのは,ファン・ローンJoanis van Loonがそれを書く契機になったのがスピノザであったからだとされています。ローンとレンブラントは仲が良かったので,レンブラントが死んでしまったときにローンはひどく落ち込んでしまいました。鬱状態になったと解するのがよいでしょう。その頃のローンが仕えていたのがコンスタンティンConstantijin Huygensで,そのコンスタンティンがローンの状態を見かねて,スピノザにアドバイスしてもらうように諭しました。ローンは逡巡したのですが結局はスピノザと会うことにしました。そこでスピノザはローンに対し,自身に起こったことやそのときの気持ちを書いてみるようにという助言をしたのです。その助言によってローンは実際にそれを書いてみることにしました。ここから分かる設定は,ローンはそれを発売するつもりがあったわけではなく,自身の癒しのために書いたということです。なのでスピノザがこの中に登場してくることになり,同時にスピノザの知り合いで,ローンと面識があった人たちのことも書かれることになりました。
 この部分が創作であることを僕は否定しませんが,史実であったとしてもおかしくはありません。スピノザがホイヘンスChristiaan Huygensと親しかったことは史実から明らかですし,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』ではホイヘンスの弟とはもっと仲が良かったかもしれないとされています。コンスタンティンはその兄弟の父親ですから,スピノザと面識があったとしてもおかしくありません。とくにコンスタンティンの別荘はフォールブルフVoorburgの近郊にありましたから,スピノザがフォールブルフに住んでいた頃,コンスタンティンの一家が別荘に滞在しているときはスピノザがその別荘を訪れるという機会があったとしてもおかしくありません。つまりコンスタンティンとスピノザの間に面識があったという想定は不自然なものではありませんから,コンスタンティンがローンとスピノザを仲介して会わせたとしてもおかしくはないのです。
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書簡八十三&著者

2024-10-12 19:11:55 | 哲学
 書簡八十二に対してスピノザは短めの返信を送っています。それが書簡八十三で,1676年7月15日付になっています。遺稿集Opera Posthumaに掲載されました。
                            
 返信ですから当然ながら内容はチルンハウスEhrenfried Walther von Tschirnhausの質問に対する解答です。スピノザがいっていることは主に次のふたつです。
 ひとつは,延長Extensioの概念notioから事物の多様性が演繹的に証明されることはないということです。事物,この場合は延長の様態modiですから物体corpusですが,物体の多様性を演繹的に証明するためには単に延長の概念があればよいわけではありません。よってデカルトRené Descartesが物質を単に延長とだけ定義しているのは誤りだとスピノザはいっています。そこから物体の多様性を演繹的に導出するためには,延長を属性attributumとして,しかも永遠aeternumで無限なinfinitum属性として定義する必要があります。デカルトは物体的実体substantia corporeaを神Deusとは別の実体と定義し,スピノザは延長の属性Extensionis attributumを神の無限に多くのinfinita属性のひとつとして定義したわけですが,デカルトのような方法では物体の多様性を演繹的に証明することはできないのであって,スピノザのような方法を採用する必要があるのです。
 もうひとつは,ある事物の定義Definitioからひとつの特質proprietasだけが導かれるというチルンハウスの見解は,理性の有entia rationisの場合には当て嵌まるとしても,実在的有entia realiaの場合には当て嵌まらず,実在的有である事物の定義から,複数の特質が導かれることもあるということです。たとえば神を絶対に無限な実体と定義すれば,この定義から神が自己原因causa suiであることや神が必然的にnecessario存在するということ,あるいは神が唯一で不変であるということなど,神についての多くの特質が導かれることになります。こうしたことがすべての実在的有の定義に妥当することになるのです。

 吉田はこのような事情を考慮して,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』は職業作家が手の込んだフィクションとして世に問うた作品であって,歴史資料として勘違いされたのだといっています。
 僕はこの見解に同意しません。この本の中にはフィクションが多く含まれていることは事実だと思いますが,ヘンドリックHendrik Wilem van Loonが何らかの資料に当たっているのは間違いないと僕には思えます。なのでこの本の中には,資料としての価値がある部分が,断片的には含まれていると思います。というのも,吉田がいうように,この本が職業作家が書いたフィクションであるとすれば,その内容があまりに不自然であるからです。いい換えれば僕は,文学評論という立場から,この本の内容のすべてがフィクションであるというのは無理があると考えるのです。なぜ僕がそのように解するのかということはこれから説明していきますが,その前にいっておかなければならないことがあります。
 まず,ヘンドリックがいっているように,仮にこの本がファン・ローンJoanis van Loonが書いたものをヘンドリック自身が全訳したものであったとしても,この中にはフィクションが含まれていると考えなければなりません。先ほどもいったように,僕は文学評論の観点からこの著作物が完全なフィクションであるというのは無理があるといっているわけですから,そのことは著者がファン・ローンであろうとヘンドリックであろうと変わるところはないからです。一方で,この本を純粋な史実と解するのも無理があるのであって,このこともまた著者がだれであろうと同じです。なのでここでは『レンブラントの生涯と時代』の著者が,ファン・ローンであるかヘンドリックであるかということは問いません。どちらであったとしても結論は同じであって,資料としての価値がまったくないということはないのです。ただひとつ確実なのは,ヘンドリックが職業作家として『レンブラントの生涯と時代』を書いたとした場合は,おそらくファン・ローンが書いたものを何らかの仕方で参照したのであって,したがって著者がどちらの場合であったとしても,ファン・ローンが何も書き残していなかったということはあり得ません。
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竜王戦&ヘンドリック

