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映像作品とクラシック音楽 第11回 「ツィゴイネルワイゼン」

2021-04-08 12:50:00 | 映像作品とクラシック音楽

おつかれ様です。
ほぼ週一でクラシック音楽が印象的な映画などについてあーじゃこーじゃと書かせていただいているインディーズ映画監督の齋藤新です。

前回黒澤明監督作品編で作家の内田百閒を主人公にした『まあだだよ』について書きました。今回は内田百閒つながりで百閒原作の「サラサーテの盤」を原作にした映画『ツィゴイネルワイゼン』(1980年作品 鈴木清順監督)を取り上げてみます。

と言いましても、これがなかなかに難解な映画でして、久しぶりに見返してみましたが、やっぱりさっぱりわからない…という困った映画です。
あんまりわからないので、久しぶりに原作も読み返してみましたが…原作もまたなんだかよくわからないから困ったものです(笑

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ところで、念のため言いますが、「わからない」と「つまらない」は全然違います。
本も映画も音楽も、さっぱりわからないけどなんかすごい、というものはたくさんあります。「2001年宇宙の旅」だって、ぶっちゃけ意味わかる人そんなにいないですよね!
音楽だってそうです。難解な音楽(…例えば武満徹とか…)より、わかりやすい音楽(ベートーベンやチャイコフスキー)の方が優れているってわけじゃありませんよね!

『ツィゴイネルワイゼン』もわけわからんけどすごい映画であることは間違い無いのです。しかし「わけわからん」とだけ言っても誰も興味をひかないと思うので、頑張って映画の魅力を伝えようと思います。
この場合、サラサーテのツィゴイネルワイゼンという曲と、そのサラサーテ自身による録音が映画においてどんな意味を持つのか?というところを自分なりに考えてみました。
すごい長文になってしまいましたが、映画に興味を持っていただけましたら幸いです。


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【サラサーテ作曲のツィゴイネルワイゼン】



さて映画のタイトルとなっている「ツィゴイネルワイゼン」という曲についてです。

このグループの皆様には釈迦に説法とは思いますが…(※注 Facebookの「クラシックCD鑑賞部屋」というクラシック音楽ファンのグループ向け投稿のための記載)
スペインの作曲家でバイオリニストのパブロ・サラサーテ(1844〜1908)の作品です。
ツィゴイネルワイゼンとは「ジプシーの旋律」という意味です。(「ツィゴイネル」=「ジプシーの」、「ワイゼン」=「旋律」)

ジプシーはヨーロッパ(主にバルカン半島とか東欧の方)の定住しない人たちの総称です。本当は「ジプシー」で一括りにしてはいけないくらい民族も宗教も文化も多様です。いわゆるジプシー的な民族といいますか、ジプシーの中でも多数派にあたるのがロマ族で、最近はジプシーという言葉自体があまり好まれずロマと呼ぶ方が好ましいようです。
ナチスドイツはユダヤ人と同様にジプシーも迫害し、強制収容所に送っていました。そんな差別と迫害に苦しんだ重い歴史があることも忘れてはなりません。

サラサーテはハンガリー民謡などを組み合わせて「ツィゴイネルワイゼン」を作曲しました。
スペイン生まれの彼はジプシーではありませんが、ジプシーに対するシンパシーのようなものを感じていたのではないかと思ってます。
ツィゴイネルワイゼン作曲の背景について調べたわけでなく想像ですが…
サラサーテは演奏旅行で各国を転々としていたことから自分をジプシーに見立てていたかもしれません。また彼はスペインといってもバスク地方の産まれであり、バスクは現在に至るまでスペインからの独立を求める声が大きく、またバスク地方はピレネー山脈を挟んでフランス領とスペイン領にまたがっており、サラサーテが亡くなった地もバスクのフランス領内の地であったなど、祖国のないバスク人という出自も、どこか国境を超えて放浪するジプシーたちに共感していた部分もあったのでは?などと思うわけです。

 

 

ともかくサラサーテはジプシーたちの歌を元に「ツィゴイネルワイゼン」を作曲します。1878年のことです。これはバイオリンとオーケストラによる、協奏曲風の作品ですが、オケをピアノに置き換えたバリエーションも作りました。




