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映画ブロガーら有志23名による「10年代映画ベストテン」発表!

つぐない [監督:ジョー・ライト]

2008-07-12 01:52:27 | 映評 2006~2008
個人的評価:■■■■■□
[6段階評価 最高:■■■■■■(めったに出さない)、最悪:■□□□□□(わりとよく出す)

白衣の天使(ANGEL)、ロモーラ・ガライ再び登場。妄想作家役ならあたしにまかせて!
・・・と書き出してみたものの、この話はこれ以上膨らみません。フランソワ・オゾンの「エンジェル」で妄想小説家を演じたロモーラが今作でも似たり寄ったりの役だったのが面白かったというだけの話でございます。

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映画としては、演出の必然性より、監督の才気というか「編み出した色んな技巧を試したい」、という作家的野心の方がやや勝っていた感じがします。
物語のための技巧というより、技巧のための物語という感じ。しかしそのような純粋に映画演出への探究心とか実験精神が私には面白いです。監督の前作「プライドと偏見」もまさに技巧のための映画でした。いっそ、もっと物語への依存を棄ててしまえば歴史に名を残す監督(キューブリックみたいな)になるんじゃ・・・と思います。
とは言うものの本作の脚本構成は見事です。入れ子構造と、そしてなんといってもある意味驚愕のラストのどんでん返し。前代未聞。
それは別にレイプ犯の正体があいつだった・・・というところではありません。あれはむしろバレバレです。
すごいのはその後。真の主人公である老女の作家が登場。老女は色々言っていたけど要約すると、「自分の出ない場面と、自分が最後に姉に会いに行ったところはぜーんぶフィクションです。」
もっともらしく描いてきたそれまでの物語を堂々といわば全否定し、しかもそれを持ってつぐなってもつぐないきれない老女の背負い続けた業を実感させ、涙を誘うのです。

今にして思えば、ファースト・カットの模型の家は「もっともらしいフィクション」を象徴していたのでしょう。その家からカメラがパンし模型の動物たちのパレードをなめるように写して、そしてタイプライターで戯曲を執筆している主人公が写されますが、それもまたこの物語が作家によって創作された虚構のドラマであることを象徴していたのでしょう。

-----「映画は、ドラマだ、アクシデントではない。」----
病床の小津安二郎が見舞いに来た吉田喜重に語った言葉 [『小津安二郎の反映画』吉田喜重 著 より]

前半部の時制ずらしの語りを、「変わってて面白い」ととるか、「気持ちがとぎれ鬱陶しい」ととるか。
意見は分かれると思います。
ただ、遊び半分や実験のつもりだけでやったわけではないと思います(いや、そういう意識もかなりあったとは思いますが)。ラストまで観ることで前半の時制ずらしの必然性が見えてきた気がしました。

物語中のセシリアとロビーの二人によるイベントを、ブライオニーの主観場面と、客観場面とに分けます。
普通の映画なら、それをクロスカッティング(編集の技法)で並列に描くところですが、この映画は主観場面が終わったら時間を戻して客観場面として再度描く、という直列つなぎをします。
ブライオニーの主観は、作家である彼女自身が実際に見て聞いたことを、事実にかなり忠実に再現した場面と考えられます。
客観エピソードは大人になり作家となったブライオニーが、伝聞を元に想像を織り交ぜ創作したエピソードです。そこでは二人の「愛」が理想化された形で再構築されております。

プライオニー主観パートでは「実際に見て聞いた」エピソードであることを強調するかのように、一つ目のエピソードでは「音」、二つ目のエピソードでは「光」が強調されます。
一つ目のエピソード[セシリア、イケメン庭師の前で肌着一枚になり水にもぐる・・・の巻]では、子供達と戯曲の読み合わせをしようとするブライオニーの耳に、ミツバチ(アブかな?)の羽音が強調されます。その音に誘われるようにして窓辺に赴くと、窓の外にセシリアとロビーのハレンチな現場を目撃します。
二つ目のエピソード[これが若さというものか・・・in書斎の巻]では、ブライオニーは床の上でピカピカ輝く謎の物体を発見。それはセシリアの髪飾りでその奥の書斎の戸の隙間から漏れる光を反射して輝いていました。その光に誘われるようにして書斎の戸を開くとセシリアとロビーが組み体操の練習みたいなことをしています。
これらブライオニー主観エピソードではエモーションを強調するクローズアップはブライオニーに対してのみ使われ、セシリアとロビーはブライオニーの視野に収まる単なる光景として写されます。ブライオニーにとってはセシリアとロビーのそれは単なるアクシデントでありドラマではありません。アクシデントに見舞われたブライオニーのドラマとして描かれます。
そして同じエピソードの客観パートにおいてはセシリアとロビーの二人のモンタージュと会話というオーソドックスな劇映画的演出で綴られます。ここでのセシリアとロビーの行為はアクシデントではなくドラマとして描かれます。そこでは二人のクローズアップと、交わされる二人の視線が強調される一方で、二人の視界外のものは描かれません。
(余談ですが、ジョー・ライトという監督は視線や視界の扱いに長けています。「プライドと偏見」では口よりも雄弁に目で恋人同士の感情を語らせていました→参照[「プライドと偏見」映評]