2024-10-11 18:57:54 | 将棋
 5日と6日にセルリアンタワー能楽堂で指された第37期竜王戦七番勝負第一局。対戦成績は藤井聡太竜王が4勝,佐々木勇気八段が2勝。
 振駒で藤井竜王の先手となって角換わり相腰掛銀。8筋を交換した後手の佐々木八段に対して先手が歩を打って受けなかったことから本格的な戦いになりました。
                            
 第1図から後手が☖6六歩と打っていったことで最終盤に突入。☗7三歩成☖6七歩成☗同金☖6六歩☗6二と☖6七歩成☗4九王と一直線の攻め合いに。
 この局面で☗2五桂と打つ手が生じると負けになるので後手は☖2五桂と犠打を放ちました。☗同香なら先手から桂馬を打てなくなるので何とかなるという見立て。対して☗1七桂と打ったのが決め手。
                            
 ☗2五桂と跳ねられれば打ったのと同じこと。取られてももう1枚持っていますから打つことができます。鮮やかな決め手でした。
 藤井竜王が先勝。第二局は19日と20日に指される予定です。

 『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の中の,メナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelがスピノザに対して第二のアコスタになるのかと怒鳴ったとされる場面は,ファン・ローンJoanis van Loonが同席していたわけではありません。このときに同席していたのはジャン・ルイJean Louysという人物で,ルイがローンに手紙で伝えた内容です。そしてこのルイはオランダ人です。そのルイがこのように伝えているということは,ルイには第二のアコスタになりたいのかという意味が理解できたからです。つまりルイはウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaの末路を知っていたのであり,この伝え方からしてそれはファン・ローンも知っているとルイは前提していたことになるでしょう。つまりダ・コスタの一件は,単にアムステルダムAmsterdamのユダヤ人だけに知られていたわけではなく,この当時の,少なくともアムステルダムに住んでいたオランダ人にも有名な出来事であったということになるでしょう。ですからこのことをスピノザが知らなかったということは考えられないのであり,たとえダ・コスタとスピノザの間に面識がなかったとしても,スピノザは間違いなくダ・コスタのことを知っていたということは断定していいと僕は思います。
 ところで,吉田はこの後で『レンブラントの生涯と時代』について触れていて,その内容は後世の創作であると指摘しています。この点をみておきましょう。
 『レンブラントの生涯と時代』は,ファン・ローンが書いたものとされていますが,ファン・ローンはこれを公にするつもりで書いたわけではありません。後に説明しますが,このことはその内容とも合致しています。したがってこの本はファン・ローンが出版したわけではありません。出版したのはヘンドリック・ウィレム・ファン・ローンHendrik Wilem van Loonという人物で,これはファン・ローンからみて9代後の子孫にあたります。ですから出版されたのは1930年になってからであり,ニューヨークで,英語で発刊されたのです。ローンはオランダ語ないしはラテン語で書いていたので,ヘンドリックがそのオランダ語,しかもスピノザの時代に使われていたオランダ語かラテン語を英訳したことになっています。そしてこのヘンドリックというのは作家です。
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スポーツニッポン賞鎌倉記念&スピノザの認識

2024-10-10 19:02:04 | 地方競馬
 北海道から1頭,高知から1頭が遠征してきた昨晩の全日本2歳優駿トライアルの第23回鎌倉記念
                            
 内の各馬の出方をみつつベアバッキューンがハナに立ち,2番手にミランミラン。3番手はハセノブライアンとゴールドモーニン。2馬身差でケンシレインボー。3馬身差でジャガーノート。4馬身差でレッドサラマンダーという隊列で発馬後の正面を通過。そのままベアバッキューンは飛ばしていき,向正面ではリードが3馬身くらいに開きました。前半の800mは52秒8の超スローペース。
 向正面で一旦はゴールドモーニンが単独の3番手になりましたが,ケンシレインボーが差を詰めていき,3番手に。直線の入口でもベアバッキューンのリードは3馬身。ミランミランとケンシレインボーの差は2馬身ほど。ゴールドモーニンがさらに2馬身差の4番手。直線に入るとベアバッキューンが後ろとの差を広げる一方となり,2秒2もの差をつける圧巻の逃げ切り。ミランミランが2着を死守し,ケンシレインボーが2馬身半差で3着。
 優勝したベアバッキューン若武者賞に続いて南関東重賞2勝目。デビューからの連勝を4に伸ばしました。このレースは例年は北海道から複数の馬が参戦してきて好走するのですが,今年は1頭だけ。それはおそらくベアバッキューンが強いとみられていたためで,その下馬評通りの圧勝。まだ逃げる競馬しかしていない点は不安ですが,このスピード能力ですから全日本2歳優駿でも有力でしょう。勝ち負けするにはもう少しタイムを詰める必要があると思いますが,このレースは超スローペースでしたから,それも可能ではないでしょうか。父はモズアスコット。母の父はネオユニヴァース
 騎乗した川崎の町田直希騎手は若武者賞以来の南関東重賞15勝目。鎌倉記念は初勝利。管理している川崎の鈴木義久調教師は南関東重賞2勝目。鎌倉記念は初勝利。

 スピノザとウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaの間に本当に面識があったかどうかは分かりません。ただ,仮に会ったことがなかった場合でも,ダ・コスタはスピノザのことを知らかったとしても,スピノザがダ・コスタを知らなかったということはあり得ないでしょう。もちろんそれは,単にダ・コスタという人間がいたということを知っていたということではなくて,ダ・コスタがかつて破門宣告を受け,その宣告を解いてもらうために屈辱的な儀式を行った後で,自殺をした人間であるということを知っていたという意味です。
 ファン・ローンJoanis van Loonの『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt』の中に,メナセ・ベン・イスラエルMenasseh Ben Israelがスピノザに対して,第二のアコスタになるのかと怒鳴りつける場面があります。これに対してスピノザは,ウリエルの後を追うつもりはないと答えています。この部分は実際にあった出来事であるとはいえない面があるのですが,ファン・ローンがこのように記しているということは,スピノザがダ・コスタのこと,とくに末路を知っていたことを前提しているからです。いい換えれば,スピノザがダ・コスタのことを知っているということは,当然視されていることになります。
 スピノザが死んだとき,呪詛されるべきスピノザの死をアムステルダムAmsterdamのユダヤ人のだれかが知ったとしたら,それは瞬く間にその共同体の中に広まったであろうから,レベッカRebecca de SpinozaやダニエルDaniel Carcerisもそのことを知ったであろうと僕はいいました。これはアムステルダムのユダヤ人共同体というのがそれほど大きな共同体ではなかったがゆえのことです。だからこのことはダ・コスタの破門や自殺についても同じことがいえるのであって,このことはアムステルダムのユダヤ人共同体に住んでいた人なら,だれでも知っていたであろう出来事だと解するのが適切です。なのでたとえスピノザとダ・コスタの間には面識はなかったとしても,スピノザがダ・コスタのことを何も知らなかったということはあり得ないというべきでしょう。
 さらにいうと,このことは単にアムステルダムのユダヤ人共同体に住んでいた人だけに周知の出来事だったというわけではなく,オランダ人にもおそらく同様でした。
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霧島酒造杯女流王将戦&グツコウの設定

2024-10-09 19:05:29 | 将棋
 5日に霧島ファクトリーガーデンで指された第46期女流王将戦三番勝負第一局。対戦成績は西山朋佳女流王将が34勝,福間香奈女流五冠が42勝。これはNHK杯の予選を含んでいます。
 霧島酒造の社長による振駒は歩が4枚で西山女流王将の先手となり四間飛車。後手の福間女流五冠が向飛車にしての相振飛車。先手の矢倉,後手の美濃という戦型でした。
                            
 後手が歩を垂らした局面。この手は先手の意表を衝いたようです。
 ここから☗8三歩成☖同銀☗同桂成☖同玉と清算したのですが,後の手順からすると先に☗7五角と上がっておいた方がよかったと思われます。その方が☗6四歩が厳しくなったからです。
 実戦のように進めたのなら☗4二銀と打つのがよかったようですがそこで☗7五角と出ました。後手は当然の☖5五飛。そこでまた☗6六角ならまだ難しかったのですが,それでは何をやっているか分かりません。よって☗6四歩と突きましたがここでは甘く,☖3六桂と王手をされて収拾がつかなくなりました。
                            
 福間女流五冠が先勝。第二局は15日に指される予定です。

 グツコウKarl Ferdinand Gutzkowの戯曲はあくまでも戯曲ですから,創作です。戯曲に書かれている会話がダ・コスタUriel Da Costaとスピノザとの間であったことはあり得ないのはもちろん,実際にスピノザとダ・コスタが顔見知りで,何らかの会話を交わすことがあったということでさえグツコウの創作であると解さなければなりません。とくにこの会話の中で,スピノザはアコスタすなわちダ・コスタのことを,オーハイムと呼びかけます。このオーハイムというのは古いドイツ語で,母親の兄弟,すなわち母方の伯父ないし叔父という意味があったそうです。つまりグツコウの戯曲の中では,ダ・コスタがスピノザの母の兄弟という設定になっています。スピノザの母はハンナですが,ダ・コスタがハンナの兄弟であったわけではありません。このことから最もよく理解できるように,これは完全な創作なのです。
 しかし吉田が指摘しているように,ハンナとダ・コスタは,きょうだいではなかったとしても,ハンナの一族とダ・コスタの一族は,遠縁だけれども親戚関係にあったという説があります。『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』では,少なくともハンナの一族もダ・コスタの一族も北ポルトガルから迫害を逃れてアムステルダムAmsterdamにやってきたのであって,ポルトガル時代まで遡ると,両一族に何らかの関係があったと考えられるといわれています。
 さらにこれとは別の関係があります。スピノザの父であるミカエルは,アムステルダムのユダヤ人共同体において,理事会の役職についていたことがあったのですが,1637年から1638年にかけてはウリエルの弟であるアブラハムが同じ役職に就いています。さらにこのふたりは,1642年から1643年にかけては,ユダヤ人の学校の評議員を務めています。したがって,スピノザの父とダ・コスタの弟は,間違いなく知り合いであり,おそらく会話を交わすような間柄であったと思われます。
 これらのことを踏まえれば,スピノザとダ・コスタの間に面識があったというグツコウの設定自体は,それほど不自然なものではないだろうと吉田はいっています。ウリエルとアブラハムが仲のよい兄弟だったかは分かりませんが,不自然でないのは確かでしょう。
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新人王戦&スピノザとダ・コスタ

