[あらすじ] 「今の生活じゃ出会いが無いでしょ。
レズビアンのイベントとかに行きなさいよ。」
という助言をされたことがある。
言ったのは、異性愛者の女性で、同性愛者に「偏見は無く」「受け入れている」人だ。
ここまで、「受け入れている」とはどういうことか、ちょっと考えてきた。
それは、「自分と関わり合いにならない所でやってる分には構わない。」という意味のようだ。
でも性愛の指向は変化し得るものである。
普段の生活の中で出会い、恋愛をしてきたのが何よりの証拠だろう。
私は元々レズビアンだという人と付き合ったことはほとんど無い。
さて、しかもこの人、「普段の生活の中に同性愛者はほぼいない」と思っている。
だから、「今の生活じゃ出会いが無い」ということになる。
以前この人は、自分の友達のあるレズビアンのことを話してくれた。
自身の経験の中で、出会ったセクシュアルマイノリティとか、
セクシュアルマイノリティの友人とかの話をする人は多い。
よくあることなのだが、自分がセクシュアルマイノリティに対する偏見が無いことを示すため
なのではないかと思う。
ただ、特定の人を話題に出すということは、それしか知らない、ということの裏返しだ。
友人知人にLGBTがたくさんいる人は、わざわざ個人の例を話題にしない。
それはなにもLGBTに限ったことではなく、
「私の友達のサラリーマンの人が」とか「おれの友達で自転車持っているのは87%だ」とか
言わないのと同じことだ。
つまり、普段の生活の中に同性愛者はほぼいない、のではなく、
その人の普段の生活の中に同性愛者がほぼいない、というだけのことではないだろうか。
では、本当にその人の普段の生活の中に同性愛者はほぼいないのだろうか。
もしかして、いるけれど気付いてないだけなんじゃないだろうか。
身の周りに同性愛者はいない。今まで見たことが無い。
という言い分はよく耳にする。
そう言う人の身の周りにも実際は、いると思う。
見えないだけで、いるのだ。
現に私は、面と向かって「私は同性愛者に会ったことが無い」と言われたことがある。
目の前の私がどう映っているのだろう。
見えない理由はいくつかあると思う。
・同性愛は外見では分からない。から見えない。
・同性愛であることを隠して生活している人も多い。から見えない。
・性愛の指向は変化しないと思い込まれている。から見えない。
・異性愛が前提で、同性愛者はいないと思い込んでいる。から見えない。
・そもそも見たくない。から見えない。
少しだけ詳しく。
・同性愛は外見では分からない。
つまり、肌の色や身体障害だと目に見えるが、同性愛者は黙ってりゃただの男や女である。
特にカムアウトしない限りは知られることが無い。伏せて生活することもできる。
・同性愛であることを隠して生活している人も多い。
まだまだ偏見も差別も多い。差別されないまでも、変に気を遣われたり、関係がぎくしゃくすることもある。
わざわざ言わなくても生活できるという側面も有る。
・性愛の指向は変化しないと思い込まれている。
あの人は結婚しているから、異性の恋人がいるから、だから同性愛者ではない。ということにはならない。
基本的には異性愛という人でも同性と付き合った経験の有る人もいるし、
婚外で同性と恋愛する人もいるし、ある時から同性のみと恋愛するようになる人もいる。
人生の時間の中で、性愛の指向は変化し得る。
・異性愛が前提で、同性愛者はいないと思い込んでいる。
「世の中には男と女しかいないんだから」という男女二元論と並んで、
社会の仕組みは異性愛でできている。
多いのは確かだけれど、全てではない。同性愛者も性自認が男女ではない人も、確かにいる。
・そもそも見たくない。
ではなぜ見たくないのだろう?
