スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。
『生き抜くためのドストエフスキー入門 』で展開されている汎悪霊論 は,文学評論としては成立しますがスピノザの哲学の理解としては不適切です。ここではなぜスピノザの哲学の理解としてこの論述が不適切であるのかを説明します。
スピノザの哲学は基本的に唯名論 を採用しています。これはスピノザがことばと観念ideaは異なるものだと考えているからであって,ことばによって事物を理解することには重きを置かず,事物の十全な観念idea adaequataを形成することに重きを置いているからです。スピノザはことばによって事物を認識するcognoscereことは基本的に表象imaginatioであり,その観念は十全な観念ではなく混乱した観念idea inadaequataであるといいます。したがって神Deusとか悪霊といった語によってそれを表象するimaginariことには意味がありません。神の本性essentiaとは何か,悪霊の本性とは何かを理解するintelligereことが重要なのです。
スピノザは第一部定義六 で神を定義していますが,そこでは無限に多くの属性infinitis attributisによってその本性を構成される実体substantiamが神であるとされています。このとき,神というのは命名にすぎません。いい換えれば,あるものが神といわれるならばそれは無限に多くの属性によって本性を構成される実体でなければならないという観点からこう定義されているのではなく,無限に多くの属性によって本性を構成される実体があれば,それをスピノザは神というという観点からの定義 Definitioなのです。したがって,無限に多くの属性によって本性を構成される実体が神といわれなければならない積極的な理由があるわけではありません。単にスピノザはそのようにいうというだけです。
よってスピノザは,無限に多くの属性によって本性を構成される実体を悪霊というということもできたわけです。そしてこの場合はスピノザの哲学は汎神論 ではなく汎悪霊論であるということになるでしょう。つまり汎神論であろうと汎悪霊論であろうと,スピノザの哲学の内実は変わるわけではありません。ただ神といっているところのものを悪霊といい換えるというだけにすぎないのです。
社会契約説を軽視する,とくに『国家論 Tractatus Politicus 』にはそういう傾向が強いですから,そこでいわれている自然状態 status naturalisが,現に存在したとされる状態であるのか,それとも架空の,いわば理性の有 entia rationisのような概念上の状態であるのかということは,そこまで突き詰めて考える必要はないといえます。ですから,僕のように,自然状態は社会契約説によって国家Imperiumの成り立ちを説明するための概念上の状態であって,人類の歴史のうちでそのような状態は存在したことがないと理解するとしても,スピノザの政治論を正しく理解する上で大きな問題を齎すことはないでしょう。
『国家論』の第二章第一五節の冒頭で,自己を他の圧迫から防ぎ得る間だけ自己の自然権jus naturaeの下にあるといえるような状態のことを自然状態といった直後で,この自然状態においては各人の自然権は無に等しいという意味のことをスピノザはいっています。したがって,スピノザは自然状態においては,各人が他の圧迫を防ぎ得ないと考えているわけで,この点からみれば,各人が他の圧迫を防ぎ得ない状態のことを自然状態であるとスピノザは規定しているとみることもできるでしょう。この種の自然状態の概念notioは,ホッブズThomas Hobbesがいっている,万人の万人に対する戦争状態としての自然状態に近似しているといえます。実際に吉田も指摘している通り,スピノザは『国家論』において自然状態を規定しているわけではないのですから,その自然状態を,ホッブズが規定しているような自然状態のことであると理解することは可能なのであって,それをスピノザの哲学に基づいて規定すると,このようになるというように理解しても,それほど大きな間違いではないと思います。
第四部公理 でいわれているように,自然 Naturaの中にはそれよりも有力で強大なものが存在しないような個物res singularisはありません。人間も個物ですからこのことが適用されます。したがって各人は単独で存在する限り,自身よりも有力で強大な他者が必ず存在することになります。よってこの状態では各人は他の圧迫から身を守ることは不可能だといえます。なのでスピノザが自然状態をそのような状態と規定することは,スピノザの哲学にも合致しているといえます。
北海道から1頭,高知から1頭が遠征してきた昨晩の第35回ロジータ記念 。
トウケイカッタローは発馬してすぐに控えました。逃げたのはミスカッレーラ。2番手にローリエフレイバーで3番手にリケアマロン。4番手にグラインドアウト。その後ろはニジイロハービー,エレノーラ,シトラルテミニの集団。ポルラノーチェ,フェルディナンド,ベイデンマリーナ,プリンセスアリー,フォルトリアンの順で続き,2馬身差でイマヲトキメク。最後尾にトウケイカッタロー。位置取りはほとんど変わらずに2周目の向正面に。ここで4番手がグラウンドアウトとシトラルテミニの併走になり,その後ろがニジイロハービー,エレノーラ,フェルディナンドの集団。さらにプリンセスアリーが追い上げてきました。スローペース。
3コーナーでは逃げたミスカッレーラを押しながらローリエフレイバーが追走。外から捲り上げてきたのがポルラノーチェでここからはこの3頭の争いに。早めに手が動いていたローリエフレイバーですが,直線に向くと逃げるミスカッレーラと捲ってきたポルラノーチェの間から伸び,前に出て優勝。外のポルラノーチェがクビ差で2着。ミスカッレーラは2馬身半差で3着。
優勝したローリエフレイバー は東京2歳優駿牝馬 以来の勝利で南関東重賞2勝目。今年は東京プリンセス賞で2着になった以外はあまり走れていなかったのですが,東京2歳優駿牝馬までのことをみれば能力があることははっきりしていました。ここは復活の勝利とみていいでしょう。気温が高くなる時期は苦手というタイプなのかもしれません。母の父はネオユニヴァース 。
騎乗した川崎の野畑凌騎手は東京2歳優駿牝馬以来の南関東重賞2勝目。管理している大井の月岡健二調教師は南関東重賞10勝目。ロジータ記念は初勝利。
スピノザが自然権 jus naturaeを経由させて自然状態 status naturalisを規定しているのは,スピノザもまた自然状態というのを現実的に存在した状態ではなく,理念上の概念notioであると解しているからではないかと僕は考えています。社会契約説を完成させるためには自然状態の概念が必須といえますが,そうした状態,いわば共同社会状態status civilisより以前の状態が人類史の中に存在したという見方に僕は否定的です。自然状態というのは共同社会状態以前の状態としか解せませんから,僕は人類史の中でそういう状態があったというように考えないのです。もちろんこれは共同社会societasというのをどの程度の大きさとして解するのかということと関係するのであって,ある一定数のまとまりを超過しなければ共同社会状態とはいえないというのであれば,そういう状態があったというほかはないかもしれません。しかし自然状態の意義というのは,ホッブズThomas Hobbesが指摘しているように,個々の人間が自分の利益utilitasだけを考慮に入れて各々の力potentiaを発揮するという状態なのであって,それを自然状態というのであれば,そのような状態はなかったと僕は考えます。スピノザの哲学に寄せて考えれば,第三部定理七 でいわれているコナトゥス conatusは明らかに力でもあって,この力が自然権を規定することになるのですが,この定理Propositioはある人間が他の人間と協力することを拒むことを意味しません。むしろ他者と協力することが自己の利益suum utilisとなるならば,その人間は他者と協力するということがこの定理からは出てこなければならないのです。そしてその限りにおいては諸個人が自分の利益だけを考慮に入れているということはできないのであり,その状態は自然状態とはいえないことになります。いい換えれば個々の人間の現実的本性actualis essentiaが,自然状態は人類史の中で存在しなかったということの証明Demonstratioを含んでいると僕は考えるのです。そしておそらくスピノザも,それに近い考え方をしているのではないかと思うのです。
