前回の『レイジングブル』で微妙に小津映画に言及しました。
もう一度書くと、『東京物語』のメインテーマが、マスカーニのカバレリアルスティカーナ間奏曲に似ている、というそれだけのことでしたが。
その流れで小津映画におけるクラシック音楽について書いてみたくなりました
…といったものの小津映画ほどクラシック音楽が似合わない作品もない気がしないでもありません。
なんてったって、行きつけのバーで「おかみ、例のあれかけてよ」なんて言ってママさんが軍艦マーチのレコードかけるような世界です。
笠智衆が娘の原節子を連れて能楽を鑑賞しに行ったり、笠智衆が同窓会で楠木公の辞世の詩吟をうたったりする世界です。
そもそもがドラマチック性を極限まで排したような音楽設計がされるのが小津映画で(『お早う』みたいな例外もありますが)、クラシックに限らず音楽がことさら印象的だったり効果的だったりすることはまずないのです。
それでも小津映画でひとつ書けるんじゃないかと思いました。小津映画でクラシックの流れるシーンがあったはずという確信があったのです。
「隣の家から聞こえるピアノの練習の音」が妙に印象的だった記憶があったからでした。
とはいえ、沢山ある小津映画のどのシーンだったろうか・・・?
と、砂漠で砂粒を探すような絶望感を感じたのですが、いざ探してみると意外とすぐに見つかりました
それが『秋日和』でした。
『秋日和』において、どこかから聞こえてくるピアノ練習の音がまるでBGMのように流れ続けているシーンが2回ありました。
ところで『秋日和』ってどんな話だっけ
え、忘れたの?ほらあれだよ。娘が嫁に行く話だよ。
あぁ…ってだいたいそうじゃねーか!!
…となるので、簡単に『秋日和』がどんな映画だったか復習です。
※思いっきりネタバレですが、『秋日和』の場合バレて困るネタもあんまりないのでまあいいのかな・・と
------
佐分利信と中村伸郎と北竜二の小津映画だといつもの三人組感ある中年おっさん3人がいまして、小料理屋「若松」で高橋とよの女将さんをからかいながらグダグダと飲んでいます。彼らの学生時代のマドンナだったのが原節子で、彼女の亡くなった旦那もまた3人組の同級生でもありました。「聞くも涙」な話で、まあ4人で原節子を好きになってみんな彼女には手を出さないと決めていたのに、一人抜け駆けしたってなことでした。
原節子の娘はそろそろお嫁にいっていい年ごろの司葉子ちゃんでして、中年三人組は余計なお世話かもしれんけど司葉子の婿探しをしようとするのですが、葉子ちゃんはお母さん一人残してお嫁になんていけないわと言ってます。
中年トリオは、そういうことならまず原節子を再婚させよう、再婚相手はそういえば奥さん亡くしてからずっと一人やもめの北竜二がいいじゃないか、と勝手に決めてしまうのです。
その話が微妙にねじ曲がって司葉子の耳に入り、お母さん私に黙って再婚きめるなんてひどいじゃないと怒ってしまい、さらにその話を聞きつけた司葉子の親友の岡田茉莉子は、その話の出どころが不良中年3人組と知るや、彼らの会社に押しかけてどういうことか説明しろと言いだして、困ってしまう三人組。だけど原節子が再婚することには賛成の岡田茉莉子はおっさんたちと和解。司葉子が結婚しやすいよう原節子の再婚に協力することになります。
けれども結局、原節子は誰とも再婚する気なんかなく、原節子に説得されて司葉子ちゃんは好きな男(例によって佐田啓二)と結婚することに。なんだか北竜二一人が変に期待してバカ見た感じに終わります。
そして司葉子の結婚式になり、ラストは自宅で一人物憂げな顔の原節子…
-------
さてピアノの練習の音ですが、原節子が現在の仕事である服飾学校の講師を勤めている学校のシーンと、佐分利信の家で佐分利信の細君の沢村貞子が、中村伸郎の細君の三宅邦子とおしゃべりをしているシーンで聞こえます。
原節子の勤める学校ではモーツァルトのピアノソナタ11番第1楽章が構内のどこかで誰かが練習しているのか、かすかに聞こえてきます
しかも、最初の数小節を、何度も何度も
間違えたからやり直す、という感じではなく、あえて同じ個所を何度も何度も機械的に弾いているような印象を受けます。
とはいえこのピアノの音、場面頭の学校の全景のところこそ大き目の音ですが、カメラが教室にうつるとよほど遠くで鳴っている設定なのか、非常に小さな音量になります。
原節子の台詞の音量や、あるいはシーン終わりの授業終了を告げるチャイムの音と比べるとはるかに小さい音です。
