すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

パナソニックの映す青空

2017年05月11日 | 雑記帳
 久々に「白物家電」を購入!こんな書き方をするといかにも通のようだが…覚えた言葉をすぐ使いたくなる性分だけ。なんのことはない、古くなった冷蔵庫を十数年ぶりに買い換えた。といっても「完全引退」ではなく、車庫に置いてビールなどを冷やす大事な役割を担う。改めて見るとメーカーが富士通なんだね。


 富士通はもう冷蔵庫を販売していないけれど、今でも「富士通ゼネラル」としてエアコンなどは扱っているようだ。「ゼネラル」という響きは、一定の年齢以上の方は結構懐かしさを感ずるのではないか。その昔、電化製品と言えばゼネラルというイメージがある。もちろんナショナルはあったが、普及度は低かった。


 農協との提携だったろうか、ゼネラルが多かった気がする。あのマークのついた看板も、目にしたことがある。ちょっと検索したらこんなページもあり、思わず見入ってしまった。サンヨーもずいぶんと頑張っていた。地域に根差した電器屋さんも多かったし、電化製品は言ってみれば「明るい未来」そのものだった。


 今だと大型店のKかYがこの辺の常道か。もしくはそこで現物を見てネットで注文する場合もあるだろう。今回は大型品なので常道路線で…。Kで交渉してからYに行ったら、結局「〇〇com.」最安値まで下がり、保証もつくので即決した。「交渉上手」と褒められたが、価格も性能もどこか既定路線のように決着する。



 『ひよっこ』で居間に置かれたテレビに、保護用の布カバーがあったことに目を留めた人も多いだろう。懐かしさと共に、もう家の中にそんなモノなど無いことに気づく。それは思い描いた「明るい未来」かもしれない。しかし、松下幸之助の願いはその姿だったろうか…真新しい冷蔵庫のドアに映る青空を見て思う。(なんと大げさな!)

「5月10日を忘れるな」と…

2017年05月10日 | 雑記帳
 朝6時にバンバンと花火が上がった。大方の人はどこかのお祭りか、と思っただろう。確かにその通りで、「あっ今日は5月10日だ」と頭の中で声を発する自分がいた。これは、幼い頃から祖母が時折口にする「5月10日を忘れるな」という言葉がどこかに染み付いているからだ。西馬音内に大火があった日である。



 西馬音内川にかかる二万石橋と川原田橋のほぼ中間地点、本町側の川沿いに小さな地蔵尊がある。「火防地蔵」である。小さい頃は「カボジゾさん」と覚えていた。もちろん大火と言ってもずいぶんと時が経ち、昭和3年、今からもう90年も前のこと。記録には「本町下・裏町116戸の焼失」とある。町最大の火事だ。


 「火の用心」は慣用句になっているほど浸透している。季語としても使われる。もちろん「冬」なのだが、そのイメージは現代生活では通用しない。考えるまでもなく、火は人類が文明を作り出すための不可欠な道具であった。しかし完全に操ることが出来ずにいることは、身近な例や歴史的な出来事を出すまでもない。


 町内では先月不幸な火事もあった。国内に目を渡せば、複数の死傷者を出した火災だけでなく、山火事で大変な目に遭っている方々もいる。誰しもが「まさか」という気持ちを抱いたはずだ。防火に対しては、いつの時も気を緩めてはいけない。「ひのこと」を「かじ」と読ませ、「」をつけた意味の深さを想いたい。

ビジネスマン谷川に脱帽

2017年05月09日 | 読書
 谷川とは詩人の谷川俊太郎のこと。別に皮肉っているわけではない。

 「見えないものを見る、これは実はもともとは詩人のビジネスなのです。」

 と谷川自身が書いている。

 編集されたこの一冊にも取り上げられている。

2017読了48
 『谷川俊太郎の 問う言葉 答える言葉』(イースト・プレス)
 