もちろんスピノザははっきりとそういっているわけではありませんから,これは僕の仮説のようなものであり,実際にそうだったといえるわけではないでしょう。ただいずれにしてもスピノザが社会契約説を軽視するのは事実です。
北海道から1頭が遠征してきた東京2歳優駿牝馬トライアルの昨晩の第24回ローレル賞 。
逃げたのはリオンダリーナ。ただ2番手のサティスファイアと3番手のピーチブロッサムはほとんど差がなく追走しました。4番手はプラウドフレールとピンクタオルチャン。ドナギニーを挟んでチャチャハツゴウとモンゲーキララも併走。さらにザゴリ,オリコウデレガンス,ウィルシャインの3頭。これらの後ろにランベリーとなり,集団の最後尾がグレアネオンライト。シナノラビットは集団から3馬身ほど遅れた最後尾になりました。前半の800mは50秒6のハイペース。
3コーナーからリオンダリーナとサティスファイアが併走に。その後ろからプラウドフレール,ピンクタオルチャン,モンゲーキララ,ウィルシャイン,オリコウデレガンスの5頭が並んで追い上げてくるという形。直線では外の2頭が前に出て,先んじて先頭に立ったウィルシャインが優勝。大外のオリコウデレガンスが4分の3馬身差で2着。捲り上げた馬のうち最も内にいたプラウドフレールが1馬身半差の3着。
優勝したウィルシャイン は南関東重賞初挑戦での優勝。8月のデビュー戦を勝つと9月の条件戦で2勝目。これでデビューから3連勝となりました。デビュー戦が船橋の1000mで2戦目が船橋の1200m。ここは相手が強化され,競馬場が変わった上に距離も伸びてのものでしたから,これは評価に値するでしょう。ただ,リオンダリーナはレース前に馬体の検査を受け,異常がなかったということでの出走。影響があったかは別としても,力を発揮できなかったのは一目瞭然。2着のオリコウデレガンスは発馬後の直線で明確な不利を受けてのものですから,勝ち馬のレベルが例年の水準には達していないという可能性も考慮しておく必要がありそうです。父はジャスタウェイ 。3代母の半姉に1999年のユニコーンステークスとシリウスステークス,2000年のかきつばた記念とプロキオンステークスと南部杯を勝ったゴールドティアラ 。
騎乗した船橋の本田正重騎手は川崎スパーキングスプリント 以来の南関東重賞19勝目。ローレル賞は初勝利。管理している船橋の佐藤裕太調教師は南関東重賞14勝目。ローレル賞は初勝利。
実際には前にもいっておいたように,社会契約そのものにスピノザは重きを置いているとはいえないので,共同社会状態status civilisの権力の維持のために何が必要であるのかということを,社会契約の観点から説明することが,スピノザの政治論において大きな意味があるとはいえないかもしれません。ただ,こうしたこともスピノザが自然状態status naturalisという概念notioを経由せずに自然権jus naturaeを規定していることから生じているといえます。
吉田は,スピノザが社会契約説を軽視することも,自然状態を経由せずに自然権を規定していることから生じているといっています。この点も詳しくみていくことにします。これは第八回ではなく第一四回の方で言及されています。それは『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』では社会契約説に言及していますが,『国家論 Tractatus Politicus 』では社会契約説が姿を消してしまっていることと関係します。要するに第八回では『神学・政治論』がメインテーマになっているのに対し,第一四回では『国家論』の方がメインに講義されているということです。
『国家論』の第二章は自然権についてという題名になっています。その第一五節の冒頭で,自然状態においては各人は自己を他の圧迫から防ぎ得る間だけ自己の権利の下にあるといわれています。この自己の権利が自然権を意味するのは間違いありません。一方,自然状態の方はこれよりも前に何の規定もされていません。したがって自然状態がどのような状態であるかといえば,自己を他の圧迫から防ぎ得る間だけ自然権の下にある状態であるということになるでしょう。つまりスピノザは自然権を自然状態という概念を経由せずに規定しているだけではなく,むしろ自然状態が,自然権のある状況の方から規定されていることになります。これはちょうどホッブズThomas Hobbesの真逆になっています。ホッブズはまず自然状態というのを規定しておいて,その万人の万人に対する闘争状態において個々の人間が行使する力potentiaのことを自然権といっているわけです。つまり自然状態なしに自然権を考えるconcipereことはできません。対してスピノザは,個々の人間がなし得る力すなわち自然権がある状態であるとき,その状態のことを自然状態といっていることになるのです。
10日の四日市記念の決勝 。並びは中野‐新山‐佐藤‐大森の北日本,寺崎‐三谷の近畿,伊藤‐井上の九州で柴崎は単騎。
伊藤と大森がスタートを取りにいき,誘導の後ろに入った伊藤が前受け。3番手に柴崎,4番手に中野,8番手に寺崎で周回。残り3周のホームから寺崎が上昇。中野の横で併走になりました。バックで中野が引いたので,4番手に寺崎,6番手に中野となって一列棒状。残り2周のホームから引いた中野が発進。バックで伊藤を叩きました。この間に飛びつきを狙った寺崎が,大森の追走を阻んだので,4番手に寺崎。マークの三谷を挟んで6番手に大森という隊列に。バックに戻って新山が中野との車間を開けて待機。寺崎の発進に合わせて番手捲り。この競り合いを制した新山が優勝。捲った寺崎が1車身半差で2着。新山マークの佐藤が1車輪差で3着。
優勝した青森の新山響平選手は2022年の競輪祭 以来の優勝。記念競輪は2020年3月の玉野記念 以来となる5勝目。四日市記念は初優勝。このレースは北日本ラインの厚みが他を圧倒していて,それを生かしての優勝。S班に在籍しているように力量は確かで大きく崩れはしないのですが,これが今年の初優勝であり,昨年も優勝がないという勝ち味には遅いタイプ。その点はいささか心配しましたが,さすがにこのラインでこの展開になれば優勝は譲れない選手でした。欲をいえば,このレースは展開的に中野を残すのは難しかったので仕方がありませんが,佐藤を2着に引き込むような走りが必要だったと思います。
このことに関してはさらに次の点にも気を付けておかなければなりません。