さて、この音は現実音という設定なのか? だとするとその機械的に繰り返される同じメロディにリアリティがありません
では、劇伴BGMとしてかけているのか?その割には音量が小さすぎます。
しかし、この場面で一貫して流れ続けることで、落ち着いた雰囲気を醸します。
佐分利信の家のシーンでは、バイエルのピアノ練習曲48番(クラシック括りでいいのか微妙ですが)が聞こえます。
こちらは学校のシーンのモーツァルトに比べるとずっと音量が大きく、はっきりとしたメロディの輪郭が感じられます。
しかしここでもモーツァルトの時と同じく、数小節が機械的に繰り返されるのです。
小津映画では音楽が現実音と劇伴BGMの境目が曖昧になることがよくあります。
短いメロディが単調に繰り返され画面の変化といっさいシンクロせず流れ続けることがよくあります
小料理屋のシーンなんかでよくかかるポルカ
オルゴールの音
祭囃子の音
ピアノ練習の音も、それらと同じ音楽演出なのではないかと思います。
ただ祭囃子の音の場合は、その前の場面転換ショットでお祭りの描写を入れて、現実音であることを意識づけるのですが、ピアノ練習の音の前に誰かがピアノを弾いている画を入れることはありません。
当たり前に日常の中に入り込んでくる音であり、現実世界でよく耳にする音を小津風にアレンジして、現実音と劇伴の境目をあえて曖昧にした音楽にしています。
なんにしても騒々しい音が場面を支配するというのは小津映画にはありません
ドラマティックな効果を狙った音楽演出ではなく、なんてことなく日々繰り返される日常の風景に溶け込む音楽です。
うっすら重なる、シンプルなメロディが機械的に繰り返される音も、日常風景を描いた小津映画らしい音楽と言えます。
でもきっとそれだけではなく、原節子の職場でモーツァルトを重ねたのは、そこが学校というアカデミックな場だからで、佐分利信の家の場面はより日常的に練習曲を重ねることで、日々の変わらぬ暮らしを強調したかったのだと思います。
話を『東京物語』などのマスカーニ風のテーマ曲にもどしますが、あれらも劇中で使って感動を高めるという(押しつけがましい)使い方ではなく、物語のはじめと最後に、あるいは場面転換の風景ショットに重ねるなど、基本的にストーリーが動いていない場面で使います。序曲や間奏曲的な使い方と言ってもよいでしょう。
小津映画ではいつも音楽に能動的な役割を一切与えず、しかし音楽と一体となって、世界観が作られています。
これまでこのシリーズで紹介してきた黒澤明やキューブリックやスピルバーグなどとは全く異なる音楽の使い方をしています。
どこを切っても、小津は個性的でスタイリッシュですね。
では今回はこんなところで
また素晴らしい映画とクラシック音楽でお会いしましょう!!
もう一度書くと、『東京物語』のメインテーマが、マスカーニのカバレリアルスティカーナ間奏曲に似ている、というそれだけのことでしたが。
その流れで小津映画におけるクラシック音楽について書いてみたくなりました
…といったものの小津映画ほどクラシック音楽が似合わない作品もない気がしないでもありません。
なんてったって、行きつけのバーで「おかみ、例のあれかけてよ」なんて言ってママさんが軍艦マーチのレコードかけるような世界です。
笠智衆が娘の原節子を連れて能楽を鑑賞しに行ったり、笠智衆が同窓会で楠木公の辞世の詩吟をうたったりする世界です。
そもそもがドラマチック性を極限まで排したような音楽設計がされるのが小津映画で(『お早う』みたいな例外もありますが)、クラシックに限らず音楽がことさら印象的だったり効果的だったりすることはまずないのです。
それでも小津映画でひとつ書けるんじゃないかと思いました。小津映画でクラシックの流れるシーンがあったはずという確信があったのです。
「隣の家から聞こえるピアノの練習の音」が妙に印象的だった記憶があったからでした。
とはいえ、沢山ある小津映画のどのシーンだったろうか・・・?
と、砂漠で砂粒を探すような絶望感を感じたのですが、いざ探してみると意外とすぐに見つかりました
それが『秋日和』でした。
『秋日和』において、どこかから聞こえてくるピアノ練習の音がまるでBGMのように流れ続けているシーンが2回ありました。
ところで『秋日和』ってどんな話だっけ
え、忘れたの?ほらあれだよ。娘が嫁に行く話だよ。
あぁ…ってだいたいそうじゃねーか!!
