忘れられた電化路線、Shildon - Newport線の話。
Stockton & Darlington鉄道開業後も、Durham郡南部炭鉱地帯の石炭輸送需要は依然旺盛で、他社が鉄道事業に参入する余地は充分有った。Stocktonの事業家Tennantが紆余曲折の末Tees & Weardale鉄道(後にClarence鉄道に改称)を設立し、S&D鉄道と完全に競合するShildon – Tees河港間の路線を建設し、S&D鉄道に遅れること8年、1833年に開業した。S&D鉄道がDaringtonの資本家主体で建設され、Daringtonを経由した遠回りのルートになっているのが、Stocktonの資本家には不満だった。起点ShildonでS&D鉄道に乗り入れて各炭鉱からの石炭を積み出すというハンデを負っていたが、S&D鉄道より短いルートと、Tees川北岸に開設した専用の積み出し港を武器に、激しく競い合っていた。しかし、後発組のハンデに加えて、S&D鉄道の様々な嫌がらせ(自社貨車の優先運行、自社線への機関車乗り入れ妨害など)もあり、支線を建設して新規顧客を開拓する等の施策も空しく、資金繰りに窮し、1851年にHartlepool港湾開発会社に買収された。S&D鉄道やLiverpool & Manchester鉄道と同時期に存在していたにも拘らず、滅多に歴史書に採り上げられることもなく、不遇な扱いを受けている。
1863年に、North Eastern鉄道がこの地域の鉄道会社を全て傘下に収めると、最短ルートである元Clarence鉄道線は石炭輸送のメインルートとなり、両端に広大な操車場が開設され、活況を呈する様になった。20世紀に入ると、山間部の石炭鉱脈が枯渇し産地が沿岸部に移動しつつあったが、Wear川上流域で産出される石灰石を沿岸部の工業地帯に輸送する需要が、石炭輸送の落ち込みを補っていた。
この時期、NE鉄道がNewcastle近郊路線を直流電化して旅客輸送で成果を上げ、York - Newcastle間の幹線電化を考える様になった。まず運行本数の多いShildon – Tees河港間の旧Clarence鉄道線を試験的に直流1500Vで電化することを決定し、地元Shildonの工場で貨物用B-B電機10両を新造し、1915年に電機牽引を開始した。
https://www.lner.info/locos/Electric/ef1eb1.php
電機列車の運行は順調で、蒸機より輸送効率が向上し、第1次大戦中の軍需輸送にも対応した。1923年にLondon & North Eastern鉄道(LNER)に統合された際も電機運行は継続されたが、戦後の経済停滞期に輸送需要が急減し、過剰設備となっていた所に電化設備の更新時期が重なり、電力料金の高騰も影響して、1930年に蒸機運行に戻す判断が下された。York – Newcastle間の幹線電化計画も、不況の煽りを受けて白紙となった。ECMLの電化は、実に半世紀後に英国国鉄の手でAC25kV電機牽引のIC125列車導入という形で実現される。
試作旅客用2C2電機1両を含む11両の電機は仕事を失い、一部はAnglia地区の電化路線に転用されたが、残りはShildonの操車場に長らく留置された後、スクラップとして売却され解体された。凸形車体、2丁パンタの堅実で力強いデザインで、保存機が無いのが惜しまれる。Woodheadルート電化に際し留置中の電機を活用するプランもあったが、高出力のEM1、EM2電機が新規開発、投入され、復活の機会は失われた。
地上設備の方も、将来の幹線電化を見越し、ツイントロリのコンパウンド架線を通常の3倍の長大スパンで張るという意欲的な設計で、写真を見る限り優美なものだったが、全て撤去されてしまった。使わなくなった地上設備は、金属製のものはスクラップが売れるのですぐに撤去されるが、石や煉瓦造りのものは撤去が困難で再利用も難しいため、邪魔にならない限り放置される。英国でも、廃線区間の放置されていたレールが剥がされて盗まれる事件があったりする。余談だが。
旧Clarence鉄道線自体も、第2次大戦後の不況、Durham地域の鉱工業の衰退、自動車輸送の台頭により、1960年代に大部分が廃止された。貨物輸送はStocktonに直行する旧Clarence鉄道線が有利だったが、旅客輸送には主要駅Darlingtonを経由しないのが却って仇となり、旧S&D鉄道線の方が存続することになった。最初から最後まで不運に苛まれた路線であった。
毎日通勤で通る幹線道路A167が途中で不自然にアップダウンしているが、ググル地図を見ると廃線跡を陸橋で跨いでいた。この廃線跡が旧Clarence線で、史実を知ってからは、ここを通る度に不遇だった路線のことが頭を過る。