もし自然法 lex naturalisの概念notioをスピノザの政治論に導入するなら,自然状態status naturalisは危険な状態であるから人びとは社会契約を締結して共同社会状態status civilisで生活するようになるということは自然法に属するとはいえず,共同社会状態での権力が共同社会を構成する人びとの利益utilitasを顧みないとその権力が持続することができなくなるということは自然法に属するといえることになると僕は考えます。ただ,権力が共同社会の構成員の実質的利益を考慮するというとき,それは実質的な利益が構成員に齎されているということを必ずしも意味しません。というのは,この場合は社会契約を破棄するのは構成員であって権力者の側ではないので,構成員が自身の利益が保証されていると認識しているのであれば,この権力は継続することになるからです。しかるに現実的に存在する人間は,自身の利益を必ず十全に認識するcognoscereのかといえばそういうわけではありません。混乱して認識するという場合もあるわけです。スピノザの哲学で利益というのはまず自然権jus naturaeの根拠ともなる第三部定理七 から図られることになるのですが,実際には自身の利益になっていない事柄を,自身の利益になっていると思い込むことは人間にはあるのであって,そうしたことが共同社会状態の構成員に共有されているのであれば,その共同社会の社会契約は破棄されないので共同社会が継続することになり,権力も持続することになります。逆に,本来は自身の利益である事柄を不利益 であると思い込むことも人間にはありますから,その場合はその混乱した認識cognitioの下に社会契約が破棄されてしまうということがあり得るのであって,こうした事情によって共同社会の社会契約が破棄され,権力が移行するということも起こり得るのです。つまり構成員の実質的利益を権力が考慮するということは,権力の持続が構成員の利益になっていると思うような状態にするという意味であり,逆に構成員の利益を顧みないというのは,構成員がそのように思うことに配慮しないという意味です。なので実際は構成員の利益に適っていない権力が持続するdurareことも起こり得るのです。
4日の防府記念の決勝 。並びは吉田‐杉森‐武藤の関東,太田‐清水‐桑原の山陽,松本‐小岩の西国で菅田は単騎。
清水と松本がスタートを取りにいき,清水が誘導の後ろを確保し太田の前受け。4番手に松本,6番手に菅田,7番手に吉田で周回。残り4周のバックの入口から吉田が上昇開始。残り3周のホームで太田に並びました。太田は引かず,バックに入って誘導が退避するとそのまま突っ張りました。吉田は引いて残り2周のホームでは周回中と同じ隊列に戻っての一列棒状に。そのまま打鐘を迎え,ホームの入口から太田が本格的に先行。引いた吉田が巻き返しにいきましたが,バックの入口から松本が合わせて発進。清水の牽制を乗り越えて捲り切りました。松本はそのまま後ろを離していき優勝。離れながらも食らいついた小岩が3車身差の2着で西国のワンツー。最後尾からインを突いた武藤が1車身半差の3着。
優勝した愛媛の松本貴治選手は前々回出走の函館のFⅠ以来の優勝。7月のウインチケットミッドナイト 以来のGⅢ3勝目。記念競輪は2021年の松山記念 以来の2勝目。このレースは地元の清水にとって有利な並びになったのですが,吉田が早めに押さえに来たため,太田の発進が早くなりました。太田も力はありますが,あの段階から駆けては最後までもちません。清水は勝つためには番手から発進するほかなかったのですが,太田が頑張ったのでそれができなかったのでしょう。松本がそこをついての快勝となりました。前受けを狙いに行って4番手を確保できたのが大きかったと思います。
ホッブズThomas Hobbesは自然状態status naturalisにおける人間が社会契約を結び共同社会状態status civilisに入ることを自然法lex naturalisによって説明しています。そこでこの自然法の概念notioをスピノザの政治論に導入するなら,共同社会状態の成員の実質的利益を顧みない権力あるいは支配者は,その権力を維持することができなくなるということが,自然法によって生じるといえると僕は考えます。したがって,吉田はスピノザの社会契約はホッブズの社会契約より軽いといっていますが,この観点から見れば逆に重いということもできると思います。これは観点の相違で,共同社会状態の支配者からみたとき,ホッブズの政治論ではその支配者がどのような支配をしようと,いい換えれば共同社会の成員の利益を顧みないような統治を行ったとしてもその社会契約が破棄されることはないのに対し,スピノザの政治論ではそのような場合には社会契約が破棄されてしまうので,社会契約を維持するためには成員の利益utilitasを顧みる必要があります。この成員の利益は当然ながら社会契約の実質的な内容として含まれていることになりますから,支配者の側から社会契約の内容を遵守しなければならないという意味になります。したがって支配者の側からみれば,むしろスピノザの社会契約の方が重く,ホッブズの社会契約の方が軽いといういい方もできるでしょう。
実際にはスピノザは『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』では社会契約説を展開していますが,『国家論 Tractatus Politicus 』では何も触れていません。これは社会契約説というのは,国家Imperiumの成立を説明するための概念上の装置であったことが関係していると僕は考えています。実際に現代人は国家という共同社会状態の中で生きているわけですが,だからといって具体的な契約pactumを結んで国家の中で生きているというわけではありません。国家が国民の実質的利益を顧みなければならないということは社会契約説から導き出せますが,まさにそのことを導き出すための概念装置として社会契約説をスピノザは展開したのではないでしょうか。したがってそれが重いとか軽いとかいう以前のこととして,スピノザが政治論の中で社会契約説にそこまで重きを置いているわけではないということもまた事実だろうと思います。
第49回エリザベス女王杯 。
ピースオブザライフは発馬後に挟まれて1馬身の不利。コンクシェルが逃げて向正面に入るところで3馬身くらいのリード。2番手はシンリョクカとハーパー。2馬身差でスタニングローズ。5番手にホールネス。6番手にキミノナハマリアとコスタボニータ。8番手はシンティレーションとレガレイラとラヴェル。ライラックを挟んでエリカヴィータとゴールドエクリプス。モリアーナとサリエラが併走で続きルージュリナージュとピースオブザライフは並ぶように最後尾を追走。最初の1000mは59秒6のスローペース。
3コーナーでコンクシェルのリードは2馬身ほど。ハーパーが徐々に差を詰めていきシンリョクカ,スタニングローズの順で追走。直線の入口でもコンクシェルは2馬身くらいのリードを保っていましたが,コーナーでスパートしたスタニングローズがあっという間に前に出て先頭。馬場の外の方に出てきましたがそのまま抜け出して快勝。スタニングローズよりも外を追い込んできたラヴェルが2馬身差で2着。3着争いはスタニングローズより内に進路を取った,レガレイラ,シンリョクカ,ホールネス,ライラックの4頭で接戦。ホールネスが4分の3馬身差の3着でシンリョクカがクビ差で4着。レガレイラがハナ差の5着でライラックがハナ差で6着。
優勝したスタニングローズ は一昨年の秋華賞 以来の勝利で大レース2勝目。このレースは大レースを勝ったことがある馬が2頭。3歳以降に勝ったのはこの馬だけという,大レースとしてはやや低調なメンバー構成。秋華賞を勝った後は昨年の中山記念で5着に入った以外は大敗を続けていましたが,今日のメンバーであれば実績上位でですから快勝になったというところ。あくまでもメンバー構成上の優勝であって,復活したとみるのは早計であるように思います。父はキングカメハメハ 。母の父はクロフネ 。4代母がローザネイ 。3代母が1995年にデイリー杯3歳ステークスを勝ったロゼカラー で祖母が2001年のフィリーズレビューと2003年のマーメイドステークスを勝ったローズバド 。Stunningは魅力的な。