2024-10-08 19:09:11 | 将棋
 4日に指された第55回新人王戦決勝三番勝負第一局。対戦成績は服部慎一郎六段が4勝,高田明浩五段が0勝。
 振駒で服部六段の先手となり矢倉。後手の高田五段が急戦に出て,攻め合いの将棋になりました。
                            
 ここで後手が☖2四歩と受けに回ったため☗4六桂と打たれ☖2三玉☗3五桂☖1二玉☗2四飛と攻められ先手の勝ちになりました。
 第1図は☖5九金と打って☗同銀に☖7八金と取れば☗同王☖8八金☗7七王☖7九飛成☗6六王のときに☖5四桂と打って詰みでした。実戦は4六に桂馬を打たれてしまったためにこの筋が消失しています。後手としては痛恨の一局になってしまいました。
 服部六段が先勝。第二局は21日に指される予定です。

 スピノザの親族およびスピノザの死およびその後の事柄についての探求はここまでとして,再び『スピノザ 人間の自由の哲学』に戻ります。次もまた史実に関わることです。
 『破門の哲学』の冒頭で,ウリエル・ダ・コスタUriel Da Costaが宣告された破門を解いてもらうための儀式をスピノザが見つめている場面が描かれています。この儀式が屈辱的なものであったために後にダ・コスタは自殺してしまうのですが,その場面をスピノザが見守っているという構図です。この儀式が行われたとき,スピノザはまだ子どもでしたが産まれてはいましたから,実際にそのようなことが起こったとしても,それを史実に反することだと断定することができるわけではありません。ただしこれは著者である清水の想像であって,確かにスピノザがその儀式の場にいたということを意味するのではありません。これが清水の想像であるということは,『破門の哲学』にも書かれているのであって,清水はそれが史実であったと主張しているのではありませんから,その点には留意してください。
 『スピノザ 人間の自由の哲学』の第二回の中で,その場にスピノザがいたかどうかはともかくとして,幼いスピノザとダ・コスタの間には,面識があったとしても不自然ではなかったということが書かれています。
 僕は知らなかったのですが,19世紀のドイツにカール・グツコウKarl Ferdinand Gutzkowという作家がいて,この人が『ウリエル・アコスタUriel Acosta』という戯曲を書いているそうです。なお,アコスタはダ・コスタの別名と考えてください。つまりこの戯曲の主人公はウリエル・ダ・コスタです。吉田はこの戯曲を読んだことがあるそうです。戯曲自体は実在のダ・コスタとはかけ離れた境遇のメロドラマに仕立て上げられていて,面白くはなかったそうですが,第五幕にバールーフ・スピノザという8歳の少年がアコスタと会話をする場面があり,ここは印象に残ったそうです。もちろんこれはスピノザのことです。この会話は,アコスタが自らの思想をスピノザに伝える,あるいはスピノザに託すというような内容になっていますが,8歳の少年に語るような内容とは僕には思えず,いかにも不自然な感じは受けました。
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凱旋門賞&請求

2024-10-07 19:04:09 | 海外競馬
 日本時間で昨日の深夜にフランスのパリロンシャン競馬場で行われた凱旋門賞GⅠ芝2400m。
                            
 シンエンペラーは左によれる発馬で隣の馬に迷惑を掛けました。レースの前半は先頭から3馬身ほどの4~5番手を追走。やや外目を回っていたのでフォルスストレートの付近では先頭から5馬身くらいの7番手になりました。フォルスストレートの出口の前から騎手の手が動き始め,やや差は詰まったのですがそれ以上は追いつくことができず,最後まで走るのを止めるところはなかったのですが順位は下げ,勝ち馬からおよそ12馬身差の12着でした。
 前走のときもいいましたが,2000mでは日本の馬が強いのですが,2400mになるとヨーロッパの馬の方が全体的なレベルが上です。しかも今年は馬場が悪くなりましたから,日本の馬には余計に厳しかったように思います。

