スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

天誅組の足跡を訪ねて (終)

2010-01-26 14:49:28 | 志に生きた天誅組・・・終焉の地を訪ねて


天誅組終焉之地・・・・鷲家口の死闘


▲「天誅組紀行」吉見良三著より引用


彦根藩は、鷲家口において、出合橋を挟んで福屋に本陣を構え、向かいの碇屋に脇本陣を置き、近くの宝泉寺には地元民を詰めさせ篝火を焚いて前線基地とします。彦根藩の陣容は30名ほどであったという。


▲碇屋の脇本陣・・・その家はまだ残っていて、案内書きも掲げられています。那須信吾が斬りこんだところだ。


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24日の夜8時頃。天誅組決死隊の那須信吾を隊長とする6名が宝泉寺に斬りこみ、更に碇屋脇本陣に向かって斬り込みますが、その付近で全員銃弾に倒れます。







▲ここ鷲家には、義士の足跡がアチコチに残されている。

▲宝泉寺から少し東に向かったところにあった「天誅組明治谷墓所」。


▲宝泉寺に建てられている「天誅義士記念碑」。


▲天誅組義士と共に闘いで亡くなった彦根藩士もこのお寺に葬られている。


宝泉寺から出店坂を降り右に曲がると正面に碇屋の脇本陣がある。決死隊の先頭にいた植村定七は、この辺りで彦根藩歩兵頭を斬り倒し突き進む。

決死隊が突撃を開始した直後、忠光ら本隊約20名は、福屋本陣前を通過。出合橋を渡り戦闘最中の碇屋前を突っ走り、何とか鷲家近くまで行きます。

でも、鷲家には和歌山藩の大軍が待ち構えています。このため、手前の鷲家谷で解散し、個々で大坂の長州藩邸で落ち合うことにし、少数に分かれ山の中に逃げ込むのです。この地が「天誅組の解散地」となるのです。


▲鷲家川に沿った県道16号線沿いに建つ、「天誅組終焉之地」の碑。(東吉野村鷲家)



▲東吉野村各所の天誅組遺跡を示す看板も建っている。


▲天誅組湯の谷墓所。国道166号線沿いに石碑が建っています。<o:p></o:p>



3人の総裁の最期>

藤本鉄石と松本奎堂の後発組が足ノ郷道峠を過ぎた頃、麓から銃声が聞こえてきます。那須信吾ら決死隊が鷲家口に突入していたのです。
このため、橋本らの案内で藤本と松本は、蟻通神社(現・丹生川上神社中社)に出て、高見川をさかのぼり伊豆尾村笠松の松本清兵衛宅に潜伏しますが、翌日、和歌山藩に探知されます。


▲丹生川上神社中社の前を通り、高見川をさかのぼり伊豆尾に向かいます。


▲伊豆尾の堂本さん宅を訪ねる途中に「小」の地区がありました。「東吉野村小」という地区です。

▲伊豆尾から国道166号線に到る途中の光景です。この辺りを藤本鉄石と松本奎堂は、進んで行ったのです。

二人の総裁は、他の隊士を先に脱出させると庄屋宅を出る。駕籠に担がれた松本は遅れ、地蔵堂前まで来たとき庄屋宅で銃声がし、その音に驚いた駕籠人足は逃げ去り、従者・村上万吉に手を引かれて山の中に逃げたが和歌山藩に見つかり銃殺されてしまう。奎堂、33歳。最期の地、笠松山頂(640m)に、「戦死之地碑」が建っている。



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▲国道166号線新木津トンネルの右手前に「天誅義士戦死の地」の石碑があり、松本奎堂の石塔もある。



▲案内板によると「この地より900m上の笠松頂上に松本奎堂先生墓所がある」と示されていた。この笠松山の上にあるのだろう。

一方の藤本鉄石と従者・福浦元吉は、伊勢街道を目指したが既に和歌山藩が見張っていた。和歌山藩脇本陣・日裏屋に斬り込むが討ち死にした。藤本鉄石48歳、福浦元吉35歳。この日裏屋跡は現在駐車場になっており、隅に碑が建っている。