騎乗したフランスを拠点に騎乗しているクリスチャン・デムーロ騎手は一昨年のエリザベス女王杯 以来となる日本馬に騎乗しての大レース6勝目。2年ぶりのエリザベス女王杯2勝目。管理している高野友和調教師はNHKマイルカップ 以来の大レース8勝目。エリザベス女王杯は初勝利。
自然状態status naturalisを経由せずに規定されたスピノザの自然権jus naturaeは,スピノザ自身が書簡五十 でいっているように,共同社会状態status civilisでもそっくりそのまま残されることになります。この順序で規定された自然権には,手をつけたくても手をつけることができないからです。そしてスピノザの哲学における自然権に対する手がつけられないという特徴が,スピノザの哲学における社会契約説の軽さに直結することになるのです。すでにいっておいたように,ホッブズThomas Hobbesの社会契約説は重く,スピノザの社会契約説は軽いのです。この比較をもう少し具体的に吉田は説明しています。
社会契約を破棄して自然状態に復帰するという選択肢は,ホッブズの政治論においてはあり得ません。ホッブズがいう自然状態とは,万人の万人に対する闘争状態なのですから,そのような自然状態に戻るくらいであるなら,それがどんなに辛くひどい共同社会状態であったとしても,その共同社会状態に留まる方がマシであるという理屈になるからです。これに対してスピノザは,社会契約というものは契約pactumを締結する人びとの利益utilitasに結びつかなければ何の意味もないのであって,そうした利益が現に失われてしまえば,社会契約といえども即座に破棄されて無効になるのです。
利益といういい方は『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』で実際にスピノザが使用している語です。このいい方は生々しく感じられるかもしれませんが,たとえば諸個人が私利私欲のために共同社会状態を潰すことが許されるということを意味しているわけではありませんので,その点には留意してください。これは共同社会状態が継続していくための条件を示しているのであって,そのためには社会契約が結ばれるというだけでは不十分であり,その社会契約を結んだ当人たちに対する実質的かつ内容的な利益が継続して齎されなければならないということです。
吉田は直接的には指摘していませんが,いってみればこれは共同社会状態における権力あるいは支配者に対する制約であるとみることができると僕は考えています。ある共同社会状態において権力を継続的に働かせるための条件が,その共同社会状態の成員の実質的利益の継続であるということです。
6日に行われた全日本2歳優駿トライアルの第57回ハイセイコー記念 。
スマイルマンボがスムーズにハナへ。2番手にシビックドリーム。3番手はユウユウスキーとシナノクーパーとアクナーテンの3頭。3馬身差でパルヴェニュー。1馬身差でレーヌバンケット。1馬身差でユメカイドウと二ホンダイラ。1馬身差でスキャロップとグリークトレジャー。3馬身差でアレンパ。1馬身差でナイトウォーリア。1馬身差でピノマハナ。2馬身差でムサシエクスプレス。3馬身差の最後尾にヴァンディヴェール。前半の800mは51秒2のミドルペース。
3コーナーでは2番手のシビックドリームに鞭が入り必死にスマイルマンボを追走。アクナーテンが単独の3番手に上がりユウユウスキーが4番手に。逃げたシビックドリームは楽な手応えで直線に向かい,後ろを引き離し鋭く逃げ切って優勝。早めに鞭が入りながら喰らいついたシビックドリームが6馬身差で3着。3コーナーでは4番手になりましたがインを回って再び追い上げたユウユウスキーが2馬身半差で3着。一旦は3番手のアクナーテンは3馬身差の4着。
優勝したスマイルマンボ は南関東重賞初出走での優勝。北海道でデビュー。デビュー戦を勝ち,特別戦で2着に入ると大井に転入。転入初戦を7馬身差で快勝してここに臨んでいました。そのときに負かした馬がゴールドジュニアを勝ちましたので,力量は相当と目されここは1番人気。典型的な前残りのレースでしたから,着差ほどの能力差を見込んでよいかは疑問ですが,この馬自身は相当の能力を有しているとみていいでしょう。テンポイントなどが出る戦前からのいわゆる在来牝系の出自で母が2012年のTCK女王盃 を勝ったハルサンサン 。その父がサウスヴィグラス 。
騎乗した大井の矢野貴之騎手はマイルグランプリ以来の南関東重賞43勝目。第51回 ,55回 に続く2年ぶりのハイセイコー記念3勝目。管理している大井の坂井英光調教師は南関東重賞7勝目。ハイセイコー記念は初勝利。
まず自然状態 status naturalisがあって,その自然状態において各人がなし得る力 potentiaを自然権jus naturaeと規定したとしても,共同社会状態status civilisにおいて自然権を放棄するということは不条理なのです。実際のところ,人間に与えられているある力,すなわちなし得ることをなし得なくなるということと,何らかの契約pactumによってなし得ることをなさないようにするということは別のことなのであり,なし得ることをなさないように契約するということは,なし得ることをなし得なくなるということとは異なるといわなければならないでしょう。しかしホッブズThomas Hobbesはこのふたつ,つまりなし得ることをなさないと契約するすることと,なし得ることがなし得なくなるということとを同一視しているので,その分だけ社会契約の重みが重くなるのだと僕は考えます。
この点を吉田がどのように説明しているのかをみておきましょう。
すでに説明してきたように,ホッブズはまず共同社会状態なき自然状態というのを規定して,自然権をその自然状態によって説明します。これは自然状態を概念notioの上で自然権に先行させるということです。これに対してスピノザの哲学は,自然状態に触れることなく自然権を規定することができるようになっています。ここでは詳細を省くのでその点については『スピノザ 人間の自由の哲学 』を読んでほしいのですが,実際にスピノザは自然権を規定するときに自然状態には触れていません。つまりスピノザの哲学における自然権は自然状態から独立して規定されます。一方でスピノザは自然状態というのも概念として使用します。したがって,ホッブズとは逆に,自然権が概念の上で自然状態に先行していることになります。
こうした順序の逆転が,スピノザの政治論においては,社会契約説に対して致命的な帰結を齎すことになると吉田はいいます。というのは,社会契約というのが自然状態の解消を目的 finisとしたものであるなら,スピノザの自然権は自然状態の概念にまったく左右されないので,社会契約を結んで共同社会状態に入ろうと,あるいは社会契約を締結せずに自然状態に留まろうと,各人の自然権が当人の手のうちにまったく変わることなくあるということになるからです。
5日にオーストラリアのフレミントン競馬場で行われたメルボルンカップGⅠ 芝3200m。
2番枠からの発馬となったワープスピードは内で控え,17番手あたりを追走。先頭から13馬身ほどで発馬後の直線を通過し最初のコーナーへ。位置取りはあまり変わらず,最終コーナーへ向かってこの時点では先頭から10馬身ほど。ここからの長いカーブのうちに位置が11番手くらいに上がり,徐々に外に持ち出しました。直線に入ったところではまだ前に馬が広がっていたので,その馬群を縫うようなレースに。同じように馬の間を伸びたすぐ内の馬に迫り,並びかけたところでフィニッシュ。僅かに届かず,2着でした。
コーフィールドカップは13着と大敗してしまったのですが,そのレース回顧でもいったように,2400mではまだこの馬には短いという印象。ここは距離が伸びて良さが出たということでしょうし,コーフィールドカップを走ったことによって馬の体調も上がっていたのだと思います。とても惜しい競馬でしたが,日本の大レースで大きな実績を残しているわけではなくても,長距離の適性があれば,これくらいは走ることができるレースであるということはよく分かったと思いますので,長距離適性が高い馬は遠征する価値が高いレースなのだと思います。