…となるので、簡単に『秋日和』がどんな映画だったか復習です。
※思いっきりネタバレですが、『秋日和』の場合バレて困るネタもあんまりないのでまあいいのかな・・と
------
佐分利信と中村伸郎と北竜二の小津映画だといつもの三人組感ある中年おっさん3人がいまして、小料理屋「若松」で高橋とよの女将さんをからかいながらグダグダと飲んでいます。彼らの学生時代のマドンナだったのが原節子で、彼女の亡くなった旦那もまた3人組の同級生でもありました。「聞くも涙」な話で、まあ4人で原節子を好きになってみんな彼女には手を出さないと決めていたのに、一人抜け駆けしたってなことでした。
原節子の娘はそろそろお嫁にいっていい年ごろの司葉子ちゃんでして、中年三人組は余計なお世話かもしれんけど司葉子の婿探しをしようとするのですが、葉子ちゃんはお母さん一人残してお嫁になんていけないわと言ってます。
中年トリオは、そういうことならまず原節子を再婚させよう、再婚相手はそういえば奥さん亡くしてからずっと一人やもめの北竜二がいいじゃないか、と勝手に決めてしまうのです。
その話が微妙にねじ曲がって司葉子の耳に入り、お母さん私に黙って再婚きめるなんてひどいじゃないと怒ってしまい、さらにその話を聞きつけた司葉子の親友の岡田茉莉子は、その話の出どころが不良中年3人組と知るや、彼らの会社に押しかけてどういうことか説明しろと言いだして、困ってしまう三人組。だけど原節子が再婚することには賛成の岡田茉莉子はおっさんたちと和解。司葉子が結婚しやすいよう原節子の再婚に協力することになります。
けれども結局、原節子は誰とも再婚する気なんかなく、原節子に説得されて司葉子ちゃんは好きな男(例によって佐田啓二)と結婚することに。なんだか北竜二一人が変に期待してバカ見た感じに終わります。
そして司葉子の結婚式になり、ラストは自宅で一人物憂げな顔の原節子…
-------
さてピアノの練習の音ですが、原節子が現在の仕事である服飾学校の講師を勤めている学校のシーンと、佐分利信の家で佐分利信の細君の沢村貞子が、中村伸郎の細君の三宅邦子とおしゃべりをしているシーンで聞こえます。
原節子の勤める学校ではモーツァルトのピアノソナタ11番第1楽章が構内のどこかで誰かが練習しているのか、かすかに聞こえてきます
しかも、最初の数小節を、何度も何度も
間違えたからやり直す、という感じではなく、あえて同じ個所を何度も何度も機械的に弾いているような印象を受けます。
とはいえこのピアノの音、場面頭の学校の全景のところこそ大き目の音ですが、カメラが教室にうつるとよほど遠くで鳴っている設定なのか、非常に小さな音量になります。
原節子の台詞の音量や、あるいはシーン終わりの授業終了を告げるチャイムの音と比べるとはるかに小さい音です。
さて、この音は現実音という設定なのか? だとするとその機械的に繰り返される同じメロディにリアリティがありません
では、劇伴BGMとしてかけているのか?その割には音量が小さすぎます。
しかし、この場面で一貫して流れ続けることで、落ち着いた雰囲気を醸します。
佐分利信の家のシーンでは、バイエルのピアノ練習曲48番(クラシック括りでいいのか微妙ですが)が聞こえます。
こちらは学校のシーンのモーツァルトに比べるとずっと音量が大きく、はっきりとしたメロディの輪郭が感じられます。
しかしここでもモーツァルトの時と同じく、数小節が機械的に繰り返されるのです。
小津映画では音楽が現実音と劇伴BGMの境目が曖昧になることがよくあります。
短いメロディが単調に繰り返され画面の変化といっさいシンクロせず流れ続けることがよくあります
小料理屋のシーンなんかでよくかかるポルカ
オルゴールの音
祭囃子の音
ピアノ練習の音も、それらと同じ音楽演出なのではないかと思います。
ただ祭囃子の音の場合は、その前の場面転換ショットでお祭りの描写を入れて、現実音であることを意識づけるのですが、ピアノ練習の音の前に誰かがピアノを弾いている画を入れることはありません。
当たり前に日常の中に入り込んでくる音であり、現実世界でよく耳にする音を小津風にアレンジして、現実音と劇伴の境目をあえて曖昧にした音楽にしています。
なんにしても騒々しい音が場面を支配するというのは小津映画にはありません
ドラマティックな効果を狙った音楽演出ではなく、なんてことなく日々繰り返される日常の風景に溶け込む音楽です。
うっすら重なる、シンプルなメロディが機械的に繰り返される音も、日常風景を描いた小津映画らしい音楽と言えます。
でもきっとそれだけではなく、原節子の職場でモーツァルトを重ねたのは、そこが学校というアカデミックな場だからで、佐分利信の家の場面はより日常的に練習曲を重ねることで、日々の変わらぬ暮らしを強調したかったのだと思います。
話を『東京物語』などのマスカーニ風のテーマ曲にもどしますが、あれらも劇中で使って感動を高めるという(押しつけがましい)使い方ではなく、物語のはじめと最後に、あるいは場面転換の風景ショットに重ねるなど、基本的にストーリーが動いていない場面で使います。序曲や間奏曲的な使い方と言ってもよいでしょう。
小津映画ではいつも音楽に能動的な役割を一切与えず、しかし音楽と一体となって、世界観が作られています。
これまでこのシリーズで紹介してきた黒澤明やキューブリックやスピルバーグなどとは全く異なる音楽の使い方をしています。
どこを切っても、小津は個性的でスタイリッシュですね。
では今回はこんなところで
また素晴らしい映画とクラシック音楽でお会いしましょう!!