<賀名生(あのう)の堀家に掲げられた「皇居」の扁額>
天誅組の足跡を追いかけて・・・まだまだ続きます。
「8月18日の変(公武合体派の策謀により尊皇攘夷派が追放され、大和行幸は中止。大義名分を失った天誅組は一夜にして朝敵になってしまった)」により、隣の和歌山・紀州勢が攻めてくるとの情報で、五條市内・櫻井寺から五條の南端・天辻峠(天の川辻)に本陣を移すことになります。
五條の陣の留守役は、水郡善之祐ら河内勢を中心とした約40名。
本隊出発に先立ち吉村寅太郎と乾十郎は、十津川郷士を募るため先に出発。
また、高野山・僧兵を味方に引き入れるため、上田宗児が兵30名を引き連れて高野山に出発。
兵糧・ワラジなどの確保に、大和・松山(大宇陀)出身の林豹吉郎が担当。
天辻峠に向かって進む一行50名は、馬上の忠光を先頭に太鼓を響かせ、菊の御紋の旗20本をなびかせ、吉野川を船で渡り、途中、賀名生(あのう)の堀家に到着。
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▲昔、吉野方面に行くにはこの吉野川を渡らねばならず、その手段は船。この石灯篭と柳の木があるのは「柳の渡し跡」。他にも上流に「桜の渡し」下流に「椿の渡し」があったのだ。天誅組はこの下流にある「椿の渡し」を渡ったのだろう。
この堀家の屋敷は、南朝皇居の旧跡だ。当主、堀又左衛門が出迎え、後醍醐天皇の太刀や甲冑、勅書などの家宝を見せた。忠光はこれらを見て涙したという。
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▲「賀名生(あのう)皇居跡」。今も堀家の屋敷で、重要文化財です。期間を決めて一般公開もされていて、内部は昔どおりで、後醍醐天皇が泊まられた「入らずの間」もあるとか・・・。また、後醍醐天皇から下賜された日ノ丸(現存する日本最古の幟旗 96×71cm)などもあるとか・・・。今度、是非拝観したいものです。
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▲「堀」さん宅です。でも、内部は一般のお宅ではありません。
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▲この扁額は、天誅組・総長・吉村寅太郎が掲げたもので、この家に戦火が及ぶのを避けるために挙げたものだと言われている。
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▲門の前の桜の木の下に立てられている案内板。
この堀家・・・「重要文化財」指定の家屋で、今も「堀家」の表札が掛かっていて、その上には「皇居」と書かれた扁額が掛けられている。これは、天誅組の吉村寅太郎が書いたもの、と扁額の下に説明書きがついている。
この家に戦火が及ぶのを避けさせるため挙げさせたと言われている。
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▲2年前に撮影した「堀家」の桜。見事で多くのカメラマンが撮りに来ていました。
この堀家の門の前に大きな桜の木があって、バックの屋敷を背景にして絵になるところである。
2年前に訪ねて撮影したことがあるが・・・まさか天誅組と係わり合いがあるとは思っていなかった。
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▲「賀名生(あのう)」の地名についての説明碑。この場所に「歴史民族資料館」と右奥に「賀名生(あのう)皇居跡」の堀家の屋敷が続きます。
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▲あいにく月曜日は定休日で・・・展示物を見ることが出来なかった。何があったのか・・・。
天誅組一行50名は、堀家での昼食後、天辻峠に向かった。
天誅組の足跡を追いかけて・・・まだまだ続きます。
「8月18日の変(公武合体派の策謀により尊皇攘夷派が追放され、大和行幸は中止。大義名分を失った天誅組は一夜にして朝敵になってしまった)」により、隣の和歌山・紀州勢が攻めてくるとの情報で、五條市内・櫻井寺から五條の南端・天辻峠(天の川辻)に本陣を移すことになります。
五條の陣の留守役は、水郡善之祐ら河内勢を中心とした約40名。
本隊出発に先立ち吉村寅太郎と乾十郎は、十津川郷士を募るため先に出発。
また、高野山・僧兵を味方に引き入れるため、上田宗児が兵30名を引き連れて高野山に出発。
兵糧・ワラジなどの確保に、大和・松山(大宇陀)出身の林豹吉郎が担当。
天辻峠に向かって進む一行50名は、馬上の忠光を先頭に太鼓を響かせ、菊の御紋の旗20本をなびかせ、吉野川を船で渡り、途中、賀名生(あのう)の堀家に到着。
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▲昔、吉野方面に行くにはこの吉野川を渡らねばならず、その手段は船。この石灯篭と柳の木があるのは「柳の渡し跡」。他にも上流に「桜の渡し」下流に「椿の渡し」があったのだ。天誅組はこの下流にある「椿の渡し」を渡ったのだろう。
この堀家の屋敷は、南朝皇居の旧跡だ。当主、堀又左衛門が出迎え、後醍醐天皇の太刀や甲冑、勅書などの家宝を見せた。忠光はこれらを見て涙したという。
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▲「賀名生(あのう)皇居跡」。今も堀家の屋敷で、重要文化財です。期間を決めて一般公開もされていて、内部は昔どおりで、後醍醐天皇が泊まられた「入らずの間」もあるとか・・・。また、後醍醐天皇から下賜された日ノ丸(現存する日本最古の幟旗 96×71cm)などもあるとか・・・。今度、是非拝観したいものです。
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▲「堀」さん宅です。でも、内部は一般のお宅ではありません。
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▲この扁額は、天誅組・総長・吉村寅太郎が掲げたもので、この家に戦火が及ぶのを避けるために挙げたものだと言われている。
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▲門の前の桜の木の下に立てられている案内板。
この堀家・・・「重要文化財」指定の家屋で、今も「堀家」の表札が掛かっていて、その上には「皇居」と書かれた扁額が掛けられている。これは、天誅組の吉村寅太郎が書いたもの、と扁額の下に説明書きがついている。
この家に戦火が及ぶのを避けさせるため挙げさせたと言われている。
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▲2年前に撮影した「堀家」の桜。見事で多くのカメラマンが撮りに来ていました。
この堀家の門の前に大きな桜の木があって、バックの屋敷を背景にして絵になるところである。
2年前に訪ねて撮影したことがあるが・・・まさか天誅組と係わり合いがあるとは思っていなかった。
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▲「賀名生(あのう)」の地名についての説明碑。この場所に「歴史民族資料館」と右奥に「賀名生(あのう)皇居跡」の堀家の屋敷が続きます。
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▲あいにく月曜日は定休日で・・・展示物を見ることが出来なかった。何があったのか・・・。
天誅組一行50名は、堀家での昼食後、天辻峠に向かった。