 最後に僕の方から次のことをいっておきます。
 フロイデンタールJacob FreudenthalもナドラーSteven Nadlerも,競売によってスピノザの葬儀費用および借金は完済することができて,僅かながら剰余金が出たとみています。このことについてナドラーはフロイデンタールの見解に従っていて,フロイデンタールはコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaにある報告を計算することからそのようにいっています。ただ,コレルスの伝記がすべてを報告しているのかどうかは分からないのです。競売の売上に関しては記録が残っていますから,そのことによってスペイクがどの程度の収入を得ることができたかははっきりしています。しかし葬儀に関する支出に関していうと,たとえば葬儀屋がスピノザの親族,つまりレベッカRebecca de SpinozaとダニエルDaniel Carcerisに対して未払いの葬儀代を請求し,これが2月28日に支払われています。支払ったのはおそらくスペイクで,だからスペイクはこの代金もレベッカに対して請求したと思われます。ところがこの代金は,棺代やその装飾と思しき費用や,葬儀の参列者にスペイクが振舞った2リットルのワインの代金よりも安価になっています。なので,6台の馬車が出たようなスピノザの葬儀費用として十分であったかは定かではありません。スペイクは前もっていくらかを葬儀屋に支払っていて,葬儀の後に同じ葬儀屋からそれでは賄えなかった分の請求を受けたので,その分の領収書だけが残っていたという可能性もないわけではないのです。
 フロイデンタールおよびナドラーの報告とコレルスの伝記を合わせて読む限り,スペイクはリューウェルツJan Rieuwertszを通してシモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesのきょうだいから葬儀費用を出してもらった上で,さらに競売によって葬儀代と借金を上回るだけの利益をあげたというように解釈できます。しかし実際には競売だけではスピノザの葬儀に必要な費用のすべてを捻出することができたというわけではなくて,それでは不足した分をリューウェルツに送ってもらったのかもしれません。レベッカは請求された金額から支払いを済ませると少ししか残らないから相続を放棄したのですが,レベッカにすべての葬儀費用が請求されていたかというと,実はそうではなかったかもしれないのです。
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火の国杯争奪戦&競売

2024-10-06 19:02:19 | 競輪
 熊本記念の決勝。並びは深谷‐阿部の東日本,町田‐松浦‐隅田の山陽,嘉永‐中川の熊本で,坂井と脇本は単騎。
 スタートを取りにいったのは松浦と深谷と中川の3人。松浦が誘導の後ろに入って町田の前受け。4番手に深谷,6番手に坂井,7番手に嘉永,最後尾に脇本で周回。残り3周のバックから町田が誘導との車間を開けてペースダウン。残り2周のホームの入口の手前から嘉永が上昇。ホームで町田を叩きました。バックに戻って叩かれた町田が巻き返し,嘉永を叩き返して打鐘。嘉永は飛びつけず,山陽の3人が出きりました。ホームから坂井が発進。バックで松浦の横までいきましたが松浦の牽制で失速。松浦はそのまま発進。後方から嘉永と深谷も捲り上げてきました。松浦が先頭で直線に。嘉永は失速しましたが深谷は最後まで伸び,松浦を差し切って優勝。松浦が半車身差で2着。松浦マークの隅田が半車身差で3着。
                            
 優勝した静岡の深谷知広選手は5月の武雄記念以来の優勝で記念競輪21勝目。熊本記念は初優勝。このレースは脚力で上位の脇本と,町田の番手を回る松浦が有力とみていましたが,単騎となった脇本が離れた最後尾となってしまい不発。これは作戦ミスといわざるを得ないでしょう。松浦も展開は有利だったのですが,単騎となった坂井が最初に捲ってきたのが意外で,その分だけ脚を使ってしまったということだと思います。深谷は嘉永よりも後,残り半周を過ぎてからの仕掛けになったのですが,レース展開上はそれがベストのタイミングであったということだと思います。

 レベッカRebecca de Spinozaが提出されたとされる嘆願書に対して,裁判所がどのような判断を下したのかは分かりません。ただ,レベッカがその後も遺産相続人を主張するならスペイクに支払うべきであった費用を支払わなかったということは確実です。スペイクの方はそれを取り戻す必要がありましたから,スピノザの遺品を競売にかける権限を得て,実際にそれらを競売にかけたのです。この権限が,公的機関から得たのか,それとも遺産の相続人であったレベッカおよびダニエルDaniel Carcerisから得たのかは,『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』からははっきりしません。コレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaの方ではハーグDen Haagの裁判所から権限を得たとなっていますから,支払いを拒むレベッカに対して業を煮やしたスペイクが裁判所に訴え出て,権限を与えられたということなのだと思います。
 競売が実際に行われた期日をナドラーSteven Nadlerは11月としか表現していませんが,これはコレルスの伝記にある通り,11月4日のことであったと思われます。この競売には多くの参加者があったと書かれていますが,これはおそらく売り上げからのナドラーが類推したことでしょう。ナドラーもこの競売によって借金に充てる以上の収益があったとみています。
 一方で,スペイクはリューウェルツJan Rieuwertszを通して,シモン・ド・フリースSimon Josten de Vriesのきょうだいから葬儀費用と家賃は弁済されていました。このこともナドラーは史実であるとみています。したがって,競売によって得た収益は,そうした費用に充足させる必要はなかったものと思われます。なので,スピノザにそれ以外の借金があって,それに充てるための費用をスペイクがなお必要としていたのでない限り,借金に充てる以上の収益があったというのは,単純に収益のほとんどがスペイクの手許に残ったという意味にしか僕には解せません。すべてといわずにほとんどというのは,競売を実施するにあたっても費用というのが必要だったのであって,そうした費用についてもこの収益の中から支払われたとみるのが妥当であると思うからです。ただレベッカはたとえ相続してもスペイクには支払わなければならなかったわけですから,わずかな収益を遺産として相続する必要はないと判断したのでしょう。
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ゲートキーパー&嘆願書

