犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

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母子 父子篇

2016年01月07日 | 日々
[あらすじ] 母と娘の関係は、癒着する。
と、よく言われる。
述語では、共依存などと言う。
雑に言やあ、相手のせいにし合ってる、なんてなことになるだろうか。

私は今、老母82歳と同居している。
昭和8年生まれだ。
母の母は私が8歳の時に75歳で亡くなったから、
たぶん明治36年頃の生まれだろう。

夫婦は十何歳だったか年齢が違ったというから、
母の父は明治20年頃の生まれだったのだろう。
明治の男であり、軍人であった。
ただ、仕事を家庭に持ち込まなかったと母は語る。

父権の時代である。
「おとうさま」は絶対であった。
母の母は、夫に口ごたえなど一切しない。
母の姉はそんな母親を「空虚」と表現したそうだ。

日本の医療の世界で、この10年20年、
パターナリズム(父権)が見直されている。
以前は「お医者さま」は絶対であった。
病気について患者は医師の判断に身を任せていたのだ。

そういった時代に育って生きてきたせいか、
母は自分の病気や健康状態や身体に関して、医師任せなところがある。
医師が診て判断してくれる、と信じている。
自らを知り、自ら管理するという気持ちが少ない。

診療のかかり方から教えなければならない。
まず、自分のふだん感じた身体の状態を、詳しく医師に伝える必要があること。
そんなことも医師任せなのだ。
「聞かれないから言わない、言わなくていいと思った」と母は言う。

患者が主体である、という意識に乏しい。
日頃の状態まで配慮するほど医師はお節介じゃないし、
言われないことを知るほど医師は超能力者じゃないわい。
「でもどう言えばいいかわからない」

私に話している、そのまんま先生に言えばいいんだよ。
私が何度聞いたって、本人がどう感じているかは分からないから、
代わりに先生に伝えてあげることはできない。
言わないと先生にはわからない、無かったことになっちゃう。

母は、医師に対して、質問ができない。
質問することは、相手に疑問を呈することで、
それは相手への不満をも意味することになり、
相手に楯突くことになり、医師に失礼だと感じるのだ。

質問は失礼にあたらないということを、よく説明し、
自分の疑問を解消して、自分の状態を理解して、
自ら治療に取り組むことが治療を良くするのだ、
とひたすら説明した。

こういったことに、数年かかった。
まだ完成はしていない。
質問することに、母はひるむ。
言葉が出なくなる。

口ごたえを封じられて、従順な女性として育てられ生きてきた結果
と言えるように思う。
明治の父権主義に骨抜きにされた、というところか。
医療側はパターナリズムを反省し、インフォームド・コンセントを謳っている。

「こういう方法とこういう方法があって、どっちにしますか、って聞かれても
どうやって決めればいいかわからない」
どうやって決めればいいかわからない、ってそのまま先生に答えればいい。
そうしたら、もう一度ポイントを説明してくれるよ。

理解力も判断力もある。
ただ、自分の思いを相手に言ってもかまわない、ということを知らない。
これは長くそうやって生きてきてしまったので、
なかなか変わらない。

しかし、「おとうさま」よりも既に長生きして、
病気を持っている今、
より快適に生きていくために、
自分自身に立ち向かう必要がある。

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