迦南の死
横井迦南は昭和二十八年二月九日、宇土郡三角町の下宿先において
七十三歳の生涯を閉じますが、それは普通の死ではなく睡眠薬による
服毒自殺でした。
枕許には遺書と遺詠が並べて置いてあり、遺書には
「係累のない自分のような人間は生きていても仕方がない。年老い
て他人様に迷惑をかけるようになる前に身の始末を付けておきたい。
けして自分は世の中に絶望して死ぬのではい。これは病妻に死別した
ときから、竊に計画していたことである。」
という意味合いのことが記されていました。鰥寡孤独という言葉があり
ますが、迦南夫妻には子がなく夫人の死とともに、迦南はまさに鰥寡孤
独の境涯に落ち入っていたのです。
遺 詠
わが命ここに極まり冴返る 迦 南
春炬燵安楽往生うたがわず 〃
嘘いうて心で詫びて春こたつ 〃
明日はまた夜伽も嘸や寒からん 〃
死魔と詩魔かたみに徂来春灯下 〃
春灯の今はのきはに明るくて 〃
あら可笑し炭火に酔へる心地して 〃
やがてなき身とも思はず炭をつぎ 〃
その年の秋宗像夕野火氏等によって『迦南句集』が編まれ虚子が序文
を寄せ、「阿蘇」主宰の阿部小壺氏が後記を書きました。虚子序文の一
部と小壺氏の後記を抄録しておきます。
序
横井迦南君が死を選んだ。その詳報がもたらされたので、状況も明ら
かになった。私はその死んだ心持ちに同情するところもあつたが、不可
解なところもあった。(中略)
私は何故迦南君が死を選んだか、それには細君に死別されたといふ
事もあらう。又実子の無かつたといふ事もあらう。自分の俳句が自分の
思ふやうにならなかつといふ事もあらう。又自ら言ふ如く、生きて世
に益なき自分であるから此の上生きて人に迷惑をかけるにしのびぬか
ら、といふ意味も勿論あつたのであらう。が、何故に死を選んだかとい
ふ事は、私にはまだ合点のゆかぬ節がある。唯君は自ら己を殺した事
によつて、自己満足を得たといふ事だけは認めねばならぬ。
昭和二十八年五月二十六日
鎌倉草庵
高浜虚子
春来ること疑はず逝かれけん 虚 子
後 記
迦南先生の死について如何に発表すべきか如何に処置すべきか、私
共の非常に苦慮したことであつた。
先生の死は崇高であり厳粛であり、私共は私共の主観を挿むことな
く、ありのまゝに取扱ふことが妥当であると考へた。
先生の霊をいさゝか慰めるための句集の発行、先生を偲ぶところの句
碑の建設とを考へたが、これも果して個人の意思に副ふやいなやはわ
からないが、残された者としての止み難きものであつた。
本書の発行については、ホトトキスに載録されたもの全句を宗像夕野
火氏の編集に基き、年譜については同氏及び佐藤寥々子氏の調査に
よつたものであることを付記して謝意を表する。
序文を頂いた虚子先生、装幀を煩はした獨立美展の海老原画伯に対
して心から感謝の意を表し、特別の協力をされた石田印刷石田巌氏に
たいしても感謝したい。
昭和二十八年晩秋
阿部小壺
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