 日本で一番有名な詩人と言っても過言ではない。
 それは、一面でビジネスとして成功しているということも含むだろう。
 しかし、それだからといって普通詩人を「ビジネスマン」とは形容しない。

 「ビジネス」という言葉が単に「仕事・職業」を表すだけでなく、「金もうけの手段としてだけする仕事・事業」(日本国語大辞典)という側面があるために、イメージが固定化しているきらいがある。

 考えれば、仕事、職業としての詩人は当然ある。
 大昔だったら祭司的な役割でもあったのかなあという想像もできる。

 またビジネスマンという呼称は、音楽家、写真家、小説家など芸術に関わる人や宗教家、哲学者などに当てはめてもいいだろう。
 決めつけられれば嫌に思うかもしれないが、現実にそれで利益を得ていれば、実は反論できないのかもしれない。



 さて、ではそのような様々な芸術や諸分野と、詩では何が違うのか。

 そのことに関して、谷川は次のような一節を書いている。

 映像に感動したければ、我々は絵か写真を見ればいい。
 リズムだけに感動したければ、我々は音楽を聞けばいい。
 意味に感動したければ、我々は哲学書を読めばいい。
 だが、それらのすべての綜合されたあるものに感動出来るのが、詩なのである。



 なるほどであり、ごく普通でもあると思える文章だ。
 これは、詩人が「ビジネス」として詩をつくるときには、「映像」「リズム」「意味」を綜合させなければならない、と言っていることでもあろう。

 ビジネスマン谷川の、詩作の結論がよく出ていると思った。

 と言いつつ、「結論」ということについてこんな一節もある。

 年とって分かったことのひとつは、考えには結論のようなものは無いにひとしいということである。結論と思ったものは、自分を安心させるためのごまかしだったのだ。

 
 いやあ、共感できるなあ…そんなふうに思わせつつ、文章は続く。

 だがそのごまかしは多分無益なものではない。
 ごまかしからごまかしへと生きていく間に、真実が見え隠れするからだ。



 本当に、救いのある言葉だと思い、感動さえできる。


 まったくこのビジネスマンには、脱帽する。

先輩!今も飲んでいますか。

2017年05月08日 | 雑記帳
 「コーラもトクホになったんだ」としみじみ思う。書き出してから「なぜ、しみじみなのか」と考え始め出してみる。やはり、コカ・コーラに対する世代的?個別的?イメージなのだろう。例えば初めて飲んだ時「クスリくさい」と思った…例えば「コーラは身体に悪い」と言われた…例えば「コーク」と呼んでいた…



 幼い頃、自分の周りにまだコーラはなかった。ハレの日の飲み物はサイダーかオレンジジュースだった。小学生の何年生か思い出せないが、初めてコーラを口にした印象は「ウェッ、クスリクシャ」だったと覚えている。ただ、あの独特のボトルスタイル、おっしっかり掴めるぞという高揚感はあったような気がする。


 高校一年生だった。その光景は今でも覚えている。一つ上の先輩と一緒の帰り道だった。唐突に私に向かって「俺よ、コーラ中毒なんだ」と口を開いた。「えっ何?中毒って、しかもコーラ」と思った。告白的な口ぶりは、どこか自慢げでもあった。コーラの文化が浸食し始めた頃と言えるか。風紀委員会の先輩だった。


 大学の時、ずいぶんと聴き込んだグループ「ディランⅡ」に『パラソルさして』という曲がある。コカ・コーラの広告塔の影に守られた夏が、人気のない公園にポツンと君を…という出だし。当時「詩と音楽」というゼミに所属し、「これは、日米関係の象徴でしょ!」などと口走って、何かを知った気になっていた。


 教職に就き、実践発表の機会があった。教室での授業を伝わる形で発信するため「論文審査」も受けた。初めて活字になり商業ベースの本に掲載されたのは「清涼飲料水と健康」と題した学級活動。コーラの糖分量の視覚化から展開するプランだ。…それから30年が過ぎ…今や、トクホですよ、先輩!飲んでいますか。

