[あらすじ] 母と娘の関係は、癒着する。
と、よく言われる。
述語では、共依存などと言う。
雑に言やあ、相手のせいにし合ってる、なんてなことになるだろうか。
私は今、老母82歳と同居している。
昭和8年生まれだ。
母の母は私が8歳の時に75歳で亡くなったから、
たぶん明治36年頃の生まれだろう。
夫婦は十何歳だったか年齢が違ったというから、
母の父は明治20年頃の生まれだったのだろう。
明治の男であり、軍人であった。
ただ、仕事を家庭に持ち込まなかったと母は語る。
父権の時代である。
「おとうさま」は絶対であった。
母の母は、夫に口ごたえなど一切しない。
母の姉はそんな母親を「空虚」と表現したそうだ。
日本の医療の世界で、この10年20年、
パターナリズム(父権)が見直されている。
以前は「お医者さま」は絶対であった。
病気について患者は医師の判断に身を任せていたのだ。
そういった時代に育って生きてきたせいか、
母は自分の病気や健康状態や身体に関して、医師任せなところがある。
医師が診て判断してくれる、と信じている。
自らを知り、自ら管理するという気持ちが少ない。
診療のかかり方から教えなければならない。
まず、自分のふだん感じた身体の状態を、詳しく医師に伝える必要があること。
そんなことも医師任せなのだ。
「聞かれないから言わない、言わなくていいと思った」と母は言う。
患者が主体である、という意識に乏しい。
日頃の状態まで配慮するほど医師はお節介じゃないし、
言われないことを知るほど医師は超能力者じゃないわい。
「でもどう言えばいいかわからない」
私に話している、そのまんま先生に言えばいいんだよ。
私が何度聞いたって、本人がどう感じているかは分からないから、
代わりに先生に伝えてあげることはできない。
言わないと先生にはわからない、無かったことになっちゃう。
母は、医師に対して、質問ができない。
質問することは、相手に疑問を呈することで、
それは相手への不満をも意味することになり、
相手に楯突くことになり、医師に失礼だと感じるのだ。
質問は失礼にあたらないということを、よく説明し、
自分の疑問を解消して、自分の状態を理解して、
自ら治療に取り組むことが治療を良くするのだ、
とひたすら説明した。
こういったことに、数年かかった。
まだ完成はしていない。
質問することに、母はひるむ。
言葉が出なくなる。
口ごたえを封じられて、従順な女性として育てられ生きてきた結果
と言えるように思う。
明治の父権主義に骨抜きにされた、というところか。
医療側はパターナリズムを反省し、インフォームド・コンセントを謳っている。
「こういう方法とこういう方法があって、どっちにしますか、って聞かれても
どうやって決めればいいかわからない」
どうやって決めればいいかわからない、ってそのまま先生に答えればいい。
そうしたら、もう一度ポイントを説明してくれるよ。
理解力も判断力もある。
ただ、自分の思いを相手に言ってもかまわない、ということを知らない。
これは長くそうやって生きてきてしまったので、
なかなか変わらない。
しかし、「おとうさま」よりも既に長生きして、
病気を持っている今、
より快適に生きていくために、
自分自身に立ち向かう必要がある。
と、よく言われる。
述語では、共依存などと言う。
雑に言やあ、相手のせいにし合ってる、なんてなことになるだろうか。
私は今、老母82歳と同居している。
昭和8年生まれだ。
母の母は私が8歳の時に75歳で亡くなったから、
たぶん明治36年頃の生まれだろう。
夫婦は十何歳だったか年齢が違ったというから、
母の父は明治20年頃の生まれだったのだろう。
明治の男であり、軍人であった。
ただ、仕事を家庭に持ち込まなかったと母は語る。
父権の時代である。
「おとうさま」は絶対であった。
母の母は、夫に口ごたえなど一切しない。
母の姉はそんな母親を「空虚」と表現したそうだ。
日本の医療の世界で、この10年20年、
パターナリズム(父権)が見直されている。
以前は「お医者さま」は絶対であった。
病気について患者は医師の判断に身を任せていたのだ。
そういった時代に育って生きてきたせいか、
母は自分の病気や健康状態や身体に関して、医師任せなところがある。
医師が診て判断してくれる、と信じている。
自らを知り、自ら管理するという気持ちが少ない。
診療のかかり方から教えなければならない。
まず、自分のふだん感じた身体の状態を、詳しく医師に伝える必要があること。
そんなことも医師任せなのだ。
「聞かれないから言わない、言わなくていいと思った」と母は言う。
患者が主体である、という意識に乏しい。
日頃の状態まで配慮するほど医師はお節介じゃないし、
言われないことを知るほど医師は超能力者じゃないわい。
「でもどう言えばいいかわからない」
私に話している、そのまんま先生に言えばいいんだよ。
私が何度聞いたって、本人がどう感じているかは分からないから、
代わりに先生に伝えてあげることはできない。
言わないと先生にはわからない、無かったことになっちゃう。
母は、医師に対して、質問ができない。
質問することは、相手に疑問を呈することで、
それは相手への不満をも意味することになり、
相手に楯突くことになり、医師に失礼だと感じるのだ。
質問は失礼にあたらないということを、よく説明し、
自分の疑問を解消して、自分の状態を理解して、
自ら治療に取り組むことが治療を良くするのだ、
とひたすら説明した。
こういったことに、数年かかった。
まだ完成はしていない。
質問することに、母はひるむ。
言葉が出なくなる。
口ごたえを封じられて、従順な女性として育てられ生きてきた結果
と言えるように思う。
明治の父権主義に骨抜きにされた、というところか。
医療側はパターナリズムを反省し、インフォームド・コンセントを謳っている。
「こういう方法とこういう方法があって、どっちにしますか、って聞かれても
どうやって決めればいいかわからない」
どうやって決めればいいかわからない、ってそのまま先生に答えればいい。
そうしたら、もう一度ポイントを説明してくれるよ。
理解力も判断力もある。
ただ、自分の思いを相手に言ってもかまわない、ということを知らない。
これは長くそうやって生きてきてしまったので、
なかなか変わらない。
しかし、「おとうさま」よりも既に長生きして、
病気を持っている今、
より快適に生きていくために、
自分自身に立ち向かう必要がある。
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