天誅組終焉之地・・・・鷲家口の死闘
▲「天誅組紀行」吉見良三著より引用
彦根藩は、鷲家口において、出合橋を挟んで福屋に本陣を構え、向かいの碇屋に脇本陣を置き、近くの宝泉寺には地元民を詰めさせ篝火を焚いて前線基地とします。彦根藩の陣容は30名ほどであったという。
▲碇屋の脇本陣・・・その家はまだ残っていて、案内書きも掲げられています。那須信吾が斬りこんだところだ。
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24日の夜8時頃。天誅組決死隊の那須信吾を隊長とする6名が宝泉寺に斬りこみ、更に碇屋脇本陣に向かって斬り込みますが、その付近で全員銃弾に倒れます。
▲ここ鷲家には、義士の足跡がアチコチに残されている。
▲宝泉寺から少し東に向かったところにあった「天誅組明治谷墓所」。
▲宝泉寺に建てられている「天誅義士記念碑」。
▲天誅組義士と共に闘いで亡くなった彦根藩士もこのお寺に葬られている。
▲宝泉寺から出店坂を降り右に曲がると正面に碇屋の脇本陣がある。決死隊の先頭にいた植村定七は、この辺りで彦根藩歩兵頭を斬り倒し突き進む。
決死隊が突撃を開始した直後、忠光ら本隊約20名は、福屋本陣前を通過。出合橋を渡り戦闘最中の碇屋前を突っ走り、何とか鷲家近くまで行きます。
でも、鷲家には和歌山藩の大軍が待ち構えています。このため、手前の鷲家谷で解散し、個々で大坂の長州藩邸で落ち合うことにし、少数に分かれ山の中に逃げ込むのです。この地が「天誅組の解散地」となるのです。
▲鷲家川に沿った県道16号線沿いに建つ、「天誅組終焉之地」の碑。(東吉野村鷲家)
▲東吉野村各所の天誅組遺跡を示す看板も建っている。
▲天誅組湯の谷墓所。国道166号線沿いに石碑が建っています。<o:p></o:p>
<3人の総裁の最期>
藤本鉄石と松本奎堂の後発組が足ノ郷道峠を過ぎた頃、麓から銃声が聞こえてきます。那須信吾ら決死隊が鷲家口に突入していたのです。
このため、橋本らの案内で藤本と松本は、蟻通神社(現・丹生川上神社中社)に出て、高見川をさかのぼり伊豆尾村笠松の松本清兵衛宅に潜伏しますが、翌日、和歌山藩に探知されます。
▲丹生川上神社中社の前を通り、高見川をさかのぼり伊豆尾に向かいます。
▲伊豆尾の堂本さん宅を訪ねる途中に「小」の地区がありました。「東吉野村小」という地区です。
▲伊豆尾から国道166号線に到る途中の光景です。この辺りを藤本鉄石と松本奎堂は、進んで行ったのです。
二人の総裁は、他の隊士を先に脱出させると庄屋宅を出る。駕籠に担がれた松本は遅れ、地蔵堂前まで来たとき庄屋宅で銃声がし、その音に驚いた駕籠人足は逃げ去り、従者・村上万吉に手を引かれて山の中に逃げたが和歌山藩に見つかり銃殺されてしまう。奎堂、33歳。最期の地、笠松山頂(640m)に、「戦死之地碑」が建っている。
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▲国道166号線新木津トンネルの右手前に「天誅義士戦死の地」の石碑があり、松本奎堂の石塔もある。
▲案内板によると「この地より900m上の笠松頂上に松本奎堂先生墓所がある」と示されていた。この笠松山の上にあるのだろう。
一方の藤本鉄石と従者・福浦元吉は、伊勢街道を目指したが既に和歌山藩が見張っていた。和歌山藩脇本陣・日裏屋に斬り込むが討ち死にした。藤本鉄石48歳、福浦元吉35歳。この日裏屋跡は現在駐車場になっており、隅に碑が建っている。
