私を知る

自覚を中心に悟りのヒントを書いています。自覚とは「私」に意識を向け、一切は「私」の考えであることを自覚していくことです。

自我と悟り

2021年08月28日 20時36分52秒 | 悟り
久しぶりに悟りに関する記事を書きます。
昨晩暇に任せてネット動画を観ていたら、偶々悟り系の動画に出くわし、気になったというか、気が向いたので書くことにしました。


◇自我と悟り◇

悟りの行程を歩む過程で、無我を実感したり、理解することがあります。
それで皆、悟った気になってしまいます。

確かに、全てに実態はありませんから、自我にも実態はなく、自我は幻のような自我感覚があるだけです。
その理解は間違っていません。
しかし、だからと言って自我を軽視してしまうのは違います。

だってそもそものところ、悟るのは誰ですか?
そうやって無我を悟ったのは誰ですか?

あなたという自我でしょう?
そのような体験や理解をしたのも、あなたという自我でしょう?

早合点せず、もう一度しっかり見直し、確かめて頂きたいと思います。

そのマウスを操作する手を動かしているのは、誰だ!!


◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※現在は講話会や対面セッションはやっておりません。
スカイプを使った無料の30分程度(最大1時間)のセッションのみ行っています。
ご希望の方は、suiku2013☆yahoo.co.jp(☆を@に替えて下さい)へご連絡ください。

コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。

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4 コメント

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Unknown (まな)
2021-08-31 20:39:38
ありがとうございます。
自我が、自覚を通じて一つ一つなくなっていく。その結果、自我が全てなくなり、無我の境地になるのだと思います。これはすべてのものとつながったような感覚、遮るものがなくなったような感覚と思います。いわゆるワンネスと言う感覚かとも思います。しかし実はそれを見ている目があり、この目が自我なのだと思います。
自覚を通じてなくなっていく自我を小さな自我、執着とするなら、この自我は大きな違いと言えるのかもしれません。
このように思いますがいかがでしょうか?
返信する
まなさんへ (慧空)
2021-08-31 22:18:34
コメントありがとうございます。
まなさんお久しぶりです。
仰らりたいことは大体伝わっていて分かります。
しかしまだ理解が不明確な感じでぼんやりとしておられるように感じます。

確かに、普通の人が持っている自分という自我に関する概念や感覚(自我感覚)は、自覚等を通じて悟りの行程が進んでいくのにつれ薄くなっていくというか変わっていきます。
でも、それらは薄くなったり変化するだけで決して消えることはないのです(ここは大切なところ)。

悟りが進むにつれ、普通の自我概念や感覚は薄くなったり変化しますが、それに伴って自我に関する新たな理解や感覚(視点と言ってもいいかもです)が生じてきます。
例えば、ワンネスの理解や感覚、続いてはただ観ている意識(観照意識)や視点、さらには観るものは観られるものの理解や感覚などです。

このように悟りの行程において、私という自我の理解や感覚は変化していきます。
しかし、とても重要なポイントは、どんなに悟ろうと、私という自我の最も本質的で中心にあるというかベースになっている要素は、悟りの行程において理解したり体験するワンネスや観照意識等ではなく、悟る前からあった普通の自分(自我)なのです。
悟りを含むどのような体験や理解も、ワンヘスや宇宙意識がするものではなく、私という自我がするものですから。
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Unknown (まな)
2021-09-01 09:23:17
ご回答ありがとうございます。
ご指摘の点ありがとうございました。自我への認識が深まったように思います。
またどこかでセッションなどしていただければ幸いです。ありがとうございます。
返信する
まなさんへ (慧空)
2021-09-01 19:27:48
対面等でのセッションの予定はありませんので、もしスカイプでよろしければ、お話させて頂きますよ(もちろん無料ですw)。
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