ホッブズThomas Hobbesの社会契約説では,まず自然状態status naturalisが先行し,この自然状態によって自然権jus naturaeが規定されます。つまり概念notioとしては自然状態が先にあり,その後に自然権があることになります。しかしスピノザの哲学における自然権は,それを概念するために自然状態を必要としません。これが吉田のいう,順序の違いです。この順序の違いが,自然権の内実の相違にも影響してきます。あるいは社会契約の内実の相違にも影響してくるのです。吉田のことばを借りて簡単にいえば,ホッブズの政治論において社会契約というのは,個々の人間にとってきわめて重いものとなるのですが,スピノザの政治論ではそれが相対的に軽くなるのです。あるいはもっと端的に軽いといってしまってもいいかもしれません。
自然状態を経由せずに概念される自然権は,人が自然状態にあろうと共同社会状態status civilisにあろうと同じように適用されることになります。このことは,スピノザのように自然状態を先行させずに,あるいは自然状態に先行して規定されるような自然権は,人が自然状態から共同社会状態に移行するとしても,譲渡したり廃棄したりすることができるような自然権としては規定され得ないということから理解できるでしょう。『スピノザー読む人の肖像 』で自然法lex naturalisについて検討したときに,たとえば武器を放棄するというのと同じ意味で人間は自然権を放棄することはできないということを國分はいっていましたが,このことは,自然権を自然状態に先行させて規定するのか,それとも自然状態が先行することによって規定されるのかという順序の相違によって帰結することなのだということを吉田はいっているのです。
自然権を力potentiaと同一視する限り,実はこの順序は関係ないということもできはします。単に自然状態において与えられている力は共同社会状態においても力として与えられているということができるからです。もっともホッブズの矛盾はまさにこの点にあるのであって,だからスピノザは書簡五十 では,自然権をそっくりそのまま保持させているということを,ホッブズの政治論との相違の最初の点として挙げているのです。ホッブズの理論の矛盾はこちらと関係するのです。
佐賀競馬場の2000mで行われた4日の第24回JBCクラシック 。
ウィリアムバローズの逃げとなり2番手にヒロイックテイルとノットゥルノ。2馬身差でガルボマンボとキリンジとメイショウハリオ。2馬身差でウィルソンテソーロ。2馬身差でアンブロジオ。2馬身差でダイモーン。1馬身差でシルトプレ。3馬身差の最後尾にシンコーマーチャンで発馬後の向正面を通過。正面に入って2番手がガルボマンボとヒロイックテイルとノットゥルノの3頭併走となり,単独の5番手にウィルソンテソーロ。直後にメイショウハリオ。2馬身差でキリンジという隊列に。さらに2周目の向正面に入るとウィルソンテソーロとガルボマンボで2番手併走という形に。スローペースでした。
3コーナーを回ると内からウィルソンテソーロが先頭に。逃げたウィリアムバローズの外からメイショウハリオが上がって2番手は併走。先頭のまま直線に向かったウィリアムバローズはそのまま危なげなく抜け出して快勝。外を回ったメイショウハリオが4馬身差で2着。さらに外を追い込んだキリンジが3馬身差の3着で大外急襲のシルトプレが半馬身差で4着。
優勝したウィルソンテソーロ は昨年の白山大賞典 以来の勝利。重賞4勝目で大レースは初制覇。大レースでの2着が3度もあった馬。ここはメンバーがやや楽だったので順当な優勝といっていいと思います。これまで勝てなかった馬がすべて出走していませんでしたので,その域まで追いついたとはいえないかもしれませんが,安定して能力を発揮する馬ですから,これからも大きく崩れることはないだろうと思います。父はキタサンブラック 。
騎乗した川田将雅騎手 はNHKマイルカップ 以来の大レース45勝目。第19回 ,20回 に続いて4年ぶりのJBCクラシック3勝目。管理している小手川準調教師は開業から4年7ヶ月で大レース初勝利。
自己の有esseに固執するperseverare力potentiaを自然権jus naturaeとみなす考え方は,スピノザの思想においては,特別な意味を持つことになります。これは現在の考察とは直接的には関係しないのですが,無視することはできない点です。
第三部定理七 は,現実的に存在するすべての個物 res singularisに妥当する定理Propositioです。したがって,自己の有に固執する力を自然権とみなすのであれば,スピノザの思想においては,人間だけが自然権を有するわけでなく,現実的に存在するすべての個物が自然権を有していることになります。もちろん僕たちは政治論を検討するときには,人間の政治論について検討するわけですから,その文脈で自然権を考える場合はとくにこのことを考慮しなくても大丈夫です。しかし哲学的な文脈ではそういうわけにはいきません。フロム Erich Seligmann Frommは『人間における自由 Man for Himself 』の中で,スピノザが到達した徳virtusの概念notioは,一般的な規範を人間に対して適用したものにすぎないといっていますが,これが自然権の場合も当て嵌まるのであって,スピノザの哲学における自然権とは,一般的な自然権を人間に適用したものにすぎないのです。
僕はスピノザが自然権という概念についてはホッブズThomas Hobbesからヒントを得たということを否定しません。つまり第三部定理七から直接的に自然権という概念を抽出したというわけではないと思います。しかしそれをスピノザの哲学の中で訴えるのであれば,第三部定理七でいわれている現実的本性actualis essentiaをそのまま自然権と結び付けているというほかないのであって,そうであれば自然権というのは現実的に存在するすべての個物に付与された権利なのであって,自然Naturaのうちで人間だけが特有に有する権利であると考えることはできません。実際にホッブズは自然状態において個々の人間がなし得る力についてそれを自然権と規定しているのですから,スピノザがそうした力についてそれを自然権とみなそうとすれば,第三部定理七に訴えるほかなかったとみるべきなのであり,自然権の着想をホッブズから得たスピノザにとって,自然権は現実的に存在するすべての個物に付与されている権利であり,それが現実的に存在する人間にも適用されるというのは,必然的なnecessarius結論であったといえます。
4日の第5回JBC2歳優駿 。
カセノタイガーは立ち上がるような発馬になってしまい2馬身の不利。逃げたのはエイシンキャプテンで2番手にリコースパロー。3番手のイサナとローランドバローズまでが先行集団。2馬身差でタガノマカシヤ。後は1馬身の間隔でダノンフェルゼン,グランジョルノ,ソルジャーフィルドと続きました。3馬身差でカセノタイガー。8馬身差の最後尾にタカオスマイル。ハイペースでした。
3コーナーでリコースパローが前に出るとその内からダノンフェルゼンが進出。ローランドバローズとタガノマカシヤが続いて逃げたエイシンキャプテンは後退。内から前に出たダノンフェルゼンと外のタガノマカシヤが並ぶように直線に入ると外からソルジャーフィルドの追い込み。内の2頭を差し切るとそのまま抜け出して優勝。2番手に上がったタガノマカシヤの外から差してきたグランジョルノが届いて3馬身差の2着。タガノマカシヤがクビ差で3着。発馬で不利があったカセノタイガーがクビ差の4着まで追い上げました。