この序盤部では普通の映画のように、二つのドラマを並行して描き、もってサスペンスを強めることもできました。そうすることでエピソードに緊迫感を持たせることもできたでしょうが、反面二つのドラマが入り乱れることで感情移入の対象が定まりません。
この映画はセシリアとロビーの愛のドラマを主軸にしながらも、実はそれが創作されたものに過ぎず、実際の主軸はブライオニーの贖罪のドラマとなります。
この映画を「◎」であらわせば、真ん中の○がセシリアとロビーのドラマ、外側の○がブライオニーのドラマというところでしょうか。
この二つの円を重ねて「」なドラマにすると、盛り上がりはするでしょうが、底の浅い感動ものになったかもしれません。少なくともブライオニーが後悔の念にかられ、身も心も削る思いで神に許しを乞うような悲しみは描けなかったでしょう。そう思います。

ところで上記の「ブライオニーパートと、セシリア&ロビーのパートを直列でつなぎ、それぞれのドラマを独立したものとして味あわせる理論」でいくと、ロビーが間違った手紙をブライオニーに渡すシーンの時制もどしは、ちょっと目的と違う気もします。
しかしここはまるでギャグ漫画のような間違いを大真面目に演出する様が面白くて笑えたので良しとします。ギャグのつもりじゃなかったのでしょうがね。(「こち亀」に、両さんが部長に大事な書類と間違って自分のエロ本を渡してしまい、気付かれる前に取り替えようとする・・・みたいなエピソードがありませんでしたっけ)

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中盤です。
ジョー・ライトという監督は、映画の中盤に長回しをもってくるのが好きなのかもしれません。
「プライドと偏見」でも中盤の、お屋敷の晩餐会の長回しが面白かったです。
本作では北フランス(恐らくダンケルク海岸)を、ロビーと戦友がウロウロするシーンを長回しで撮ります。
海岸全体をうろつき回り、撤退の輸送船団の到着を今か遅しと待ちわびる数万の英軍に埋め尽くされた海岸。
背景などはCGで合成したのでしょうが、それにしても壮大なスケールの画です。しかもカットが切れることなく、延々続きます。
とはいえ、長回しの終盤でドイツ軍の攻撃を受けるとかそういったサプライズがあるわけでもなく、ただうろつき回るだけで、映像的にはすごいけれどちょい長いかなあと思いました。
ここは演出の必然性より、監督の趣味性が勝ったシーンなのでしょう。
ただし、ブライオニーが病院で負傷兵の手当てをしていたことを考えると、彼女がプライベート・ライアンばりの戦場シーンを創作したとすれば、それは違和感が出るでしょうし、贖罪がテーマの作品において戦闘スペクタクルが不要なのは言うまでもありません。

長回しは豪華なおまけとして、戦争篇においても、ロビーとセシリアの愛のドラマと、ブライオニーの苦悩は続きます。
ここでも創作上のシーンと、ブライオニーの実体験のシーンとが絡み合うことなく、それぞれ独立したエピソードとして描かれます。
ブライオニーの嘘の理由も、さりげない回想シーンで示されます。恋が転じて憎しみへ。あるある。

そして北フランスの戦場で「故国(くに)に帰って愛するあの娘と海辺のコテージで暮らすんだ」と死亡フラグ立ちまくりな台詞を語るロビーを残して、物語はブライオニーパートへと移行します。

「ブライオニーが急に可愛くなくなった」と私の妻は実も蓋もないことを言いましたが、ともかくアカデミー助演女優候補になったシアーシャ・ローナンちゃんから、フランソワ・オゾンの「エンジェル」で主役をはったロモーラ・ガライ嬢へブライオニー役はチェンジです。
分別のついた女となったブライオニーは看護婦として献身的に負傷兵たちの手当をします。
焼けただれた兵士の顔、頭蓋が割れて脳がむき出しとなった負傷兵などなど目をそむけたくなる光景が次々と描かれるのも彼女の実体験に基づくエピソードであることを印象づけるためでしょう。
そしてついにブライオニーとセシリアとロビーの三人が一同に会するエピソードがやってきます。
死亡フラグ立ちまくりだったロビーが、生きてダンケルクから帰還していたことも驚きなら、大人げなくブライオニーを責める姿にも違和感を覚えます。しかしここでロビーは真実を全て「韻を踏まず、装飾もせずに」そのまま語ること、なぜ嘘をついたのかの説明書を提出することを、大学の指導教授または会社の直属課長のように要求してきます。
なんか今までとトーンが違うなぁ・・・と思っていたら、ブライオニーが急にヴァネッサ・レッドグレーブへチェンジして、最初にも書いた驚愕のどんでん返しとなるのです。死亡フラグ立ちまくりだった彼は、やはりドラマの法則に抗うことはできずに死んでいました。