▲鷲家の国道166号線沿いにある竜泉寺にも天誅組が眠っている。鉄石の歌碑もある。
また、残る1人の総裁・吉村の最期には諸説あるらしい。
駕籠に乗って森下幾馬ら4名の隊士と共に本隊の後を追い、鷲家口手前1kmの島原山道で、鷲家口から聞こえる銃声に怯えた人足が逃げてしまう。
一旦、小村へ下り、駕籠かき人足を雇い、小津川(こつがわ)の庄屋・堂本孫兵衛宅に潜伏。
同家の蔵に匿まわれたが追討軍の捜索が厳しく、森下らを先に脱出させる。その3日後の27日、鷲家谷・石ノ本の薪小屋で潜んでいるところを藤堂兵に見つかり銃殺される。吉村寅之祐27歳。
この吉村寅太郎の原えいの地として石碑が建ち、県道16号線・鷲家川を渡った巨岩の下に墓所がある。<o:p></o:p>
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▲吉村は、この堂本家(現在は建てかえられている。)の土蔵で匿われていたのです。
訪ねた伊豆尾地区には「堂本」という看板が多く見られ、資材置き場におられた方に訪ねると・・・どうも親戚に当たる方のようで・・・『あぁ、あの叔父さんの・・・』と、教えて貰った。「堂本家」は、村の一番高台にあり、周りが一望出来る位置にありました。
▲堂本家の前にある、この薬師堂の天井裏に隠れていたのです。
堂本家としては、駕籠を用意して逃がしてあげるのです。吉村は駕籠を担いだ人にお礼として「鹿の子しぼりの手拭」と「銀の箸」を手渡されたそうだ。
▲吉村寅太郎・「原えいの地」碑があり、鷲家川の向こう岸の巨石の下に墓所があった。今、遺骨は明治谷墓所に移されている。
▲吉村寅太郎の歌碑も建っていた。
『吉野山風にみだるるもみぢ葉は 我が打つ太刀の血煙と見よ』
24日夜、忠光ら7名は、松山城下を北に迂回し、宇陀・岩清水から半坂、忍坂を経て三輪に抜け、高田を経て、大和と河内の境にある竹之内峠を越えて、27日夕刻に大坂の長州藩邸に入ったのです。
一方、鷲家谷で解散した時に別れた10余名は、小名峠を経て宇陀に出たが、池内蔵太らを除いては捕捉または射殺されてしまいます。
池内蔵太は、後に坂本竜馬の海援隊に入るが海難事故で亡くなる。
橋本若狭は、翌年、大坂で捕捉され、慶応元年(1867年)京都六角獄舎で刑死となっている。享年44歳。
鷲家口を逃れ、大坂の長州藩屋敷に逃げ込んだ忠光らは、大坂町奉行所を逃れ、長州に。その後、下関、長門など隠匿生活を続け、最期の隠れ家は、豊浦郡田耕村原久保の太田新右衛門宅だったという。この宅の近くで暗殺されている。19歳であった。
忠光が大峰の笠捨山を越える時、歌がある。
『武夫(もののふ)の赤き心をあらはして 紅葉とちれややますらをの友』
生き残った義士には、「平岡鳩平」と「伊吹周吉」がいる。
特に、平岡鳩平は、維新後、北畠治房と名乗り司法官になり、大阪控訴院長、正二位、男爵に栄進し、義士出身としては珍しく出世している。
今回の探訪記には、次の書籍を参考にさせて貰った。
・「天誅組紀行」吉見良三
・「維新の魁 天誅組」天誅組保存伝承・顕彰推進協議会
新しい世の捨石に・・・志半ばで悲願の維新を見ることなく散ってしまった「天誅組」。
また、機会があれば、彼らの足跡を追いたい。もっと彼らのことを知りたい。
吉野路を駆け巡る時、彼らの石碑を見ては一人ひとりのことを思い出したい。
義士たちに優しく接した地元の人に尋ねたい。
折々の印しを見つければ、また紹介したいと思います。
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