◇自由意思について◇
今日は、意思(自由意思)について書いてみます。
意思については、あるとする考えと、ないとする考えの二通りの立場がありますが、結論から言えば、どちらも正しいということになります。
このブログで、私という意識は、個の意識要素と全体の意識要素から成り立っていますと書き続けていますが、上記の意思に関する異なる二つの立場は、これらの個、全体の二つの意識要素のいずれに立脚するかにより生じているのです。
個の意識の観点から見ると、私という意識がありますので、確かにそこには意思があるのです。
私が幻であっても、そこに私が顕在化しているとき、意思はあるのです。
典型的には、自分の身体を自由に動かすことができるというこの事実が、意思の存在を最も端的に表しているのだと思います。
一方、全体意識の観点から見ると、そこには私という意識はなく、ことがただ起きていくだけですから、意思もないのです。
ただご注意頂きたいのは、意思がないからと言って予め起こる事柄が決まってしまっているという訳ではありません。
全体意識の観点では、そういう決まり事など何もなく、ことがただただ起こっていくだけなのです。
次に、ちょっと面白いことを書きますね(面白いと思うのは私だけか、笑)。
以前ここに、悟りの要素には、個の意識に対応した悟り要素(例えば、見性)と、全体意識に対応した悟り要素(例えば、明け渡し)があると書きましたが、意思の有無についてどちらの立場がしっくりとくるかにより、自分が見性、明け渡しのいずれの悟りゲートを先に目指しているのかが大体分かるのです。
先に見性ゲートを潜られる方又は潜られた方の多くは(ほぼ全員か?)、意思があると仰います(多数のサンプル採取済みです、笑)。
一方、先に明け渡しゲートを潜られる方や潜った方の多くは、意思がないと仰るようです(こちらはサンプルが少ないですが、笑)。
ちなみに、私の場合はと言いますと、私は明け渡しを経験した後に見性を得たのですが、明け渡しを経験する前は、やっぱり意思はないと強く確信していたのです(笑)。
意思はあるかのように見えるだけで、人間の錯覚だろうと思っていました。
ですから、明け渡しの後も意思はないと思っていましたし、実は見性を得た後も暫くは、やっぱり意思はないんだろうと思っていました(いま思うと、如何に自覚が浅かったのかと思います、それでも見性してしまった不思議、爆笑)。
見性後暫くして、自覚が深まり、私という個の意識をより的確に捉えられるようになって初めて、自分に意思があるのだと自覚できました(笑)。
その後、さらに自覚が進み、個、全体の両意識が統合されるに伴って、個と全体の二つの意識による意思の有無の違いについて理解しました。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
スピリチュアル ブログランキングへ
今日は、意思(自由意思)について書いてみます。
意思については、あるとする考えと、ないとする考えの二通りの立場がありますが、結論から言えば、どちらも正しいということになります。
このブログで、私という意識は、個の意識要素と全体の意識要素から成り立っていますと書き続けていますが、上記の意思に関する異なる二つの立場は、これらの個、全体の二つの意識要素のいずれに立脚するかにより生じているのです。
個の意識の観点から見ると、私という意識がありますので、確かにそこには意思があるのです。
私が幻であっても、そこに私が顕在化しているとき、意思はあるのです。
典型的には、自分の身体を自由に動かすことができるというこの事実が、意思の存在を最も端的に表しているのだと思います。
一方、全体意識の観点から見ると、そこには私という意識はなく、ことがただ起きていくだけですから、意思もないのです。
ただご注意頂きたいのは、意思がないからと言って予め起こる事柄が決まってしまっているという訳ではありません。
全体意識の観点では、そういう決まり事など何もなく、ことがただただ起こっていくだけなのです。
次に、ちょっと面白いことを書きますね(面白いと思うのは私だけか、笑)。
以前ここに、悟りの要素には、個の意識に対応した悟り要素(例えば、見性)と、全体意識に対応した悟り要素(例えば、明け渡し)があると書きましたが、意思の有無についてどちらの立場がしっくりとくるかにより、自分が見性、明け渡しのいずれの悟りゲートを先に目指しているのかが大体分かるのです。
