◇意思実現の不完全性について◇
引き続き、「私」という意識について書いていきます。
私という個の存在は創造主であり、すべの事象を考えによりつくり出しています。
これは間違いありません。
また、私という存在は、自我と意思(自由意思)を持っています。
これも間違いありません。
ならば、創造主としての私の意思は当然の如く常に完全に実現されるはずです。
しかしそうはならず、実際には私の意思が常に完全に実現されることはあり得ないのです。
意思が実現されるのは、その一部であったり、ときどきであったり、あるいは全く意思と反対のことが実現されることもあります。
それはなぜか。
それは、私という存在が創造主である以上、自我が成立するためには、意思の展開方向(通常は時間軸の未来方向)に対する情報は基本的に伏せられている必要があるとともに、ある程度の割合で意思に反することが起こる必要があるからなのです。
つまり、例えば明日の天気が予め完全に分かっていたり、あるいは明日の天気を自分の意識の力で完全に制御できてしまったら、明日の天気に関する分別が起こり得ないのです。
分別が起こらないということは、私という自我も起こらないということなのです。
もっと単純に、明日の自分の行動を予め完全に知っていたり、あるいは自分の明日の行動を事前に完全に決定できたら、自分の明日の行動に関する分別が起こり得ず、そこに自我も起こり得ないのです。
どうやら、私という自我は、私という意識の創造内容の一部を潜在意識下に伏せるとともに、顕在意識の意思と潜在意識の意思との間の微妙なギャップによる意思実現の不完全性を生じさせることで、成り立っているようなのです。
なんだか希望を打ち砕くような話になりちょっと恐縮ですが、そういうことなのです(笑)。
ものごとは、不可避的に上手く行ったり行かなかったりするようになっていたのでした。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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引き続き、「私」という意識について書いていきます。
私という個の存在は創造主であり、すべの事象を考えによりつくり出しています。
これは間違いありません。
また、私という存在は、自我と意思(自由意思)を持っています。
これも間違いありません。
ならば、創造主としての私の意思は当然の如く常に完全に実現されるはずです。
しかしそうはならず、実際には私の意思が常に完全に実現されることはあり得ないのです。
意思が実現されるのは、その一部であったり、ときどきであったり、あるいは全く意思と反対のことが実現されることもあります。
それはなぜか。
それは、私という存在が創造主である以上、自我が成立するためには、意思の展開方向(通常は時間軸の未来方向)に対する情報は基本的に伏せられている必要があるとともに、ある程度の割合で意思に反することが起こる必要があるからなのです。
つまり、例えば明日の天気が予め完全に分かっていたり、あるいは明日の天気を自分の意識の力で完全に制御できてしまったら、明日の天気に関する分別が起こり得ないのです。
分別が起こらないということは、私という自我も起こらないということなのです。
もっと単純に、明日の自分の行動を予め完全に知っていたり、あるいは自分の明日の行動を事前に完全に決定できたら、自分の明日の行動に関する分別が起こり得ず、そこに自我も起こり得ないのです。
どうやら、私という自我は、私という意識の創造内容の一部を潜在意識下に伏せるとともに、顕在意識の意思と潜在意識の意思との間の微妙なギャップによる意思実現の不完全性を生じさせることで、成り立っているようなのです。
なんだか希望を打ち砕くような話になりちょっと恐縮ですが、そういうことなのです(笑)。
ものごとは、不可避的に上手く行ったり行かなかったりするようになっていたのでした。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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存在からみたら中立ってことですね。苦さえも経験したい存在、神なんでしょうね。
スクリーンに映る映画に例えられますね。真っ白な画面より苦あり楽ありの映画が
おもろいですもんね。
一人芝居したいんでしょうね、神の分身として。
おはようございます。
「私」という現象(幻ですが、笑)がなぜ起こったのか、私には理解不能です。
きっと、その部分は誰にも永久に分からないことだと思います。
なぜなら、私たちは考えを使ってしか事象をつくったり理解したりできないのですが、その私たちも考えそのものな訳なのです。
そうしたら、私たち自身は「私」が何なのか、またなぜ生じたのかは分かるはずものないと思うのです。
私自身としては、延々とそこを追い求めていたので、実に、じつーに!(笑)、残念なのですが、そういうことなのです。
度々コメント失礼します。
私は考えである、と気づいている状態が自覚で、全ては考え中で起きている事とはっきり自覚している状態で
個の私になっている時には、私以外の対象物は外にあると認識しており、自覚してない状態
だと捉えていますが、、
慧空さんの書かれている事とは違いますか?
