うまくいきそうだ、と思った矢先に副鼻腔炎に陥った。
とにかくボーッとして頭が働かない。
うまくいきそうな私を誰かが阻もうとしている。
頭が働かないようにさせようとしている。
何か志の低いヤツが、邪魔を仕掛けてきている。
こういう時は、人の手を借りることも大事だろう。
自分よりちょっと高い位置から、引っ張り上げてもらうのだ。
そうは分かっていても、鈍重な脳みそと、その支配下の体が動かない。
悪循環に陥る。
思う壺にはまる。
回らぬ頭で悩んだ末に、センセイに会える機会を休むことにする。
※
今年も、東大仏教青年会で斎藤明先生の講座が開かれる。
いくつかの仏典からちょびっとずつ、サンスクリット原典を読む。
90分5回で読める量なんて知れているけれど、
それすら独力では難しいのだから、とても良い機会だ。
維摩経、法華経、中論、唯識三十頌。
休んだその日に、どの仏典のどの部分を読むか、
資料がクラウドにアップロードされた。
待ってました。
さっそく予習しよう。
初回は維摩経だ。
仏典は、インドに発して、中国を経て日本に来た。
『西遊記』の三蔵法師の活躍だとか、
鑑真だとか、日本の遣隋使だとかの働きが有る。
もう一方で、インドからチベットに入り、
チベットの国家事業として翻訳された沢山の経が有る。
維摩経は、漢訳とチベット訳しか遺っていなかったが、
大正大学の調査により、1999年にチベットでサンスクリット原典が発見された。
グッジョブだねえ偉業だねえ。
仏典を求めて、開国前のチベットに潜入した大探検坊主、
河口慧海(1866‐1945)のスピリットを大正大学は確実に受け継いでいる。
主人公は資産家で論客のヴィマラキールティ。
病気のヴィマラキールティのところへ、マンジュシュリーが
(いやいや)見舞いに行く。
※
なんだかとにかくうまくいきそう。
そういう感覚を持つことができた矢先に、
副鼻腔炎になって、ちっとも頭が回らないしやる気も出ようもない。
なんでこんなことになるのだろう。
そう考えていたところに、
維摩経のこの箇所を読むことになった。
マンジュシュリーはヴィマラキールティに、
「どうして病気になっちゃったんすか」とたずねる。
ヴィマラキールティの答えは、
「食べ過ぎちゃった」とか「無理が祟った」とか
「季節の変わり目で」とかそんなんじゃない。
「衆生が無知で、存在にこだわっていることで病気になっていて、
そのことで菩薩が病気になる。
菩薩が病気になるのは、大いなる憐みからきている。」
と言う。
ただの病気見舞いじゃないのである。
※
90分でサンスクリットから読むのは、たったこれだけの部分である。
長い経典の、ほんの入り口部分だけれど、ここに全てが集約されているとも言えるような
そんな部分である。
部分であり全体である。
※
仏典をサンスクリットで読んだりということをかじっているけれど、
仏教のナカミについてはまるで疎い。
何度聞いても、ボサツって何?というところから一歩も出ない感じがしている。
病んじゃうんだから、菩薩はさほどデカいものではなさそうだ。
もっと大きいもの、一切を含むものは、病まない。
病まないというより、病むも病まないも含んでいるから、
病むに寄っていない。
どうにも限定的な自分という個体を、
そういう、どちらにも寄らないモノに、
近付けるというか練り込むというか一体化というか、
一体であることを知る、含まれていることを知る、
知るというか、感じ取る、感得する、ということが、私は言いたい。
とにかくボーッとして頭が働かない。
うまくいきそうな私を誰かが阻もうとしている。
頭が働かないようにさせようとしている。
何か志の低いヤツが、邪魔を仕掛けてきている。
こういう時は、人の手を借りることも大事だろう。
自分よりちょっと高い位置から、引っ張り上げてもらうのだ。
そうは分かっていても、鈍重な脳みそと、その支配下の体が動かない。
悪循環に陥る。
思う壺にはまる。
回らぬ頭で悩んだ末に、センセイに会える機会を休むことにする。
※
今年も、東大仏教青年会で斎藤明先生の講座が開かれる。
いくつかの仏典からちょびっとずつ、サンスクリット原典を読む。
90分5回で読める量なんて知れているけれど、
それすら独力では難しいのだから、とても良い機会だ。
維摩経、法華経、中論、唯識三十頌。
休んだその日に、どの仏典のどの部分を読むか、
資料がクラウドにアップロードされた。
待ってました。
さっそく予習しよう。
初回は維摩経だ。
仏典は、インドに発して、中国を経て日本に来た。
『西遊記』の三蔵法師の活躍だとか、
鑑真だとか、日本の遣隋使だとかの働きが有る。
もう一方で、インドからチベットに入り、
チベットの国家事業として翻訳された沢山の経が有る。
維摩経は、漢訳とチベット訳しか遺っていなかったが、
大正大学の調査により、1999年にチベットでサンスクリット原典が発見された。
グッジョブだねえ偉業だねえ。
仏典を求めて、開国前のチベットに潜入した大探検坊主、
河口慧海(1866‐1945)のスピリットを大正大学は確実に受け継いでいる。
主人公は資産家で論客のヴィマラキールティ。
病気のヴィマラキールティのところへ、マンジュシュリーが
(いやいや)見舞いに行く。
※
なんだかとにかくうまくいきそう。
そういう感覚を持つことができた矢先に、
副鼻腔炎になって、ちっとも頭が回らないしやる気も出ようもない。
なんでこんなことになるのだろう。
そう考えていたところに、
維摩経のこの箇所を読むことになった。
マンジュシュリーはヴィマラキールティに、
「どうして病気になっちゃったんすか」とたずねる。
ヴィマラキールティの答えは、
「食べ過ぎちゃった」とか「無理が祟った」とか
「季節の変わり目で」とかそんなんじゃない。
「衆生が無知で、存在にこだわっていることで病気になっていて、
そのことで菩薩が病気になる。
菩薩が病気になるのは、大いなる憐みからきている。」
と言う。
ただの病気見舞いじゃないのである。
※
90分でサンスクリットから読むのは、たったこれだけの部分である。
長い経典の、ほんの入り口部分だけれど、ここに全てが集約されているとも言えるような
そんな部分である。
部分であり全体である。
※
仏典をサンスクリットで読んだりということをかじっているけれど、
仏教のナカミについてはまるで疎い。
何度聞いても、ボサツって何?というところから一歩も出ない感じがしている。
病んじゃうんだから、菩薩はさほどデカいものではなさそうだ。
もっと大きいもの、一切を含むものは、病まない。
病まないというより、病むも病まないも含んでいるから、
病むに寄っていない。
どうにも限定的な自分という個体を、
そういう、どちらにも寄らないモノに、
近付けるというか練り込むというか一体化というか、
一体であることを知る、含まれていることを知る、
知るというか、感じ取る、感得する、ということが、私は言いたい。
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