[あらすじ] 同居母86歳パーキンソン病要介護2認知症状少々が、
先日、発熱した。
自分で歩けなさそうな状況だが、かかりつけ医を受診しよう。
近所の友人Kちゃんに電話して、すぐに車椅子を貸してもらった。
一週間毎日の点滴も終了した。
熱が再発する様子も無いし、今後は訪問診療に切り替える。
しばらく、車椅子が必要な局面も無さそうだ。
返そう。
車椅子はこの一週間、浴室の前に置いてあった。
ヘルパーさんたちにも不便をかけた。
Kちゃんの家では屋外に置いていたが、
借り物を外に置く気にもなれず、室内に置いていたのだ。
※
待てよ、こんな機会はあまり無いんじゃないか。
車に積んで持って行くほど遠くない。だから
押して行って返すつもりだった。
が、ここは乗って行くチャンスじゃないか。
Kちゃんの家まではおよそ350メートル。
初体験にはちょうどいいのではないか。
あまり寒くないし。
怪我も無いのに車椅子に乗ることに、何か引け目も感じるが、
それよりも興味が勝ち、また、経験することが必要に思えた。
※
とりあえず、家の前の砂利道は押して出て、舗装路から始めた。
私は、車椅子を押したことは幾度も有るが、自分が乗るのは実は初めてだ。
借りた車椅子は、車輪の外側に自分で操作するためのハンドリムが着いているタイプの物だ。
私は、足は足置きの板の上に乗せ、腕で漕いで行くことにした。
腕で漕いでみると、舗装路とは言えけっこう力が要る。
数年前から何度か、母が「車椅子に乗る練習をしたい。」と言うことが有った。
その度に、「車椅子は自力で歩けない人が使うためのものですよ、
須山さんはまだ歩けるから、歩く練習をすることがずっと重要です。」と、
周囲の関係者みんなが説得したものだ。
自分で操作してみて、よく分かる。
これは、とても母の手でできることではない。
パーキンソン病は歩けなくなるというだけの病気ではない。
全身の運動の調整が取りにくくなるのだ。
その腕で、判断力で、車椅子を操作しようというのは、適切ではない。
それに、自転車にも乗れない母が、
車椅子に乗って移動するというこの感覚になじむことは
かなり難しいだろうと思われる。
まあ、この頃はもう車椅子とは言い出さないので安心なのだが。
※
母がまだ外出していた頃、片手で転がすショッピングカートを使っていた。
後ろに引くものではなく、わきに自立する型の物だ。
それを支えに歩いていた。
その頃よく、道路の端を歩くと、路面が斜めなので端っこに引っ張られて行って怖い、
と言っていた。
道路の端は、水はけのために斜めになっている。
そこにはまって行くわけだ。
これは車椅子でも同じだ。
車椅子が傾いて、しっかりとハンドリムを操作しないと、
低い所へと転がってしまう。
そして、道路の凹みにはまる。
健常であればなんでもないような凹凸が、たいへんな難関となる。
※
遅くまで部活だった中学生が、自転車を飛ばして追い抜いて行く。
ちょっと怖い。
後方から車の音が聞こえる。
ライトが近付いて来る。
道路の端へ避けようと思うが、はまるのもイヤだ。
もたもたしているうちに車は接近して来る。
車はとても減速してくれた。
抜かれる時に見てみたら、運転席の人はこちらを見て一礼して行ってくれた。
あらどうもご丁寧に。ニセモンですんません。
今度は向こうから車が来る。
早めに避けよう。と
もたもたやっていると、車はウインカーも出さずに角を曲がって消えて行った。
合図出そうよ。
また後ろから車が来る。
今度の車はそこそこの減速で追い抜いて行った。
ついつい、運転席の人物や車種を見てしまう。
そんなだから「〇〇は運転が下手」とかいうレッテルを貼られるんだ、と
胸の内で煮える。
住宅街の中の十字路だが、車や人の行き来も有る所だ。
中学生男子の群れが来る。
停止して待つ。
同時に、近所のおじさんが歩いて私の前を横切る。
おじさん、何を思ったか、すぐに引き返して来てまた私の前を横切った。
止まって待っていると、一礼して、
「すみませーん。お気を付けて。」
と言ってくれた。
こ、こちらこそすみません、ニセモンで。
※
たかだか350メートルだが、12分かかった。
「手で漕いで来たの?