全ては考えの中で起きている
>私は考えである、と気づいている状態が自覚で
自覚とはこうだという定義はありません。
強いて言えば、自分に意識を向けさえすれば自覚です。
また、私は考えであるというのは、一種の気づきのようなものでして、気づきが起こってそれが腑に落ちてしまえば、その理解も感覚もすーっと消えてしまいます。
ですから、あまりその状態に拘らないでください。
>個の私になっている時には、私以外の対象物は外にあると認識しており、自覚してない状態
これについても、同様です。
こうなれば自覚が出来ていて、そうでないと自覚が出来ていない等のハッキリした定義も区別もありません。
私に意識を向けられてさえいれば、自覚です。
私のあちこちの文章を一度に読まれて混乱しておられるようですね。
自覚の第一歩は、私に意識を向けることです。
そして、私に意識を向けつつ、自分が感じていること、考えていること、やっていること等に、これは私がやっているんだと自覚することです。
これが第一歩です。
やっているうちに、それが段々と上手になっていきます。
そうすると、私という意識や、私がやっているんだという意識がしっかりとしてくるので、冷静で力強くなっていきます。
そうやっているうちに、最初の変化が訪れます。
私という意識と、対象となる事物や、頭の中で考える思考、そして自分の肉体とが別物であるという感覚が芽生えるようになります。
こうなってくると、観照意識が意識の表面に現れてくるようになり、観照が起こってくるようになります。
私が考えであるという理解が起こるのは、その先なのです。
しかしひょっとすると、もようさんは既に理解されているのかも知れませんが。
質問等、おありでしたら遠慮なくどうぞです。
ありがとうございます。それではお言葉に甘えて再び。
>自覚の第一歩は、私に意識を向けることです。
そして、私に意識を向けつつ、自分が感じていること、考えていること、やっていること等に、これは私がやっているんだと自覚することです。
実はこれ、何年か前から実践しているのです。
最初は自分が考えている、という状態に気づくよう意識しました。慣れるまで時間はかかりましたが、そのうち考えや湧き出てくる感情にメタで気づいている状態になりました(いつもというわけにはいきませんが)。
この目的は、悟りというより、自分の中の何が自分の反応を引き起こしてるのか、状況のせいにしがちなところから視点を自分の中に引き戻してその正体を見つけたかったからです。
出てくる感情に良し悪しをつけないでいると、どんな嫌な感情もある程度面白がって見れるようになりました。
そうすると、感情を引き起こしているものの正体は、自己イメージ(違う言葉かもしれません)で、それはイメージなので現実にはない幻なんだと気がつきました。
私は幻なんだ、というのが出発点となり、ではその幻が考えたりやったりしているのは?と思考や感情の出所に意識が行くようになりました。
何もないところから、あえて考えたり、感情に伴う体の感覚を良く感じてその感覚の波をとらえてみたり、実験的に色々やってみました。
そして、そうか、考えが私という幻を作りあげているんだ、と分かりました。
>私という意識と、対象となる事物や、頭の中で考える思考、そして自分の肉体とが別物であるという感覚が芽生えるようになります。
私の場合は、考えが私を作り、その中に、対象物やこうしてやり取りしている慧空さんとか考えにある全てのものがあるのだと腑に落ちました。
なので例えば花を見ている時、花は私、という感覚より、花は私の世界の中にあるという感覚なのです。
このようなことは慧空さんの
>こうなってくると、観照意識が意識の表面に現れてくるようになり、観照が起こってくるようになります。
という事と近いですか?