2024-10-05 19:09:50 | 歌・小説
 『夏目漱石『こころ』をどう読むか』の荻上チキのエッセーを読んだときに,『こころ』という小説では,直接的にではあれ間接的にではあれ,多くの死が語られているということに僕が気付いたのは,このエッセーが,ゲートキーパーという視点から書かれたものであったからです。こういう視点から『こころ』を読むというのは僕にとっては類例がない,もしかしたらあるのかもしれませんが,それがきわめて少ないものでした。
                            
 ゲートキーパーというのは,自殺を志願する人に対して,説得して自殺を思いとどまらせる役目を果たす人のことです。『こころ』の中の最後のところで,私は死の床にある父を見捨てるような形で東京へ向かう汽車に飛び乗ります。この部分は大抵の場合は,私が父親よりも先生の方を自身にとって重要な存在であるとみなしていたというように読まれるのですが,荻上は,自殺を仄めかす長い手紙を自分に送ってよこした先生に対して,ゲートキーパーの役割を果たすため汽車に乗ったのだというように読むのです。父が死の床にあるか否かということとは関係なく,先生のゲートキーパーになれるのは自分だけであるということを私は知っているがゆえに,私はその役割を果たそうとしたということです。したがって,父の死の前には私は無力であったけれども,先生の死に対しては何らかの力を有するということを私は知っていたということになり,そうであれば父を見捨てるように汽車に乗ったことに荻上は違和感はないといっています。つまりこれは,父よりも先生を選択したということではないのであって,自分の力を発揮できる方向へ私は向かったのだという解釈になります。
 このエッセーは2014年3月に書かれています。現在でも日本人の自殺者は少なくありませんが,当時は今よりもずっとこのことが社会問題と認識されていました。そういう意味ではこのエッセーは時代的なものであるとみることもできるでしょう。

 3月2日の遺品目録によって,スピノザの借金が明らかになったとナドラーSteven Nadlerはいっています。これはレベッカRebecca de Spinozaからの目線で考えるとよく理解できます。レベッカは遺産相続人であるとスペイクに申し出たわけですが,その時点でスピノザの遺産がどれほどのものであるか分かっていませんでした。なのでレベッカがスペイクに遺品目録を作成する権限を与えたのは,その内容を詳しく知りたかったからだということになるでしょう。この路線で解すると,ナドラーがここでいっていることは一貫性があることになります。
 なお,これは遺品の目録ですから,たとえばスペイクが支払った葬儀代の費用は含まれていません。スペイクはこの遺品目録にあった負債だけでなく,そうした費用についてもレベッカに請求しました。前にいっておいたように,スピノザには未払いの家賃があって,それをナドラーはスピノザのスペイクに対する借金と表現しているのですが,そうした借金もまた遺品の目録に含まれていたわけではなく,スペイクがレベッカに対して直接的に請求したものでした。もちろん遺品目録の中には,売ることによって得られるものもあったでしょうが,そうしたものから借金を支払ってしまうと,もしも自分の手にいくらかの金銭が残されたとしても,それが僅かであるということが,レベッカにもはっきりと分かるようになったのです。
 このためにレベッカはスペイクから請求された借金,すなわちスピノザの未払いの家賃と葬儀代を支払うことを拒みました。スペイクの方はレベッカが遺産相続人であることを主張するならそれは支払われるべきだと考えていましたから,そのために代理人を立ててレベッカに請求しました。これが1677年5月30日のことであったとされています。そしてこの日にレベッカは,ハーグDen Haagの裁判所に対して,この支払いを一時的に保留するための嘆願書を出しています。これは『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』にも書かれていることであって,むしろナドラーがフロイデンタールJacob Freudenthalの調査に依拠している事柄です。これは『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』の方に詳しく示されている記録が残っていますから,この嘆願書がこの日に出されたことは史実です。
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東京盃&遺品目録

2024-10-04 19:18:15 | 地方競馬
 昨晩の第58回東京盃
 ブラックストームは発馬で立ち上がってしまい大きく取り残されました。エンテレケイアが予想通りに逃げ,ヘリオスが2番手。3番手はマックスとシャマル。5番手にギャルダルとエートラックス。7番手にチカッパとイグナイター。9番手にボイラーハウスとスターシューターとクロジシジョー。3馬身差でジゼルとケイアイサクソニーで大きく離れてブラックストームという隊列。前半の600mは34秒2のハイペース。
 3コーナーではエンテレケイア,ヘリオス,シャマルの3頭が雁行になり,外の方からギャルダルとエートラックスも追い上げてきました。直線に入ると前の3頭からシャマルが前に。外に出されたチカッパがそれを追い,内を回って逃げたエンテレケイアとシャマルの間を突いてマックス。外のチカッパが差し切って優勝。マックスが半馬身差の2着でシャマルが半馬身差で3着。
 優勝したチカッパ北海道スプリントからの連勝で重賞2勝目。このレースは有力馬が外目の枠に集中しましたので,波乱の余地もあるとみていました。シャマルは3着に入れましたが,総じて内目の枠から道中は内を走った馬が上位に入っていますから,その面の影響は大きかったと思います。とはいえ古馬との初対戦で結果を出したのは評価できるところ。1400mよりも1200mの方が向くスプリンターとみていいでしょう。父はリアルスティール。馬名は博多弁でとても。
 騎乗した横山典弘騎手は第30回以来となる28年ぶりの東京盃2勝目。管理している中竹和也調教師は東京盃初勝利。

