犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

ゲゲゲの調布発信
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和をもって尊しとせず

2014年03月19日 | 椰子の実の中
[あらすじ] 他者は小さな異文化だ。
異論を排斥すると、自己内部から崩壊する。


あらすじは思い出すためのものなので、なんのこっちゃわからなかったら
3日くらい前の投稿から読んでくださいな。

とかく、同じ仲間同士で群れになりがちなのは、当然だ。
だけど、そればっかりだと成長が無い、というのは今日まで
書いてきた文脈でも理解できる。

核家族化がすっかり進んだ日本の都市部は、そういう意味でも
文化の基盤が弱いと言える。
家の中にジジババがいると、文化的に広がりが出る。

流行歌も、あ、この言葉自体が古いな、歌謡曲も、あ、これも古いか、
という具合に、歌においても同様だ。
「今の若い子向けの歌はわからない。ムカシはみんな同じ歌を歌ってたのに。」
なんて声をしばしば聞くけれど、社会の仕組みがそうしているのだろう。



様々な主義主張があって、それが接触して互いに影響し合って、
双方が発展し、全体が豊かになる。

このところ、SNS(facebookなど)や、インターネット上の掲示板の
書き込みなどで気になることがある。
ある考えや好みを述べた投稿に対して、異なる意見が書き込まれた時に、
「気に入らないのなら読まなければいいと思います」とか
「そういう話はそういう考えの人たちでしていればいい」とか
もうちょっと気楽な場だと、
「アンチは消えろ」とか。

異分子の声には不快感を持つだけで、耳を貸さず、追い出そうとする。
これは、危険なことだと思う。
異なるものの刺激を得て、新たな道を見出し、より強く生き続けるための
チャンスを、自分から切り捨てている。



一方で、
「いろんな考えがあるからね。人それぞれでいい。」
という言い方もある。
私はこれも危険だと思っている。

一見、多様性を認め、他者を受け入れているように思えるが、
その実、接触はしていない。
「私はこう思うけど、あなたはそう思うんならそれでいいからそっちで
やっててちょうだい。私にかまわないで。」
というのが裏に隠れている場合がある。

人の意見を聞きたくて質問したり、自分の意見を述べたりする中で、
こういったセリフで議論を打ち切られてしまった経験が何度もある。

「人それぞれ」は、この言葉は議論を収束させる万能の切り札だ。
人それぞれだね、と言えば、それはまったくその通りだもの。
しかも受容的な態度なので、やんわりと切れる。
「これ以上話しても所詮あんたとは平行線よ。」などと言うと
カチンと来るが、「人それぞれよね。」と言われれば、「そうね。」となる。

万能の切り札にジョーカーが描かれるのは、
ちゃらんぽらんで場を和ませてリセットするということだろう。



とはいえ、相性ってものもあるから、
気の合わない人と無理に話すことも無いとも思うけどね・・・。

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