私はこれが慧空さんの言う自覚、ということなのだと思っていました。
以前自覚を忘れないようにするポイントは?と質問したのですが、それはきっと自覚ではなかったです。
もしかして観照意識をキープするポイントは?と質問する方が近いかもしれません。
数年前のブログのコメント欄に書いているので的外れかもしれませんが、よろしくお願いします。これからも読み進めていきます。長くなりすみません。
そうなんですか。それは失礼しました。
それでは遅ればせながら、そのように対応させていただきますね。
>そして、そうか、考えが私という幻を作りあげているんだ、と分かりました
なるほど。
捉え方や表現が、ちょっと微妙な感じもしますが悪くないと思います。
>なので例えば花を見ている時、花は私、という感覚より、花は私の世界の中にあるという感覚なのです
んー、ハッキリと断定は難しですが、これはちょっと違うのかなぁ...。
観照とも違うかなぁ..。
何からお話ししたらいいのでしょうね。
まず、観照からお話ししましょうか。
観照は割とハッキリとしたもので、説明もしやすいですから。
しかし、もようさんは既に観照をやっておられる可能性もあると思います。
観照は、簡単に言いますと、自分や世界のことを超然とただ観ている、あるいはただ気づいている意識や視点のことを言います。
この観照意識は、感情や思考等の雑念が薄くなってきたら自然と意識の表面に現れてきます。
ここで私からの質問というか、確認なのですが、もようさんは、上記の観照を既に知っておられますか?
>ここで私からの質問というか、確認なのですが、もようさんは、上記の観照を既に知っておられますか?
はい、知っています。
と明確に答えられるかと言ったらNoですが、、
曖昧には
「私が慧空さんにコメントを返す内容を考えている」事に気づいているのが自覚で、
それを全て包括して見ているのが観照?と思っていましたが、、
さらにそれを見る?気づく?ものがありそうです。
それは考えたりしないから、「私」も「私の考え」もその感覚や考えが出てくるだけです。それが出てくると今こうして書いている事が変な感じです。というより同時にできない感じです。
でもそれが出てくるのは、かすかでとても短い時間なのです。
思いもよらず、長いコメントのやり取りをさせていただき、ありがとうございます。
掲示板もあるようですが、もし慧空さんがそちらの方が良ければそのようにいたします。
ちょうど時間をもてあましているところですからw
コメント欄と掲示板のどちらにされるかは、もようさんのお好きなようにどうぞです。
ブログ記事に関連したことでしたら、コメント欄の方が適してるでしょうが、それ以外のことでしたら、どちらでも大丈夫です。
興味のある方は、どこに書いてあっても読まれるでしょうし。
>それが出てくると今こうして書いている事が変な感じです。というより同時にできない感じです
なるほどです。
まだ不安定かつ曖昧ではありますが、観照をご存知のようですね。
観照は、頭を使わない掃除や軽作業のような簡単な動作をしているときはその動作と並行して可能ですが、読み書きや会話、考え事などをしているときは並行して行うのは困難です。
また、何かに集中しているときも観照は途切れます。
観照とは、そもそもずっと安定して続くものではないのです。
また、観照を途切れさせないように継続する必要もありません。
観照を行うことよりもむしろ、「私」に意識を向けることにより注力してください(「私」に意識を向けさせすれば、自ずと観照も起こります)。
そして、そうやって私に意識を向けながら、自分のことを観察し続けてください。
そうしていれば、なかなか気づけない自分の囚われに気づいていきます。
>観照とは、そもそもずっと安定して続くものではないのです。
また、観照を途切れさせないように継続する必要もありません。
そうなんですねー。これを継続するものと思ってました。何かに集中している時に途切れるのは当然なのですね。
私に意識を向ける事に集中します。
ブログを読み進めていきながら、気になるところでコメントさせてください。
ありがとうございました。