▲鷲家の国道166号線沿いにある竜泉寺にも天誅組が眠っている。鉄石の歌碑もある。

また、残る1人の総裁・吉村の最期には諸説あるらしい。
駕籠に乗って森下幾馬ら4名の隊士と共に本隊の後を追い、鷲家口手前1kmの島原山道で、鷲家口から聞こえる銃声に怯えた人足が逃げてしまう。
一旦、小村へ下り、駕籠かき人足を雇い、小津川(こつがわ)の庄屋・堂本孫兵衛宅に潜伏。

同家の蔵に匿まわれたが追討軍の捜索が厳しく、森下らを先に脱出させる。その3日後の27日、鷲家谷・石ノ本の薪小屋で潜んでいるところを藤堂兵に見つかり銃殺される。吉村寅之祐27歳。
この吉村寅太郎の原えいの地として石碑が建ち、県道16号線・鷲家川を渡った巨岩の下に墓所がある。

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▲吉村は、この堂本家(現在は建てかえられている。)の土蔵で匿われていたのです。

訪ねた伊豆尾地区には「堂本」という看板が多く見られ、資材置き場におられた方に訪ねると・・・どうも親戚に当たる方のようで・・・『あぁ、あの叔父さんの・・・』と、教えて貰った。「堂本家」は、村の一番高台にあり、周りが一望出来る位置にありました。


▲堂本家の前にある、この薬師堂の天井裏に隠れていたのです。

堂本家としては、駕籠を用意して逃がしてあげるのです。吉村は駕籠を担いだ人にお礼として「鹿の子しぼりの手拭」と「銀の箸」を手渡されたそうだ。





▲吉村寅太郎・「原えいの地」碑があり、鷲家川の向こう岸の巨石の下に墓所があった。今、遺骨は明治谷墓所に移されている。

▲吉村寅太郎の歌碑も建っていた。

『吉野山風にみだるるもみぢ葉は 我が打つ太刀の血煙と見よ』

24
日夜、忠光ら7名は、松山城下を北に迂回し、宇陀・岩清水から半坂、忍坂を経て三輪に抜け、高田を経て、大和と河内の境にある竹之内峠を越えて、27日夕刻に大坂の長州藩邸に入ったのです。

一方、鷲家谷で解散した時に別れた10余名は、小名峠を経て宇陀に出たが、池内蔵太らを除いては捕捉または射殺されてしまいます。
池内蔵太は、後に坂本竜馬の海援隊に入るが海難事故で亡くなる。
橋本若狭は、翌年、大坂で捕捉され、慶応元年(1867年)京都六角獄舎で刑死となっている。享年44歳。

鷲家口を逃れ、大坂の長州藩屋敷に逃げ込んだ忠光らは、大坂町奉行所を逃れ、長州に。その後、下関、長門など隠匿生活を続け、最期の隠れ家は、豊浦郡田耕村原久保の太田新右衛門宅だったという。この宅の近くで暗殺されている。19歳であった。

忠光が大峰の笠捨山を越える時、歌がある。

『武夫(もののふ)の赤き心をあらはして 紅葉とちれややますらをの友』


生き残った義士には、「平岡鳩平」と「伊吹周吉」がいる。

特に、平岡鳩平は、維新後、北畠治房と名乗り司法官になり、大阪控訴院長、正二位、男爵に栄進し、義士出身としては珍しく出世している。


今回の探訪記には、次の書籍を参考にさせて貰った。

 ・「天誅組紀行」吉見良三
・「維新の魁 天誅組」天誅組保存伝承・顕彰推進協議会




新しい世の捨石に・・・志半ばで悲願の維新を見ることなく散ってしまった「天誅組」。

また、機会があれば、彼らの足跡を追いたい。もっと彼らのことを知りたい。

吉野路を駆け巡る時、彼らの石碑を見ては一人ひとりのことを思い出したい。
義士たちに優しく接した地元の人に尋ねたい。

折々の印しを見つければ、また紹介したいと思います。




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天誅組の足跡を訪ねて (19)