足で蹴ったらいいのに。」
とKちゃんに言われた。
確かに。それも有ったな。
足が使えない、という想定でやってみたことなのだが、
腕で漕ぐにしても、体勢を整えるにしても、
脚を踏ん張ろうとする力が入るのを感じた。
これも、脚を踏ん張ることもできない、という想定で、
足置きの上に足を投げ出すような感じでやってみた。
そうすると、かなり上半身の力が必要だ。
※
帰りにスーパーに寄った。
すると、車椅子で買い物をしているお客さんがいた。
このスーパーで初めて見る。
膝の上に買い物かごをうまく乗せて左手で支え、左足と右手で車椅子を操作している。
細かい動きもスムーズにできるので、
車椅子がスペースを取っているように感じさせない。
自分の一部になっているのだろう。
※
やらなくても想像できることは想像できるが、
やってみないと感覚は分からないとも言える。
やってみないと分からないような感覚をこそ、
やらなくても想像するような気持ちが必要、というようなところが
落としどころかな、と思う。
「経験しなきゃ分からない。」
という言い方に私は基本的には反対だ。
そんなこと言ったら、一人の人の限界はあまりにも小さい。
また、
「想像しても分かりっこない。」
と言ってしまうと、思いやりというものを否定してしまうような気がする。
分かりっこない他人の経験を想像することには痛みが有る。
どうしたって分からないという限界を知る痛みが有る。
私がたったの350メートル車椅子に乗ったって、
今後毎日車椅子で生活していく人の痛みは分かるわけがない。
そこに痛みは有る。
痛み分けってところ。
いろんな人がいるから世の中成り立ってんだから、
そんなところでいいだろう。
先日、発熱した。
自分で歩けなさそうな状況だが、かかりつけ医を受診しよう。
近所の友人Kちゃんに電話して、すぐに車椅子を貸してもらった。
一週間毎日の点滴も終了した。
熱が再発する様子も無いし、今後は訪問診療に切り替える。
しばらく、車椅子が必要な局面も無さそうだ。
返そう。
車椅子はこの一週間、浴室の前に置いてあった。
ヘルパーさんたちにも不便をかけた。
Kちゃんの家では屋外に置いていたが、
借り物を外に置く気にもなれず、室内に置いていたのだ。
※
待てよ、こんな機会はあまり無いんじゃないか。
車に積んで持って行くほど遠くない。だから
押して行って返すつもりだった。
が、ここは乗って行くチャンスじゃないか。
Kちゃんの家まではおよそ350メートル。
初体験にはちょうどいいのではないか。
あまり寒くないし。
怪我も無いのに車椅子に乗ることに、何か引け目も感じるが、
それよりも興味が勝ち、また、経験することが必要に思えた。
※
とりあえず、家の前の砂利道は押して出て、舗装路から始めた。
私は、車椅子を押したことは幾度も有るが、自分が乗るのは実は初めてだ。
借りた車椅子は、車輪の外側に自分で操作するためのハンドリムが着いているタイプの物だ。
私は、足は足置きの板の上に乗せ、腕で漕いで行くことにした。
腕で漕いでみると、舗装路とは言えけっこう力が要る。
数年前から何度か、母が「車椅子に乗る練習をしたい。」と言うことが有った。
その度に、「車椅子は自力で歩けない人が使うためのものですよ、
須山さんはまだ歩けるから、歩く練習をすることがずっと重要です。」と、
周囲の関係者みんなが説得したものだ。
自分で操作してみて、よく分かる。
これは、とても母の手でできることではない。
パーキンソン病は歩けなくなるというだけの病気ではない。
全身の運動の調整が取りにくくなるのだ。
その腕で、判断力で、車椅子を操作しようというのは、適切ではない。
それに、自転車にも乗れない母が、
車椅子に乗って移動するというこの感覚になじむことは
かなり難しいだろうと思われる。
