五條代官・鈴木源内は、悪代官ではなかったのか?>
鈴木源内の墓が、五條市本町1丁目の極楽寺霊園にあると民族資料館で知った。
さっそく、訪ねることに・・・。
ところがこの霊園、地元の方に聞きながら訪ねたのだが、車1台通るのがやっとという狭い道ばかりで、なかなか辿りつけない。消防署の方に教えて貰ったコミュニティセンター前に停めさせてもらってやっとのことで辿り着いた。
さて、霊園に着いたのだが、市営墓地らしく墓域があまりにも広くて・・・同じような墓石ばかりで・・・何処に源内さんの墓石があるのやら・・・。周りが暗くなる・・・墓石ばかり・・・ちょっと不気味。
一旦、道に出て、散歩帰りのご近所の方に聞くと、霊園入り口の壁面を指射され・・・その先に、大きな案内板。五條市が生んだ著名な文化人の墓石案内です。その1番目に鈴木源内墓が示されています。
霊園に入ってすぐ右手奥、少し茜がかった夕陽に照らされて6名の墓石が建っていました。
墓石には真新しい花が供えてあります。志士の血を引く人が参られたのか、それとも地元の人たちが供養されたものなのか・・・。
▲鈴木源内ほか五條代官所役人の墓所です。地元の人々がお金を出し合って建てたそうだ。
いろんな資料を見ると、この鈴木源内は五條代官所に着任したのは、前の年の5月。たまたま五條代官として勤めていたために命を奪われることになったのです。不運です。
天誅組には厳しく断罪されたものの、実際は60歳ほどの温厚善良な人柄で、赴任早々には領内の長寿者を表彰したりするなど、領民からも慕われた存在だったようです。
十津川の郷士が京の御所警護のための兵を出すことになった時、幕府に遠慮して反対派と賛成派の論争になったときも、「十津川にとっても朝廷からの仰せは名誉なことだ。反対があっても上京し、ご奉公せよ。もしこれで不首尾が生じれば、わしが腹を切る」と言い、道中の手形まで与えたとか。
このように源内は尊王の考え方にも理解があった人のようです。
殺される12日前の出来事です。
天誅組が倒幕のさきがけになるためには、何が何でも源内を悪代官に仕立てあげなければならなかったのでしょう。
明治維新後の天皇賛美が続く世の中にあって、幕府の支配を象徴する代官の墓が丁寧に保存されているのは、やはり地元の人々の鈴木代官への思い入れが強かったのでは・・・・と思われます。