今朝ネットを見ていたら、久しぶりに記事を書いてみようという気になりました。(^^)
◇「ただ観る」という意識の状態について◇
「ただ観る」という意識の状態について、あまりに漠然とした理解や誤解が多いようなので、私なりの説明を書いてみようと思います。
「ただ観る」という状態とは、その言葉の通り、あらゆる現象をただ観ている意識の状態をいうのですが、これだけでは余りに曖昧な訳です。
このただ観ている状態は、思考が抑制されてくれば自ずと表面に現れてくるものであり、それ程めずらしいものではありません。
この状態のことを真我や純粋理性と結び付け究極であるかのような理解をしてしまう方々がいますが、それは誤解です。
「ただ観る」という状態は、まだ囚われや迷いの中なのです。
どういうことかと言いますと、「ただ観る」という意識の状態には、ただ観ている視点や意識の状態に対する囚われがあるのです。
もっと言えば、そこには、ただ観ているものについて何かがあるはずだという絶対的あるいは恒久的なものに対する強い囚われがあるのです。
そもそものところ、「ただ観る」という状態も、真我や純粋理性も含めて、絶対的なものや恒久的なものはないのです。
どこかから、「おまえの説明の方が曖昧だぞ!」という声が聞こえてきそうなので、もう少し具体的な点からも説明しておきます。
端的に言うと、「ただ観る」という状態は、観ている視点とその対象とがまだ分離しているのです。
つまり、まだ「視点」が落ちてない訳です。
自我の厚みが、まだ厚い訳なのです。
今度は、「じゃあ、「ただ観る」という状態の先はどういうものなんだよ!」という声が聞こえてきそうです。
その先にあるのが、一つは「観るものは観られるもの」の状態ということになる訳です。
「観るものは観られるもの」の状態では、観ている視点(主体)が落ち、その対象(客体)だけとなる訳です。
囚われが減り、それに伴って自我の厚みが薄くなれば、自ずとこういったことを経験するようになります。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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◇「ただ観る」という意識の状態について◇
「ただ観る」という意識の状態について、あまりに漠然とした理解や誤解が多いようなので、私なりの説明を書いてみようと思います。
「ただ観る」という状態とは、その言葉の通り、あらゆる現象をただ観ている意識の状態をいうのですが、これだけでは余りに曖昧な訳です。
このただ観ている状態は、思考が抑制されてくれば自ずと表面に現れてくるものであり、それ程めずらしいものではありません。
この状態のことを真我や純粋理性と結び付け究極であるかのような理解をしてしまう方々がいますが、それは誤解です。
「ただ観る」という状態は、まだ囚われや迷いの中なのです。
どういうことかと言いますと、「ただ観る」という意識の状態には、ただ観ている視点や意識の状態に対する囚われがあるのです。
もっと言えば、そこには、ただ観ているものについて何かがあるはずだという絶対的あるいは恒久的なものに対する強い囚われがあるのです。
そもそものところ、「ただ観る」という状態も、真我や純粋理性も含めて、絶対的なものや恒久的なものはないのです。
どこかから、「おまえの説明の方が曖昧だぞ!」という声が聞こえてきそうなので、もう少し具体的な点からも説明しておきます。
端的に言うと、「ただ観る」という状態は、観ている視点とその対象とがまだ分離しているのです。
つまり、まだ「視点」が落ちてない訳です。
自我の厚みが、まだ厚い訳なのです。
今度は、「じゃあ、「ただ観る」という状態の先はどういうものなんだよ!」という声が聞こえてきそうです。
その先にあるのが、一つは「観るものは観られるもの」の状態ということになる訳です。
「観るものは観られるもの」の状態では、観ている視点(主体)が落ち、その対象(客体)だけとなる訳です。
囚われが減り、それに伴って自我の厚みが薄くなれば、自ずとこういったことを経験するようになります。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
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コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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「明け渡し」を意図的に引き起こす方法はありますか?
それは離人症性障害とは違うのですか?
愛は究極ではなく絶対的虚無こそが究極だが、そこに到達する過程の自我が死ぬ過程は恐怖体験だし、人間らしい喜怒哀楽がなくなるので過酷だから、幸せでいたいならば、ワンネスにとどまったほうがいいということを主張する人がいるんですが、慧空さんはどう思われますか?
>「ただ観る」という意識の状態慧空さんが「明け渡し」と呼んでいる境地とは別ものなのですか?
別ものです。
しかし、まったく別ものという訳でもないのです。
明け渡しは小悟なのですが、ただ観るという意識状態は小悟階層のやや深い、つまり悟りがやや進んだ位置で起こりやすい状態なんです。
>「明け渡し」を意図的に引き起こす方法はありますか?
あると言えばあるのですが、簡単ではありません。
例えば、意図的にすべてを受け入れる決断をするんです。
その決断が内面の相当程度深い部分でなされたものなら、その瞬間に明け渡しが起こります。
>「観るものは観られるもの」が究極の最終的境地ですか?
違います。
>それは離人症性障害とは違うのですか?
私は離人症性障害のことはよく分かりませんが(さっき、ウィキで調べましたが)、確かに悟りと精神疾患とは表面的には似ている部分があります。
しかし、本質的にはまったく別ものであり、相応の人がそれを観れば容易に見分けられるはずです。
>愛は究極ではなく絶対的虚無こそが究極だが、そこに到達する過程の自我が死ぬ過程は恐怖体験だし、人間らしい喜怒哀楽がなくなるので過酷だから、幸せでいたいならば、ワンネスにとどまったほうがいいということを主張する人がいるんですが、慧空さんはどう思われますか?
殆どの場合、悟りに至るかどうかや、悟りの行程のどの段階で留まるかは、本人の意志で制御できるものではありません。
本人が意図しなくとも、また否が応でも悟ってしまう場合もあれば、先を進まずにはいられない激しい衝動が起きてしまうこともあります。
ですから、そういうことは考えても無駄ですよ。
ところで、禅やスピ系の賢者と言われるトールやハーディングやマハリシやオショーやクリシュナムルティや道元などが、明け渡しとか悟り(宇宙や全体性を示すのではなく、段階的などと表現したくなる体験としての悟り)という表現を嫌っているわけですが、いまだに使われているのが気になります。大正昭和に勃興し、現在淘汰されつつある日本の待悟禅と変わりないのでは?などと揶揄されないようにお気をつけて下さい、老婆心ながら失礼しました。
私は誤解されても、揶揄されても構いません。(^^)
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