犬小屋:す~さんの無祿(ブログ)

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野沢直子『笑うお葬式』2017

2021年12月26日 | よみものみもの
単行本はずいぶん加筆されているそうだ。
まだ、読んでいない。
2017年に文藝春秋から出たムック本『文藝芸人』に掲載されたものを読んだ。

単行本の中で野沢は「エッセイ」と呼んでいるが、
30ページに及ぶそれはエッセイを超えた作品になっていると思う。
父の最期にあたる野沢の思いがしっかりと描かれている。



私の父は、不幸な人になってしまった。
恋女房を癌で亡くした。
その数年後、再婚し、1年後に生まれた子は2日で他界してしまったが、
その2年後に私が生まれた。
さらに8年後、先妻の忘れ形見である息子が
自動車の単独事故で死んでしまった。

毎日の晩酌が習慣であったが、
父は時々泣くようになった。
口癖は「もうおしまいだ」だった。

父は小説を書く人だった。
汽車の向いの席にいたはずの妻と息子がいなくなり、
代わりに見知らぬ女と子が座っている。
そういう表現をしているのを、私は十代後半頃に読んだ。

妻も息子も失って独りきりになったのではなく、
母や私という者が在ってもなお喜べないのであれば
私はなんなのか。
少なくとも、親子ではない。
そう感じた。

その父を受け入れている母にも疑問を抱いた。
しかしその後、母は私と父の関係が壊れていることに理解を寄せた。
私は少し、納得した。

私が三十代の半ばの頃だったか、あるとき母が言った。
「あなたに父親というものはいない。」
納得もいくけれど、ならばなぜその父のもとに私を引き留め続けたのか、
という思いも生じた。
「父親というものはいない。」と母が言うことで、
私は父と母と両方を失った。



野沢の父親は、文字通りの破天荒であったようだ。
あやしげな商品を開発したり会社を興したりしては失敗する。
事業がうまく行っている時には生活は豊かだが、
失敗すりゃ困窮する。
おまけに外に女を作って家に寄り付かない。

そんな夫のために翻弄されているはずの母親は、
しかし娘の前では、生活に困った様子も夫への怒りもまったく見せない。

「母は生来の明るさからか何があってもいつも笑っていて、
父の失踪事件が起きた時すら母は毎日明るく振舞っていた。
借金を抱えたまま夫が別の女と数ヶ月の間失踪すれば、
普通は離婚ということになってもおかしくはないのに、
母の明るさのお陰で我が家は崩壊することもなく、
そのせいか私も、この一件が悲惨だったとは決して思わないのだ。」

「あの状況下でも私は、笑って育てられた。
不幸な状況にあっても、「不幸」だと思わなければ、不幸ではない
ことを身体で覚えた。
私の中には、何があっても笑って乗り越えてきた母の明るさの、
その強さがある。
これは私の人生を幸福に導いてくれる最大の武器で、
母からの最高の贈り物だったと感謝してやまない。」

「父は私に、「女だってこれからはな、手に職の時代だ。
女だからって誰かに嫁にもらってもらえれば、
人生それでいいってもんじゃないんだぞ」と、
私が小学生の頃から繰り返し言っていた。」
「『手に職』は『テニショク』という単語として私の中に
残っていただけなのに、父は家にいることも少なくて、
十代の頃は私と父はほとんど話もしていなかったのに、
でもそれでも父の言葉はきちんと私の記憶に残っていて、
それが私の人生の指針になっているのだ。
そして私も、目に見えない力は信じない、
信じるのは自分だけだとどこかで思っている。
いつしか父と同じ考え方をしているのだ。」



人が、自分を信じて、生きていく、
生きていくこと自体に迷わない、
そういう力、生きる力。

親は、子を産む。
産む。つまり、命を与える。
次に、育てていく中で、生きる力、つまり命を与えることができる。



私は自分の親との関わりを思うと、
なんだか自分の存在意義が分からなくなるという
経験をしてしまった。

そういう私の心の奥の隙間を
この『笑うお葬式』は少し、
埋めてくれるような感じがするのだ。
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