中編二編が収まっている。
海馬五郎という55歳の男が主人公だ。
俳優をやったり、シナリオを書いたりするのが仕事のこの男、
つまり、モデルは松尾自身だろう。
どうもかなり面倒くさい性格のようだ。
飛行機が飛ぶ、ということを信じられない。
全く文化の異なる外国という所へ行くことも億劫だ。
そんな海馬が、フランスの実業家が選んだ「世界を代表する5人の自由人のための賞」を
受賞するために、パリへ向かう。
浮気がバレて、妻に出された「日中は1時間毎に写メする」「毎晩丁寧にセックスする」という
束縛から逃れられるなら、外国で過ごす煩わしさにも耐えるしかない。
通訳に付いた青年のいない日、海馬はタクシーに乗ってパリ郊外へ向かう。
しかし、筆談が誤って伝わり、パリ18区で車を下ろされる。
※
パリ市街は、渦巻き状に街区の番号が振ってある。
中心から、外へ向けて番号が増えていく。
外周ほど、治安が悪いそうだ。
海馬に負けず劣らず、外国旅行に対して億劫さを私は持っている。
言葉が通じないというより、習慣があまりにも違うと、
道を歩くこと一つ取っても、どうしたら良いかわからない。
※
自分はつくづく面倒くさい人間になった、と時々思う。
こだわりだらけだが、それは肝の小ささの表れだ。
友達付き合いは減るほど楽だ。
バンドをやるのも人間関係の面倒さに先に思いが行く。
できれば蒸発したいが、よその土地で暮らすというのもまたハードルが高い。
と書けば、大袈裟のきらいは有る。
ねじけていたって、なんだかうまくやっている。
思いがけず社交的な面も兼ね合わせている。
そんなもんだ。
何十年かの間、社会の中で暮らしてくれば、
なにがしかの社交性だって育つ。
ただ、ねじけた部分も、同時に確実に育っては、いる。
自分に限らず、人の何かどこか一面を見てそこを取り上げれば、
偏る。
偏りが、キャラクターになる。
つまり海馬五郎は、松尾の中のそういう「ひとくせある」部分を煮しめた人物像なのではないか。
※
二編目の『神様ノイローゼ』では海馬五郎の幼少が描かれる。
幼稚園に入るかという頃から、かなり面倒くさい性格だ。
「小学校、中学校、高校と、自意識が膨らみつつねじくれ性的にも混乱するにつれ、
つらさの質が変わり重量が増す少年時代であった」
※
中学か高校の頃に、マックス・ピカート著『神よりの逃走』を読んだ。
生意気な十代だった。
内容はちっとも憶えていない。
小学校からカトリック系の学校だったし、
父の前妻がキリスト教徒だったことから、
私自身も10歳で洗礼を受けた。
絶対神の目は、「見守ってくれるもの」というより、
常につきまとうもの、というものにすぐに変わっていった。
しかし、つきまとってくるのは教会である、という理解のしかたをしたら、
神の目はいつの間にやらまあまあ忘れることができている。
海馬五郎は幼少から神の目に追われていたようだ。
なんせ神は神だから年中無休なので、
追われるほうも休まる暇が無い。
※
五郎ちゃんはチックを起こした。
「始めは、肩をグリグリ回し始めた。
肩を回すのを我慢すると、首が回る。
首の回りを押さえると、顔が歪んだ。
顎を精一杯引き下げ、眉を精一杯引き上げ、
顔の皮を一回完全に引き伸ばさないとどうしようもなくイライラするのだ。」
「それを無理やり我慢すると、肘がビクッとするようにはね、
肩首顔の動きが同時にやって来る肉体のお祭り騒ぎになるうえ、
それに鼻を「くんっ」と鳴らすという音技まで加わる。」
「チックを押さえるとどうなるか?悪夢を見るのである。」
嗚呼たいへん。
※
小学校の担任がどのような人物かによって、
子どもの人生がずいぶん左右されることが、
ストレートに描かれている。
子どもの頃のある日のできごとが、
何十年後までもその人のひとがらを作り続けていく。
そういう、
誰にもおぼえの有りそうな、話。
海馬五郎という55歳の男が主人公だ。