ここでブライオニーおばあちゃんの行為は賛否両論呼ぶでしょう。
なぜ、今になって真実を語るのか。それはブライオニーのエゴではないか?
語るならもっと早い時期に語って然るべきだったのでは、あるいは墓までその秘密を持っていくへきでは・・・
これは、私の感想ですが、ブライオニーは人気作家として人々から好かれ尊敬されたキレイな人間として死んでいくのが耐えられなかったのではないでしょうか?
人生の最後に自分の許されざる罪を、神ではなく、一般の読者に告白し、非難され罵られて死んでいくべきだと思ったのではないでしょうか?
そして、また作家として、自分の罪深さを告白し、かつ自分の知る限りの真実を語るには、「物語」という形式が相応しいと思ったのでしょう。「嘘」によって引き裂いた姉とロビーの恋。「嘘」によって背負った業。そんな彼女が「フィクション」の創作を仕事にする「作家」という職についたのは、なんとも皮肉と申しましょう。
そしてブライオニーは「フィクション」で「真実」を語り、自らの嘘とフィクションの人生に幕を降ろすのです
それもまた作家のエゴなのかもしれませんが

そんな彼女の背負った罪の重さと、愛し合う男女の悲劇が綴られる最終章はさすがに涙が溢れてきました。

ただそんな感動よりも、監督の一流の技巧を堪能させてもらい大満足感の方がやや強く残ってしまうところに、「感動」を「技術」に変換しなくてはならない映画作家の宿命を感じたりもします。

にしても・・・監督ジョー・ライト
1972年生まれ。
私と同い年
もうこんなすげー映画とってんの~~
ひえ~

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余談です。
「乳なし」で有名なキーラ嬢ですが、本作ではその身体的特徴をことさら強調するように、キーラ嬢を写す際には真横からのバストショットを多用していた気がします。
これまでは乳の小ささを露出の多さでカバーしていた気もするキーラですが、本作では脱ぐわけでもありません。めんどくさいデジタル加工によるバスト10%増量などしなくてもよく、パットいれるだけのアナログ加工で何の問題もありません。
「だが断る」
とキーラ嬢が言ったかどうかは知りませんが、背中みたいな胸を逆に見せびらかしていた様な気さえします。
一方で妄想エンジェルことロモーラ・ガライさんは、なかなか豊満なバストをしていらっしゃいます。
「韻もふまず、装飾も抜きで、ありのままに」真実を語ることを、創作上のロビーと約束したブライオニーですが、「顔も体の細さも負けていた私ですが、胸なら絶対に私の勝ちでした」とありのまま語っていたのかもしれません。そこは装飾していいところですよ!!

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4 コメント

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トラックバックありがとうございます (ryoko)
2008-07-12 16:47:04
さすが、映画製作の側からの分析、読み応えがありました。
当初時間を遡って違う目線から描くのに戸惑いましたが徐々に慣れ、なるほど~なんて思っていましたが、年老いたブライオニーの告白で
「えっ~!」「あらら」「そんな~」とじわじわでした。

>「◎」であらわせば、真ん中の○がセシリアとロビーのドラマ、外側の○がブライオニーのドラマ
うまい!
返信する
映画の技巧 (sakurai)
2008-07-12 22:50:34
にあんまり目がいかず、やはりいい男に目が釘付けのおばさんとしては、マカヴォイさんに釘付でした。
きっと、しんさんは・・・と思いだしながら見ておりました(ほんと)。
役者の妙は堪能しました。
物語は、原作ありきでしょうから、なんとも言えませんが、あれはつぐないではないな、と。
ジョー・ライトは、次で真価を問うつもりです。
なんかねえ、なんか、今回だめだったんですよ。
技が鼻についたのかも。
返信する
TBありがとうございました (とらねこ)
2008-07-15 16:09:46
いやあ、私としては、その背中にそっくりな胸に、欲情を感じてしまいました・・・。
表情がエロかったからでしょうか。
ツンデレさんなところが素敵だったんですよね。
返信する
コメントありがとうございます (しん)
2008-07-16 02:02:01
>ryokoさま
戸惑わせ、最後まで観ないと、その真の意味とか必要性がわからない作りが、本当に映画としていいのか・・?って考えさせられもするのですが
でも判らなくても、それなりに魅せて楽しませてくれるから、やっぱよくできた映画なんだなと思います。

>sakuraiさま
私ごときを思い出していただき恐縮てす。
技巧に走る監督は本来はシンプルなストーリーでこそ真価を発揮するんですが、物語が凝りすぎていたのかもしれません
わき上がるアイデアを抑えきれずに使ってしまう「若さ」のような感じが面白かったですけどね
次作でもっとシンプルにするか、もっと難解にするかしたら、すごい奴なんだと私も巨匠の烙印押します

>とらねこ様
私もキーラ嬢の大ファンですから、あの水平を測定できそうな胸も含めて好きなのです。
しかし今回はいつにもまして平らだったような
それでも先天的にエロいんじゃないかと思うような役柄は、肉感がないだけに気持ちが伝わって来た気がしないでもないです
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