先に見性ゲートを潜られる方又は潜られた方の多くは(ほぼ全員か?)、意思があると仰います(多数のサンプル採取済みです、笑)。
一方、先に明け渡しゲートを潜られる方や潜った方の多くは、意思がないと仰るようです(こちらはサンプルが少ないですが、笑)。
ちなみに、私の場合はと言いますと、私は明け渡しを経験した後に見性を得たのですが、明け渡しを経験する前は、やっぱり意思はないと強く確信していたのです(笑)。
意思はあるかのように見えるだけで、人間の錯覚だろうと思っていました。
ですから、明け渡しの後も意思はないと思っていましたし、実は見性を得た後も暫くは、やっぱり意思はないんだろうと思っていました(いま思うと、如何に自覚が浅かったのかと思います、それでも見性してしまった不思議、爆笑)。
見性後暫くして、自覚が深まり、私という個の意識をより的確に捉えられるようになって初めて、自分に意思があるのだと自覚できました(笑)。
その後、さらに自覚が進み、個、全体の両意識が統合されるに伴って、個と全体の二つの意識による意思の有無の違いについて理解しました。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
スピリチュアル ブログランキングへ
>明け渡しを経験する前は、やっぱり意思はないと強く確信していたのです(笑)。
これって、その頃自我がなくなってきていたってことでしょうか?客観的の言うとです。
意思をだそうにも出せない状態ってことです。
なぜ私が明け渡し前に意思がないと確信していたかについては、自分でも本当のところはよく分からないのでが、
一つの大きな要因は、私が典型的な唯物論者で、人間も有機体の機械だと思い込んでいたからだと思います。
もう一つの要因は、私の存在の特性として、受け入れるというか、委ねるという特性が強いのだと思います。
私は根っ子の部分で、自分が犠牲になろうとする特性(クセ)があります(本当に困ったクセですが、笑)。
という訳で、私は深いところで、明け渡し系の存在だったんだろうと思います。
ハッキリとしたお答えにならずに、ごめんなさい。
はじめまして。以前のブログから順に読ませてもらってここまで来ました。今の私は慧空さんの書かれていることを読むと腑に落ちる事が多く、腑に落とすのに役立たせてもらってます。
ちなみに
>私は根っ子の部分で、自分が犠牲になろうとする特性(クセ)があります(本当に困ったクセですが、笑)。
という訳で、私は深いところで、明け渡し系の存在だったんだろうと思います。
わたしは逆で犠牲を強いられている感が強く、とてもエゴが強いのだと思います。
なので、なのか、なかなか明け渡しの感覚がつかめません。
こんな感じですが、これからもコメントさせてください。
コメントありがとうございます。
コメントはなんでも大歓迎ですので、遠慮なくどうぞです。
明け渡しは勝手に訪れるのが大半で、積極的に起こそうとしてもなかなか難しいですが、「すべてを受け入れるんだ」と深いところで決意すれば、直ぐに起こります。
試しにやってみてください。
はい、どうぞ!
「さん」にしてください。
ありがとうございます。
自分の考えが自分のアイデンティティを作り上げているんだな、自分は考えなんだな、という事にうっすら気がついてきたところです。
自覚ということを知り、より確信を得るようになりました。
そこで、さあ自覚をするぞ、と強く思っていてもすぐに思考に同化して、すっかり忘れています。エゴが強すぎるのだと思います。
自覚をすることを忘れずにいるポイントなどありますか?
全てを受け入れる事も強く決心してみますね^_^
>自覚をすることを忘れずにいるポイントなどありますか?
エゴが強いから自覚が上手く出来ないということではないと思いますよ。
自覚に集中できないのは、おそらく自覚以外にやりたいことがあるからだと思います。
他にやりたいことがあるのに、自覚に集中するというのはそもそも無理があります。
せっかくやっておられるのに申し訳ないですが、自覚のことはひとまず脇に置いておいて、自分のやりたいこと、大切なことについて再確認されることをお勧めします。
再確認してみます。