俳優をやったり、シナリオを書いたりするのが仕事のこの男、
つまり、モデルは松尾自身だろう。
どうもかなり面倒くさい性格のようだ。
飛行機が飛ぶ、ということを信じられない。
全く文化の異なる外国という所へ行くことも億劫だ。
そんな海馬が、フランスの実業家が選んだ「世界を代表する5人の自由人のための賞」を
受賞するために、パリへ向かう。
浮気がバレて、妻に出された「日中は1時間毎に写メする」「毎晩丁寧にセックスする」という
束縛から逃れられるなら、外国で過ごす煩わしさにも耐えるしかない。
通訳に付いた青年のいない日、海馬はタクシーに乗ってパリ郊外へ向かう。
しかし、筆談が誤って伝わり、パリ18区で車を下ろされる。
※
パリ市街は、渦巻き状に街区の番号が振ってある。
中心から、外へ向けて番号が増えていく。
外周ほど、治安が悪いそうだ。
海馬に負けず劣らず、外国旅行に対して億劫さを私は持っている。
言葉が通じないというより、習慣があまりにも違うと、
道を歩くこと一つ取っても、どうしたら良いかわからない。
※
自分はつくづく面倒くさい人間になった、と時々思う。
こだわりだらけだが、それは肝の小ささの表れだ。
友達付き合いは減るほど楽だ。
バンドをやるのも人間関係の面倒さに先に思いが行く。
できれば蒸発したいが、よその土地で暮らすというのもまたハードルが高い。
と書けば、大袈裟のきらいは有る。
ねじけていたって、なんだかうまくやっている。
思いがけず社交的な面も兼ね合わせている。
そんなもんだ。
何十年かの間、社会の中で暮らしてくれば、
なにがしかの社交性だって育つ。
ただ、ねじけた部分も、同時に確実に育っては、いる。
自分に限らず、人の何かどこか一面を見てそこを取り上げれば、
偏る。
偏りが、キャラクターになる。
つまり海馬五郎は、松尾の中のそういう「ひとくせある」部分を煮しめた人物像なのではないか。
※
二編目の『神様ノイローゼ』では海馬五郎の幼少が描かれる。
幼稚園に入るかという頃から、かなり面倒くさい性格だ。
「小学校、中学校、高校と、自意識が膨らみつつねじくれ性的にも混乱するにつれ、
つらさの質が変わり重量が増す少年時代であった」
※
中学か高校の頃に、マックス・ピカート著『神よりの逃走』を読んだ。
生意気な十代だった。
内容はちっとも憶えていない。
小学校からカトリック系の学校だったし、
父の前妻がキリスト教徒だったことから、
私自身も10歳で洗礼を受けた。
絶対神の目は、「見守ってくれるもの」というより、
常につきまとうもの、というものにすぐに変わっていった。
しかし、つきまとってくるのは教会である、という理解のしかたをしたら、
神の目はいつの間にやらまあまあ忘れることができている。
海馬五郎は幼少から神の目に追われていたようだ。
なんせ神は神だから年中無休なので、
追われるほうも休まる暇が無い。
※
五郎ちゃんはチックを起こした。
「始めは、肩をグリグリ回し始めた。
肩を回すのを我慢すると、首が回る。
首の回りを押さえると、顔が歪んだ。
顎を精一杯引き下げ、眉を精一杯引き上げ、
顔の皮を一回完全に引き伸ばさないとどうしようもなくイライラするのだ。」
「それを無理やり我慢すると、肘がビクッとするようにはね、
肩首顔の動きが同時にやって来る肉体のお祭り騒ぎになるうえ、
それに鼻を「くんっ」と鳴らすという音技まで加わる。」
「チックを押さえるとどうなるか?悪夢を見るのである。」
嗚呼たいへん。
※
小学校の担任がどのような人物かによって、
子どもの人生がずいぶん左右されることが、
ストレートに描かれている。
子どもの頃のある日のできごとが、
何十年後までもその人のひとがらを作り続けていく。
そういう、
誰にもおぼえの有りそうな、話。
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