優勝した北海道のソルジャーフィルド はこれが4勝目での重賞制覇。北海道ではリコースパローがトップの存在で,この馬はブリーダーズゴールドジュニア,サンライズカップと連続してリコースパローの2着でしたから,2番手の評価。リコースパローが逃げたり先行していたのに対し,こちらは後ろからのレースでしたので,ペース次第では逆転もあり得ました。このレースはリコースパローにはペースが速すぎたということで,逆転に至ったということでしょう。まだ3着以下に負けたことがない馬ですから,全日本2歳優駿に進むなら一定の評価は必要だと思います。父は2018年のJRA賞 の最優秀ダートホースとNARグランプリ のダートグレード競走特別賞馬に選出されたルヴァンスレーヴ でその父はシンボリクリスエス 。祖母の父は1994年のラジオたんぱ賞を勝ったヤシマソブリン 。
騎乗した北海道の小野楓馬騎手はデビューから5年半で重賞初勝利。管理している北海道の川島洋人調教師は開業から10年半で重賞初勝利。
スピノザの哲学あるいは政治論は,ここまでに説明してきたホッブズThomas Hobbesの学説とは異なり,自然権jus naturaeを規定するために自然状態status naturalisというのを前提とする必要はありません。というのは,僕はホッブズの自然状態における自然権を,自己の有esseに固執するperseverare権利という,スピノザの学説に寄せた用語で説明しましたが,この自己の有に固執する権利というのが,スピノザの哲学では,第三部定理七 にあるように,現実的に存在する個物 res singularisの本性 essentiaと規定されているからです。なおこの定理Propositioでは,権利については何か触れられているわけではなく,僕たちが用いる語では傾向conatusという語に似た意味の努力conatusといわれていますが,スピノザはこうした,現にある力potentiaというのを権利と同視するのであって,ホッブズもまた自然状態における自然権というのを,自然状態において各人が行使する力とみている点は同様であると理解して差し支えありません。ごく単純にいえば,権利と力を同一視するという点では,ホッブズとスピノザは一致しているとみてそれほど大きな間違いはないでしょう。
この点に関しては,スピノザがホッブズの影響を受けたとみることも可能だと思います。『スピノザー読む人の肖像 』で自然権について探求したときにもいったことですが,ホッブズは個体に備わる力として自然権を発見したといえるのであって,スピノザも自然権という権利について考察するときに,そのホッブズの発見に従ったということができるからです。ただし,ホッブズの場合は自然状態を前提しなければ自然権を考えることができないようになっていますが,スピノザの場合は自然権を事物の現実的本性actualis essentiaとも等置しているのですから,自然権を考えるために自然状態を前提する必要はありません。事物の現実的本性というのは,その事物が自然状態にあろうと共同社会状態status civilisにあろうと同一であるからです。第二部定義二 にあるように,スピノザの哲学では事物とその事物の本性は一対一で対応し合います。したがって,ある事物の現実的本性が,自然状態と共同社会状態では異なるということは,自然状態と共同社会状態である事物が別のものになるというのと同じことです。これは不条理というほかありません。
佐賀競馬場の1400mで争われた昨日の第24回JBCスプリント 。
シャマルが逃げて2番手にヘリオスで3番手にイグナイターでしたが,この3頭は雁行するように先行。2馬身差でチカッパとバスラットレオン,その2頭の後ろにマックスとタガノビューティーという並びになり,2馬身差でアラジンバローズ。9番手にテイエムフェロー。3馬身差でホウオウスクラム。2馬身差でパワーブローキング。6馬身差の最後尾にトゥールリー。前半の600mは37秒9の超スローペース。
3コーナーではシャマル,ヘリオス,イグナイターに向正面で外を進出したタガノビューティーの4頭の併走に。これらの後ろから内へ進路を取ったのがチカッパ。コーナーワークでチカッパが直線の入口では前に出ましたが,4頭の大外を回っていたタガノビューティーが追い上げ,フィニッシュ前に差して優勝。チカッパがハナ差で2着。勝ち馬を追うように伸びたアラジンバローズが1馬身半差の3着。タガノビューティーのすぐ内にいたイグナイターが半馬身差で4着。
優勝したタガノビューティー は昨年3月のオープン以来の勝利。重賞初勝利での大レース制覇。オープンは3勝していて大レースでも入着があった馬ですが,1400mよりは1600mがよいと思っていた馬なので,この優勝は驚きでした。2021年からずっと同じくらいの能力を維持し続けている馬で,その点は称賛に値すると思います。このレースは超スローペースだったのですが,そのために併走が長く続き,前の馬が消耗してしまいました。先行勢はもう少し早いペースでにした方がよかったのではないでしょうか。母の父はスペシャルウィーク 。
騎乗した石橋脩騎手は2017年の阪神ジュベナイルフィリーズ 以来の大レース3勝目。JBCスプリントは初勝利。管理している西園正都調教師は2018年のヴィクトリアマイル 以来の大レース6勝目。JBCスプリントは初勝利。
ホッブズThomas Hobbesがいう自然状態status naturalisというのは,万人の万人に対する戦争状態といわれる状態です。この状態にあるとき,現実的に存在する人間は,各々が思うがままに,スピノザの哲学の考え方で説明すれば,自己の有esseに固執するperseverareことになります。この自己の有に固執する力potentiaを,ホッブズは自然権jus naturaeとして規定すると理解しておくのがここではよいでしょう。
各人が思うがままに自然権を行使すると,ある人間の自然権とそれとは別の人間の自然権がぶつかり合うことになります。このために各人は自己の有に固執しようとするのですが,各人がそれぞれにその力を行使すると,かえって自己の有に固執することが難しくなってしまうとホッブズは考えるのです。だから自然状態が,万人の万人に対する戦争状態といわれることになるわけです。しかし,本来は各人は自己の有を維持しようとするのですから,自然状態は各人にとって好ましい状態であるとはいえません。このために各人は社会契約を締結して,安全に自己の有に固執することができるようにするというのが,ホッブズの社会契約説の基本的な原理です。各人が安全に自己の有に固執するということは,各人が自己の有に固執することによって他者を危険に晒すことがないようにするという意味です。そしてその自然状態において各人が自己の有に固執する権利のことをホッブズは自然権といっているわけですから,社会契約説の基本は,各人がその自然権を契約によって譲渡するあるいは廃棄するというようなことを意味することになります。このように規定される自然権を譲渡したり廃棄したりすることができるのかということ自体は疑問で,そのことは『スピノザー読む人の肖像 』でも検討したことですが,ここではその点について深く追及はしません。ただ,ホッブズにおける自然権というのは,まず自然状態というものが規定されることによって発生してくる概念notioであって,もしもそのような状態がなかったりそれを考えたりしないのであれば,あることも考えることもできないような権利であるということが重要で,さらにこの権利は,社会契約説によって廃棄されることを前提としたような権利であるということも重要です。
佐賀競馬場の1860mで争われた第14回JBCレディスクラシック 。
