本を読みたい。
インターネットから手に入れる情報より、
でどころがはっきりしている。
著者の名前が分かる、という意味だ。
自分の立場や意見を、書籍としてまとめている分、
一貫した捉え方で知識を得ることができる。
違った立場の考えは、また別の著者の本を読まねばならない。
※
本を読むのがそんなに速くない。
と、自分では思っている。
速い遅いは人によって基準が違うだろう。
私より遅い人から見れば、私も読むのが速い部類で、
うらやましいと思われるかもしれない。
なんにつけそうだろうと思うけれど、
自己評価が低いというのは、自分のありたい姿に合っていないという意味だろう。
もっとこうありたい、と思っているのにそうでもないとき、
自分にちょっとがっかりして「私は〇〇だ」と言う。
私の「読むのが遅い」は、「もっと速く読んでたくさん読みたい」という
気持ちを表している。
だから、「読むのが遅い」なんて言わず、
「もっと速くたくさん読みたい」と言えばいいのだ。
そこそこ読めるくせに「遅い」なんて言うのはどあつかましいというもんだ。
※
おっと
これは主題ではない。
※
本はじっくりと、ある意見について読むもの。
反対の意見やその他の立場も知っておきたい場合は、
インターネットを使う。
あらゆる立場から書かれた本を読んでいたら、時間が足りないからだ。
だから、本を読む時は、読みたい本かどうかをよく吟味してから読むようにしている。
「まえがき」と「あとがき」と「目次」を読む。
著者がどんな思いで本を書いたのか、
何を一番伝えたいのか、
どういう手順で議論を展開しているのか、
これで大まかに受け取ることができる。
それよりも何よりも、著者と私の「気が合う」か、分かる。
大体、「まえがき」を2,3行読めば分かる。
こいつぁいい、と感じる。
本全体を読んでみると、「まえがき」で得た感覚はまず間違い無い。
※
しくじった。
大鐘稔彦著『安楽死か、尊厳死か あなたならどうしますか?』を
4分の1くらい読んだ。
「はじめに」を読んで、モヤッとした。
―私も孫が二人いますが、”おじいちゃんは禁句だぞ”と娘達に言い含めております。
呼ばせるなら「グランパー」だと。
なにがなにが?
―私が若くいられるのは、
若いのってそんなにいいことなのか。
いつもの手順をちょっと端折ってしまった。
何か調子が狂ったのだ。
「目次」に興味を引かれた。
第二章 死に至る病
第三章 自殺を巡る考察
第五章 覚悟を秘めた自殺 ソクラテスの場合 伊丹十三の場合 三島由紀夫の場合
第六章 許される自死はあるか? レイプされた女性の自死
第九章 積極的安楽死は殺人罪?
第十章 諸外国に見る安楽死
第十一章 回復の望めない病と安楽死
第十二章 飽くなき生への希求
興味の惹かれるページを選んで、読んだ。
第五章の冒頭、「おまけの人生は要らない(?)」の項では、
須原一秀著『自死という生き方』について述べられている。
私も数年前に読んだ。
―”哲学”など常人にはわからない難しいことを四六時中考えている人は
物事を突き詰め過ぎて頭がおかしくなったんだろうと、一般の人はまあその程度にしか
考えなかったかもしれません。私も多少そんなふうに思ったきらいが無きにしもあらずですが、
先の本を一読、下種の勘繰りだったと恥じ入った次第です。
私は、「一般の人」という言い回しが嫌いである。
自分は一般とは違う能力を持っているという傲慢が見え隠れするからだ。
見えるから嫌いなんじゃない。
隠そうとする表現をしているから、そんな言い回しを使う人が嫌いなんである。
※
カバーの折り返しに、一文が印刷してあるのが目に入った。
―たとえ人間としてのまともな機能は失われても、
生きていてほしいと願う人がいる限り、
その人の存在価値はあります―――著者あとがきより
なんてなんて??
人間としてのまともな機能???
ううーーん。
身体機能なり認知機能なり精神機能なり、
何かが欠けていたり病的な状態であることを
「人間としてのまともな機能が失われている」と表現することに
私は違和感を持つ。
五体満足で認知も正常で精神病も抱えていない自分は
まともである、という傲慢が見え隠れするからだ。
見えるから以下同文
いや待て。
一部分を切り抜いた言葉だけで判断するのはいけない。
編集で言葉は変貌させられることが有る。
いつものように「あとがき」を読もうじゃないか。
―私見を弄することをお許しいただけるならば、
創造的な生活ができなくなったら人間は終わりだと思っています。
おおお?