2010-01-26 10:02:42 | 志に生きた天誅組・・・終焉の地を訪ねて

 

伯母峯峠越えて鷲家口へ・・・


9
23日早朝、上北山村白川郷を出発する予定であったが、「天誅組に加担すると首がはねられる」と村人から聞いた人足たちは恐れをなして逃亡。10人ほどの怪我人・病人を運ぶ駕籠や武具を運ぶ人足が足りません。止むを得ず荷物や武具を林泉寺に集め、本堂ごと焼却してしまいます。

白川郷から河合郷へ。河合から小橡(ことち)に向かうには、辻堂山(1308m)、伯母ケ峯(1262m)の尾根道を通り、夜を徹して歩き続けます。


▲大台ケ原道路から伯母ケ峰方面を見ると・・・凄い山並みが続きます。こんな山の中を歩き続けたのです。

23日深夜、伯母谷郷を先に出発した約30人が到着。駕籠に乗った怪我人などは1日遅れで到着。
休憩する間もなく、彦根藩が和田村(169号線の大迫ダム付近)まで迫っていると聞き、傷病者を村人に世話を頼み、忠光と元気な隊士達は彦根藩を迎え撃つべく出発するのです。

回復した隊士も後を追って参戦したが、高熱の小川佐吉と医者の乾十郎だけは、村人によって山中の洞窟(地元では天誅窟と呼ぶ)に匿われます。(二人は翌年正月まで世話になる。)
(この「天誅窟」は、国道169号線 現・新伯母峯トンネルの上辺りにあるのだろうか?かなりの絶壁にあって、近づけないと言われている。今回は行けそうもない。諦めよう。)

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9
24日、彦根勢を迎え撃つため和田村まで進んだが、敵の姿がなく、更に北側の武木村まで進んだ。
武木村庄屋・大西吉右衛門などの家で休憩。ここでの会食が最後となるのです。大西家では鰹節と勝栗をそえてもてなしたところ、『これは縁起がいい!』忠光は大いに喜んだという。この時の隊士は20余名ほどになっていた。

藤本鉄石は、お礼に短冊に和歌をしたため大西家に・・。これが鉄石の絶筆となったのです。

『雲をふみ岩をさくみしもののふの よろひの袖に紅葉かつちる』

武木村を後に、足ノ郷越(白屋岳の東麓)を通り鷲家口(現・東吉野村小川)へ。
藤本鉄石と松本奎堂は、本隊より1時間ほど遅れて武木村を出発。
松本奎堂は、いよいよ両目とも視力をなくし、駕籠に乗せられている。


▲松本奎堂は、このような駕籠にのっていたのだろうか?(十津川歴史民族資料館に現物が展示されていた)
でも、最期のほうでは竹の棒を通した「ムシロや麻袋」だったとも言われているが・・・。


▲この辺りは、彦根藩・和歌山藩の兵士が、天誅組を待ち伏せていたのです。(中央の奥が彦根藩本陣の油屋)


追討軍は、事前の情報で、鷲家口で待ち伏せています。
伴林らが通過した2日後の23日には、彦根藩の先発隊が、また和歌山藩も数百名の陣容で鷲家に移動させていたのです。
これら追討軍の様子を、雇われていた村人から聞きだし、天誅組決死隊が切り込んでいるスキに忠光ら本隊を逃がす作戦をとるのです。


▲伊勢街道道標・・・詳細は下記に記載されています。この道標の隣が、藤堂藩陣所跡なのです。




▲藤堂藩陣所となっていた油屋。今も残され、子孫が住んでおられます。



▲彦根藩脇陣所となっていた碇屋。ここも子孫が住んでおられます。




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