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【ツィゴイネルワイゼンのレコード「サラサーテの盤」】

当時世界最高のバイオリニストと讃えられていたサラサーテは、サン=サーンスなど同時代の作曲家たちからバイオリン曲の献呈を受けてました。彼ほどの超絶技巧の持ち主なら…と作曲家たちも大いに刺激されたのです。
サラサーテの自作曲は当時超難度の曲とされていました。
そのサラサーテ自身による演奏の録音が残されています。1904年の録音です。バイオリンとピアノ版の演奏です。
その当時の録音技術なので音質は良くないのですが、このレコードにサラサーテ自身によるものと思われる声が一緒に吹き込まれているのです。

サラサーテ自演の録音

OGPイメージ

Sarasate plays Sarasate/Zigeunerweisn ツィゴイネルワイゼン(サラサーテ)自作自演 1904

サラサーテ60才の時の演奏を蓄音機で

youtube#video

 

https://youtu.be/gv1aBPP7NnY

たしかに、3:38くらいのところで何か喋っています。
録音技術の問題もあり何言ってるのかわからないらしく、サラサーテ自身の伝説性もあって、彼の謎の発言がミステリー心をくすぐり色々な憶測を呼んできました。

内田百閒の短編「サラサーテの盤」とはこのサラサーテの声が吹き込まれてしまったレコードのことを指しています。

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「さっき持っていったのと同じ様な黒の十吋で、サラサーテ自奏のチゴイネルバイゼンだと云うのだが、それは私にも覚えがある。吹込みの時の手違いか何かで演奏の中途に話し声が這入っている。それはサラサーテの声に違いないと思われるので、レコードとしては出来そこないかも知れないが、そう云う意味で却って貴重なものと云われる」

内田百閒「サラサーテの盤」より


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たしか西岸良平の漫画の何かのエピソードでもサラサーテの盤をネタにしていた記憶があります。「鎌倉ものがたり」だったかな?

 


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【映画での原作補完エピソード】

 
 

さて、色々前置きが長くなりましたが、やっと映画の話です。

ところで最初に映画も原作も難解とは書きましたが、どちらがより難しいかと言えばそれは間違いなく原作の方です。
原作は20ページにも満たない短編で、映画は終盤の30分くらいは概ね原作通りに進むのですが、その前の2時間くらいがほぼ原作にない創作部分です(百閒の他の小説から拝借したエピソードもあるのかもしれません)。
映画は原作に至るまでの長い前日譚を付け足すことでむしろ、難解すぎる原作を少しでもわかるようにしたと言っても良いでしょう。

原作は「私」の家に彼の友人で少し前に死んだ中砂(ナカサゴ)という男の妻君が訪ねてきては、亭主の本があるはずですがと「私」が借りっぱなしだった中砂の持ち物を取り立てに来るのが毎日のように続き、気味が悪くなってきたころ、亭主のレコードがあるはずですが、サラサーテの演奏するツィゴイネルワイゼンの…と借りた覚えのないレコードの返却を催促され…という話です。

中砂というのがずいぶんめちゃめちゃな男だったらしいことは原作で示唆されてはいるもののあまり明確には語られません。
映画はその中砂の生前の破天荒というか狂気すら感じる生き方を主筋に添えて彼が旅先で異様な死を遂げるまでをたっぷりと描きます。

また、原作ではなんのことやら?な部分を、映画では様々なエピソードを付加してその背景をきちんと描きます。
例えば原作でどうしても釈然としない部分に、中砂の妻がレコードを返してという時に「奥様なら知ってるはず」と言うのですが、原作では「私」の妻が中砂の持ち物について何か知ってることを示唆する描写はなく、説明もなく、なんでそんなことを言ったのかわからないままでした。

映画では、妄想か幻想か現実かわからない異様な描写で中砂と青地(原作における「私」)の妻の男女の関係が描かれた上に、青地の妻もサラサーテのツィゴイネルワイゼンに執着があった設定が付加され、以下の台詞(原作にはない台詞)を中砂に言う場面があります。

 

「こないだね、ハイフェッツを聴きに渋谷の公会堂に参りましたの。ツィゴイネルワイゼンを弾くというので、それは楽しみにして参りましたのよ。そしたら、がっかりしてしまいましたわ。ハイフェッツはね、ツィゴイネルワイゼンを弾かなかったんですの。やっぱりサラサーテだけですわね。あの曲を弾けるのは」
 


