さきの東京都知事選挙で、石丸伸二氏とバチバチのバトルをした古市憲寿氏が、以下のようなことを言った。
この記事の中で、古市氏は、以下のように述べている。
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15歳の子供たちは仮にどんなに運転がうまくでも免許が取れないわけじゃないですか。
免許って年齢差別をしているわけですよ。
下限があるんだから本来、上限があっても別にいいと思うんですよ。
もちろん90歳でも、本当に乗れる方と乗れない方、両方いらっしゃると思うんです。
下の年齢は18歳で区別している以上、上限もつくっていいのでは。
上限をつくった方が家族にとっても安心かなと思う。
本人がどうしても免許を手放したくなくて、それで家族が困っていてる。
だからそこは国とか行政が悪者になって、この年齢では運転できませんとしてあげた方が結果的に幸せなんじゃないかなと思っちゃいます
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この発言を聞いた第一印象は、「深く考えたのだろうか?」ということ。
また、「深く考えた結果なら、なんと浅はかな意見だろう?」とも思う。
まず前提に問題がある。
15歳の子供たちが、免許を取得できないことを、年齢差別を言っているが、そうではない。
車の運転には、知識と体格と体力が必要だ。
言わずもがなだが、幼稚園児に車の運転はできない。
ゆえに、運転可能年齢の設定は必要だ。
議論するなら、18歳という年齢の妥当性だろう。
また、下限を決めたなら、上限もつくれという主張は、あまりにも短絡的だ。
だったら、
上限は何歳にすべきなのだ?
その根拠は何だ?
一律、資格を剥奪することに、法律上の問題はないのか?
もし、この発想を拡大解釈すれば、選挙権だって、酒やタバコの年齢だって、上限を設定すべだ。
ということになりかねない。
言いたいのは、一律で上限を決めることへの、危うさということ。年齢で区別するのは、それでしか管理する術がなかった、昭和以前のことだ。
いまは、個々の技量を判断したり、それによって行政勧告することも可能だ。実際、免許更新では、実施されている。
進むべきは、個々の能力をみて、さまざまな勧告をする仕組みづくりの深化だ。それが、個人の尊厳を尊重することになるはずだ。
進むべき道に目を背け、古い感覚で短絡してはいけない。
と思う。