2000年代が静かに進む

2017年05月07日 | 読書
 2000年1月1日、朝8時過ぎに当時勤務していた山間部の学校へ向かった。元旦のため除雪状態は良くなかったが30分ほどで着いたと思う。当時、教頭職にあった方々は同じ経験があることだろう。地教委より「午前9時段階の異常の有無報告」を指示されていた。いわゆる2000年問題だ。その日は静かに始まった。



2017読了47
 『やさしさをまとった殲滅の時代』(堀井憲一郎  講談社現代新書)

 コンピュータの誤作動による大事はなく、緩やかに滑りだしたように見える00年代について、その変転の本質を探ろうとした一冊だ。当然ながら80~90年代の動きが分析され、特にサブカルチャーや事件に関した考察は一読に値する。実は3年前の読了を忘れてしまい再読したのだが、当時と違った感想も湧いてくる。

 ※書名を読めなかった人はコチラをどうぞ→「書名がにやりと笑った」


 それは、もはや20年代が迫っている、つまり私たちが今を過ごす10年代を括る時期に差し掛かったからだろう。著者が指摘した00年代の管理と分断が確実に進んでいて、それは政治の進み方、法整備といった形でも具体化している。書名は、当時の若者の「願望」として名づけられたが、相変わらず蔓延している。


 さらに、それは内部の気分だけでなく、国家同士の利害が絡んで現実的な可能性が芽生え始めた状況だ。怖しいことは、殲滅を願う気分が、誰かの誘導によって実際の殲滅に結びつくことだ。それはけして「やさしさ」などまとっていない。その未来に立ち向かえるか。悲観的にはなっていないが、楽観視もしていない。


 20年の区切りに向けて、残り2年半の歩みはかなり重要だと思う。一部諸外国の「おいおい待てよ」と言いたくなる状況が、私たちに近づいてこないように目を凝らす必要がある。拡がる不安・不満・不信は、自らの「身のまわりの始末」と、陽気さのみを求めず「元気の伝染」を心掛けることで小さくするしかない。

独り視聴者委員会~GW篇

2017年05月06日 | 雑記帳
 4/29再放送で観たドキュメント「捨てられたコメ~秋田・減反政策48年目の告発~」。番組としての完成度は今一つだが、テーマである稲作が背負ってきた重さが心に残った。間違いなく本県農業はこの政策に振りまわされてきた。展望に欠けた政治のつけか。某スーパーYとの商談シーンがリアルで、興味深かった。


 4/30最終回を迎えたドラマ『火花』。小説ほど話題にはされなかったが、結局10回見続けた。面白いかどうか一口には言いにくい。映像の冗長さをどう受け止めるか。嫌いではないけどその時の気分も影響する、なんて勝手な感想を抱く。ネット検索してみたら評価は真っ二つに割れていた。そのことに妙に納得した。


(そろそろスジノコも終わり。軽く味噌和えで)

 NHK『ツバキ文具店~鎌倉代書屋物語』が気に入っている。「小川糸」という原作者の名前に、本は読んでいないが見覚えがあった。数年前に『つるかめ助産院』というドラマがあった。代書屋、助産院…異なるテーマだが共通性を感じたのは人間の求める「救い」「温かさ」ということ。それが伝わってくる描き方だ。


 「奇想天外」とは古臭い言葉ではあるが、日テレの『フランケンシュタインの恋』には少し当てはまるかもしれない。設定や展開はずいぶん荒っぽいが、笑いありミステリっぽさありの内容だ。ラジオキャラクターを入れ込むユニークさ面白く、ハマる要素もある。「天草に訊け」というコーナー、実際にやってほしい。