 葬儀についてはスペイクが支度をして4日後に執り行われたとナドラーSteven Nadlerはいっていて,その理由が葬儀費用の捻出のためであったとしているフロイデンタールJacob Freudenthalとは見解を異にしています。アムステルダムAmsterdamから来た会葬者も少なくなかったに違いないといっていますが,具体的な名前は出していません。コレルスJohannes Colerusが何の報告もしていませんし,会葬者の名簿は記録として残していないでしょうから,これはある意味では当然です。ただフッデJohann HuddeとかマイエルLodewijk Meyer,イエレスJarig Jellesといった人たちはアムステルダムに住んでいたわけですから,彼らが出席したことについてナドラーが否定しているというわけではありません。
                            
 レベッカRebecca de SpinozaとダニエルDaniel Carcerisについても,葬儀に出席したかどうかは分からないとナドラーはいっています。ここでナドラーはダニエルのことを,レベッカの甥でもあり義弟でもあるといっているのですが,この意味は僕には不明です。ダニエルはレベッカの姉であるミリアムMiryam de Spinozaの子であって,後にミリアムが死んで夫とダニエルが残されたところにレベッカが嫁いだのです。これでみればレベッカとダニエルの関係は義姉弟ではなく,義母子になる筈だからです。ダニエルがミリアムの子であるということはしかとした記録として残されているのですから,ダニエルがレベッカの義弟であるとすれば,レベッカがダニエルの父の義娘になった場合です。しかし義娘になる理由があるようには思えませんし,吉田は結婚したのだと確定的に書いています。なのでこの部分は誤りではないでしょうか。
 レベッカは3月2日に,自身とダニエルをスピノザの遺産の相続人であると宣言しました。この宣言によってスペイクはスピノザの遺品の目録を作成する権限を与えたとされています。フロイデンタールの記述だと,死の当日に遺品の目録が作成されたけれども,正確ではなかったのでスペイクが正しい目録を作ったと読めるようになっていて,死の当日に遺品の目録が作成されていたことについてはナドラーも否定していませんが,3月2日の遺品目録は,レベッカの要求に従ってスペイクが改めて作成させたということですから,最初の遺品目録も不正確だったのではないかもしれません。
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農林水産大臣賞典ジャパンダートクラシック&死亡診断書

2024-10-03 19:14:50 | 地方競馬
 昨晩の第26回ジャパンダートクラシック
 クルーミーズクライは1馬身ほど遅れました。逃げたのはカシマエスパーダ。フォーエバーヤングとサンライズジパングが2番手を並走。その後ろがフジユージーンとサントノーレとサトノエピック。7番手にラムジェット。8番手にミッキーファイト。9番手にポッドロゴでその後ろはシンメデージーとケンタッキースカイの併走。2馬身差でボンドボーイ。大きく離れてクニノトキメキとブラックバトラーで併走となり,3馬身差の最後尾にクルーミーズクライ。前半の1000mは61秒6のミドルペース。
 向正面でラムジェットが外から進出。このために3コーナーでは内からカシマエスパーダ,サンライズジパング,フォーエバーヤング,ラムジェットの4頭が雁行になり,その後ろにフジユージーンとサトノエピックとミッキーファイトの3頭。フォーエバーヤングが単独の2番手になってコーナーを回り,直線の入口ではカシマエスパーダの前に出て先頭に。コーナーで3番手に下がったサンライズジパングがフォーエバーヤングの外に出され,ラムジェットはその外。さらにラムジェットの外からミッキーファイト。しかし直線先頭のフォーエバーヤングがそのまま危なげなくフィニッシュまで押し切って優勝。ミッキーファイトが1馬身4分の1差で2着。サンライズジパングが5馬身差の3着でラムジェットが1馬身差の4着。後方から大外を鋭く追い込んだシンメデージーが4分の3馬身差で5着。
 優勝したフォーエバーヤングUAEダービー以来の勝利で重賞5勝目。大レースは全日本2歳優駿以来の2勝目。ここはこの馬とラムジェットの対決。シンメデージーとの差を考えるとラムジェットは力を出し切れていない感がありますが,決着はついたといえ,この馬が3歳馬ではトップといっていいでしょう。距離もこのくらいあった方が戦いやすい馬のようです。父はリアルスティール。3代母がローミンレイチェルで祖母の3つ下の半弟がゼンノロブロイ
                            
 騎乗した坂井瑠星騎手はさきたま杯以来の大レース10勝目。第22回以来となる4年ぶりのジャパンダートクラシック2勝目。管理している矢作芳人調教師は全日本2歳優駿以来の大レース26勝目。第18回,22回に続くジャパンダートクラシック3勝目。