というようなことは、またの機会に考察しよう。
※
見えないのはいけない!と言っているわけではない。
もちろん、面と向かって「見たことがない」と言われれば、
じゃあ目の前にいる私は何なんだよ!と言いたくもなる。
無視されて気分いいわけもない。
でも、その人が悪いとか、そういう人が悪いとか、ましてや異性愛者がみんな悪いとか、
そんなふうに言いたいわけではない。
なぜ見えないのか、見えなくなっている理由は何か、見えない仕組みはどうなっているのか。
それを探ることで、どこをどう変えたら見えるようになるのかが分かるのではないか。
そう思って、ねちねち考察している。
見えなかったのが見えるようになった、という体験談を聞くと、分かることがあるかもしれない。
今後、LGBTの知人友人を多く持つ人の話を聞いてみたいと思う。
レズビアンのイベントとかに行きなさいよ。」
という助言をされたことがある。
言ったのは、異性愛者の女性で、同性愛者に「偏見は無く」「受け入れている」人だ。
ここまで、「受け入れている」とはどういうことか、ちょっと考えてきた。
それは、「自分と関わり合いにならない所でやってる分には構わない。」という意味のようだ。
でも性愛の指向は変化し得るものである。
普段の生活の中で出会い、恋愛をしてきたのが何よりの証拠だろう。
私は元々レズビアンだという人と付き合ったことはほとんど無い。
さて、しかもこの人、「普段の生活の中に同性愛者はほぼいない」と思っている。
だから、「今の生活じゃ出会いが無い」ということになる。
以前この人は、自分の友達のあるレズビアンのことを話してくれた。
自身の経験の中で、出会ったセクシュアルマイノリティとか、
セクシュアルマイノリティの友人とかの話をする人は多い。
よくあることなのだが、自分がセクシュアルマイノリティに対する偏見が無いことを示すため
なのではないかと思う。
ただ、特定の人を話題に出すということは、それしか知らない、ということの裏返しだ。
友人知人にLGBTがたくさんいる人は、わざわざ個人の例を話題にしない。
それはなにもLGBTに限ったことではなく、
「私の友達のサラリーマンの人が」とか「おれの友達で自転車持っているのは87%だ」とか
言わないのと同じことだ。
つまり、普段の生活の中に同性愛者はほぼいない、のではなく、
その人の普段の生活の中に同性愛者がほぼいない、というだけのことではないだろうか。
では、本当にその人の普段の生活の中に同性愛者はほぼいないのだろうか。
もしかして、いるけれど気付いてないだけなんじゃないだろうか。
身の周りに同性愛者はいない。今まで見たことが無い。
という言い分はよく耳にする。
そう言う人の身の周りにも実際は、いると思う。
見えないだけで、いるのだ。
現に私は、面と向かって「私は同性愛者に会ったことが無い」と言われたことがある。
目の前の私がどう映っているのだろう。
見えない理由はいくつかあると思う。
・同性愛は外見では分からない。から見えない。
・同性愛であることを隠して生活している人も多い。から見えない。
・性愛の指向は変化しないと思い込まれている。から見えない。
・異性愛が前提で、同性愛者はいないと思い込んでいる。から見えない。
・そもそも見たくない。から見えない。
少しだけ詳しく。
・同性愛は外見では分からない。
つまり、肌の色や身体障害だと目に見えるが、同性愛者は黙ってりゃただの男や女である。
特にカムアウトしない限りは知られることが無い。伏せて生活することもできる。
・同性愛であることを隠して生活している人も多い。
まだまだ偏見も差別も多い。差別されないまでも、変に気を遣われたり、関係がぎくしゃくすることもある。
わざわざ言わなくても生活できるという側面も有る。
・性愛の指向は変化しないと思い込まれている。
あの人は結婚しているから、異性の恋人がいるから、だから同性愛者ではない。ということにはならない。
基本的には異性愛という人でも同性と付き合った経験の有る人もいるし、
婚外で同性と恋愛する人もいるし、ある時から同性のみと恋愛するようになる人もいる。
人生の時間の中で、性愛の指向は変化し得る。
・異性愛が前提で、同性愛者はいないと思い込んでいる。
「世の中には男と女しかいないんだから」という男女二元論と並んで、
社会の仕組みは異性愛でできている。
多いのは確かだけれど、全てではない。同性愛者も性自認が男女ではない人も、確かにいる。
・そもそも見たくない。
ではなぜ見たくないのだろう?
というようなことは、またの機会に考察しよう。
※
見えないのはいけない!と言っているわけではない。
もちろん、面と向かって「見たことがない」と言われれば、
じゃあ目の前にいる私は何なんだよ!と言いたくもなる。
無視されて気分いいわけもない。
でも、その人が悪いとか、そういう人が悪いとか、ましてや異性愛者がみんな悪いとか、
そんなふうに言いたいわけではない。
なぜ見えないのか、見えなくなっている理由は何か、見えない仕組みはどうなっているのか。
それを探ることで、どこをどう変えたら見えるようになるのかが分かるのではないか。
そう思って、ねちねち考察している。
見えなかったのが見えるようになった、という体験談を聞くと、分かることがあるかもしれない。
今後、LGBTの知人友人を多く持つ人の話を聞いてみたいと思う。
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