大外からアンモシエラの逃げ。2番手にライオットガールとアイコンテーラー。4番手にアンティキティラで5番手にグランブリッジ。2馬身差でコスモポポラリタとテンカジョウとキャリックアリード。3馬身差でドライゼ。3馬身差でミヤノウッドリー。最後尾にリネンファッションという隊列で発馬後の向正面を通過。正面に入って一旦は馬群が凝縮したのですが,逃げたアンモシエラがまた差を広げにかかり,2周目の向正面に入ったところでリードが3馬身くらいに。アイコンテーラーが単独の2番手となり3番手にライオットガール。併走になったグランブリッジとテンカジョウの4頭が2番手集団という形に。スローペースでした。
アンモシエラはさらに飛ばして3コーナーで4馬身くらいのリード。2番手集団は差を詰められず,直線に入ったところでセーフティリード。そのまま鮮やかに逃げ切ったアンモシエラの優勝。2番手集団から一番内を回ったグランブリッジが直線の入口で2番手に上がり,フィニッシュまでその位置を死守して4馬身差の2着。外を回ったテンカジョウがアタマ差の3着で,2頭の間のライオットガールが4分の3馬身差で4着。
優勝したアンモシエラ はブルーバードカップ 以来の勝利。重賞2勝目で大レース初制覇。前走は4着に負けていましたが,それが古馬との初対戦。ダート競馬は古馬との初対戦を克服するのは難しい面があり,2戦目となるここは上積みが見込めました。鮮やかな勝ち方になったのは楽にマイペースで逃げることができたという展開面の恩恵が大であったと思いますが,グランブリッジにこれだけの差をつけて勝ったのは評価できるところでしょう。ただマークがもっときつくなったら厳しくなるというケースも想定しておかなければなりません。母の父がゴールドアリュール で祖母の父がタニノギムレット 。祖母の17歳上の半姉がトゥザヴィクトリー 。Ammothyellaはギリシャ語で砂嵐。
騎乗した横山武史騎手は昨年の皐月賞 以来となる大レース7勝目。JBCレディスクラシックは初勝利。管理している松永幹夫調教師は2020年のエリザベス女王杯 以来の大レース8勝目。JBCレディスクラシックは初勝利。
この部分は自然権 jus naturaeあるいは社会契約 に関する考察です。
スピノザの哲学あるいは政治論における自然権について考察するとき,ホッブズThomas Hobbesの自然権との比較は欠かすことができません。スピノザは『リヴァイアサンLeviathan 』を読んでいましたし,スピノザが自然権という概念notioに着目したこと自体がホッブズの影響下にあったということさえできるからです。ただスピノザは,ホッブズがいう自然権という概念には満足することができませんでした。だから同じ自然権という概念をスピノザは自身の哲学および政治論に導入するのですが,スピノザがいう自然権とホッブズがいう自然権とはその内実が異なるのであって,スピノザにおける自然権は,いわばホッブズにおける自然権の修正とみることができるのです。
ホッブズとスピノザは同時代人なのですから,やはり同時代人にとってもこれは重要なことだったといえます。だからイエレス Jarig Jellesはホッブズがいう自然権とスピノザがいう自然権はどのように違うのかということをスピノザに尋ね,スピノザはその質問に書簡五十 で答えているのです。つまりこの時代というのは自然権という概念それ自体の黎明期というべき時代なのであって,そうした思想史あるいは政治学史的な観点からも,ホッブズとスピノザの自然権の相違を検討することは重要なのです。
吉田がいっているのは,書簡五十でスピノザ自身が示しているように,ホッブズがいう自然権とスピノザがいう自然権との間には相違があるのだけれども,そのような内実の相違をいう前に,ふたりの間には自然権を概念として組み立てていくときの順序にそもそも相違があるということです。ここではまずそれをみておきましょう。
ホッブスは社会契約を説明するために,自然状態status naturalisというのを規定します。これは実際に人類の歴史上で存在した状態と解してもいいですし,社会契約を説明するための概念上の状態,いわば理性の有entia rationisであると解しても構いません。僕はこのような状態が人類史上に現実的に存在したというのは無理があると思いますが,どちらに解してもここでの考察には影響しません。重要なのはその自然状態からホッブズが自然権を規定するということです。
日本時間で昨日の午前と今日の午前に開催されたアメリカのデルマー競馬場でのブリーダーズカップ開催。今年は19頭もの日本馬が参戦しましたので,レース回顧は割愛して結果だけを紹介します。
まず日本時間で昨日の午前のレース。
6レースのブリーダーズカップジュベナイルターフスプリントGⅠ芝1000mに出走したエコロジークは8着。
7レースのブリーダーズカップジュベナイルフィリーズGⅠダート1700mに出走したのは2頭。オトメナシャチョウが7着でアメリカンビキニが9着。
9レースのブリーダーズカップジュベナイルGⅠダート1700mに出走したのは2頭。エコロアゼルが8着でシンビリーブが10着。
10レースのブリーダーズカップジュベナイルターフGⅠ芝1600mに出走したサトノカルナバルは9着。
続いて日本時間で今日の午前のレース。
6レースのブリーダーズカップディスタフGⅠ1800mに出走したアリスヴェリテは4着。出走を予定していたオーサムリザルトは当日の歩様検査に合格できず出走取消。
7レースのブリーダーズカップターフGⅠ 芝2400mには2頭が出走。ローシャムパークが2着でシャフリヤールが3着。
8レースのブリーダーズカップクラシックGⅠ ダート2000mには3頭が出走。フォーエバーヤングが3着。ウシュバテソーロが10着。デルマソトガケが13着。
10レースのブリーダーズカップスプリントGⅠダート1200mには3頭が出走。メタマックスが8着。ドンフランキーが9着。リメイクが11着。
11レースのブリーダーズカップマイルGⅠ 芝1600mには2頭が出走。テンハッピーローズが4着でジオグリフが5着。
12レースのブリーダーズカップダートマイルGⅠダート1600mに出走したテーオーサンドニは9着。
もしファン・ローン Joanis van Loonがまとまった文章を残していて,ヘンドリックHendrik Wilem van Loonがその文章を全訳したとか,いくらかの編集をして訳したというなら,吉田が指摘している通り,ヘンドリックはその原稿を公表すればいいのです。ところがヘンドリックはそのようにしていません。それはおそらくヘンドリックがそうすることができなかったからだと解するのが適切でしょう。したがって,ファン・ローンが書き残したまとまった文章があったとは僕は考えません。しかし一方で,ヘンドリックがすべてを創作したのだとしたら,ヘンドリックはおかしな創作をしているのに,結果的にその内容がうまく出来すぎていることになり,これも現実的にあると考えられる範疇を超越してしまっています。ですからヘンドリックは何らかの原資料にはあたっている筈であって,その原資料はファン・ローンが,いわば断章のような形で書き残しておいたものだとしか考えられません。そうでなければヘンドリックが,ファン・ローンが書き残したものであると設定した理由がつかなくなってしまうからです。なので『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt 』の中には,史実を確定するための資料がいくらかは混在しているのは間違いないと僕は考えます。しかしそうした資料がどういう部分に含まれているのかということは,僕が『蛙 Βάτραχοι 』のプロットについてしたような,慎重な検討が必要であるといわざるを得ません。僕は吉田がいっている,『レンブラントの生涯と時代』は完全な創作であるから,歴史的資料としての価値はないという見解には同意しませんが,歴史的資料としての価値を有する部分は,きわめて少ないであろうとは思います。