 再び『ひよっこ』の話題。先週末の上野駅のシーンで「おっ、この娘」という一人が登場した。藤野涼子、かの映画『ソロモンの偽証』主演女優。なるほどと思うあの役柄、今後どう成長するか、楽しみである。さらに今週なんと秋田出身の役柄で出演の八木優希。知る人ぞ知る「雫ちゃん」…かなりマニアックなネタか。

ミもフタもないがジツはある

2017年05月05日 | 読書
 「ミもフタもないなあ」と、ぺらぺらと冊子をめくって思った。
 机の中を整理していたら、昔買ったビジネス雑誌の付録が出てきた。「大前研一の名言119」と題されたポケットブックスである。

 キニナルキvolume50記念(笑)として
 そのミもフタもない典型語録を、いくつか紹介しよう


 010 日本には「大器晩成」という言葉があるが、実際にはそういう人はあまりいない。それは最初にサボっているだけだ。

 まあ、言い訳するなということか。「あまりいない」と書いているから、実はそういう人もいるんだね。
 しかし、その出現が期待できなくなった世の中になってきたことも確か。阻害しているのは…。


 024「腐っても鯛」「寄らば大樹の陰」という諺が日本にはあるが、腐った鯛は単なる腐った魚である。倒れる大樹の陰にいたらつぶされてしまう。

 ごもっとも、ごもっとも。
 この場合は「鯛」も「大樹」も他者からの評価だろうが、腐ったり倒れたりするのであれば、もはや変質(変身)している。


(タラノメ、天ぷらに飽きたら「ハム巻き(マヨネーズを塗って焼く)」がいい)


 111 親は子供に「お金」を使うのではなく、「時間」を使うべきである。

 これは痛いところをつかれた感じだ。
 「お金」を得るために「時間」を使っている大人が多い。
 しかし子供に、その得た「お金」を使うのではなく、直接「時間」を使うことの方がずっと肝心だ。
 昔の親は、お金も時間も使えなかったんだね。


 115 人生はスキーと同じで、転びそうになったら転んでしまった方がいい。

 無理に頑張ってしまうと大怪我になる場合が多い。
 思いきり転んで雪を蹴散らして「ワハハ」と笑えたらいい。そこからまた滑れ!
 なんだか、いいこと言っているなあ。


 「ミもフタもない」は「実も蓋もない」ではなく「身も蓋もない」
 身とは器の蓋に対して物を入れる部分のこと。つまり容器の体をなさない。

 しかし、大前のこれらの言葉に「」はずいぶんあると思う。

小賢しいコミュニケーションなど…

2017年05月04日 | 読書
 「人間が考え出した最大の発明は?」と問われたら、なんと答えるだろうか。ペン、時計そして電気や車、TV、PCという道具を浮かべる人は当然いる。またそれとは違う、組織やシステムといったソフト的なことだと考える人もいるだろう。この本で語られたのは「役割分担」ということ。結構いい線かもしれない。

2017読了46
 『つむじ風食堂と僕』(吉田篤弘  ちくまプリマ―新書)


 「なんか、こお、いい物語」と題して『つむじ風食堂の夜』という本の感想を書いたのは去年の暮。そのイメージがあり、題名と著者からすぐぴんと来て手に取った。しかしそれは新書しかも「プリマ―」だ。主たる対象は青少年だろう。ただプリマ―に良書が多い事も承知している。読了、やはり素敵な一冊だった。


 12歳の「僕」は、隣町にある「つむじ風食堂」へ路面電車に乗って週に2回ほど通う。そこに集う大人たちと会話し、自分の将来に様々な考えをめぐらす内容だ。話の中心は「仕事」。「僕」に対して、様々な職業の大人が各自の思いや価値観について語りだし、「僕」は時間の流れに気づき、「物語」を考え始める。


 大人はそれぞれ就いている仕事について、意義を知り、また誇りを持ち、日々取り組んでいる。ただ現実においてそこに頼るだけでは難しい。例えば登場する宅配便のシマオカさんは、荷物ではなく「思いを届ける」ことを強調するが、「使い走り」のような状況の中で、どこへ意識を向けて励むか。辻で立ち止まる。


