自分ではあまり意識していない、心の奥底の更に裏に、
コドモの自分が潜んでいる。
意識して生活しているオトナの自分にストレスがかかると、
コドモの部分にも圧力がかかる。
コドモが「ヤダヤダ!」と暴れると、手が付けられない。
代わりに、オトナの意識は、身体に不調を起こす。
腰痛肩こりなんかその代表格だ。
動けないような腰痛や、つきまとう肩こり頭痛。
それは日常的で、目をそむけられない。
腰痛頭痛に意識が向くことで、
コドモのヤダヤダは無視される。
無かったことにしちゃえ。
という具合に、深い問題を無視するために
腰痛は痛む。
このような仕組みで腰痛が発生しているということを
知るだけで、かなりの範囲で腰痛は消える。
痛む意味が無くなったら、消えるのである。
※
天袋の片付けをしなくちゃ。
当面使わないけれど捨てるわけのいかない物を詰め込んで、
目を向けないで生活するために、
天袋という場は存在する。
だから、天袋はほったらかしておいても生活はできる。
でも、押し込めている物が捨ててもいい物ならば、
捨ててしまいたい。
押し込めたのが私でないならば、
私には必要無い物、私が見たら捨てても構わない物も入っているはずだ。
私の生活を改善するためにも、天袋の片付けをしなくちゃ。
目を向けなくても生活はできる。
古い古い物が入っている。
天袋は、家の潜在意識のような場所だな。
※
天袋の奥には、祖父の遺品であるとか、
母がムカシ受け取った手紙の束などが在った。
祖父の物は、歴史的に意義の有る物かもしれない。
捨てるというより、しかるべき機関に寄贈すべきなのかもしれない。
古い手紙は本人にとっては貴重であろう。
迷う。
見ると、祖母から嫁いだばかりの母への手紙がたくさん在る。
他に、自分の生まれた頃の手紙や、その年の生活費の領収書の束などが在る。
これは、私が生まれてきたことに関わってもいる。
捨てないでおこうか。
※
紙類の入った段ボール箱や紙袋を担いで下ろして、
それをまた箱に入れて天袋に担ぎ上げて、なんとか収める。
紙は重い。
重い箱を担いで、脚立を昇り降りする。
※
フツーだったら、「重い物の片付けをした」から腰が痛くなった、
と考えるところだろう。
けれど、私の腰痛は
天袋にたくさん在る厄介な過去の遺品を私が片付けねばならない
という負担感から来ていたものだろう。
天袋の物を元に戻して、翌日、
友達と会って楽しく飲んでしゃべったら、
その翌日には数週間困っていた腰痛はほぼ去っていた。
※
潜在意識が映像や言葉として表れるのが、夢だ。
コドモの部分として、コドモらしい夢を見たいものだと思うのだが、
どうもそうでもない。
日常のストレスに侵されて、夢も苦しいものになりがちだ。
子どもの頃は空を飛ぶ夢を見ていたのにな。
もっとおおらかに生きたいじゃないの?