―しかし、存在価値までなくなったかと言うと、そうとも言えません。
彼なり彼女なりが生きているだけで、それを励みとしている人がいるならば、
その存在価値は充分にあると言えます。
そして、脳梗塞で意識不明になった妻を介護する夫の例をあげる。
その後に件の一文が続く。
―繰り返しになりますが、たとえ人間としてのまともな機能は(略)
言いたいことは分かるが、
言い回しも使う言葉も気持ちが悪い。
※
「まえがき」を読むと分かるのだが、
この本は講演をまとめたものだということだ。
「あとがき」の一部分も、書下ろしではなく、講演の中で語ったエピソードなのだろうか。
話し言葉なら良い、というわけではないが、
その場で伝わるニュアンスというものが助けになり得る。
そういう部分で私は引っ掛かっているのではないか。
※
本文に戻ってみた。
第六章の中、「レイプされた女性の自死」という部分。
―人間は言うまでもなく男と女から成り、
性愛に結ばれた両性が相和して家庭を築き、
子を成して生涯睦まじく暮すのが理想ですが、
なかなかそうはスムースにいかないのが人間の悲しい性です。
・・・
「言うまでもなく男と女」の部分で
私はもうこの先を読む気が失せてしまった。
(それでももう少し読んだんだけどさ)
こんなに価値観の合わないグランパーの話を聞くのに
私の限り有る時間を割く必要がどこに有るのか。
※
私は女性として生まれたが、子どもの頃から性別違和が有り、
かと言って男性へトランスしたくはない、
且つ恋愛対象は女性。
悲しい性ですかね。
家庭も築かず、子も成さず、生涯睦まじく暮す法的背景も持たない。
悲しいサガじゃなく悲しいセイって読ませたいんですかね。
※
久々に、じっくりと不快な読書であった。
ほんの数十分のできごと。
インターネットから手に入れる情報より、
でどころがはっきりしている。
著者の名前が分かる、という意味だ。
自分の立場や意見を、書籍としてまとめている分、
一貫した捉え方で知識を得ることができる。
違った立場の考えは、また別の著者の本を読まねばならない。
※
本を読むのがそんなに速くない。
と、自分では思っている。
速い遅いは人によって基準が違うだろう。
私より遅い人から見れば、私も読むのが速い部類で、
うらやましいと思われるかもしれない。
なんにつけそうだろうと思うけれど、
自己評価が低いというのは、自分のありたい姿に合っていないという意味だろう。
もっとこうありたい、と思っているのにそうでもないとき、
自分にちょっとがっかりして「私は〇〇だ」と言う。
私の「読むのが遅い」は、「もっと速く読んでたくさん読みたい」という
気持ちを表している。
だから、「読むのが遅い」なんて言わず、
「もっと速くたくさん読みたい」と言えばいいのだ。
そこそこ読めるくせに「遅い」なんて言うのはどあつかましいというもんだ。
※
おっと
これは主題ではない。
※
本はじっくりと、ある意見について読むもの。
反対の意見やその他の立場も知っておきたい場合は、
インターネットを使う。
あらゆる立場から書かれた本を読んでいたら、時間が足りないからだ。
だから、本を読む時は、読みたい本かどうかをよく吟味してから読むようにしている。
「まえがき」と「あとがき」と「目次」を読む。
著者がどんな思いで本を書いたのか、
何を一番伝えたいのか、
どういう手順で議論を展開しているのか、
これで大まかに受け取ることができる。
それよりも何よりも、著者と私の「気が合う」か、分かる。
大体、「まえがき」を2,3行読めば分かる。
こいつぁいい、と感じる。
本全体を読んでみると、「まえがき」で得た感覚はまず間違い無い。
※
しくじった。
大鐘稔彦著『安楽死か、尊厳死か あなたならどうしますか?』を
4分の1くらい読んだ。
「はじめに」を読んで、モヤッとした。
―私も孫が二人いますが、”おじいちゃんは禁句だぞ”と娘達に言い含めております。
呼ばせるなら「グランパー」だと。
なにがなにが?