まあ、この頃はもう車椅子とは言い出さないので安心なのだが。
※
母がまだ外出していた頃、片手で転がすショッピングカートを使っていた。
後ろに引くものではなく、わきに自立する型の物だ。
それを支えに歩いていた。
その頃よく、道路の端を歩くと、路面が斜めなので端っこに引っ張られて行って怖い、
と言っていた。
道路の端は、水はけのために斜めになっている。
そこにはまって行くわけだ。
これは車椅子でも同じだ。
車椅子が傾いて、しっかりとハンドリムを操作しないと、
低い所へと転がってしまう。
そして、道路の凹みにはまる。
健常であればなんでもないような凹凸が、たいへんな難関となる。
※
遅くまで部活だった中学生が、自転車を飛ばして追い抜いて行く。
ちょっと怖い。
後方から車の音が聞こえる。
ライトが近付いて来る。
道路の端へ避けようと思うが、はまるのもイヤだ。
もたもたしているうちに車は接近して来る。
車はとても減速してくれた。
抜かれる時に見てみたら、運転席の人はこちらを見て一礼して行ってくれた。
あらどうもご丁寧に。ニセモンですんません。
今度は向こうから車が来る。
早めに避けよう。と
もたもたやっていると、車はウインカーも出さずに角を曲がって消えて行った。
合図出そうよ。
また後ろから車が来る。
今度の車はそこそこの減速で追い抜いて行った。
ついつい、運転席の人物や車種を見てしまう。
そんなだから「〇〇は運転が下手」とかいうレッテルを貼られるんだ、と
胸の内で煮える。
住宅街の中の十字路だが、車や人の行き来も有る所だ。
中学生男子の群れが来る。
停止して待つ。
同時に、近所のおじさんが歩いて私の前を横切る。
おじさん、何を思ったか、すぐに引き返して来てまた私の前を横切った。
止まって待っていると、一礼して、
「すみませーん。お気を付けて。」
と言ってくれた。
こ、こちらこそすみません、ニセモンで。
※
たかだか350メートルだが、12分かかった。
「手で漕いで来たの?
足で蹴ったらいいのに。」
とKちゃんに言われた。
確かに。それも有ったな。
足が使えない、という想定でやってみたことなのだが、
腕で漕ぐにしても、体勢を整えるにしても、
脚を踏ん張ろうとする力が入るのを感じた。
これも、脚を踏ん張ることもできない、という想定で、
足置きの上に足を投げ出すような感じでやってみた。
そうすると、かなり上半身の力が必要だ。
※
帰りにスーパーに寄った。
すると、車椅子で買い物をしているお客さんがいた。
このスーパーで初めて見る。
膝の上に買い物かごをうまく乗せて左手で支え、左足と右手で車椅子を操作している。
細かい動きもスムーズにできるので、
車椅子がスペースを取っているように感じさせない。
自分の一部になっているのだろう。
※
やらなくても想像できることは想像できるが、
やってみないと感覚は分からないとも言える。
やってみないと分からないような感覚をこそ、
やらなくても想像するような気持ちが必要、というようなところが
落としどころかな、と思う。
「経験しなきゃ分からない。」
という言い方に私は基本的には反対だ。
そんなこと言ったら、一人の人の限界はあまりにも小さい。
また、
「想像しても分かりっこない。」
と言ってしまうと、思いやりというものを否定してしまうような気がする。
分かりっこない他人の経験を想像することには痛みが有る。
どうしたって分からないという限界を知る痛みが有る。
私がたったの350メートル車椅子に乗ったって、
今後毎日車椅子で生活していく人の痛みは分かるわけがない。
そこに痛みは有る。
痛み分けってところ。
いろんな人がいるから世の中成り立ってんだから、
そんなところでいいだろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます