毛筆を練習し始めて間もない時に、
「顯」の字の四点を5つ打っている手本に遇った。
こりゃ先生勢い余ったか、と思ったが、
その後、古典「雁塔三蔵序」の中で5点のものを見付けた。
ということについて、ふた月ほど前に書いた。
http://blog.goo.ne.jp/su-san43/e/c705e9f81f2275b418532f81675039d5
漢字の歴史を逆行しながら、書を練習して行ってみると、
現代に向かってどんどん書きやすく、記号化していっていることがわかる。
はじめは絵のようだったものを点と線に集約していく中で、
いくつかの違う絵が同じ単純な形(口、ム、又、ル、などなど)に
変化しているのが、見て取れる。
すると、口であることにとても意味がある口と、
何かを簡単に書いたら口になっちゃった結果の意味的には口ではない口と、
あることが分かる。
意味のある形と、何かだったなれの果ての形とが、今の漢字には混在しているのだ。
子どもの頃、とかく一点一画にこだわって、ちょっとでも間違うと減点されたりしたものだ。
たとえば、専門の専の字の右肩に間違って点を打ってしまったり。
逆に、博の点を忘れたり。
こういう、似たような形のくせにちょっとだけ違う字をおぼえるのが
わずらわしく、それを見逃さない国語の先生が憎憎しかったものだ。
しかし、歴史的に見てみると、異体字と言って、ちょっと違った形の漢字なんて
いっくらでもある。
ましてや、楷書という形が成立するまでには、さまざまな形を経ている。
点や画の数なんて、そーんなにこだわることも無さそうだと思える。
そもそも、今の日本の漢字は、「本字」と呼ばれるものから
ずいぶんあちこちを省略して書いているものだ。
本家の中国でも、簡体字という省略のはげしい漢字を使っている。
元の漢字を知っていても簡体字は読めないということが起きるくらいの省略ぶりだ。
けれど、それが正式な漢字なのだ。
何が「正しい」のかは、その時代、十年単位というほんの短いその時代の決め事でしかない。
小中学生や漢字検定に熱心な人には聞かせられないが、
細かい点画はどうでもいいんじゃないかね?
正確に伝わらなくなるような違いはきちんと書かないといけないが。
「犬きな太の大いしっぽ」は困るもんね。
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