 老いた鶏のスープを食べさせることが,医療行為であるのかどうか分かりません。もしこれが医療行為であったとしたら,スペイクはその指示によってアムステルダムAmsterdamから来たその人が医師であったと理解したでしょう。しかしそうでなかった可能性もあるわけですから,このことでスペイクがアムステルダムから来た人物を医師であると特定できたと断定できるわけではありません。
 この人物は,スピノザが死んだときに,スペイクの家にふたりきりでいました。だからスピノザが死んだということを判定したことになります。こうした判断が医師にしかできなかったとすれば,アムステルダムから来た人物は間違いなく医師だったことになります。ただ,人が死んだかどうかということだけの判断であれば,これはだれにでもできるといえます。実際に僕の父が死んだときも僕の母が死んだときも僕は枕元にいましたが,死んだのではないかと思ったから看護師を呼んだのであり,確かに僕には父も母も死んだということが分かったのです。ただ僕が看護師を呼んだのは,その最終判定が医師に任されているからであり,僕が呼んだ看護師も,確かに死んでいると判断し,さらに医師を呼んで最終的な判断をしてもらったのです。したがって,もしこの時代にも死亡診断書のような書類があって,その診断書を出すことができるのが医師免許を持っている人に限定されていたのであれば,スピノザの死亡診断書を書いたのはこのアムステルダムから来た人物にほかならないでしょうから,この人物は確かに医師であったと断定することができます。よって当時の状況がこのようなものであれば,アムステルダムから来たのはシュラーGeorg Hermann Schullerであったことになり,マイエルLodewijk Meyerであったことにはなりません。しかし当時の状況が分からないので,このようにはいえないのです。したがって,アムステルダムから来た人物が医師であるとコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaに書かれているからといって,それをシュラーであったとする材料にはならないのではないかと僕は思います。医師ではなかったマイエルが来た場合であっても,スペイクはマイエルを医師であると間違える可能性を否定することができないからです。
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レディスプレリュード&医師

2024-10-02 18:57:59 | 地方競馬
 昨晩の第21回レディスプレリュード
 アイコンテーラーとアーテルアストレアは立ち遅れて1馬身の不利。ヴィブラフォンが前に出ると立ち遅れたアイコンテーラーが外から追い上げていきましたが前に出るには至らず2番手。2馬身差でラブラブパイロとライオットガール。2馬身差でグランブリッジ。2馬身差でアーテルアストレア。2馬身差の最後尾にアンティキティラという隊列。最初の800mは51秒0のミドルペース。
 向正面の半ばから3番手併走だったラブラブパイロが遅れはじめ,単独の3番手となったライオットガールが前との差を詰めていき,グランブリッジが4番手に。直線の入口ではヴィブラフォンとアイコンテーラーが併走となり,その外にライオットガールとグランブリッジ。コーナーは内を回って追い上げてきたアーテルアストレアがここからグランブリッジの外へ。アイコンテーラーがヴィブラフォンの前に出て先頭に立つと,ライオットガールは追っていくことができず,グランブリッジとアーテルアストレアが追い詰めていき3頭の優勝争い。真中から最後に前に出たグランブリッジが優勝。アイコンテーラーがアタマ差で2着。アーテルアストレアは4分の3馬身差で3着。
 優勝したグランブリッジは昨年のエンプレス杯以来の勝利で重賞5勝目。レースでは常に力を出すのですが,牡馬相手のレースも多かったこともあり,なかなか勝てずにいました。牝馬戦では能力上位だと思うのですが,2着が多い馬ですから,そういうタイプであると把握しておく必要があるでしょう。母の父はダイワメジャービューチフルドリーマーワールドハヤブサの分枝。
                            
 騎乗した川田将雅騎手第17回以来となる4年ぶりのレディスプレリュード2勝目。管理している新谷功一調教師はレディスプレリュード初勝利。

 僕はこのような状況から考えると,遺稿集Opera Posthumaの編集者の総意としてスピノザの遺稿の売却が考えられていたわけではなく,シュラーGeorg Hermann Schullerが独断でライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizに対して遺稿の買取りを打診したのではないかと思います。他面からいえば,ほかの編集者たちは考えを改めて遺稿集の出版を決断したわけではなくて,その遺稿を入手した以上は出版するために当初から奔走していたのではないかと思います。
 『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』に関連した部分はこれだけです。次に『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』の当該部分をみておきます。
 すでにいっておいたように,ナドラーSteven Nadlerはスピノザの死を看取った医師はマイエルLodewijk Meyerであったと解しています。ただし,シュラー説も紹介されていて,その可能性を否定していません。これはフロイデンタールJacob Freudenthalが実際にはシュラーであったとするときにも同様なのですが,この人がアムステルダムAmsterdamから来た医師であったということが理由のひとつとされています。マイエルは医師ではないけれどもシュラーは医師であったので,アムステルダムから来たのが医師であったとするなら,それはマイエルではなくシュラーであったとする見方です。
 僕はそれが本当に理由になるのかということは疑問に感じる部分もあります。すでにいっておいたように,もしもスペイクがシュラーが来たのにマイエルが来たと勘違いするなら,スペイクはシュラーともマイエルとも面識がなかったとしなければなりません。なのでシュラーなりマイエルなりが来たときに,その人が医師であるのか医師ではないのかということをスペイクが知ることができるのかということに疑問を感じるからです。スペイクが,実際にはシュラーが来たのにマイエルが来たと間違える場合の例をすでに示しましたが,それと同じように,スピノザからは医師が来ると伝えられていたけれどもマイエルが来たという場合には,スペイクはマイエルのことを医師と思い込むということがあり得るからです。実際にこのアムステルダムから来た医師と記述されている人がなしたと書かれているのは,老いた鶏のスープを作らせてスピノザに食させたことと,スピノザの死後に机の上の金品を持ち帰ってしまったことだけです。
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