この部分に関する考察はここまでにします。ここからは吉田が第八回の中でいっていることを検討します。第八回は自由は国を亡ぼすか,というタイトルがつけられた講義です。吉田は『神学・政治論 Tractatus Theologico-Politicus 』を翻訳していることからも分かるように,スピノザの政治論に対して大きな関心を抱いています。この副題からも理解できるように,この部分はスピノザの哲学とも関連しますが,主に政治論と大きく関連します。これは講義の中で一貫していて,第一四回にも関連します。
10月25日と26日に仁和寺 で指された第37期竜王戦 七番勝負第三局。
藤井聡太竜王の先手で佐々木勇気八段のダイレクト向飛車 。終盤まで優劣不明の熱局となりました。
ここで後手は☖9七飛と打ちました。それに対して☗5四角 と打ったのが勝着に。
これは☖7四金と取られて先手玉が危なそうなのですが,その瞬間に☗7二角成として,変化手順が多くて難解なのですが後手玉が詰むという仕組み。ということで☖8三銀と受けたのですが☗7五桂という追撃があり,先手の勝ちになりました。
第1図では☖9八飛と王手をして☗7七王に☖9六飛成と香車を抜いておく順があったようで,これならまだ難解な局面が続くこととなったようです。
藤井竜王が勝って 2勝1敗。第四局は15日と16日に指される予定です。
1670年4月3日付でファン・ローン Joanis van Loonは効き目が現れたと書いているのですが,その直後に,私はこの年齢になって思いがけず一冊の書物の父親となったという一文が付け加えられています。しかしこの文章は,物語の全体からすると意味不明といわざるを得ないでしょう。ローンは遅くとも1669年12月20日には書き始めている設定になっていますから,翌年の4月3日までには一定の量を書いていてもおかしくはありません。それが一冊の本に値する量になっていることも十分にあり得るでしょう。しかしローンは一冊の本を書く目的で書いている,あるいは書き始めたわけではなく,自身の病気から恢復するために書いているのです。ですから分量は一冊の本に匹敵するものになったかもしれませんが,その内容がそのまま発売できるものになっていたとは僕には思えないです。確かに書き続けているある時から,ひとつのまとまった物語になっていったということはあり得ますが,それは結果論であって,書き始めた当初から一冊の本というに相応しい内容のものであったというのは無理があると思うのです。したがって,むしろこの部分はそれを全訳したと主張しているヘンドリックHendrik Wilem van Loonが付け加えた可能性の方が高いように僕は思えます。
ファン・ローンが何かを書き残していて,それをヘンドリックが発見したことは確実だと僕は思いますが,その書き残したものというのは起承転結があるようなまとまったものではなく,部分的なものにすぎず,その部分的なものを,ひとつのストーリーとして成立するようにヘンドリックがまとめたという可能性の方が僕は高いと思います。ですからそれをまとめるにあたっては多くの脚色が入っている筈で,各々の部分から歴史的事実の探求として参考になる残骸は含まれていると思いますが,そのまま史実であったと確定するのは無謀だと思います。『蛙 Βάτραχοι 』でいえば,ローンはスピノザがディオニュソス Dionȳsosの役を演じているところを見たことがあるか,そういう話をスピノザから聞かされたことは確定できると思いますが,実際にこのプロットの状況でスピノザがディオニュソスを演じたとはいいきれないのではないでしょうか。
昨晩の第27回エーデルワイス賞 。イイデマイヒメが出走取消となって12頭。
好発だったハーフブルーがそのまま逃げてすぐに2馬身ほどのリード。2番手はアーデルリーベ,エターナルウインド,ワンダーウーマンの3頭。5番手にミリアッドラヴで6番手のラインパシオンまでが先行集団。2馬身差でシルバーミラージュとエイシンマジョリカとレディーティアラの3頭。10番手にイッシンフラン。11番手にトレヴェナ。最後尾にパトリオットゲーム。前半の600mは34秒5の超ハイペース。
ハーフブルーは緩めずに飛ばしていったので3コーナーでリードは4馬身。アーデルリーベが単独の2番手になり,ミリアッドラヴが3番手まで上昇。ハーフブルーは先頭のまま直線に向かいましたがさすがに一杯。ミリアッドラヴが自然な形で先頭に立つとそのまま抜け出して快勝。2着争いはミリアッドラヴに遅れをとったアーデルリーベと中団から差し込んできたエイシンマジョリカの争い。外のエイシンマジョリカが差して2馬身半差の2着。アーデルリーベが4分の3馬身差で3着。
優勝したミリアッドラヴ は重賞初制覇。前走で新馬を勝ったばかりで,連勝となりました。新馬戦は着差は半馬身差だったもののタイムは非常に優秀。2着馬と3着馬の間には2秒2もの差がつくレースでした。キャリアが不足していたのは不安材料でしたが,1頭が飛ばしたこともあり馬群が密集するようなレースにならなかったことで,その懸念は解消されました。明らかにスピードタイプと思えますので,距離の延長がプラスに働くようには思えないです。母の父がスマートファルコン 。母のふたつ上の半姉に2017年のTCK女王盃 とエンプレス杯 を勝ったワンミリオンス 。Myriadは無数の。
騎乗した西村淳也騎手と管理している新谷功一調教師はエーデルワイス賞初勝利。
ここまでの事情を勘案すれば,船旅に出た6人の一行が,マストの故障によって滞在せざるを得なかった村で,村人を集めて『蛙 Βάτραχοι 』の上演を行ったというプロットは,あり得そうもないプロットであるけれど,史実であったとしてもおかしくないようになっていることが理解できると思います。もちろん史実としておかしくないようなプロットは,ヘンドリックHendrik Wilem van Loonが挿入するのに相応しいプロットであると僕はいいましたが,このプロットが不自然ではないということは,少なくともスピノザがファン・デン・エンデン Franciscus Affinius van den Endenのラテン語学校で演劇を学び,かつ演者として有料の観客の前で演じたことがあり,もしかしたら演出の助手をしていたかもしれないということを知っていなければいえないことであり,スピノザではなくレンブラントRembrandt Harmenszoon van Rijnを主題にして創作したとされるヘンドリック,つまりスピノザよりもレンブラントに多大なる関心を寄せていたであろうヘンドリックがそれを知っていたというのは無理があると思います。一方で,レンブラントに大きな関心を寄せていた筈のヘンドリックが,ストーリー全体のプロットとしては不要であるともいえるスピノザが主人公のプロットを書くために,スピノザのことをそこまで詳しく調べるということもないでしょう。それでもこのような,史実でもあり得るようなプロットが挿入されているのは偶然ではないと僕は考えますので,ヘンドリックがスピノザに関連する何らかの資料にもあたっているのは間違いなく,その資料とはファン・ローン Joanis van Loonが書き残したものにほかならないだろうと僕は結論します。そうであったから,ヘンドリックは自身の9代前の先祖が書いたものを訳したという体裁で,『レンブラントの生涯と時代The life and times of Rembrandt 』を刊行したのだと思うのです。
ただし気を付けてほしいのは,僕は確かにファン・ローンは何かを書き残していたとは思うのですが,それが『レンブラントの生涯と時代』のような,はっきりとまとまったものであったとはいえないとも思うということです。前述したように,ローンは1670年4月3日付で,効き目が現れた,つまり自身の鬱状態の改善がみられるようになったという意味のことを書いています。