―私が若くいられるのは、
若いのってそんなにいいことなのか。
いつもの手順をちょっと端折ってしまった。
何か調子が狂ったのだ。
「目次」に興味を引かれた。
第二章 死に至る病
第三章 自殺を巡る考察
第五章 覚悟を秘めた自殺 ソクラテスの場合 伊丹十三の場合 三島由紀夫の場合
第六章 許される自死はあるか? レイプされた女性の自死
第九章 積極的安楽死は殺人罪?
第十章 諸外国に見る安楽死
第十一章 回復の望めない病と安楽死
第十二章 飽くなき生への希求
興味の惹かれるページを選んで、読んだ。
第五章の冒頭、「おまけの人生は要らない(?)」の項では、
須原一秀著『自死という生き方』について述べられている。
私も数年前に読んだ。
―”哲学”など常人にはわからない難しいことを四六時中考えている人は
物事を突き詰め過ぎて頭がおかしくなったんだろうと、一般の人はまあその程度にしか
考えなかったかもしれません。私も多少そんなふうに思ったきらいが無きにしもあらずですが、
先の本を一読、下種の勘繰りだったと恥じ入った次第です。
私は、「一般の人」という言い回しが嫌いである。
自分は一般とは違う能力を持っているという傲慢が見え隠れするからだ。
見えるから嫌いなんじゃない。
隠そうとする表現をしているから、そんな言い回しを使う人が嫌いなんである。
※
カバーの折り返しに、一文が印刷してあるのが目に入った。
―たとえ人間としてのまともな機能は失われても、
生きていてほしいと願う人がいる限り、
その人の存在価値はあります―――著者あとがきより
なんてなんて??
人間としてのまともな機能???
ううーーん。
身体機能なり認知機能なり精神機能なり、
何かが欠けていたり病的な状態であることを
「人間としてのまともな機能が失われている」と表現することに
私は違和感を持つ。
五体満足で認知も正常で精神病も抱えていない自分は
まともである、という傲慢が見え隠れするからだ。
見えるから以下同文
いや待て。
一部分を切り抜いた言葉だけで判断するのはいけない。
編集で言葉は変貌させられることが有る。
いつものように「あとがき」を読もうじゃないか。
―私見を弄することをお許しいただけるならば、
創造的な生活ができなくなったら人間は終わりだと思っています。
おおお?
―しかし、存在価値までなくなったかと言うと、そうとも言えません。
彼なり彼女なりが生きているだけで、それを励みとしている人がいるならば、
その存在価値は充分にあると言えます。
そして、脳梗塞で意識不明になった妻を介護する夫の例をあげる。
その後に件の一文が続く。
―繰り返しになりますが、たとえ人間としてのまともな機能は(略)
言いたいことは分かるが、
言い回しも使う言葉も気持ちが悪い。
※
「まえがき」を読むと分かるのだが、
この本は講演をまとめたものだということだ。
「あとがき」の一部分も、書下ろしではなく、講演の中で語ったエピソードなのだろうか。
話し言葉なら良い、というわけではないが、
その場で伝わるニュアンスというものが助けになり得る。
そういう部分で私は引っ掛かっているのではないか。
※
本文に戻ってみた。
第六章の中、「レイプされた女性の自死」という部分。
―人間は言うまでもなく男と女から成り、
性愛に結ばれた両性が相和して家庭を築き、
子を成して生涯睦まじく暮すのが理想ですが、
なかなかそうはスムースにいかないのが人間の悲しい性です。
・・・
「言うまでもなく男と女」の部分で
私はもうこの先を読む気が失せてしまった。
(それでももう少し読んだんだけどさ)
こんなに価値観の合わないグランパーの話を聞くのに
私の限り有る時間を割く必要がどこに有るのか。
※
私は女性として生まれたが、子どもの頃から性別違和が有り、
かと言って男性へトランスしたくはない、
且つ恋愛対象は女性。
悲しい性ですかね。
家庭も築かず、子も成さず、生涯睦まじく暮す法的背景も持たない。
悲しいサガじゃなく悲しいセイって読ませたいんですかね。
※
久々に、じっくりと不快な読書であった。
ほんの数十分のできごと。
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