コドモらしい夢を見られるように、
コドモらしい部分を発揮したい。
そんなふうに思ってみた。
※
研修の日を思い違いして、すっぽかしてしまった。
平謝りである。
次の月の研修日。
前月のことをしっかりおわびしよう。と思って
朝、着いてみると、もう始まっていた。
30分遅く思い違いしていて、遅刻してしまったのだ。
いけませんな。
オトナとしての予定の管理がなっちょらん。
責任を負うことがストレスに繋がって
潜在意識にまで及ぶのがいけない、というのはごもっともだとしても、
だからって現実の生活がちゃらんぽらんでは
潜在意識はなんにも解放されない。
※
実生活はせいぜいオトナとして振舞って、
潜在するコドモの自分を守ってやる、というのが
個人としてのバランスの取り方なのかもしれない。
と、遅刻しちゃった今日は思っている。
喉元過ぎたら熱さを忘れそうだけどね。
コドモの自分が潜んでいる。
意識して生活しているオトナの自分にストレスがかかると、
コドモの部分にも圧力がかかる。
コドモが「ヤダヤダ!」と暴れると、手が付けられない。
代わりに、オトナの意識は、身体に不調を起こす。
腰痛肩こりなんかその代表格だ。
動けないような腰痛や、つきまとう肩こり頭痛。
それは日常的で、目をそむけられない。
腰痛頭痛に意識が向くことで、
コドモのヤダヤダは無視される。
無かったことにしちゃえ。
という具合に、深い問題を無視するために
腰痛は痛む。
このような仕組みで腰痛が発生しているということを
知るだけで、かなりの範囲で腰痛は消える。
痛む意味が無くなったら、消えるのである。
※
天袋の片付けをしなくちゃ。
当面使わないけれど捨てるわけのいかない物を詰め込んで、
目を向けないで生活するために、
天袋という場は存在する。
だから、天袋はほったらかしておいても生活はできる。
でも、押し込めている物が捨ててもいい物ならば、
捨ててしまいたい。
押し込めたのが私でないならば、
私には必要無い物、私が見たら捨てても構わない物も入っているはずだ。
私の生活を改善するためにも、天袋の片付けをしなくちゃ。
目を向けなくても生活はできる。
古い古い物が入っている。
天袋は、家の潜在意識のような場所だな。
※
天袋の奥には、祖父の遺品であるとか、
母がムカシ受け取った手紙の束などが在った。
祖父の物は、歴史的に意義の有る物かもしれない。
捨てるというより、しかるべき機関に寄贈すべきなのかもしれない。
古い手紙は本人にとっては貴重であろう。
迷う。
見ると、祖母から嫁いだばかりの母への手紙がたくさん在る。
他に、自分の生まれた頃の手紙や、その年の生活費の領収書の束などが在る。
これは、私が生まれてきたことに関わってもいる。
捨てないでおこうか。
※
紙類の入った段ボール箱や紙袋を担いで下ろして、
それをまた箱に入れて天袋に担ぎ上げて、なんとか収める。
紙は重い。
重い箱を担いで、脚立を昇り降りする。
※
フツーだったら、「重い物の片付けをした」から腰が痛くなった、
と考えるところだろう。
けれど、私の腰痛は
天袋にたくさん在る厄介な過去の遺品を私が片付けねばならない
という負担感から来ていたものだろう。
天袋の物を元に戻して、翌日、
友達と会って楽しく飲んでしゃべったら、
その翌日には数週間困っていた腰痛はほぼ去っていた。
※
潜在意識が映像や言葉として表れるのが、夢だ。
コドモの部分として、コドモらしい夢を見たいものだと思うのだが、
どうもそうでもない。
日常のストレスに侵されて、夢も苦しいものになりがちだ。
子どもの頃は空を飛ぶ夢を見ていたのにな。
もっとおおらかに生きたいじゃないの?
コドモらしい夢を見られるように、
コドモらしい部分を発揮したい。
そんなふうに思ってみた。
※
研修の日を思い違いして、すっぽかしてしまった。
平謝りである。
次の月の研修日。
前月のことをしっかりおわびしよう。と思って
朝、着いてみると、もう始まっていた。
30分遅く思い違いしていて、遅刻してしまったのだ。
いけませんな。
オトナとしての予定の管理がなっちょらん。
責任を負うことがストレスに繋がって
潜在意識にまで及ぶのがいけない、というのはごもっともだとしても、
だからって現実の生活がちゃらんぽらんでは
潜在意識はなんにも解放されない。
※
実生活はせいぜいオトナとして振舞って、
潜在するコドモの自分を守ってやる、というのが
個人としてのバランスの取り方なのかもしれない。
と、遅刻しちゃった今日は思っている。
喉元過ぎたら熱さを忘れそうだけどね。
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