 (つむじ風食堂には出ない、ワラビのおひたし、初物でした)

 著者の「あとがき」を読み、ああこの人もそうだ、と思い当たることがあった。すぐれた表現者、クリエイターは、子どもの頃に何事かに没頭している。それが表面上は冴えないように見えても、蓄積されている時間こそがエネルギーになる。それが「想像力のレッスン」だ、小賢しいコミュニケーションなど後回しだ。

ヒト・モノ・ウツワをつなぐ

2017年05月03日 | 雑記帳
 「うつわ」という語について、漢字「器」の字源はあるものの、語源はちょっとはっきりしない。「空ろ」に由来するという説もあるが、どうだろう。意味としては「入れ物」さらに「器量、人物の大きさ」としてもよく使われる。考えると、拡張性の高い言葉のように思う。大きさや姿、形だけでなく内面性が重なる。


 人と食べ物をつなぐ存在として「うつわ」がある。もちろん、それがない時代があって、自然物が器になり、だんだんと器が作られてきた。そして作られた器は、地域や人種によって独自性を持ち、さらには道具としての域を越えて美術品まで昇りつめて?いる場合も多い。そうやって人間は価値観を創り出してきた。



 そんなふうに考え散らしていくと、食べ物に限らず、人と物をつなぐ存在として「うつわ」があることにも気づく。ネットで調べていたら、ある企業では経営理念として「ヒト・モノ・ウツワ」を使っていた。汎用性の高い考えと感心した。少し比喩的になるが、その三要素の結びつきの強さが新しい価値を創り出す。


 そのファッション企業では、人のサービスと売る物の品質、展開する店のレイアウト等というように置き換えられていた。これは様々な仕事にも応用できる。どんなウツワ(枠組み)の中で、どんなモノを準備し、いかなるサービスをするか。身近な例でいえば、見事な展開を見せた「道の駅うご」なども該当しよう。

入れ物が無い、でいいのか

2017年05月02日 | 読書
 「入れ物が無い両手で受ける」という尾崎放哉の俳句がある。解釈といっても、その通りの俳人の状況を示しているだけと思う。しかし、また「入れ物」と「両手」、「無い」と「受ける」の対比を考えてみると、いろいろな想像が働く。人間、本当に絞り込んだ時に何が残るかと言えば「入れ物」(うつわ)は二の次なのか。


 司馬遼太郎の『坂の上の雲』のドラマを観たときに、印象的なシーンがあった。好古と真之の秋山兄弟が食事をする場面で、茶碗が一つしかなく兄が食べ終わってからそれを使ってご飯を食べていた。家単位ならばそれは普通でなかったと思うが、食事など、まして入れ物などその程度でよいという価値観とも言える。


 と、こうした先達の姿に想いをはせる時、何故「うつわ」かとなるが…。やはり、身につける衣服と同様に食事の道具としての器も、人間生活に欠かせない文化であることは確かだ。雑誌『サライ』がうつわの特集をしていたので、久しぶりに購読した。そこには日本人の食文化そして美意識が大きく反映されていた。



 中華も西洋料理も食べた傍からうつわを下げていくのがパターンだ。日本料理も懐石ではそんな形をとるが、いわゆる銘々膳の文化があったことで椀や皿、鉢などが多様になったのは大きな特徴だ。うつわの絵柄そして料理の盛り付けなども考えられ「目に障りのない状態で何時間ももたせるのが本意」と書いてある。


 日本の伝統的な食文化が「うつわ」に支えられていることを、改めて認識した。何を食べているかは最重要なことだ。しかし何に盛りつけ、どう使って食べるかも、その繰り返しによって培われる感性はかなり大切だろう。その意味でも、先日「うつわ買い」した自分は、かの白洲正子の次の言葉に叱られた気分である。

 「ちょっといいものは買わないように。本当にいいと思える物だけを買いなさい」