犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

ゲゲゲの調布発信
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子守

2021年12月20日 | からだ
自分ではあまり意識していない、心の奥底の更に裏に、
コドモの自分が潜んでいる。
意識して生活しているオトナの自分にストレスがかかると、
コドモの部分にも圧力がかかる。

コドモが「ヤダヤダ!」と暴れると、手が付けられない。
代わりに、オトナの意識は、身体に不調を起こす。
腰痛肩こりなんかその代表格だ。

動けないような腰痛や、つきまとう肩こり頭痛。
それは日常的で、目をそむけられない。

腰痛頭痛に意識が向くことで、
コドモのヤダヤダは無視される。
無かったことにしちゃえ。

という具合に、深い問題を無視するために
腰痛は痛む。

このような仕組みで腰痛が発生しているということを
知るだけで、かなりの範囲で腰痛は消える。
痛む意味が無くなったら、消えるのである。



天袋の片付けをしなくちゃ。

当面使わないけれど捨てるわけのいかない物を詰め込んで、
目を向けないで生活するために、
天袋という場は存在する。

だから、天袋はほったらかしておいても生活はできる。
でも、押し込めている物が捨ててもいい物ならば、
捨ててしまいたい。
押し込めたのが私でないならば、
私には必要無い物、私が見たら捨てても構わない物も入っているはずだ。

私の生活を改善するためにも、天袋の片付けをしなくちゃ。

目を向けなくても生活はできる。
古い古い物が入っている。
天袋は、家の潜在意識のような場所だな。



天袋の奥には、祖父の遺品であるとか、
母がムカシ受け取った手紙の束などが在った。
祖父の物は、歴史的に意義の有る物かもしれない。
捨てるというより、しかるべき機関に寄贈すべきなのかもしれない。

古い手紙は本人にとっては貴重であろう。
迷う。
見ると、祖母から嫁いだばかりの母への手紙がたくさん在る。

他に、自分の生まれた頃の手紙や、その年の生活費の領収書の束などが在る。
これは、私が生まれてきたことに関わってもいる。
捨てないでおこうか。



紙類の入った段ボール箱や紙袋を担いで下ろして、
それをまた箱に入れて天袋に担ぎ上げて、なんとか収める。

紙は重い。
重い箱を担いで、脚立を昇り降りする。



フツーだったら、「重い物の片付けをした」から腰が痛くなった、
と考えるところだろう。
けれど、私の腰痛は
天袋にたくさん在る厄介な過去の遺品を私が片付けねばならない
という負担感から来ていたものだろう。

天袋の物を元に戻して、翌日、
友達と会って楽しく飲んでしゃべったら、
その翌日には数週間困っていた腰痛はほぼ去っていた。



潜在意識が映像や言葉として表れるのが、夢だ。
コドモの部分として、コドモらしい夢を見たいものだと思うのだが、
どうもそうでもない。
日常のストレスに侵されて、夢も苦しいものになりがちだ。

子どもの頃は空を飛ぶ夢を見ていたのにな。

もっとおおらかに生きたいじゃないの?
コドモらしい夢を見られるように、
コドモらしい部分を発揮したい。

そんなふうに思ってみた。



研修の日を思い違いして、すっぽかしてしまった。
平謝りである。

次の月の研修日。
前月のことをしっかりおわびしよう。と思って
朝、着いてみると、もう始まっていた。
30分遅く思い違いしていて、遅刻してしまったのだ。

いけませんな。
オトナとしての予定の管理がなっちょらん。

責任を負うことがストレスに繋がって
潜在意識にまで及ぶのがいけない、というのはごもっともだとしても、
だからって現実の生活がちゃらんぽらんでは
潜在意識はなんにも解放されない。



実生活はせいぜいオトナとして振舞って、
潜在するコドモの自分を守ってやる、というのが
個人としてのバランスの取り方なのかもしれない。

と、遅刻しちゃった今日は思っている。

喉元過ぎたら熱さを忘れそうだけどね。
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