そして青地が借りた覚えの無かったサラサーテの盤は、青地の妻がこっそりくすねていたことが描かれます。
原作の謎台詞にきちんと意味を与え、かつ作品全体を複雑怪奇に、獰猛に、狂気の沙汰へと運ぶエピソードを付け足しているのです。

ただし映画『ツィゴイネルワイゼン』はそうした原作の解説的な内容だけではありません。タイトルを「サラサーテの盤」から「ツィゴイネルワイゼン」に変えたことに、深い意味があるようにおもいます。


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【楽曲「ツィゴイネルワイゼン」からインスパイアされた映画の物語】


映画はオープニングのタイトルとスタッフキャストのクレジットでいきなり、1904年録音のそのサラサーテの盤が流れます。
終わりの方でサラサーテらしき声が聞こえ、本作の主人公青地(藤田敏八)と中砂(原田芳雄)の会話が始まります。
「君、今何か言ったかな?」
「いや」
「変だな。君には聞こえなかったか?どっかで人の声がしたんだが」
「サラサーテが喋ったんだよ」
…と。

ちなみに主人公、つまり原作における「私」は、映画では「青地」という名前になっていますが、途中のシーンで警察に士官学校のドイツ語教師であると自己紹介していることから、青地は内田百閒であると考えて良いでしょう。百閒もまた士官学校のドイツ語教師だったのです。
青地=百閒を演じているのは藤田敏八さんで俳優で映画監督でもありますが、インテリ風男前で色気を感じさせる風貌です。黒澤明の「まあだだよ」の松村達雄さんが演じた好々爺然とした百閒とはだいぶ違いますね。

ただ映画では藤田さんがどんなにかっこよくても、全ての印象をかっさらうのは破天荒にも程がある怪人物中砂を演じた原田芳雄さんです。

中砂の持っているサラサーテ自奏のツィゴイネルワイゼンのレコードが、本作でも重要な小道具となるだけでなく、映画全体がサラサーテ作曲の「ツィゴイネルワイゼン」からインスパイアされたものではないかと思えます。

例えば映画の中盤にこんなナレーションが入ります。

「中砂はそれからまた旅に出た。旅というよりもジプシーのように諸国をさすらうのである。家には細君が一人残された。」

ろくに家にも帰らず、女と見れば欲望向きだしにものにしようとする中砂。別にジプシーを野蛮な人たちと言いたいわけではありませんが、何者にも縛られず自由に生きる中砂の姿にジプシー的ロマンを重ねている様に思います。
青地が中砂にこう言います。

「君はいいな。自由で。身勝手で」

だからタイトルを「サラサーテの盤」から「ツィゴイネルワイゼン」に変え、束縛のない自由への憧れ、しかし規律を求める現代社会(まして映画の時代設定における軍国主義日本ならなおさらのこと)から見ると迷惑な存在のメタファーとして、「ジプシーの旋律」を持ち出したのではないでしょうか?

映画には中砂だけでなく、世間の価値観から外れた様々な人が登場します。
旅周り芸人のトリオが登場します。老人と、その若すぎる妻と、その愛人です。女がどちらの男のものになるか、その日その日で変わる様な自由さをもってます。
青地の妻(大楠道代)もまた相当青地のコントロールの効かない暴走衝動があり、中砂の妻(大谷直子)もどこか狂気に沈んでいく様が見方によっては普通の価値観の否定に思えます。

つまり、「ジプシーの旋律」を映画にするために、「規律」や「権威」や「普通の価値観」に縛られない自由な者たちを描いたと思うのです。
本作におけるクラシック音楽の使い方は、単に雰囲気にあってるから使った的なものではありません。映画のためにクラシック音楽を使ったのではなく、クラシック音楽のために映画を作ったのです。


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【映画における「ツィゴイネルワイゼン」の使用場面】

さて、映画における楽曲「ツィゴイネルワイゼン」の直接的具体的な使い方を見てみます。
劇中で3回使われます。
1回目はすでに述べたオープニングタイトルバック曲としての使い方
2回目は、中砂がジプシーのような放浪の旅に出た後、中砂の妻と偶然出会った青地が、中砂の家に招かれ彼女に狂気の淵へ連れて行かれるシーン。
お化け屋敷のような中砂の家を青地が夢遊病者のようにうろつく場面でツィゴイネルワイゼンがかかります。
3回目は終盤、中砂のレコードが見つかり、青地が中砂の後妻に届けに行った場面。(原作と同様の使い方となりますが)サラサーテの声がまるで中砂の声であるかのように中砂の妻が慌てふためいてわけわかんないことを言い出します。
そして夜な夜な中砂と話をしているみたいという中砂の娘が現れて、青地の価値観を根こそぎひっくり返す発言をします。

テーマ曲的扱いの1回目を除くと、他の2回は共通して正気と狂気の境目、あるいは現実と幻想の境目のような場面で使われます。ツィゴイネルワイゼンが異世界への扉を開く呪文のように使われているように受け取れます。
しかし、正気と狂気とは申しましたが、果たして狂っているのはどっちなのか?
中砂の妻に誘われて狂気の世界に堕ちていく青地、いやむしろ狂っているのは青地で彼が常識と思っている世界の方こそ本当は夢の中なのかもしれない。
生と死の間を、魂がどっちつかずにふわふわしている様を、非定住民のジプシーの旋律で表現しているのではないかと思うのです。

ああ、ここに書いたのは全て私の解釈であって、鈴木清順監督は全く違う意図で撮ってるのかもしれません。また、観た人それぞれで全く異なる解釈が生まれる映画でもあると思います。
それでも伝説のバイオリニストが残したミステリアスな録音から生まれた幻想物語をぜひご鑑賞いただきたく思います。


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【蛇足】
長くなりついでに、もっと言えばこの映画自体が伝統的日本映画の文脈から外れまくった異端児たちによる映画で、常識的な映画作りを意図的に無視しています。映画の常識という束縛からの開放を感じる自由すぎる映画です。
同じ場所にいる設定なのに全く別の場所で撮影して編集する謎のカット割。
逆に別々の場所で電話で話している二人を、同じスタジオで撮りカメラのパンで切り返すなど、不思議すぎる演出の数々が、この幻想譚をさらに盛り上げます。


1980年の作品ですが、同じ年に黒澤明という正統派超巨匠の『影武者』がカンヌ映画祭でパルムドールを受賞し国内でも大ヒットしています。偶然とはいえ正統派代表の『影武者』の年にこんな異端の極みみたいな映画(にして傑作)が公開される偶然も面白いです。ちなみにキネマ旬報誌の1980年度ベストテンで『ツィゴイネルワイゼン』が1位、『影武者』が2位でした。


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【ツィゴイネルワイゼンのCD紹介】

「ツィゴイネルワイゼン」ですが、サラサーテの声入り録音は完全にパブリックドメイン音源ですので、本記事に付けたリンクをはじめ色々なところで聞くことができます。

かつてサラサーテ以外には演奏不可能と言われた「ツィゴイネルワイゼン」も今やいろんな方々が演奏し、珍しくもなくなったのでそれを弾いたり聞いたりで狂気に堕ちる心配は無用です。
私は大好きな諏訪内晶子さんのツィゴイネルワイゼンを愛聴しています。
もっともバイオリンの腕の違いなど良くわからない私です。実は昔バイオリンを習ったことがあったのですが、きらきら星くらいでやめてしまい、私にとってきらきら星以上はすべて難曲です。
サラサーテと比べてどうのなどと言えるはずもなく、だいたい諏訪内さんが好きってのも「美人だから」くらいのチャラい理由だったりします。

とは言え、タワレコのクラシックコーナーをうろついてたまたま手にしたこれを買ったのは、ジャケの諏訪内さんの美しさにドキッとしたのに加えて、ほぉあの鈴木清順のあの映画のツィゴイネルワイゼンか…と思ったのもありました。で、まあ、その演奏に魅了されて、以来諏訪内さんのアルバムをやたらと買うようになったのです。鈴木清順監督に感謝です。
なお、諏訪内晶子さんは演奏中に喋ったりはしてないです。はい。



 

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「そうですわね。私は狐かもしれません。狐の穴に落ち込んでしまったのだから、もう後戻りはできませんわねえ」
映画『ツィゴイネルワイゼン』より

それではまた、映画とクラシック音楽でお会いしましょう!



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